久々の更新だ。
日が開いてしまった、やはり食い扶持を稼ぎならの更新ゆえ、なかなか、好きな本とか映画にふけったりブログを書いたりといった生活をするわけにもいかない。
「日雇いなんかやってらんねえよな、動きもしねえ連中の方が俺らよりいい給料もらってんだから」
と言うように、資本主義社会に生かされる人間として、糊口をしのぐために、どうしても金を稼がないといけないんだよね。
それでこのセリフは呉美保監督の「そこのみにて光輝く」という映画のワンシーン、パチンコ屋で佐藤達夫(綾野剛)と、ライターの貸し借りで知り合った大城拓児(菅田将暉)が、一緒に自転車に乗りながら発したセリフだ。
このセリフは響いたな。実際そうだよな。
白シャツはクーラーの効いた部屋で「管理業務」だとかいうのをやっている最中、現場に派遣される労働者は汗水流して働くんだからよ。
それでこの映画、注目すべき点がいくつかある。
それはニーチェの「永遠回帰」の実践を、彷彿とさせるシーンがあったからよ。
ニーチェの「永遠回帰」という概念は、時間における過去・現在・未来という支配的概念を不安定にさせる。時間を"過去・現在・未来"ではなくて、"永遠回帰"として捉え直してみたら、どうだろうか。
"過去・現在・未来"の時間概念がないとしても、人間には意識の流れ、差異の連続はある。
ニーチェの永遠回帰が求める回帰対象は現実の介入によって変質するでも話したが、ニーチェは永遠回帰を、「そうであった」を「わたしはそう欲した」に創り変える力、欲したものが永遠に戻ってくることを望む意志として示していることを紹介した。
しかしもし、欲したものではなく、全てが戻るとしたら?
そのような問いも立てている。
もしある日、あるいはある夜、悪魔が君の孤独の極みにまでそっと後をつけ、君にこう告げたとしたら、どうだろう。「おまえが現に生き、またこれまで生きてきたこの人生を、もう一度、いや無限回、もう一度生きなければならないだろう。しかも新しいことは何一つなく、あらゆる苦痛、あらゆる快楽、あらゆる思考と溜息、そしておまえの人生の言い得ぬほど些細なことも大きなことも、すべてもう一度君に回帰しなくてならない。すべてが同じ順序と繋がりで――この蜘蛛も、この木々の間の月光も、そしてこの瞬間も、私自身も、同じように回帰しなくてはならない。存在の永遠の砂時計は、くりかえしもとに戻される――その時計と一緒に、塵の中の塵であるおまえもだ!」
これを聞いたら、きみは地に倒れ込んで、歯ぎしりをして、こう告げた悪魔を呪わないだろうか。あるいは君が悪魔に「お前は神だ、わたしはこれ以上に神的なものをかつて聞いたことがない」と答える恐怖の瞬間をすでにもう経験したことがあるか。
もしこの思想が君を支配するようになったら、君は、今あるような君を変化させ、おそらく粉砕してしまうだろう。何をするにもいつも「おまえはこれをもう一度、いや無限回、欲するのか」という問いが、最大の重しになって君の行為にのしかかってくるだろう。あるいは、この究極で永遠の確認と確証の他にはもはや何も欲しないために、君は君自身と君の人生にどう決着をつけるべきだろうか。
(フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知恵』)
それゆえ、永遠回帰は不快な出来事や現象も意識に回帰してくる可能性がある。
「そこのみに光輝く」では、達夫のフラッシュバックがそうだ。
それについてはこのサイトが詳しい。
zilgz.blogspot.com鉱山の仕事で、達夫は後輩に発破(はっぱ)を急がせた。それによって死亡事故が起こり、トラウマが回帰する。
そのような不快な出来事の回帰を受け入れられるのか?というニーチェの問い。
人間には「追悼」という行為がある。
東日本大震災、JR福知山線脱線事故、日航機墜落事故など、極めて悲痛な過去の出来事を、意識的に回帰させ、二度とそれが起こらないように再発防止策を考えたり、故人を悼む。
映画の達夫の場合、新たな後輩となる拓児ととも山の仕事をともにすること、拓児と千夏(池脇千鶴)と家族になることで、辛い過去のトラウマが回帰しても、それを一緒に乗り越えてくれる信頼できる他者の存在を求める。
ストレスは誰かに発散したり共有化すると、落ち着いたり希薄にすることができるからな。
千夏の「山行く前にさ、亡くなった人の墓参りいこう」という言葉に、達夫も救われたように。寄り添ってくれる人の共感によって苦しみから救われる。
つまりここで、永遠回帰に、ルサンチマンが垣間見れるだろう。
なんてね、ちょっと強引だったかな?
しかし、ルサンチマンには「強者に打ち勝つために弱者が生み出した奴隷道徳」とともに、「嫉妬・怒り・恨み・辛みを乗り越えるための心理的機制」という性質もある。そのため、不快な記憶が永遠回帰する状況に陥っている場合、他者の存在によってそれを慰めてもらたいと欲する。
達夫が拓児や千夏に無意識的に、徐々に距離を縮めていった姿を見ると、ルサンチマンを実践していないとは、言い切れないだろう。
達夫は自らのトラウマを、一人では乗り越えらえれなかったんだから。
また永遠回帰について、この前話をしたラブソングにおいてはどうだ。
ケツメイシの「さくら」や、Official髭男dismの「Pretender」は、ネガティブな過去の記憶を美化するルサンチマンではある。
本当は振られた、彼女を手に入れられなかった、という現実を変質させている。
「最終的に振られたけど、まあ素晴らしい思い出だった、経験だった」みたいなね。「振られた」という「敗北の事実」という不快な永遠回帰を、同一化対象としてのラブソングを召喚し、それによって記憶を美化し、「すばらしい恋の思い出」に変質させる。
前回の話同様、永遠回帰の回帰対象は、変質するんだよな。
まあそれについては何十年も前にドゥルーズが「差異と反復」で、似たような話をしていた気がする。一度たりとも同じ内容が回帰することはない。回帰するとともに、差異化していくみたいな。
つまりニーチェは、不快なものの回帰も「受け入れられるのか?」と問うたが、人間はその不快なもの、生死に関わる出来事、失敗した経験なども、回帰した際に共有化したり美化したりといった上書き作業を行い、「受け入れられるように変質させている」ということよ。
そのため永遠回帰の時間軸の中には、ルサンチマンの実践が含まれている。
不快なものの回帰を受け入れる、それに立ち向かう強さを持つ、その過程で、ルサンチマンの実践無しに対応するというのは、上記の達夫の行動にもあるように、難しいだろうからな。
もちろん、ニーチェは「永遠回帰における不快なものの回帰に立ち向かうためにルサンチマンが必要」なんてことは言ってないだろう。
しかし「永遠回帰においてはルサンチマンも回帰する」ということは述べていた。
以下に引用する「卑小な者」「反応的な人間」がそうだ。
このような人間嫌悪を克服できるのは、ツァラトゥストラと人間が彼らの生き方を変える強さを持つ場合でしかない、とニーチェは暗示している。それゆえにニーチェは「回復しつつある者」(この回復という表現は、ツァラトゥストラのみならず潜在的には人間すべてに関わる)の物語を使って、永遠回帰に向かう二つの異なる態度について倫理的な区別をつけている。
一方はツァラトゥストラの態度であり、永遠回帰がもっとも高貴な者の肯定という形だけでなく、「もっとも卑小な者」、もっとも反応的な者も永遠に回帰するという不快な事実とツァラトゥストラは向き合わなければならない。
しかし逆説的にも、反応的な人間たちも回帰するということを自覚的に肯定することが、ツァラトゥストラが保持したいと切望する貴族的な区別を生み出すのだ。なぜなら、破壊と創造の果てしなき円環そのものを経験し、高貴な者が軽蔑する一切のものとさえ逃れ得ぬ本質的な関係を持つことを肯定できるのは、もっとも高貴な者だけだからである。
これに対してツァラトゥストラの周りの動物たちは、ツァラトゥストラの新しい「教義」を繰り返すことができるだけで、悪魔の挑戦を受け入れることも、その教義が自分自身の生にとって持つ帰結を考えることもない。しかしツァラトゥストラにとっては、自己意識がなければ、倫理的な肯定もありえない。ツァラトゥストラは動物たちが彼の永遠回帰という経験を歌にした「手回し風琴の歌」に嫌気がさしてたじろぐ。(フリードリヒ・ニーチェ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ リー・スピンクス ]p222-223
ニーチェ自身もルー・ザロメとのイタリア旅行にて、二人きりで長い散歩をした時のことを、ルーへの手紙の中で「私の生涯で最も恍惚とした夢を持った時間だった」と語っている。この永遠回帰は、先に挙げたラブソングの例と酷似した、ルサンチマンの実践だ。
しかしルー・ザロメを妻にすることはできなかった。
過去の記憶が回帰する際に無意識的に美化し、現実ではない閉ざされた脳内の記憶の世界で、幸福感に浸るルサンチマンにも限界がある。
だからニーチェは、そのルサンチマンを克服し、ザロメを失った苦痛の永遠回帰にさえ立ち向かえる超人に至る条件として、永遠回帰を受け入れられるだろうか?という問いを立て、自分にも課したのではないかってね。
トラウマやPTSDのような回帰も、誰かとストレスを共有化する。恋愛の苦い思い出も、ラブソングに自分の経験を投影させて同一化して美化する。
永遠回帰は、意志ではなく、無意識にやってくる場合もあるだろう。逆に、ラブソング等の物質や、閉ざされた空間等を利用し、意識的に回帰させる場合もある。その具現化されたルサンチマンについて、今回の事例だけじゃない。
ニーチェ自身も、この永遠回帰はスピリチュアルな教義等ではなく、科学的なことだと述べている。
彼の原稿(死後に『力への意志』として出版された)のいくつかで、ニーチェは一切のものの回帰は宇宙の根本的な運動であり「すべての可能な仮説の中でもっとも科学的」(『力への意志』)だとしている。(フリードリヒ・ニーチェ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ リー・スピンクス ]p226
永遠回帰はありとあらゆる現実の場面で、人間の意識・無意識で、発生している。
資本主義社会において、その数は膨大だ。また別の機会にその存在を事例として挙げていこう。
というか既に、もうこのブログで紹介してるのもあるけどな。こうあるべき母親のシニフィアンとかそうだ。何度も理想の母親のイメージを投影した物質を永遠回帰させて、人間の意識や行動を資本主義社会の維持に都合のいいように仕向けていたりね。
映画の現場における性被害のフラッシュバック、「ネオシーダー」「月曜日のたわわ」の広告表象に込められたあるべき女性像、人間を"ひきこもり"という概念で社会問題化して区別する運動、それらは全て永遠回帰しているよな。
しかし映画に出てきたジンギスカン、美味そうだったなぁ。
原作も読んでみるか。
佐藤泰志の小説「そこのみにて光輝く」「黄金の服」という2つの作品から生まれた映画だったみたいだね。