上告してたんだ、知らなかった。
www3.nhk.or.jp2008年に、とんでもない事件があった。
ほんとゾッとする事件だったと思うよ。
7人もの命が犠牲になったのはゾッとしたが、加藤智大の携帯日記にもゾッとした。
なぜならその日記は、俺が昔、「大学生ブログランキング」とかにはまってた頃、書いていた日記にすごい酷似してたんだ。
いや、まあ今書いてるブログも、ルサンチマンと精神分析と哲学とソロ活の話だから、大して変わらないかもだけど。
学生の時に書いてたブログは、クリスマスに呪詛を吐き、ラブソングの虚構性を叫んだりと、いわゆる恋愛市場主義文化への不満みたいなやつ。
モテないコンプレックスの噴出、嫉妬・怒り・恨み・辛みを抑制するためのルサンチマン、加藤の日記と似てたほんとに。
「自分もその予備軍ではないか?」と、自問自答したことはあるが、まあそれはないだろう。
町中で幸せそうな家族やカップルを見かけてジェラシーを覚えることはあっても、だからといってその幸せを邪魔したり、傷つけようとかは思わないし。
子どもを愛しすぎるあまり自由にさせすぎてる親とかいると「ちゃんと教育しろ!」とは思うけどな。
しかしこのモテないコンプレックスが極端に肥大化すると、"タナトス"のような破壊衝動に行き着いてしまう。
いや、エロスかな。
自らのタナトスを抑えるために、エロスによって他人を攻撃してしまうのがフロイトの理論らしい。
charm.at.webry.infoフロイトは死の本能(タナトス)と生の本能(エロス)の概念を導入することによって、人間の攻撃行動や攻撃衝動を合理的に解説しました。タナトスの欲動は『自己破壊的な行動(自己への攻撃衝動)』を生み出すが、自己破壊的な帰結を回避しようとするエロスの欲動によって『他者への破壊的な攻撃行動(攻撃衝動)』へと置き換えられるというもので、他者への攻撃行動を二重本能説に基づく生理学的本能(内的衝動)で説明しています。
「満たされないリビドー 攻撃」でググると出てきた。
「置き換え」の話は、この前もしたな。
gyakutorajiro.comこのように「置き換え」という防衛機制は、安部元首相のような関連性がある対象においても、物品や店員等の関連性がない対象にも起きるように、様々な事柄に当てはまる現象のため、それのみを原因とするのはあまりにも具体性に欠ける。
確かに理由の一因としてはあり得るが、網目が大きすぎるんだ。
「置き換え」は、山上容疑者の事件も、秋葉原通り魔事件も、当てはまってしまう。
超越論的シニフィエってやつだな、「置き換え」というワードに事件の原因が回収されてしまって、そこで止まってしまう。
だから「置き換え」という説明は、一因だとしても、より深い分析にはならない。
「置き換え」というワードに回収される前、そこまで戻って、何が起きていたのか考えてみるか。
加藤智大は、モテないコンプレックスを持っていた。
モテないコンプレックスが生まれる要因、それは生物学的な要因もあるかもしれないが、その生物学的欲求についても、「シニフィアン連鎖に出会う時点で欲求は既に欲望」という、ラカンのテーゼによって、文化的な要因ともいえる。
そのラカンの話は以前、したな。
gyakutorajiro.com当時の彼の日記のメモがある。
「どれだけ金があったら友達になっともらえるんだろ」
「イケメソだったらお金なんかなくても友達できるのに」
「部屋の中に携帯のカチカチ音が虚しく響いてる」
「ぶっちゃけね、後輩に彼女ができたみたい。その幸せ自慢を毎日されてる。いい奴なんだけど、自分の中のどす黒い感情が抑えられない」
「スポーツカーに女乗せてる奴が居た 事故ればいいのに」
「助手席に女乗せてる奴に税金かければ日本の財政難は解決すると思う 女性にとって、彼氏は自分の価値を証明するもの 故に、不細工には彼女ができない」
「他人に「○○さんの彼女」と認識されるのが嬉しい」
欲望の未達が伺える。
携帯に綴られたこれらの日記は、何の変形や歪曲もない、加藤容疑者の率直な心境が綴られている可能性が高い。
「抑圧された意識が表出するっていう点で、ネットも夢も似ていると思わない?」(パプリカ)という映画のセリフがあるが、「抑圧」を行っているのは「法」のことだ。
両親、学校、法律、道徳、社会的規範など、それらの法を日常生活において内面化することを、精神分析では"去勢"(医学的・解剖学的な意味ではない)と呼んだりする。
去勢が完全に遂行されることはなく、夢やネットや無意識の世界で、醜い人間の本性が表出することは多々ある。
特に母親からの愛が不十分だったことが伺える加藤智大においては、人を思いやる気持ちや人の痛み等、内面化が十分でなかったのかもしれないね。
加藤は中学時代「(俺が怒ってる理由を)察して」と言う理由で、教室の窓ガラスを破壊したり、自分に成りすましを行った掲示板荒らしに「お前のせいで取り返しのつかない事件が起きたんだぞ!」と察して欲しくてあの事件の引き金になった事が裁判でも証明されています
— kouei🍡 (@kouei52) March 11, 2020
ソースは
— kouei🍡 (@kouei52) March 12, 2020
秋葉原事件 加藤智大の軌跡
解 (Psycho Critique)
アキハバラ発 <00年代>への問い
アベンジャー型犯罪 秋葉原事件は警告する
東拘永夜抄
殺/人予防
etc
書籍や裁判、ニュース等からです
大分昔に読んだのでどの情報がどれか精密にはうろ覚えですが、上二つは特に参考になります
「察して」だと、子どもはわからないよな。何が善で何が悪か、子どもの時から道徳や規範を内面化してあげないといけない。
「置き換え」とは別の、家族内の問題も伺える。
また、自分の成りすましがいたこと、加藤智大が掲示板に入り浸っていたことからも、ネット空間による悪影響もあるな。
当時、SNSは今ほど盛り上がってはいなかったけど、その分、2ちゃんねるとかの掲示板文化は今より勢いがあったのではないだろうか。
2000年代後半~2010年代は「2ちゃんまとめサイト」みたいなのも流行った気がする。今もあるけどね。
ネット空間では、法律がほとんど機能不全に陥っており、警察による抑圧が小さいからな。
「侮辱罪」が法改正されたので、ネットに悪口や反社会的なこと、特定個人への誹謗中傷の抑制効果も、これから少しは期待できるかもしれないが。
これら家族のストレス、ネット空間のストレス、諸々が複合した作用によって凶行に至ってしまったかもしれないけど。
やはり根底、大きな原因には、掲示板による心情の吐露にあるように、モテないコンプレックス、非モテコンプレックス、リビドーの未達があると思われる。
先述したように、彼の携帯日記には、カップルや恋愛に関する記述が多かった。
それはこの資本主義国家では「(異性愛の)恋愛をすること」を、大量のイデオロギー装置で称揚しているからだ。
フランスのマルクス主義的哲学者であるルイ・アルチュセールが提示した概念にの"AIE"(appareils idéologiques d'Etat)ってのがある。
簡単に訳すと「国家のイデオロギー装置=資本主義を維持するために作用する抑圧装置」みたいな感じだ。
イデオロギー装置は至るところに存在している。
アルチュセールがすごいのは、イデオロギーを観念的な体系とか思想に留めるのではなく、スポーツだとか娯楽だとか、物質的なものに至るまで、国家の維持や貢献に作用するイデオロギーとして機能していると提唱したところだ。
第二のテーゼ
イデオロギーは物質的な存在を持つ。
(中略)
われわれは、国家のイデオロギー諸装置とその諸実践について語る際に、これらのイデオロギー装置はそれぞれある一つのイデオロギーの現実化である、と述べた(これらのさまざまな領域的イデオロギー――宗教的、道徳的、法的、政治的、美学的、等々――の統一は、支配的なイデオロギーのもとにこれらのイデオロギーを包摂することによって保障されている)。われわれは、一つのイデオロギーはつねに一つの装置のなかに、さらにはその装置の実践、あるいは諸実践のなかに、存在する、とうテーゼをここで再びとりあげる。この存在は物質的である。
(引用元:再生産について(下) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p219-221)
前にもアルチュセールの話はした。
gyakutorajiro.comなぜ異性愛は国家のイデオロギーとして尊重されるか。
それは異性愛が、資本主義や国力を増強するための労働力の生産(人間の生産)の目的に都合がいいからでもある。
「LGBTは生産性がない」と発言した杉田水脈議員は、国家のイデオロギー装置の目的に沿った行動ではあるが、ダイバーシティという価値観に阻まれ、バッシングされ、社会的制裁を受けた。だが労働力の生産に寄与するゆえに異性愛が優遇される現実があるのは事実だ。
そのため、国家のイデオロギー装置と企業が行うキャンペーンが、異性愛の礼賛という価値観を前提にしているという点で蜜月関係である以上、BEAMSのキャンペーンも、国家のイデオロギー装置として機能する。
もちろん国家とBEAMSが手を結んでいるというわけではない。
しかし異性愛の表象物は「国家によって規制を受けない」という点で、イデオロギー装置として機能しているのは事実だ。
もし「虫が美味しいんです!チャバネがいいんです!」とか言って、新宿駅南口のデカい看板広告に、「虫を食べている若者たち」を撮影した広告みたいなのがドーンと出たら、どうだ?
速攻炎上して、何らかの権力によって広告取り下げになるだろうよ。
「虫食は文化です!」というイデオロギーは、肉食や穀物食等の支配的イデオロギーによる抑圧を被る。
若い時にアルチュセールを読んだ俺は「えっ、そんなものまで?」と衝撃を受けたが、実際、物質的な表象、シニフィアンの連鎖が、人間の意識や自我に影響を与えてるのは事実だろうよ。
「イデオロギー」ではなく、「イデオロギー装置」ってのが新しかった。
これは令和になった現代でも通用する概念でもあるんだよな。西洋哲学史における観念論的思想を脱却し、物質や、物質的なイデオロギー装置や諸実践、それが人間の精神に及ぼす影響ってのを、この国家のイデオロギー装置という概念でアルチュセールは紐解こうとした。
そしてアルチュセール以降、その後に出てきたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが「唯物論的精神分析」と銘打ち、「アンチ・オイディプス」を生み出したんだと勝手に思ってる。
閑話休題。
「政治に興味がない若者」を生産できるのは、政治意識を希薄化できるほどに楽しい娯楽が多く存在するからで。
それゆえ、娯楽もイデオロギー装置として機能してるってことだ。
アルチュセールがいう〈出版-放送装置〉〈文化装置〉という、イデオロギー装置だ。
「マルクス主義理論」における〈国家装置〉は、政府、行政機関、軍隊、警察、裁判所、刑務所を含んでいることを想起しよう。それらは、われわれが今後、〈国家の抑圧装置〉と呼ぶであろうものを構成している。抑圧的とは、正確かつ強い意味では、物理的暴力の行使(直接または間接、合法または「非合法」の)であると極限では理解しなければならない(なぜなら、それは非物理的な抑圧の数多くのきわめて多様で、さらには隠された諸形態が存在するからである)。
では〈国家のイデオロギー諸装置〉(AIE)とは何か。
それについての最初の概観をつかむために、ここに暫定的に列挙してみる。
1/〈学校装置〉
2/〈家族装置〉
3/〈宗教装置〉
4/政治〈装置〉
5/組合〈装置〉
6/〈情報装置〉
7/〈出版-放送装置〉
8/〈文化装置〉
これが暫定的なリストであるのは、一方では網羅的ではないからであり(第12章を参照されたい)、他方では7の〈装置〉と8の〈装置〉は一体をなすことがありうるからである。私がこのようにふんぎりをつけることができないことを容認していただけるのではないかと思うのだが、というのも私の「包囲陣」は、探求に値するこの点にはまだ敷かれていない(3)からである。
(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p170-172)
(3)「私の包囲陣は敷かれた」は「ご意見無用」という意。歴史家ルネ・オペール・ドゥ・ヴェルトー神父(1655-1735)が、1726年、ステレマン二世によるロドス島攻囲戦の戦記を書き終えたとき、未開の資料を提供しようとした人に向かって答えた言葉。
しかし、加藤のことを考えてみると。
加藤にはこれらのAIEが、機能していなかった、もしくはその装置からの要求が達成できなかったと俺は思う。
先述したように、母親とも折り合いが悪かった。
つもりそれは、最も親しい家族という共同体への配慮の欠如、家族的AIEの機能不全だ。
政教分離の日本、「人を傷つけてはいけない」という価値観の内面化は、宗教では行われにくい。
宗教的AIEは、日本では機能不全に陥ってるケースが相対的に多い。
もちろんカルト宗教にはまる人は一部存在するが。
ならば、二次元のアニメ世界やゲームといった文化はどうだ?
文化的AIEによって、自分へのタナトスや、他人への攻撃衝動は抑圧できるのだろうか?
しかしそれは皮肉にも、逆の作用をもたらす。
と携帯で書いているように、二次元のアニメや文化の聖地であった秋葉原にさえ、三次元的主体としてのカップルが襲来している現実を知る。
二次元のカルチャーも、それを消費するのは、三次元の現実的な人間だ。
秋原原は二次元を愛好する、三次元で充実できない非リア充の人間が集まる聖地なんかじゃない。
それに気づかされた。
gyakutorajiro.com火山は「島の上にあって島以上のもの」であり、<現実界>の過剰である。同様に、聖者になることは「宗教的イデオロギーの中にあってイデオロギー以上のもの」であり、イデオロギーの中にある非イデオロギー的な核である。そして古い遺跡は「イタリアにあってイタリア以上のもの」であり、過去の失われた享楽の、沈黙せる目撃者である。三つのいずれの場合も、ヒロインはこの「実体」の亀裂に気づくことができる。
それは彼女が余所者の立場にあり、彼女の視線は外部からの視線だからである。実体の内部にいる者は必然的に盲目である。彼らを盲目にするメカニズムは、犠牲のメカニズムと同じである。犠牲の基本的機能は、<他者>の傷を癒すことである。「実体的な」(「原初的な」)共同体を繋ぎ止めているのは、その犠牲の儀式であり、「余所者」とはつまり、この儀式への参加を拒絶する者のことである。
(引用元:汝の症候を楽しめ ハリウッドvsラカン /筑摩書房/スラヴォイ・ジジェクp95)
秋葉原はオタクの町、平和島は競艇の町、俺に合ってるね~と、ブラブラ歩いいても。
家電量販店で新生活に必要なアイテムを選んでいるカップル、子どもを抱っこしてボートを見せてあげている家族連れ等を視認し、自分の状況を相対化することで、自分が「余所者」であると、無意識に気付かされる。
「現実界」ってのは、ジャック・ラカンが提唱した精神分析の概念で、このサイトでは何回も出している。
判りやすくいうと「現実にある、現実以上の出来事や脅威」みたいな感じだ。
「秋葉原もカップルだらけ。意味わからん。」と加藤が思ったのは、「秋葉原はオタクのための街」という認識があったからだ。
それは加藤における現実の認識だ。
しかし実際の現実は、違った。秋葉原は、アローンのオタク達が集う街なんかじゃない。「現実」には亀裂が入り、現実界が姿を現す。
これがまさに"リアル"なんだと。
この現実界の襲来によって、アキバを歩くアローン達は、現実を打ち砕かれる。
アニメの世界のような、理想化された二次元の世界は壊滅する。
文化的AIE、イデオロギー装置が提供する、二次元世界のイデオロギー(虚構)の内面化、それによる充実が、機能不全に陥る。
アルチュセールが定義したAIE、このAIEが機能する場合はある。
しかし機能せず、ストレスやコンプレックスを抑圧することができず、嫉妬・怒り・恨み・辛みが肥大化していくケースも多々あるってことだ。
目の前をカップルがいちゃつきながら歩いています。何故こんなに不愉快なのでしょう。これから夏がきます。嫌いな季節です
という感情の喚起。
夏という季節が嫌いなのは、漫画「ヒミズ」の主人公も述べていた気がする。
メディアによる諸々のキャンペーン、ポピュラーカルチャーという文化的AIEが、夏という季節と恋愛をセットにし、そのキャンペーンを幾度となく反復し、大衆の無意識に<夏=恋をする季節>というイデオロギーを刷り込ませる。
文化的AIEは、人々に「夏は恋をしなくちゃ!」と、"主体化"するように仕向ける。
ラブストーリーを彩る諸々の消費活動=海水浴、プール、スイカ割り、夏祭り、サンセット鑑賞・・・などなど。
消費活動の論理に、生殖活動の論理に、忠実に従う人間を作り出そうとするイデオロギー装置たち。
中にはソロのように、そういった資本主義的イデオロギーに染まらない or 染まることのできない疎外された人間も生じる。
そういった人間は「夏だからって、1人で海に行ってもいいじゃねえか!?」と、自ら対抗的な文化を生成しようと、ポジティブな試みを図る連中も出てきたりするかもしれない。
しかし、結局その運動は一般的に流布している夏のイデオロギーと拮抗することは決してなく、卵母細胞が分割したときに消滅する小さい極体みたいなもので、マイノリティーの文化的抵抗は一過性に終わるか、局所的だ。
大資本の企業や国家によるキャンペーンが生み出す「夏は恋をしなくちゃ!」に勝てるのは容易ではないし、生物学的にもこっちのキャンペーンの方が馴染めるんだよな。
経験がイメージを形作るように、一度刷り込まれたイメージは、なかなか変わることはない。
<夏=恋する季節>という思考回路を堰止めようとしても、やはり誰にでもこの回路は、幅の差こそあれ、開かれてしまっているだろうな。
だが、こういう資本主義的夏の恋愛イデオロギーの恩恵を、享受することができない疎外された主体も大勢いる。
「彼氏彼女ができない」「家族ができない」という欲望を達成できない主体はどう生きればいいのか。
この社会には「恋をして結婚して子どもを作りましょう」という国家のイデオロギー装置は、最大限に機能している。
このイデオロギーに応じる主体になることは、国家の労働生産性の向上にも寄与するし。
「子孫を残してくれ」という遺伝子の要求にも寄与することだろうから、誰もがこの主体になりたいと無意識に感じているし、意識的に努力したりもする。
それはまるで、当たり前の現実のように喧伝されているが。
現実よりも残酷な現実界が、加藤や俺のようなソロには押し寄せる。
イデオロギーや遺伝子が要求する、そういった主体になれない苦しみ。
これにどう立ち向かうか。
別のイデオロギーで対抗するか、イデオロギーを希薄にする時間を作ることぐらいか。
それは簡単なことではないし、不可能に近いことでもあるかもしれない。
俺はこのサイトで、そのようなイデオロギー的主体化に、少しでも対抗するために、嫉妬・怒り・恨み・辛みを鎮めるルサンチマン(奴隷道徳)というマインドフルネスや、ソロ活情報を発信しているつもりだが。
しかし簡単ではないかもしれないな。
そもそも、秋葉原になんか、行くもんじゃないのかもしれない。
東京というイデオロギータウン、恋愛至上主義の極限、そこから逃避するべきではないだろうか。
www.youtube.comフレンズの「東京今夜」、ストリングスが綺麗ないい曲だけど、「東京で恋愛をしろ」というイデオロギー装置として機能する。
物理的に都会は田舎よりも文化的AIE、「恋愛をしろ」というイデオロギー装置が過剰だ。
だからもう、ソロは東京を離れた方がいいのかもしれない。
よく「地方の方が独身だと白い目で見られる」と言うが、果たしてそうだろうか。
地方でもどうせソロで近所づきあいなんてほとんど無いのだから、だったら、イデオロギー装置が少ない田舎の方が余計な要求を受けずに済む。
「まだ東京イデオロギータウンで消耗してるの?」みたいな。
なんて、考えてみたりするんだけど、仕事があるのも都会だから、難しかったりするよな。
欠如している欲望を満たすのも、都会の方が便利かもしれないしな。