逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

自殺をしてはならない第一の理由は「共同体への責任」というイデオロギーであり予防するにはその責任を希薄化すること

哀しい、ツイッターのアカウントが永久凍結されてしまった!

昨日のつぶやきがまずかったか。
先日10月13日、ミヤネ屋を見た後、例の団体に関する漫画冊子らしきものを、ネット上に見つけた。
それをつぶやいた。
そしたらこのざま・・・何らかの圧力か?
フォロワー400人しかいない弱小アカウントなのに!
でもハッシュタグをつけてたのがまずかったか。
特定の一個人を攻撃したわけではないし、誰かの人格や人権を侵害したわけでもない。
表現の自由の範囲内でしょ…頼むよ、イーロン・マスクさんよ。


異議申し立てをしたが、期待はできない。

この記事もヤバいか、別にこの記事は太田光の人格を否定したり中傷しているのではなく、太田氏の発言によって、被害拡大が放置される可能性があると思って主張したにすぎないけど。

gyakutorajiro.com例の団体に関する話題はしばらく避けるか。
はてな運営にも圧力が及んで、ブログ削除されたら嫌だし。
しかしツイッターに続き、はてなも削除された場合は。

もうアクセスが過疎ってるwordpressで細々と記事を書くしかねえな。

iine-y.comまあそれでも感情を吐き出せる場所が1つでもあるならマシと考えるか。

しかしここで怖気づくわけにはいかない。

当サイトのテーマ「人間の無意識にあるもの全てを顕在化する」もあるからな。
今日も際どいテーマについて書きたくなった。
こんな記事を見かけたからな。

gendai.media「なぜ私たちは自殺をしてはならないのか?」、哲学・思想の歴史から導かれる「意外な答え」、ベンジャミン・クリッツァー氏の記事か。
自殺をテーマにした話題、ブログにも書いてるようだ。

davitrice.hatenadiary.jp記事を読むと、自殺をしてはならない理由に「共同体への責任」を挙げている。

gendai.media一つめは「わたしたちは生き続ける責任を共同体に対して負っている」という議論だ。ここにおける共同体とは、家族や友人・恋人といったミクロな親密圏と、社会・国家・人類といったマクロな集団との両方が当てはまる。

端的にまとめると「自分が自殺をすると残された家族や友人はショックや悲しみを抱き、自分とは関係のない人にも悪影響を与えるおそれがあるから、他人や社会に危害を与えないために自殺はするべきでない」という主張だ。共同体への影響を根拠にした自殺否定論は、アリストテレスソクラテスにまで遡ることができる。

その後「未来の自分への責任」や、「自分が孤独であるという感覚」について言及しているが。

まさに「思想史」を検証しているという感じで、その意味では良記事な気もするが、何かが足りない気もする。

自殺してはならない理由について、なぜそれでも自殺が起きてしまうのかについて、代わりに自分が真相を掘り下げることにしよう。

まず「共同体への責任」という、どこか抽象的な理由を自殺をしてはならない理由として紹介しているが。
それをもっと深堀りすると、その「共同体への責任」の中に、国家のイデオロギーが多分に含まれてる。
そのイデオロギーとは、資本主義社会を発展させるための価値観であり、ありとあらゆる場所・形式で、流布されてもいる。
その現実を、ルイ・アルチュセールは「国家のイデオロギー装置」として明らかにした。

マルクス主義理論」における〈国家装置〉は、政府、行政機関、軍隊、警察、裁判所、刑務所を含んでいることを想起しよう。それらは、われわれが今後、〈国家の抑圧装置〉と呼ぶであろうものを構成している。抑圧的とは、正確かつ強い意味では、物理的暴力の行使(直接または間接、合法または「非合法」の)であると極限では理解しなければならない(なぜなら、それは非物理的な抑圧の数多くのきわめて多様で、さらには隠された諸形態が存在するからである)。

では〈国家のイデオロギー諸装置〉(AIE)とは何か。
それについての最初の概観をつかむために、ここに暫定的に列挙してみる。

1/〈学校装置〉
2/〈家族装置〉
3/〈宗教装置〉
4/政治〈装置〉
5/組合〈装置〉
6/〈情報装置〉
7/〈出版-放送装置〉
8/〈文化装置〉


これが暫定的なリストであるのは、一方では網羅的ではないからであり(第12章を参照されたい)、他方では7の〈装置〉と8の〈装置〉は一体をなすことがありうるからである。私がこのようにふんぎりをつけることができないことを容認していただけるのではないかと思うのだが、というのも私の「包囲陣」は、探求に値するこの点にはまだ敷かれていない(3)からである。

(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p170-172)

(3)「私の包囲陣は敷かれた」は「ご意見無用」という意。歴史家ルネ・オペール・ドゥ・ヴェルトー神父(1655-1735)が、1726年、ステレマン二世によるロドス島攻囲戦の戦記を書き終えたとき、未開の資料を提供しようとした人に向かって答えた言葉。

そのため、この価値観に立脚した場合、自殺をしてはならない理由は、

・労働力が減少して資本主義社会の発展(国家のGDP向上)に貢献しない行動だから
・経済的損失が生じるから(電車の遅延、物件価格の下落など)


等だ。
だから、ベンジャミン・クリッツァー氏が引用する、森岡正博氏に関する以下の箇所は誤りだ。根拠がないことはない。

しかし、「自殺は悪いことである」とか「自殺は予防されるべきだ」とかいった価値判断は、哲学的には必ずしも自明のことではない。哲学者の森岡正博は、対談のなかで以下のように述べている。


私は「自殺を防がなくてはならない」という前提には、深掘りしていくと実は根拠がない、その底にはぽっかりと穴が空いているんだ、という気づきは、決して隠蔽すべきではないと思います。

自殺をしてはならない大きな理由として、上記に述べた経済的合理性があるからな。
その根拠に、個々人が納得できるか否かはさておいて。
そのため、下記にも言及するが戦争などが起きると「自殺をしてはならない」という価値観が弱くなる。

しかしこれらの経済的理由は、声高に言われることはない。
あまりにも無慈悲だからだ。
人の命が失われた際に、経済的損失の話をすることは、タブー視されるケースが多い。

まずは人々の心のケア、精神的ストレスの緩和を、メディアは報じる。
人と人との繋がり、大切な仲間、辛かったらいつでも相談してくれ、いのちの電話、などなど…。

なぜか「精神的な原因」にばかりフォーカスする。
その「精神的な原因」を、さらに根本の方にまで辿っていくと、物理的事象と遭遇するんだが、そこまで言及されるケースは少なく、非常にスピリチュアルな物言いに留まるケースがほとんどだ。
本田圭佑の発言のように、抽象的だ。

www.j-cast.comこれに対して本田は「他人のせいにするな!政治のせいにするな!!生きてることに感謝し、両親に感謝しないといけない。今やってることが嫌ならやめればいいから。成功に囚われるな!成長に囚われろ!!」と発言した。本田はツイッター開始から数日後の24日、「自分なりの価値観や哲学などを日本語でも共有していきたいと思ってます」と宣言しており、今回の投稿はその一環なのかもしれない。

このスピリチュアリティ、すなわち「命の大切さ、人間の尊さばかりを声高に論じ、根本的原因について触れない」という社会の様相は、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリがいうところ「抑制」だ。

分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。
確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても、実は私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出すものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。
なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。
それはみずから極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』p70)

資本主義社会は、分裂症的負荷を人間に与える。
それを、上記のスピリチュアルな言説によって抑制する。

人間を労働やイデオロギーで酷使する一方で、人間を別の価値観等で癒すという、アクセルとブレーキがうまく機能しているがゆえに、今日もこの社会的形態は維持・発展している。

ブレーキに相当するのは既に述べた。
各種言説、相談窓口等だ。

しかしなぜ、根本的原因には触れないのか、より深い真相究明に立ち入り、報じないのか。
それは、触れた場合「資本主義や、自殺してしまった人の関係者等の、残酷な一面が姿を現してしまい、都合が悪いから」だ。

そのため、自殺を予防する集合知として、あまり大手メディアの情報は機能しない。
繰り返しになるが「命は大事です」「多くの人が悲しみます」といったメッセージに終始するケースが多い。

そこでまずは原因究明、実際に起きている過去の事例から「なぜ自殺をしてしまうのか」を、人間を自殺に至らしめてしまうアクセルについてを分析、まとめてみよう。


1.共同体への責任感および甚大なストレスからの逃避

これは例えば、会社における仕事のストレス等が挙げられる。
上司からのノルマ、パワハラ、責任の押しつけ。


(引用元:闇金ウシジマくん(12)[ 真鍋昌平 ]

 

www.tokyo-np.co.jp 休日出勤や出張も増え、家族と過ごす時間がなくなった。それでも、上司からは「成果が出ていない」と叱責(しっせき)された。インフルエンザに罹患(りかん)しても「誰もいない夜中に来て仕事するよね」と言われた。評価査定給が下がり、ボーナスも減った。頑張っても認めてもらえず、疎外感が募り、毎日二時間ほどまどろむ程度にしか眠れなくなった。 

学校でのいじめもそうだろう。


また少し性質が異なるが、病気などの身体的苦痛、スパイ映画などで拷問を受けているスパイが、あまりにも肉体的苦痛が酷すぎるゆえに求めるケースも「甚大なストレスからの逃避」と言えるだろう。

2.合理的判断を失うほどの洗脳状態

この原因は特殊で、いわゆるマインドコントロールだろう。
映画の「ミッドサマー」とか、そのような描写シーンがある。

これについては自殺の原因としてはレアケースなので、今回はあまり掘り下げない。
「ジム・ジョーンズ」「ガイアナ カルト」等で検索してみたらいい。

3.有事・信念を伝える手段
神風特攻隊のように、戦争などの有事の際は「自殺してはならない」という言説は弱くなり、命が軽視される。
「死してなお・・・」のようなことを言い出す。

インパール作戦のように、命よりも拠点構築、領土拡張などの目的遂行が優先される。

www3.nhk.or.jpビルマから山岳地帯を470キロ行軍し、インド・インパールにあったイギリス軍の拠点を攻略しようとしたインパール作戦
補給を度外視した作戦は惨敗に終わり、3万の将兵が行き倒れた道は、“白骨街道”と呼ばれた。
しかし、この戦いのあと、さらに多くの将兵の命が失われていたことが、今回、戦没者名簿の解析から浮かび上がった。

また戦争の時と似ているが、個人の信念が、命よりも優先されるケースもある。

kwsklife.com

4.経済的困窮からの脱出
山上容疑者が行ったような、誰かを助けるための自己犠牲だ。

www.yomiuri.co.jp
5.共同体への責任感および実存のロールモデルとの乖離
これも1の理由と同様に、自殺理由として多いだろう。


事件発覚直前に奈良佐川急便本事務所の火災で帳簿が焼失

 

bunshun.jp


上記において、最も自殺原因として多いと思われる「1.共同体への責任感および甚大なストレスからの逃避」「5.共同体への責任感および実存のロールモデルとの乖離」について、さらに深堀りしよう。

「共同体への責任感」というのは、資本主義社会の残酷な側面、圧力でもある。
例えば、ひきこもりに対して「働け」という言説もそれに相当する。

gyakutorajiro.com武田鉄矢が演じる倉田一夫が、松山ケンイチが演じる倉田雅夫に、プレッシャーを与えていた。


何がプライバシーだお前は!いいか、大人になったら働いて税金を納める。それが社会人の務めだ!

言っとくがみんなな、必死に我慢して、頑張ってんだぞ!

契約社員?大学まで出してやったのに、なんで正社員になれないんだよ。非正規なんてお前、アルバイトとおんなじじゃないか。ええ、何十社も受けてさ、一社も合格しないって、どういうわけだよ。黙ってないで何か言えよ。

結婚はできないわ、仕事は続かないわ。恥ずかしくないか。少しは俺の立場も考えろ。このままだとお前、家族の恥さらしだぞ。

また、賭博黙示録カイジにおける、資本主義社会のレールの上を歩く者の話など。

gyakutorajiro.com賭博黙示録カイジ利根川が語るように、よくあるルートでの年収1000万オーバーへの出世競争は、過酷だ。

想像してみろ
何も築いてこなかったおまえらに
どこまで想像が届くかわからぬが 想像してみろ
いわゆるレールの上を行く 男たちの人生を

おまえらのようにボォーッとしちゃいないぞ‥‥!

小学中学と塾通いをし‥‥‥
常に成績はクラスのトップクラス
有名中学 有名進学校と 受験戦争のコマを進め
一流大学に入る‥‥‥
入って3年もすれば
今度は就職戦争‥‥
頭を下げ
会社から会社を歩き回り
足を棒にしてやっと取る内定‥‥‥

やっと入る一流企業‥‥
これが一つのゴールだが‥‥‥‥‥
ホッとするのも束の間
すぐ気が付く
レースがまだまだ終わってないことを‥‥
今度は出世競争‥‥

まだまだ自制していかねばならぬ‥‥!
ギャンブルにも 酒にも女にも溺れず
仕事を第一に考え
ゲスな上司にへつらい
取り引き先にはおべっか
遅れず サボらず ミスもせず‥‥‥
毎日律儀に 定時に会社へ通い
残業をし
ひどいスケジュールの出張もこなし‥‥
時機が来れば単身赴任‥‥
夏休みは数日‥‥‥

そんな生活を10年余続けて
気が付けばもう若くない
30台半ば‥‥ 40‥‥‥
そういう年になって
やっと蓄えられる預金高が‥‥‥
1千‥‥2千万という金なんだ‥‥

わかるか‥‥‥?
2千万は大金‥‥‥
大金なんだ‥‥‥‥!

世間一般の道‥‥‥‥
つまり命を薄めて手に入れる場合は
これだけのことをしなければならない

それに比べて おまえらはなんだ‥‥!?

必死に勉強したわけでもなく‥‥‥‥
懸命に働いたわけでもない‥‥‥‥‥‥
何も築かず‥‥‥‥‥
何も耐えず‥‥‥‥‥
何も乗り越えず‥‥‥‥
ただダラダラと過ごし‥‥

やっとことと言えば
ほんの十数分の余興‥‥

なめるなっ‥‥!

(引用元:賭博黙示録カイジ 7 [ 福本伸行 ]

資本主義社会は、多様性を尊重しているように見せかけているが、実は経済的合理性に立脚した支配的イデオロギーを至上の価値観にしている現実が横たわっている。

杉田水脈議員が問題発言をしたのも、それが労働力の再生産という点で、資本主義に寄与するからだ。

gyakutorajiro.comなぜ異性愛は国家のイデオロギーとして尊重されるか。
それは異性愛が、資本主義や国力を増強するための労働力の生産(人間の生産)の目的に都合がいいからでもある。

LGBTは生産性がない」と発言した杉田水脈議員は、国家のイデオロギー装置の目的に沿った行動ではあるが、ダイバーシティという価値観に阻まれ、バッシングされ、社会的制裁を受けた。だが労働力の生産に寄与するゆえに異性愛が優遇される現実があるのは事実だ。

そのため、国家のイデオロギー装置と企業が行うキャンペーンが、異性愛の礼賛という価値観を前提にしているという点で蜜月関係である以上、BEAMSのキャンペーンも、国家のイデオロギー装置として機能する。

相変わらず異性愛が尊重される。
子どもを産まない・育てない独身者も、労働力の再生産に貢献しないがゆえに、やんわりと、場合によっては直接的に、差別される。

支配的なロールモデルが存在している。

ロールモデル通りに生きられない人間に「落ちこぼれ」のレッテル等を貼る。
もちろん、この社会は優しさと多様性に溢れていると思わせるために、そんな残酷な言葉を口にしたりしないケースもあるが。

父親や母親は、ロールモデル通りに生きるように希望し、それを子どもに押しつけようとする。

無理に行くんだよっ!学校なんてもんは…!
いいっ……!
かまわない!それで…!
みんな…そんなもんなんだよ…!

意味もなく漠然と通ってんだ……!
中学なんてもんは………!

違うっ…!
違う違う…!
流されろっ…………!

(引用元:最強伝説黒沢 3 [ 福本伸行 ]

生まれてこなければよかった

6月に入ってから、ずっと鬱々とした日々を送っていた。
 当時、学生マンションの8階に住んでいて、そこから飛び降りる光景が頭から離れず、あと数メートルで死ねるんだ、もう少しで楽になるんだとずっと考えていた。そんな思考を止めるために市販の眠剤を飲み、目が覚めてしまったらまたすぐに眠剤を飲むという生活をしていた。病院に行こうと思ったのだけれど、どこのどんな病院に行けばいいのかわからない上に、布団から出られない、日光に当たりたくないという状態だったので、ただただ寝ることで思考を止めることしかできなかった。
 外が明るい事や、自分のいない世界がどんどん進んでいることが本当に怖くて、カーテンを閉め、カーテンレールに毛布を挟んで日光を遮り、それでも明るかったので、浴室やクローゼットの中に閉じこもっていた。
 どうして生まれてきてしまったのか。ただ、そう思うことしかできなかった。
 
 そんな折、母から電話があった。就職活動の現状を聞かれ、すべて落ちてしまったと言うと、「高校、大学と調子よくポンポンきたからつまずくならここらへんだと思っていた、ちょっと社会を舐めてたんじゃない?」と言われた。
 僕は携帯電話を壁に投げつけ、衝動的にベランダに出て、飛び降りようとした。
 でも、怖くてできなかった。その日も眠剤を飲んで寝たのを覚えている。親に言われたことに腹が立ったとか、親にまで見放されたことが悲しかったとか、そういうわけではない。母から言われたことはすべてそのとおりだった。
 
 僕は高校でも大学でも勉強はそれなりにできるほうだった。高校は3年間学年トップクラスの成績だったし、大学でも4段階評価で3.2以上の成績だった。血のにじむような努力はしていなかったけれど、それなりの努力をして、それなりに報われてきた。だからこの就職活動でも、それなりに努力をすればそれなりに報われるし、自分は必要以上に心配してしまう性格だから、いろいろと悩みはするけれど、なんだかんだ言ってレールの上を進んでいけるのだと思っていた。これまでもそうだし、今回もまあそんなもんだろうみたにあ、自分に対する甘えというか、なんというか、結局のところ母の言うとおりで、人生や社会を舐めていた。
 
 他人の目を気にしてプライドだけは高く、そのくせに行動力もなければ継続力もなく、傷つきやすい。僕はそんな人間だった。なんとなく、そうやって自分は優秀で本当はできる人間なんだと思い上がっていたことも、現実には何者にもなれず、それどころか世間の普通というレールにも乗ることができなかったということも、考えると自分自身が恥ずかしくて悔しくて辛くて、どうしようもなくなってしまうと気づいていた。だから、なるべく考えないように避け続けていた。それを母から直接言われてしまったことで、自分が生きていることがどうしても耐えられなくなってしまった。


(引用元:しょぼい喫茶店の本[ 池田達也 ] - 第1章 僕は働きたくなかった)

「外が明るい事」「自分のいない世界がどんどん進んでいる」「レールの上を進んでいける」ことに不安を抱くのは、まさに、資本主義社会の支配的イデオロギーが、うまく内面化されている結果だ。
勉強してこそ、働いてこそ一人前、という価値観は、小学校・中学校・高校・大学と、それは無意識に何度も繰り返し刷り込まれていく。


大抵の父母は求める。息子・娘が立派に社会に出て、いい会社に就職し、結婚し、子どもを生んで諸々の社会的責任を果たすことを。

それゆえ、ロールモデルを強制される子どもたちは「学校に行かなければならない苦しみ」「受験の苦しみ」に苛まされ、場合によってその「甚大なストレス」から逃避しようとする衝動が生じる。

資本主義社会における「共同体への責任」という、分裂症的負荷が、子どもの時から加えられる。

では、そんなレールなんて必要ない!私は私らしく生きる!!


と、考えた場合はどうだろう。ゆたぽんみたいな。
しかしこの生き方を選んだ場合も、大きな精神的負荷に直面する。

例えば俳優、歌手、作家、youtuberなどなど。
資本主義の共同体が押し付ける勉強とは違う形で、成りあがり、満足できる実存を図る。
しかし既に先行者はいる。
成功を収めている、称賛されている一流俳優、人気アーティスト、ベストセラー作家、登録者数100万オーバーのyoutuber…などなど。
「成功者のロールモデル」が横たわっており、その華やかな姿に、嫉妬と羨望の念を抱かされる。
そしてそのロールモデルに自分が近付けない場合、自尊心と自己肯定感は低下していく。
自分がその華やかな存在になれないと気付いた時、自我が引き裂かれるような悲しみの時間が訪れる。

(引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

この後、黒沢はテレビの向こうで活躍するサッカー選手達に対して、
「俺が求めているのは……オレの鼓動……オレの喚起。オレの咆哮。オレのオレによる、オレだけの……感動だったはずだ!」
「他人事じゃないか…!どんなに大がかりでも、あれは他人事だ…!」
と、心の中でつぶやく。

これが実存のロールモデルとの乖離だ。
「こう生きたい」と考えても、自分が望む実存を、実践することができるとは限らない。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリは、これを「器官なき身体」と呼んだ。

なりたい自分になれず、欲望制止された器官たち。
その器官なき身体に人間は耐えられず、タナトスの性質を帯びていく。

器官なき身体は死のモデルである。ホラーの著者たちがよく理解していたように、死は緊張症のモデルになるのではない。緊張症的な分裂症が死にモデルを与えるのである。まさにそれは強度=ゼロである。死のモデルが現れるのは、器官なき身体が器官を拒絶し廃棄するときである。―――口もなく、舌もなく、歯もなく・・・・・、みずから手足を切断し、自殺にまで至るときである。

ところが器官なき身体と、部分対象としての器官との間に、じっさいに対立は存在しない。唯一の現実的対立は、この両者の共通の敵であるモル的有機体との間にあるだけである。

欲望機械の中には、不動の推進機によって鼓舞される同じ緊張症患者がいる。この推進機に強いられて、彼は器官を廃棄し、固定し、沈黙させ、また自律的なあるいは紋切り型の仕方で機能する作動部品にうながされて、器官を活性化し、器官に局所的な運動を吹きこんだりする。

(引用元:アンチ・オイディプス 合本版 資本主義と分裂症【電子書籍】[ ジル・ドゥルーズ ] 第四章 分裂分析への序章 第四節 分裂分析の肯定的な第一の課題)

共同体への責任として勉強や就職活動を促す有機体が、実存のロールモデルとして君臨する社会的成功者という有機体が、個々人の器官にプレッシャーを与え続ける。


「そこのみにて光り輝く」という映画のレビューを以前、書いたが。

gyakutorajiro.comこの映画の原作者である佐藤泰志も、自殺した。
それは「芥川賞受賞作家」という実存のロールモデルがあり、それに惜しくも至ることができなかったのも大きいだろう。

大学教授や助教授、研究職を目指すインテリたち。

business.nikkei.com(博士後期課程修了後に就く、任期付きの研究職である)ポスドク期間中に経済的困窮から自殺してしまう人がいると聞く。

経済的困窮もあるだろうが、大学の教授やコメンテーター等のポジションを得ている実存のロールモデルに対する羨望と嫉妬、自分がそれになれない現実。その乖離が、自我を分裂に至らしめ、自尊心の低下、自己肯定感の喪失、鬱状態など、死に至る病を生み出す。


ではどうすればいいか。自殺を予防する手段は。
それは「共同体への責任」「実存のロールモデル」を希薄化もしくは放棄することだ。
責任はストレスだ。
北海道大学を出て、大手メーカーに4年間勤めた若者も、会社という共同体への責任を放棄して、自分が生きたい道を歩んだ。

「責任」っていう言葉がそもそもめっちゃ嫌いなんや

それが肝要だ。
自分も派遣先のIT企業におけるパワハラ上司の暴言で、幻聴のような耳鳴りが起きていた時期があった。

gyakutorajiro.com逃げてやった。半年も経たずに辞めた。
つまり自殺を予防するには、逃げる力だ。
百田尚樹がそんな本を出していたよな。

レールに捉われず、山奥で暮らすのもいいだろうし。

book.asahi.comゲームの世界に浸るのも、体の酷使や、親の経済的困窮を招かない程度であれば、いいかもしれない。

www.youtube.com逃げたこと、あるレール上の勝負で負けたことで、強い劣等感や自己嫌悪に陥らないようにするために。
なんらかのルサンチマンに頼ってもいい。

gyakutorajiro.com共同体への責任感、他人の評価、誰かの生き方等、諸々のロールモデルを気にするがゆえに病んでしまう。自分が生きたいように生きる力、自分を最優先にして生き方を選択する力を養うために。
必要なのは、成功者の自己啓発本ではなくて。

もっとロールモデルから外れて実存を達成した人達のライフヒストリーの実例を、生きるのに苦しんでいる人達に供給してあげるべきだと思うね。