逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

映画「ヒメアノ~ル」で「同じ日々を繰り返していいのか」という不安をルサンチマンで肯定する岡田と暴力で打破する森田について

「ヒメアア~ル」という映画で、ニーチェがいうルサンチマンを抱く人間と、ツァラトゥストラが対峙するようなシーンがあった。

それは映画の序盤、安藤(ムロツヨシ)に強引に頼まれた岡田(濱田岳)が、森田(森田剛)を居酒屋に呼び出して、ユカ(佐津川愛美)ちゃんをストーカーしているのではないかという疑惑を探るシーン。

何気ない「休みの日何してるの?」という話から、岡田はこう切り出す。

俺もさ、特にないんだけどな。その特にないってのが、不安になってきちゃってさ。でね、その気持ち悪い先輩に相談したの、そしたら『どんな金持ちも不安や不満を持って生きてるんだ。満足してるやつはいないんだ』って言われて。ああ、みんな一緒なんだなと思って。なんか妙に納得しちゃってさ。

それに対して、森田はこう答える。

何言ってんの、一緒なわけねーじゃん。俺もお前も人生終わってんだよ。何も持ってないやつが、今更底辺から抜け出すことなんてないんだぜ。金持ちと環境の違いに気づけよ。

岡田が反論するが。

でもさ、そりゃ底辺かもしれないけどさ、底辺でも、幸せになっている人はたくさんいるでしょ。

森田に言いくるめられる。

夢見るなって。幸せになる努力ができるやつがそう思うんだ。その才能がないからこうしてくすぶってんだろ。


この一連のシーンには、ルサンチマン(奴隷道徳)の存在がある。
「金持ちも不安や不満を持っている」というルサンチマンは、自殺を防ぐために意識的にストレスを吐き出し、ヒミズの内田のような相対化によって幸福感を持続させるで語った、シャーデンフロイデ的な考え方だ。
自分以外の人も不幸だと相対化することで、自分の不遇を希薄にする。

その奴隷道徳を、森田は「気付けよ」と、粉砕する。
非常にストイックに自分を客観視し、自分の社会的ポジションを現実的に見つめている。

この映画、以下はネタバレになってしまうけど。
よく考えると、ハッピーエンドかもしれない。他の人のレビューを見ると胸糞わるい、精神的にぐったりする、とあるが。
最終的には、ツァラトゥストラである森田にとっても、ルサンチマンを抱く岡田にとっても。
それについては後述する。

このようなルサンチマンを抱く岡田のような人間が、幸せになったり、肯定的に描かれたり。
森田のような、自らの力強い意志によって、欲望に忠実に行動するツァラトゥストゥラ的な人間が、打倒される。
このような物語は、無数にある。

天童荒太は、人間には物語が必要だといった。

人間は映画に出てくる森田のような、厳しい現実を突き付ける存在には耐えられない。
岡田のような人間が「正常だ」と、無意識的に判断する。

物語が必要な人間は、インスタントラーメンのようにハッピーエンドの物語を摂取している。
ちょっと探してみるとあるだろうよ。
例えばこの曲。

www.youtube.comサ上とロ吉サイプレス上野とロベルト吉野「メリゴ feat. SKY-HI」MUSIC VIDEO

何周目だっけ 繰り返しのNight&Day」と、映画の岡田と似たような不安の吐露があるが、それを「期待通りじゃないとしても メリゴー」と、現状肯定してくれる。

www.youtube.comJambo Lacquer "マスヨウニ" 【MV】

いつもと変わらない毎日を いつでも変わらない愛にしよう」と、現状肯定している。

www.youtube.comきっとそれでいい*大橋トリオ

沢山欲しいものはあるけど お金じゃ買えないものばかりさ」という資本主義的現実の否定、「どんな時でも新しい朝は来るから きっとそれでいい」とう現状肯定。

どれもいい曲で俺は好きだが、ルサンチマンが具現化した音楽でもある。

映画で岡田が言うように、「みんな不安や不満があるんだから、生きていこう」といった現状肯定だ。

それに対し、森田はどうだ。

人をストーカーし、家を特定して不在の場合はドアを蹴ったり不法侵入し、所かまわず暴力をふるい、人を殺めるという狂気の行動を取り続ける。
倫理的には最悪だが、現状を打破する行動力は岡田よりもあるといえる。

岡田は棚からぼたもちで恋人を手にすることができたが、現実では稀有なケースだろう。

ほとんどの人間は、森田になろうとは思わない。
誰かが苦痛に歪む姿に耐えることが出来ない生理的嫌悪感、逮捕されたときの制裁の甚大さ等を考えると、森田という存在にはならない。

ツァラトゥストゥラは排除されるように、社会は出来ている。
ルサンチマンを抱く主体が、尊重される。現状肯定して過ごすように仕向けられる。
その方が社会は平和だからな。
具現化されたルサンチマンは、資本主義イデオロギーの維持や発展にも寄与する。

しかし、「同じ日常を繰り返していいのだろうか?」という不安や疑念はあるし、何者かになりたいという承認欲求が岡田にはある。
同時に、人間はどこかでその衝動を抑圧し、妥協し、精神のバランスを保つ。
欲しい物があったとしても、上記のようなルサンチマンが具現化した音楽や映画等で抑圧し、現状肯定の日々を死ぬまで続ける。

先日話した、苦痛の永遠回帰を受け入れることも、ツァラトゥストゥラとしての力かもしれないが。
その現状肯定を打破し、行動するのも、ツァラトゥストゥラでもある。

森田は、暴力によって現状の日々が続く不安を打破した。
岡田も彼女を手に入れ、現状の日々が続く不安を打破した。

ということは岡田もツァラトォストラだってこと?

それについては「否」と言っておこう。
だって岡田には、なれないんだからな。
かわいい喫茶店の店員が一目ぼれしてくれるなんて都合のいい話、現実にはほぼ存在しない。

森田は、「同じ日々でもいいんだよ」といった奴隷道徳を信奉せず、己の力で現状を変えようとするという点でツァラトゥストラかもしれない。
先天的な病気でもない限り、他人に平気で暴力をふるい、家族や遺族を悲しみの淵に叩き落し、社会からは犯罪者の烙印を押されて差別され、逮捕されて監獄で臭い飯を食べながら死刑執行の日を待ち続ける現実に耐えられる人間になんて滅多にいないだろう。それに耐え切れる力が求められる。

とはいえ森田も最初から最後まで、ツァラトゥストラというわけではない。
ラストシーンで森田は、混濁した意識の中で、ルサンチマンを発揮する。
ボロボロの体で逮捕され、極限状態で森田は、

岡田君、またいつでも遊びに来てよ

と、岡田に告げる。

二人の過去の高校生活の思い出が回帰し、現実とは違う時間軸の中で、幸せな時間が永遠回帰する円環の世界の中に溶けていく。
耐えきれない現実から逃避するため、美化された記憶を永遠回帰させるルサンチマンが生まれた。
ツァラトゥストラでさえ、ルサンチマンから逃れることは難しいな。

追記:この映画のエンディングに流れていた美しい曲は「Let the Bright Seraphim from Samson, HWV 57 (Voice)」という音楽らしい。youtubeプレミアムしか視聴できないみたい。

また「林鶯山 憶西院 超覺寺」のツイートは、以下のような日付け検索を行えば調べられる。名言を探したい方に。
from:@chokakuji since:2022-3-1 until:2022-3-31

10日おきとか期間を短くして検索かけないと、ツイートが全て表示されない不具合みたいなのがあるな。
from:@chokakuji since:2022-3-10 until:2022-3-20