逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

交通誘導員は歩道を歩く歩行者と道路を走る運転手の安全を守る尊い仕事

2022年の夏の新ドラマの季節だ。
TBSドラマ「オールドルーキー」第1話は、職業差別の百花繚乱だった。

横浜流星が演じる矢崎十志也が、日本滞在中にこんなことを言うシーンがあった。

「CMだな。ドイツに帰るのは来月の10日だから撮影できるっしょ。イメージのいい一流企業でよろしく。でもギャラ5000万以下じゃやんないから」

そんで、綾野剛が演じる新町亮太郎が所属する会社ビクトリーは、その5000万の仕事を用意できず、別の会社がCMの企画を持ってきた。
しかし矢崎は、

・アジア、業界最大手のパチンコチェーン
「やだ」
スマホマッチングアプリ
「ない」
・たきなか食品、ふりかけで有名な。
「なんでだよ、全然俺のイメージに合ってないじゃん。スポーツメーカーとかさぁ、カッコいい炭酸飲料とかさ、そういうのないの。」

と返答。
パチンコ、マッチングアプリ、ふりかけ、が差別された。

まあそれよりも問題は、新町亮太郎(綾野剛)のシーンだわ。
ツイッターでも呟いてた人いたね。

新町果奈子(榮倉奈々)に「行ってきまーす」って行って、豊洲駅のコインロッカーから荷物取り出して、スーツを着替えて交通誘導員の仕事やるっていうね。
そんなに、妻にスーツを着るサラリーマンの仕事してるって、見栄をはりたいのかよ。

何が偉いんだよ。

そんで何日か経った後、「底辺の職業ランキング」とかいう記事を新卒向け就職情報サイト「就活の教科書」が公開して、それが炎上したらしい。

www.j-cast.com「【底辺職とは?】底辺の仕事ランキング一覧」って、ひどすぎて逆に笑っちまうな。
この中にも入ってるな、「警備スタッフ」ってのが。交通誘導員はここに含まれてるだろうな。

警備スタッフは現場によっては、楽だったりするんだが。
しかし、交通誘導員は楽じゃない。
罵声を浴びせられたり。

 


渋滞になるんやったら工事なんぞすんな ボケェ!!

(引用元:赤灯えれじい(1)[ きらたかし ]

命の危険だってある。

 


コラぁ!!ワシが出れるようにコーンどけて通行車止めんかい!!

(引用元:赤灯えれじい(1)[ きらたかし ]

こんな風に、キツい仕事として描かれることが多い。

実際、キツいだろうよ。
先の炎上した記事における「肉体労働である」ってのは、事実だ。

炎天下や寒空の下で立ち続ける体力、歩行者や車を視認して誘導する判断力、速度を落とさない車への危機対応など、身体が酷使される。

フランスのジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、このように人間の身体を酷使するように仕向ける存在を「原始大地機械」「大地機械」と呼んだ。

原始大地機械は、流れをコード化し、器官にリビドーを備給し、身体に刻印する。大地に属する身体に刻印するというこの任務は、他の全ての任務を集約するもので、これに比べれば、循環し交換することは、全く二次的な活動である。

登録し登記する社会体の本質は、もろもろの生産力を自分に帰属させ、生産の代理者を分配するものであるかぎり、入れ墨をすること、切除すること、切りこむこと、切断すること、生贄にすること、手足を切断すること、囲むこと、秘伝を手ほどきすることである。
ニーチェは、「習俗の道徳性を、または人類の最も長い期間にわたって、人間が自分自身に対して行ってきた真の仕事、人間の前史時代のあらゆる仕事を」定義したのである。この仕事とは、身体の四肢や部分に対して、権利上の力をふるう評価のシステムを確立することであった。

罪人は単に集団的備給の秩序にしたがって、自分の器官を奪われるだけではない。食べられる人間は、牛を切り刻み分割する規則に劣らず厳密な社会的規則にもとづいて、食べられるだけではない。

それにとどまらず、十分に権利と義務を享受するひとは、自分の器官や器官の動きを集団性に結合する体制の下で、全身に刻印される(器官の私有化が始まるのは、「人間が人間を前にして恥ずかしさを感ずる」ときからでしかない)。

というのもこれは創設の行為であって、これによって人は生物学的な有機体であることをやめ、ひとつの充実身体、ひとつの大地となり、その上に諸器官が付着し、社会体のもろもろの要求に応じて吸引され、拒絶され、奇蹟を授けられる。
器官は社会体の中で剪定され、流れは社会体の上を流れなければならない。

(引用元:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第一節 登記する社会体

集合的備給ってのは、ドゥルーズガタリ「あらゆる備給は集団的なものである」と言っているように、備給(性的衝動・エネルギーを対象に向けること)とは、原始大地機械などの社会体によって、人間の器官が組織化された結果だからだ。

実際、マクドナルドである女性が「イケメンだわー」と、対象にリビドーを向けた際、そのイケメンの姿は、友達(他の日本人女性)も大抵は「そうだね」という共感をしてくれる造形をしている。似たような話は前もしたな。

gyakutorajiro.comそのように集団的備給によって、罪人ならびに人間の器官は、煉瓦を積む身体として、ピラミッドを作るための身体として、器官の働きが組織化される。
大地とともに仕事をする人間の身体は、大地と一体化し、大地の上に足やら腕やら贓物やら頭やらといった器官が付着している。

そしてニーチェの仕事の定義を発展させ、ドゥルーズガタリは、この大地機械などの社会体が人間を非生物化し、仕事をする充実身体を作り出したと述べる。

大地機械は、社会体の最初の形態であり、原始的登記の機械であり、社会野を蔽う「メガマシン」である。大地機械は、もろもろの技術機械と同じものではない。技術機械は、手動的といわれるような最も単純な形態においても、すでに、作動し伝達しあるいは動力として働きさえもする非人間的な要素を含んでいる。この要素は、人間の力を拡張し、ある意味で人間を解放する。

(引用元:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第一節 登記する社会体

大地機械によって、交通誘導員は仕事をする身体として組織化される。

夜の現場は、見通しが悪い場合は車に突っ込まれて事故になるリスクを背負っている。
また、誘導灯を振る腕、プラカード等を持つ腕に、負荷がかかる。
もちろん腕だけではない。
直射日光によって全身にかかる熱を逃がすため、空調服が必要な場合すらある。

www.b-mall.ne.jp交通誘導員をサポートする誘導ロボットは技術機械として、人間の力を拡張してくれる。
しかし、ロボットだけで仕事が回るほど技術機械が発達しているわけじゃない。

技術機械が出来る仕事には限界があり「自動車という機械の向かう先を、誘導する」という仕事は、身体を酷使するという点で、大地機械が与えた仕事とそっくりだ。

(引用元:最強伝説 黒沢 2 [ 福本伸行 ]

工事の発注主は、社会的機械と言われている。

これとは逆に、社会的機械は人間を部品として扱う。たとえ、人間を彼らの使う機械とともに考察し、作動、伝達、動力のあらゆる段階において、彼らをひとつの制度的モデルの中に統合し内部化するとしても。こうして社会的機械は記憶を形成することになる。このような記憶なしには、人間とその(技術的)機械との共働はありえないだろう。

(引用元:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第一節 登記する社会体

社会的機械によって器官の組織化を授けられた人間は、大地機械とは違う仕事を行っている。
クーラーの聞いたフローリングの部屋で座って仕事している。
身体にかかる重力や負荷は、大地機械的な労働のほうが圧倒的に大きい。

社会的機械は、teamsだとかslackだとかsalesforceとかいうツール(技術機械)を使い、人間を管理する。
派遣企業の社員は、その使い方を覚えたり、大地機械で働いている人間に覚えさせたりすればいいだけ。

大地機械のような組織化と肉体の酷使を求められない仕事だ。
総務や経理だって「法律とかの知識が必要で大変」とか言うけどよ。
マネーフォワードだとかfreeeだとか弥生のなんたら申告だとか、経費管理ツールいっぱいあるだろうよ。
それ使えば、手動計算とかしなくても済むだろう。

楽でいい仕事だよ。交通誘導員や土木作業員やシステムエンジニアだとか専門職みたいに、技術や知識を覚えたり、キャッチアップする努力もそこまで必要ない。
やりてえよ俺も。肉体をほとんど酷使しない仕事を。
外注という仕事、その抽象性の極み、羨ましいよほんと。

「ソフト開発「中抜き」、独禁法違反助長の恐れ 公取委」だってよ。肉体の酷使がない、素晴らしい仕事だよほんと。

www.nikkei.comピンハネという、何も生産せずに資本を生み、器官にリビドー備給をするための給与を得る。
「後はお任せね」と、定時退社。
そんで「渋谷で5時~」ってか。俺も菊池桃子サボタージュしたいわ。


そのため、人間は大地機械から逃走し、社会的機械からの洗礼を望む。
まだ社会的機械の方がマシだと。
進学校」「大学」という、社会的機械に身体を捧げるために"努力"という、器官の酷使行為を行う。
そこで得られる「学歴」という機械は、「この人間の器官(頭脳)は優秀なのかどうか」を判別するためのリトマス試験紙、わかりやすい技術機械として機能する。そのため、企業という社会的機械は、今回炎上した就活情報サイト等の社会的機械に「優秀な学生だけをソートしてくれ」と頼み、頼まれた就活サイトは、学歴フィルタリングという技術機械によって、優秀な頭脳(器官機械)を持つ人間だけを選別し、その機械を企業に提供する。

社会的機械への参入を拒まれた人間は、非正規労働者として、派遣労働者として、大地を彷徨う。器官機械のリビドーを満足させるために、大地機械が仕向けているような仕事を行うのも厭わない。

大地機械からの逃走は、もしかすると、先祖の記憶、遺伝子にも刻み込まれてるかもしれない。
日本軍という社会的機械によって戦争に駆り出され、終戦後にロシアに占領されてシベリアの捕虜兵となり、不毛なシベリアの大地を耕して開墾するようにと、大地機械が強いたような仕事を人間に与える。
また北海道の屯田兵の歴史、劣悪な環境での女工哀史など、大地機械によって刻み込まれた我々の先祖の身体の記憶が、肉体労働から逃走しようと無意識に行動しているのではないだろうか。

まあ記憶が遺伝するかどうかは、知らないけどよ。

何にせよ、てめえらは馬鹿にできるのかって話だ。企業と学生の間に割って入って、有用なサービスを提供してるってか?
まあ人間を年齢、学歴、職歴などの属性によって部品化し、ソートしやすくする社会的機械として、企業の採用活動に貢献してるかもしれない。
別にその仕事を悪いとは思わない。

だが、交通誘導員を馬鹿にできるほど、おのれらの仕事は尊い仕事なのか?と、自問自答してみろと言いたいね。
マルクスは労働をその性質から、「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」に分類した。

bizgate.nikkei.co.jp具体的有用労働は、エッセンシャルワークとして社会になくてはならない。
だから価値がある。
確かに、肉体の酷使がある。
大地機械によって生まれる仕事と類似性がある。

そして人間を管理する業務は、抽象的人間労働だ。
「具体的有用労働」はシットジョブで、大地機械が与えた仕事と類似性があり、「抽象的人間労働」はブルシットジョブであり、外注や管理といった人間を部品化する社会的機械と類似性があるな。

www.1101.com派遣企業が行っている人間の管理業務、労働者の請負契約等を管理する会社は「抽象的人間労働」だ。なくなっても別に困らない。
なくなったら技術機械によって、企業と労働者が直接やり取りできる仕組みを導入すればいいだけ。

交通誘導員は「具体的有用労働」として、それらの多くの仕事よりも、社会の役に立っている。
自動車や歩行者、いわゆる他の生産者の流れを管理し、その安全を守る大事な仕事であり、尊い仕事だ。
わかったか、就活サイトの運営者たちよ。俺は人間を部品化しているお前らをリスペクトしない。大地で汗をかく交通誘導員をリスペクトする。

でも交通誘導員はやっぱ、肉体の酷使という点では、しんどいだろうなぁ。

「肉屋の女房の夢」についてのフロイトとラカンの夢分析およびその応用

6月なのにもう梅雨明けで暑い日が続くからだろうか、怪談っぽい夢のツイートが話題になってたね。

togetter.com夢についてはフロイト夢分析が有名だろうな。
フロイトによれば「夢とはつねに、そこで欲望が実現されるような何か」「夢は願望充足である」っていうのが有名ね。

ラカンも夢については、「肉屋の女房の夢」の分析において、フロイトの夢解釈をさらに具体的にしていたので、紹介しよう。

まず肉屋の女房の夢について。登場人物は4人。


【登場人物】
・女性患者(肉屋の女房。ヒステリー症状があるのだろうか、フロイトの患者)
・夫(女性患者の夫)
・女友達(若い娘)
・画家

私は、夕食をご馳走したいと思っている。しかし、燻製の鮭が少々あるほかは、食糧が何もない。買物に出かけようと思ったが、日曜の午後で、店はどこも閉まっていることを思い出す。よく買物をしている店に電話しようと思ったが、電話が故障している。それで、夕食をご馳走しようという望みを諦めなければらない。


フロイト、「夢判断」「フロイト著作集2」、人文書院 154-155頁。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p165)

これをフロイトはどう解釈したか。

この女性患者の夫は卸の肉屋で、実直な、とても働き者の男である。彼は数日前、妻に言った。
かなり太ってきたし、やせるための療法をやってみようと思う。早起きして、運動して、かなり節食して、もう夕食に招かれても受けないことにしよう、と。彼女は笑いながら話し続けた。

夫は、行きつけの料理店の、常連たちのテーブルで、一人の画家と知り合いになった。この画家が、夫をモデルにして絵を描きたがった。こんなに表情に富んだ顔を、まだ見たことがないからだという。しかし、夫はいつもの粗野な態度で答えた。たいへんに感謝しますが、若いきれいな娘のお尻の方が、私の顔よりあんたの気に入るでしょう。

この女性患者はいま、夫に夢中であり、たえず夫をからかっている。キャヴィアをくださらないでね、と夫に頼んだこともある。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p166)

フロイトは「若い娘」についての話を、女性患者からおそらく聞いた。この若い娘は、女性患者のことか、それとも女友達のことだろうか。
ラカンによると、女友達のことらしい。(それについては後述)

「実は、彼女は以前から、毎朝キャヴィアを塗ったサンドウィッチを食べたいと思っているのだが、この出費を自分に禁じている。」――あるいはむしろ、彼女はそうした許可を自分に与えないのです。

「むろん、夫にそのことを言っていたならば、すぐにキャヴィアを手に入れていただろう。しかし、彼女はそのことでなるべく長い間夫をからかうことができるように、反対に、キャヴィアをくれないように夫に頼んだのである。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p166)

フロイトが、女性患者の無意識に迫っていく。

私はもう一押しする。抵抗を克服しなければならないとき決まってそうするように、しばらく経ってから、彼女は私に言った。

彼女は昨日、女友達の一人を訪ねた。この友達に対して、彼女はかなりやきもちを焼いているのだが、それは、夫がいつもこの友達をほめそやしているからである。ありがたいことに、この女友達はひどくやせっぽちで、自分の夫は豊満な女が好みである。

では、このやせた女友達が何を話題にしたのだろうか。むろん、もっと太りたいということである。女友達は、彼女にこう尋ねた。『私たちをいつまた夕御飯に招いてくださるの。あなたのところでは、いつもたくさん食べるのよ。』

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p167)

欠けているピースが揃っていく。フロイトは、さらに女性患者に問い、その夢の正体を明らかにする。

あの燻製の鮭はどこから夢のなかにやって来たのでしょうね

――彼女は答える。
ああ、それは私の友達の大好物なのです。

偶然にも、私はその女性を知っており、この女友達なる人が、ちょうど私の女性患者がキャヴィアに対してしているのと同じ振舞いを、燻製の鮭に対してしていることを知っているのである。※

フロイト「夢判断」p125-126

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下p167)

なるほど、女友達も燻製の鮭を、夫に出会うために、女性患者の家で食べたい。そのためには、キャヴィアを拒否する女性患者と同じく、日常生活では燻製の鮭を食べていないんだろうな。

夫はモテモテってことか。

ラカンはこのフロイトの解釈に対して、こう付け加える。

キャビアの欲望は、夢の中ではいったい何によって表されているのでしょうか。それは、夢のなかに現れている人物、つまり彼女が同一化している女友達という媒介によって表されています。

フロイトは、この女友達についていくつかの特徴を指摘しています。女友達もまたヒステリー者であるのかどうかは、重要ではありません。すべては純粋にヒステリー的です。

女性患者はヒステリーであり、もちろんもう一人もそうです。そして、このことは、ヒステリーの主体がほとんどすっかり〈他者〉の欲望から出発して構成されるだけに、いっそう容易にそうなるのです。

夢の中で患者が伝えている欲望とは、女友達のお気に入りの欲望、つまり、鮭の欲望であり、女性患者が夕食をご馳走できないまさにそのときでさえ、彼女には燻製の鮭だけが残っています。
この燻製の鮭は、〈他者〉の欲望を指し示しているのですが、同時にそれを、満たされることのできるものとして、しかしもっぱら、〈他者〉に対してのみ満たされることのできるものとして、指し示しています。「そもそも、心配することは何もない。燻製の鮭がある」というわけです。


(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p172)

「燻製の鮭がある」ということは、女友達はまだ、この鮭を食べることができていない。女性患者にとっては、この状況が大事みたいだ。

だからといって、夢は、彼女が女友達にそれをご馳走してあげることになる、とは言っていません。しかし、意図はそこにあります。

その代わりに、女友達の要求、夢の発生的要素が放置されたままになっています。女友達は彼女に、夕食に招いてくれるよう要求しました。

彼女のところで女友達はたくさん食べますし、そのうえ、男前の肉屋に会うことができます。この愛想のよい夫は、いつも女友達のことをほめそやしており、彼もまた頭のなかにささやかな欲望を持っているに違いありません。

そして、彼を描きたい、彼の非常に興味深い、表情に富んだ顔をデッサンしたいという画家の申し出に関して、非常にすばやく喚起されている若い娘のお尻は、まさしく、彼の欲望を示すためにそこにあるのです。

 

要するに、めいめいが、強さこそ多少違いますが、表に現れている以上の、ささかやな欲望を持っているわけです。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p173)

以上の、フロイトラカンの分析を、ラカンのシェーマ(図式)に記入すると、以下のようになる。

この図は「ソフィスト達の「結婚できないのはあなただけじゃない」という奴隷道徳($◇a)の供給と内面化によって自らの自尊心や存在意義を保つ」等の記事で紹介している欲望のグラフの完成図とは少し違う。

何段階か前の欲望のグラフだが、今回の女性患者の夢を説明するには、この欲望のグラフの方が適している。

シェーマに描かれてる記号については、随所で説明されている。以下のラカンの説明に従って、「肉屋の女房の夢」の内容を反映したのが、上の図という感じ。

最初の行は、一方の側にある欲望の小文字dを、他方の側にあるaのイメージと、mつまり自我(モワ)に――主体と小文字のaとの関係を介して――結びつけます。

第二行目はまさしく要求を表しており、欲望との関わりにおける〈他者〉の位置(ポジション)を経由して、要求から同一化へと向かっています。こうして、〈他者〉は分解されているのがお分かりですね。〈他者〉の向こうには欲望があります。この行の途中には、Aのシニフィエがあります。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p138)

〈他者〉の向こうの欲望・・・A◇d
A(他者)のシニフィエ・・・s(A)


三行目については、以下のように説明されている。

別の言い方をすれば、まさしく〈他者〉の欲望が横線で消されている限りにおいて、主体は、横線で消された自分の欲望、自分自身の満たされていない欲望を認識するようになるのです。主体が、自分のもっとも本来的な欲望、つまり性器的欲望に出会うのは、〈他者〉の媒介によって横線で消された欲望においてです。
まさにこうした理由で、性器的欲望は去勢によって、言い換えればシニフィアン・ファルスとのある関係によって、徴し(しるし)づけられています。これはら、二つの等価なものです。

(中略)

実際、パロールと超-パロール la sur-parole、父の法、これをどのように名づけるのであれ、これらのものの彼方には、全く他のもの bien autre choseを要請することができます。まさにこうした資格においてこそ、ファルスというこの選択的シニフィアンが、もちろん法が据えられているのと同じ水準で、導入されます。通常の条件では、ファルスは〈他者〉との出会いの第二段階に位置しています。私のささやかな定式では、私はこれをS(Ⱥ)、横線で消されたAのシニフィアンと呼びました。問題になっているのは、まさしく、先ほど私がシニフィアン・ファルスの機能として定義したものです。シニフィアン・ファルスの機能とは、〈他者〉が、シニフィアンによって徴しづけらえた者として、つまり横線で消された者として徴づける、という機能です。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p175)

〈他者〉の欲望が横線で消されている限り・・・S(Ⱥ)
横線で消された自分の欲望、自分自身の満たされていない欲望・・・$
シニフィアン・ファルスの機能・・・Φ(グラン・フィー、象徴的ファルス)

まとめると、こうなる。

まず、女性患者(肉屋の女房)の自我 m は、大文字の他者であるAに向かう。
このAは、夫や女友達だ。
夫は、女友達や画家のシニフィアンの要求を受け、s(A)に向おうとする。
夫は画家を利用して、女友達を呼びたいと思っているが、女房(女性患者)は夫が若い娘のお尻(女友達)に夢中になってしまうことを警戒している。

女房の欲望(d)は、欲動の公式($◇D)に向かう。
ここは、要求と欲望の裂け目であり、女房はヒステリーの危険に晒される。

女友達の要求(D)は、決して受け入れたくないという欲望がある。
女友達と会わない夫(対象a)を求める女房は、「キャヴィアをくださらないでね」という夫へのからかいによって、理想の夫を求め続ける欲動の循環運動を行う。

キャビアを拒否し続ける」ことで、夫の安心を妨げ、より夫との関係を強固にできるということらしい。

このヒステリー者は、彼女の夢よりも前に、生活のなかでは何を要求しているのでしょうか。夫に惚れ込んでいるこの女性患者は、何を要求しているのでしょうか。それは愛です。ヒステリー者たちは、誰もがそうであるように、愛を要求しています。


ただし、患者たちにおいては、それはより厄介なものです。女性患者は何を欲望しているのでしょうか。彼女は、キャヴィアを欲望しています。必要なのはただ読むことだけです。そして、彼女は何を望んでいるのでしょうか。彼女は、キャヴィアをもらわないことを望んでいるのです。

問題なのは、まさにこういうことです。すなわち、ヒステリー者が、彼女を満足さsるような愛情に満ちた関係を保つためには、第一に、彼女が「他のもの autre chose」を欲望することが必要であり――キャヴィアはここでは他のものであること以外の役割は持ってはいません――第二に、この「他のもの」が、それがしかるべき役割をみごとに果たすためには、まさしくそれが彼女には与えられないことが必要であるのはなぜか、ということです。

彼女の夫にとって、彼女にキャヴィアをあげるのは願ってもないことなのだが、そうするとおそらく彼は少し安心してしまうだろう、と彼女は想像しています。しかし、フロイトがはっきり述べているのは、彼女は夫がキャビアをくれないことを望んでおり、それは、熱烈に愛し合うこと、つまり、果てしなく相手をじらし、お互いからかい合うのを続けられるようにするためである、ということです。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p170-171)

女房による「キャヴィアの拒否」によって、夫も女友達も、接触を果たすことができない斜線を引かれた存在S(Ⱥ)となる。

また、このような女房の欲望の源泉、その彼方に、先述の図の第三行目、Φ(象徴的ファルス)が存在している。

この象徴的ファルス(シニフィアン・ファルス)の解釈は難しいが、「欲望の対象」というか、「欲望の源泉」という感じだろうか。
対象ではないということは、代替可能性がありそうな気がする。

ご覧の通り、フロイトはそこでためらいもなしに、シニフィアン・ファルスを導入します。彼が分析のなかでそれ自体として強調しなかった唯一の要素とは――我々にもやるべきことを残しておかなければなりませんでしたので――まったく驚くべきことですが、こういうことです。

すなわち、ファルスに対する主体の振舞いの曖昧さは、すべてジレンマのうちに、つまり、主体は、このシニフィアンを持つことができるか、それともそれであることができるかのいずれかであるという、このジレンマのうちにあるということです。

このジレンマが生ずるのは、ファルスが欲望の対象ではなく、欲望のシニフィアンだからです。このジレンマは絶対に重要です。それは、去勢コンプレックスのあらゆる横滑り(グリスマン)、あらゆる変質、私ならあらゆる奇術といいますが、その根底にあります。

どうしてファルスがこの夢のなかにやってくるのでしょうか。いま述べた見方からすれば、ファルスそれ自体として、フロイトの文句――「Das ist nicht mehr zu haben」すなわち「もう手に入りません」――をめぐって、このヒステリー女性の夢のなかで現勢化されたのだと言ったとしても、言い過ぎであるとはまったく思いません。

(中略)

これはもちろん、私が前面に出している考え方と一致しています。それは、ファルスとはシニフィアンであり、誰がこれを持っていないかと言えば〈他者〉が持っていないシニフィアンである、という考え方です。実際、ファルスで問題になるのは、言語(ランガージュ)という平面において分節化される何かであり、そしてまた、それ自体として〈他者〉の平面上に置かれる何かです。それは〈他者〉の欲望として分節化されるような欲望のシニフィアンです。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p192-193)

このシニフィアンは、女友達という〈他者〉の平面上に置かれている。
夫の女友達への欲望、それは執着と反復性を備えた欲動(享楽)となり得る。
画家の要求は、女房がその要求を女友達の尻と結びつけてしまうように、まさにその尻が欲望のシニフィアンとして、女房に向ってくる。

もしこのシニフィアン・ファルスがなければ、女房自身がこのファルスを手に入れることができれば、この夫に執着する必要性がなくなったり、ヒステリー的なジレンマからも解放される気もするな。

欲望の対象の夫ではなく、女友達という他者によって規定される、夫が求める欲望のシニフィアンだろうか。


その他者によって生まれる欲望のシニフィアンは、女房からすれば、受けいれることは出来ない。

女房は、他者の要求と、自らの欲望の裂け目で苦しんでいる。

それに対応するために、"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]という夢を生み出して対応し、何とか自我を保っているという感じだ。

以上が「肉屋の女房の夢」について、主にラカン的な解釈で、紐解いてみた内容だ。

さて、翻って、ツイッターで話題になっていた「汚い部屋で女性と同棲する夢」はどうだろうか。

フロイトラカンの言うように「他者の要求を打ち消して自らの願望充足を実現する」というのであれば。

「男女の下着」「知らない女性」が同じ空間にあるということは、まず、知らない女性は誰かとの性的関係を彷彿とさせる。
4日目の夢で、知らない男性が2人いたということは、その女性はその2人の男性とも関係を持っているのだろうか。性に奔放なのだろうか。何にせよ知らない女性は、「見知らぬ男性2人」との関係性を彷彿とさせる点で、男性を要求している気がする。

そして「下宿の部屋が汚い」「煙草」「部屋の煤け具合」「ホコリだらけのスノコ」「古びたタイル」というのは、その女性と明らかに結びついてる。

しかしその要求に、「同棲」という形で、ツイ主は割って入る。
つまりツイ主は、その見知らぬ女性の要求を、「同棲」という形で、拒否する。
肉屋の女房が、「キャヴィアの拒否」を行ったように。

汚れている女性からの要求。
それを「同棲」で拒否するということ。

つまりそれは「女性が奔放に生活することの否定」ではないだろか。

つまりツイ主は、勝手な個人的推測だが、「ある女性に奔放な行為をされて傷ついた」「女性に何らかの仕打ちを過去に受けた」可能性があるのではないだろうか。

それゆえ、この夢には2つの可能性が浮かび上がる。

(1)「同棲」によって、女性の奔放さを受容しようという願望
その場合、自己変革したいという欲望の充足になる。ショッキングな出来事があっても、耐えられるようにするための準備として、その夢は役に立つ。

(2)「同棲」によって、女性の要求を拒否し、自分の欲望に適った女性を獲得しようとする願望
女性患者(肉屋の女房)がキャビアの受け取りを拒否したの同様に、女性の要求を否定することで、常に奔放ではない、自分に対してのみ強い愛を注いでくれる情熱的な女性を求める欲望。

「またここに来たのね」というのは、見知らぬ女性の要求(他の男性との接触)が未達となったがゆえに残念だというツイ主への嫌味か。

であれば、(2)の可能性が高いかも。

まあ情報が少ないから何とも言えないけどね。

何にせよ、夢には必ず他者の欲望、および他者の欲望が具現化された要求が、混じっているのではないかという話でした。

永遠回帰における「欲動の反復強迫」「現実逃避・自己憐憫の反復強迫」「差異へ向かう反復強迫」の違い

綾野剛主演の、オールドルーキーの第1話を見た。

www.tbs.co.jp普段テレビドラマはあまり観ないが、綾野剛は好きな俳優なのでチェックしている。

ガーシー(東谷義和)に後ろ暗いものを暴露されてはいるが、ガーシーも「ちゃんと謝罪して、やり直したら、ええやないか」「剛は男性のファンとかもようけおると思うぞ」的なことを言っていたように、綾野剛は同性も惹きつける魅力がある。
映画「日本で一番悪い奴ら」であったような、良心の呵責なく目的のために悪事を繰り返すハードボイルドさとか、ドラマ「アバランチ」で見せたようなアクション等が、男性の同一化対象としても魅力なんだろうな。

特にアバランチの第5話「夜明け」は、絶望の淵に立たされた男、羽生誠一(綾野剛)が、職場の社長の一人娘である和泉あかり(北香那)との出会いと出来事の中で、再生に進んでいく素晴らしい神回だった。

www.fujitv-view.jpしかしオールドルーキーは、第1話を見るからに、アバランチほどのカタルシスを得るのは難しい印象はあったかな。

気になったシーンがある。

新町亮太郎(綾野剛)が、子どもたちと共に、自分が活躍した2009年6月16日のワールドカップアジア予選の映像を、何度も何度も視聴する。

この「録画された過去の映像を何度も見る」という行為は、美化された記憶の反復行為であり、ニーチェがいう永遠回帰だ。

ニーチェ永遠回帰を「科学的な事柄」「宇宙の根本的な運動」としたが、具体的にはどのような現象なのか。

過去の文献や出来事などを紐解くと、大きく分けて永遠回帰は3つに分けられる。

・欲動の反復強迫
・現実逃避・自己憐憫反復強迫
・差異へ向かう反復強迫

それぞれ、見て行こう。

1.欲動の反復強迫

この永遠回帰は、フロイトにおける死の欲動ラカンジジェクが語る対象aを求め続ける享楽、に該当する。

まずフロイトが語る反復強迫は、以下の論文やサイトの説明が詳しい。

患者は抑圧されたものを医師が望むように過去を追憶する代わりに,現在の体験として反復するように余儀なくされる。フロイトは,被分析者の抵抗が自我から生じ,それに続いて起きる反復強迫は意識されぬ抑圧されたものに由来すると考える。意識的な自我と前意識的自我の抵抗は快感原則に奉仕しているが,反復強迫はたいてい自我に不快をもたらす過去の体験を再現する。

転移や人の運命には,快感原則の埒外にある反復強迫が存在すると仮定できるし,災害神経症者の夢と子どもの遊戯本能もこの強迫と関係するとみる。
反復強迫と直接的な快い衝動満足とは緊密に結合し,転移の現象が抑圧を固執している自我の抵抗に奉仕しているのは明らかであるという。ここからフロイトは,「反復強迫が快感原則をしのいで,より根源的,一次的,かつ衝動的である」と考える。

(引用元:https://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000004588/19-190.pdf

快感原則の埒外、にあるもの。それが反復強迫だと。
死の欲動とも言っている。

dokushoboyo.com だが、文化の進歩は一方で、戦争を美的観点から拒否する反戦論者を生むことにもつながっているという。
 フロイトによれば、文化の進歩には二つの特徴があり、それは欲動を制御するようになることと、それが主体の内部に向かうようになることだ。この点に関するフロイトの説明は不明瞭だが、内部へと向けられた攻撃性を内在化させた人々の中から戦争に対する嫌悪感を生理的に持つ人が生まれることを言いたかったのかもしれない。
 フロイトは最後に、このような平和主義者が主流になるまで、われわれは待たなければならないと締めくくっている。

しかしそれは後期のフロイトの見解のようで、初期は快感原則との関係性も語っていたようだ。

digitalword.seesaa.netS.フロイト初期には反復強迫の症状を、『無意識的願望の充足の障害』と解釈したり『現実的な苦痛や不安の回避』と理解しようとしたりしたが、晩年のフロイトは『エロス(生の欲望)』と『タナトス(死の欲望)』との中間領域に生起する力動として反復強迫を位置づけた。快楽を求めて不快を避けるという『快感原則(快楽原則)』の彼岸に、万物を自然的な死(無機物)の状態に還元しようとする『タナトス(死の欲望)』が生まれるのであり、タナトスはリビドーの欲動の量をゼロ(静止)に近づけようとするのである。

下記サイトにて引用してくれているフロイトのテキストにも、死の欲動とは異なる、フロイト反復強迫への言及を垣間見ることができる。

kaie14.blogspot.com【快原理の彼岸(1920年)】
精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格 dämonischen Zuges といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成 Symptombildung によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫 Wiederholungszwang と別個のものではない。

あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかに強くわれわれの心を打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎに三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(……)

以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。もちろん、反復強迫の作用が、他の動機の助力なしに純粋に把握されるのは、ごくまれな場合であることを知っておく必要がある。小児の遊戯のさいに、われわれは、その発生についてどのような別種の解釈ができるかをすでに指摘した(糸巻き遊び fort-da)

反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い欲動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。転移の現象が、抑圧を固執している自我の側からの抵抗に奉仕しているのは明らかである。治療が利用しようとつとめた反復強迫は、快原理を固執する自我によって、いわば自我の側へ引き寄せられる。

運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多いと思われるので、新しい神秘的な動機を設ける必要はないように思う。もっとも明白なのは、災害の夢であろうが、ほかの例でも一層くわしく吟味すると、われわれがすでに知っている動機の作用によってはつくしがたい事態のあることをみとめなければならない。反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 ursprünglicher、一次的 elementarer、かつ衝動的 triebhafter であるように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年

確かに欲動は、欲望の欠如を満たすそうと際限なく運動を続けるため、それを追い求め続けることで死に接近する危険性が生じる。
そのことについては、ラカンおよびジジェクのテクストとともに、以下の2記事で説明した。

gyakutorajiro.com

gyakutorajiro.comしかし上記記事で紹介している、闇金ウシジマくんにおける出会い喫茶での遊び、オ●ホールでの自慰、ホスト遊び等は、その過程において、快楽物質の分泌や満足感等を得ているゆえ、快感原則の埒内にある。

快感を再体験するため、永遠回帰させるために、タイガーウッズやアンジャッシュ渡部のように何度もそれを求める。
結果的に、快感を求め続ける依存症となり、象徴界の社会的規範やモラルを無視し、肉体を酷使することも厭わないという点で死に接近している。
つまり快楽を追い求め続ける欲動の反復強迫は、快感原則の埒内の行為ではあるが、段階的に快感原則の埒外へと向かう、死の欲動に至る病(ラカンジジェクにおける享楽)だともいえよう。

また、このようなケースもある。
欲動に従い快楽を追い求める東出昌大アンジャッシュ渡部を糾弾する正義中毒の主婦や。

www.jprime.jp老人に多い、モンスタークレーマーだ。

business.nikkei.comこれら主婦や老人も、実は、タイガーウッズや東出や渡部と同じような快感を得ている可能性がある。

もちろん、行っている行為は全く違う。
しかしクレームを言うことで、「日常生活の他のストレスや怒りを発散できる(陰性転移)」効果があり、「相手から謝罪をされる」「共感してくれる"いいね!"の数がどん増えていく」際に承認欲望の充足も得られている。

そのため、クレームを言う際に、心地よさを得ることができる欲動の回路が、クレーマーには形成されており、クレームを止めることができないクレーム依存症になっている。

実は糾弾している東出や渡部と同じように、クレームを言うときに興奮状態になっているという点で、ドーパミン等の生物学的快楽物質が出ている可能性は高い。
またSNSでは、クレームを言う事で共感の痕跡である「いいね!」やリツイート等の承認欲望の充足にも貢献するため、欲動の反復強迫は、自らの快楽の充足のために行われているといえよう。

2.現実逃避・自己憐憫反復強迫

現実逃避・自己憐憫反復強迫については、当サイトの様々な記事で、一番多く語っているだろうな。これはルサンチマン(奴隷度徳)の信仰等による、現実や不快な出来事を抑圧する防衛機制とも言える。

例えば音楽を聴く行為。イルカの「なごり雪」やケツメイシの「さくら」やofficial髭男dismの「Pretender」等、振られた現実や、好きな人を手に入れられなかった現実を抑圧したり合理化するために、反復強迫としてこれらの音楽は何度も再生されて人気を博している。

gyakutorajiro.com植木等の曲を何度も聴く、ちびまる子ちゃんのヒロシ。

gyakutorajiro.com命にかかわること以外、どーでもいいことばっかりだよ

いうニヒリズムによって、自分の現状を肯定する。
ニーチェがいう、ルサンチマンを信仰する人間であり、ニヒリズムに従属するラストマン(末人)とも言えよう。

diamond.jp 最高の価値を失った人間に、ツァラトゥストラは、ニヒリズムの最も極端な形式とされる「永遠回帰」を説きます。本書の第4部で、ツァラトゥストラは「超人」を教えるべく、「永遠回帰」と「運命愛」の思想を広めようとするのです。この世界には、「神の創造」による始まりもなければ、「最後の審判」という終わりもありません。キリスト教では、神の国を目指して過去から未来への直線的な世界観がありました。しかし、神が死んだニヒリズムの世界では、生が意味も目標ももたず、創造と破壊を無限に繰り返す円環状の世界となります。映画『ニーチェの馬』(タル・ベーラ監督、ハンガリー映画、2011年)では、この無意味な世界観を独特な映像美で表現しています。


 「君は今生き、またこれまで生きてきたこの生を、もう一度、いな数限りなくくり返し生きねばならず、そこには何の新しいこともなく、すべての苦悩も快楽も思想もため息も、君の生のすべてが最大もらさず再来し、いっさいは同じ系列と順序に従う」(同書)

 意味もなく同じことの繰り返しという「永遠回帰」の世界においては、未来への希望もなく、いっさいが空しくなります。「永遠回帰」はニヒリズムの最高形態です。

平日、サラリーマンで苦労している人間は、土日や休日に自然環境に行こうとする。

gyakutorajiro.com資本主義的イデオロギー空間からの逃走。何度も何度も、森へと足を運ぶ反復強迫

もし、amazonのCMに出ている若葉達也に、会社でのストレスが無かった場合、その反復強迫は起きなかったかもしれないね。


またフロイト的に言えば、「欲動の反復強迫」はエスの領域で起きており、「現実逃避・自己憐憫反復強迫」は、エスが暴走しないようにするための、現実原則の領域で起きている。

しかし、抑圧されたものもまたエスの中に流れ込んでおり、エスの一部にすぎない。それゆえ、抑圧されたものは、抑圧抵抗を通して自我とはっきり分かたれてはいるものの、エスを通せば自我と通じ合うことができる。
すぐ分かるように、我々がこれまでの病理学からの示唆に基づいて記述していた様々な区分は、その大半が、心の装置の表面に広がる―我々が唯一知っている―諸相に関わるものにすぎない。以上の連関は、敢えて素描することも可能だろう。

むろんこの場合、輪郭線はあくまで叙述の便をはかるためだけのものであって、そこに特別な解釈がこめられているわけではない。
もうひとつ付け加えておくと、自我は、「聴覚帽」を被っており、しかも脳解剖学によって証明されているように、それは片一方の側だけに限られている。聴覚帽は、自我のいわば斜め上に載っているのである。

たやすく理解できようが、自我はエスの一部であって、エスが外界の直接的影響を通して知覚―意識による調停のもとに変容したもの、言ってみれば、エスの表面分化の延長上にあるものである。自我は、エスならびにエスの意図に外界の影響がきちんと反映されるよう努力し、エスのなかで無際限の支配を奮っている快原理を現実原理に置き換えようとする。
自我にとっての知覚の役割は、エスのなかで欲動が占めている役割に等しい。
つまり、自我は、激情をはらんだエスとは反対に、理性や分別と呼べるものの代理をしているということである。
(引用元:『フロイト全集〈18〉―自我とエス』p18-20)

エスの欲動が求める対象を「手に入れられない」「達成できない」ゆえ、現実原則の自我によって抑圧する。
そのための抑圧装置として、音楽を聴いたり森へのトレッキングを行う反復強迫も、その一つだ。

3.差異へ向かう反復強迫

これはフロイトが語る糸巻き遊び、戦争神経症は、これに該当する。反復によって現状の打破を試みる力への意志とも言える。

www.philosophyguides.orgただ、ここで「反復強迫」に着目したい。反復強迫は、快をもたらす可能性のない過去の経験を呼び起こす。災害神経症はその一例だ。患者の意識は、不安を形作ることで刺激を克服しようとしているように見える。その意味で、反復強迫は快感原則よりも根源的と言えるのではないだろうか?

有機体は最終的に、自己を無に帰そうとする。私たち人間の死は内的な原因によるものだ。それは適応であり、目的である。ここには、有機体の早期の状態を回復しようとする欲動、すなわち死の欲動が働いていると考えることができる(もっともこの知見は、生物学の進展によっては無効となる仮説かもしれないが)。快感原則は生の欲動(エロス)ではなく、死の欲動タナトス)のもとにあるのではないだろうか?

快原理の欲動の苦しみから立ち現れる死の欲動としての反復強迫も語っているが。
記憶の回帰によって不安を形作り、その原因となった不快な出来事を乗り越え、現状を変革するための反復強迫にも言及している。

hojo-lec.hatenablog.comフロイトはまた、自身の幼い孫が、母親の不在時に飽きずに行っている〈糸巻き遊び〉からも示唆を得ます。糸巻き遊びとは、ベッドに腰掛けた孫が糸巻きをその向こう側に投げてみえなくし、糸を巻いて手許に戻す、またそれを放擲する一連の動作を指していますが、孫は糸巻きを投げるときに「Fort(いないいない)」、引き戻すときに「Da(いた)」との言葉を発します。彼はこれを、孫が母親を糸巻きに見立てて象徴的に殺害し、また復活させることを繰り返し、母の不在=死を恒常的に経験し、死に対する耐性を構築しているものと解釈します。

糸巻き遊びの反復によって、子どもは母親不在の分離不安を乗り越える自我を獲得する。

ニーチェは「現実逃避・自己憐憫反復強迫」のような、ルサンチマンの信仰やニヒリズムの従属によって永遠回帰を受け入れる侏儒やヘビやワシを非難した。

www.ksc.kwansei.ac.jp このニーチェの想定している「永劫回帰思想」が、俗にいわれいている「輪廻思想」とは違うということを特筆しておきたい。インドなどに見られる「輪廻思想」は、「バラモンは死んでもバラモンに生まれ変わる。バイシャは生まれ変わってもバイシャ」というように、人間の力を乗り越えたところで輪廻が行われていると言えよう。したがって、「輪廻思想」を享受している現在のヒンズー教徒の中には、ある種の諦めの感が存在している。いってみれば、この手の「輪廻思想」を説く人は、背面世界論者、決定論者になりやすいのである。ところが、ニーチェはこのような背面世界論者、決定論者に対して批判を加えてきた。ニーチェが想定している「永劫回帰」の中では、人はただその流れに身を任せているのではなく、人間それぞれが超人となる努力を積まなければならないのである。

 ツァラトゥストラは、侏儒が「あらゆる心理は曲線である。時も円環をなしている」といったことに対して、怒りをあらわにしている(『幻影と謎』参照)

また、ツァラトゥストラの蛇と鷲が「一瞬一瞬に存在は始まる。それぞれの『こころ』を中心として『かなた』の球は回っている。中心は至る所にある。永遠の歩む道は曲線である」と語ったときにも、彼の蛇と鷲に対して「手回し風琴」といっている(『快癒しつつあるもの』参照)。侏儒も、ツァラトゥストラの動物達もいっていることは当たっているのである。ところが、そのことを安易にしゃべることは、背面世界論者、決定論者になりかねないのである。

 第二部までのツァラトゥストラは「永劫回帰についてしゃべることは、背面世界論者、決定論者を増やす可能性がある。しかし、しゃべらなくてはいけない」という葛藤の中で生きていた。したがって、第二部の終わりで、あれほどまでにツァラトゥストラ永劫回帰について語ることを恐れたのではないだろうか?しかし、彼は自ら永劫回帰について語ることを選んだ。『幻影と謎』の中で、侏儒に対して永劫回帰の可能性を語ったあと、ツァラトゥストラは「喉に蛇がかみついた牧人(口から蛇が入って喉にかみついている状態)」に出会っている。

「そしてまことにそこに見いだしたのは、いまだかつて私が見たことのないものだった。一人の若い牧人、それがのたうち、あえぎ、痙攣し、顔をひきつらせているのを、私は見た。その口からは黒い蛇が重たげにたれている。
 これほどの嘔気と蒼白の恐怖とが一つの顔に現れているのを、私はかつて見たことがなかった。かれはおそらく眠っていたのだろう。そこへ蛇が来て、彼の喉にはい込みーしっかりとそこにかみついたのだ。
 わたしの手はその蛇をつかんで引いたーまた引いた。ー無駄だった。私の手は蛇を喉から引きずり出すことができなかった。と、わたしのなかから絶叫がほとばしった。『噛め、噛め。蛇の頭を噛み切れ。噛め!』ーそう私の中からほとばしる絶叫があった。私の恐怖、憎しみ、嘔気、憐憫、私の善心、悪心の一切が、一つの絶叫となって、私の中からほとばしった

(中略)

ーだが、その時牧人は、私の絶叫のとおりに噛んだ。遠くへ彼は蛇の頭を吐いた。ーそしてすくっと立ち上がった。
 それはもはや牧人ではなかった。人間ではなかった、ー一人の変容したもの、光に包まれたものであった。そしてかれは高らかに笑った。いままで地上のどんな人間も笑ったことがないほど高らかに」(P245~246)

侏儒およびヘビとワシは、現状を打破しようとしない永遠回帰に従属している。手回しオルガンのような画一化されたメロディの中に没落してしまっている。

そうではないと。ニーチェ永遠回帰が訪れ続けるこの現実においても、それに従属するのではなく、その中で力を発揮して生き続けることができる人間こそが、ツァラトゥストラであり、超人に至る道だと語っている。

ドゥルーズも「差異と反復」において、ニーチェ永遠回帰を同一性への回帰ではなく、差異化する力として捉えている。

けれども、実体と諸様態とのあいだには、それでもなお或る無差異が存続している。すなわち、スピノザ的な実体は明らかに諸様態に依存してはいないのだが、しかし諸様態は実体に依存しており、しかも、他のものとしての実体に依存しているのである。

実体は、それ自体、諸様態について言われ、しかも諸様態についてのみ言われるという条件が必要になるだろう。そのような条件が満たされうるのは、存在は生成について言われ、同一性は異なるものについて言われ、一は多について言われる等々となるような、より一般的なカテゴリー上の逆転という代償を支払う場合だけである。

同一性は最初のものではないということ、同一性はなるほど原理として存在するが、ただし二次的な原理として、生成した原理として存在するということ、要するに同一性は《異なるもの》の回りをまわっているということ、これこそが、差異にそれ本来の概念の可能性を開いてやるコペルニクス的転回の本性なのであって、この転回からすれば、差異は、あらかじめ同一的なものとして定立された概念一般の支配下にとどまっているわけがないのである。

ニーチェ永遠回帰ということで言わんとしたことは、まさに以上のことに他ならない。
永遠回帰は、《同一的な》ものの回帰を意味しえないのだ。なぜなら、永遠回帰は、同一的なものとは反対に、すべての先行的な同一性が廃止され解消されるような世界(力(ビュイサンス)の意志の世界)を前提にしているからである。

(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第一章 それ自身における差異)

先述した「欲動の反復強迫」のように、快原理に従って死に接近するまでも快楽の反復強迫を繰り返すのでもなく。
「現実逃避・自己憐憫反復強迫」のような反復とは違う。
(違うといっても、ドゥルーズ的には「欲動の反復強迫」「現実逃避・自己憐憫反復強迫」の中にも、差異に向かう力の内在性を見出すかもしれないが。)

ニーチェドゥルーズが語る永遠回帰のように、「差異へ向かう反復強迫」には、現状を変えようとする力への意志がある。

ドゥルーズのこの永遠回帰における差異化の力について、判りやすい例がある。

「私は絶対騰るって言うから買ったのよ!?こんなの嘘じゃない!?私は知りませんよ!? 2000万円なんて、絶対払いませんから!!」

「知らないわよ!!知らない知らない!!こんなコトになるなら、あんな株、絶対絶対買わなかったわよ!!絶対騰るって言うから、信じて買ったのよ!!あんたのせいよ!!」

(引用元:闇金ウシジマくん(8)[ 真鍋昌平 ]

この主婦の実体は「ひきこもりのフリークス(大人子供)を抱える親」という様態を備えている人間として描かれている。その様態を備えた実体としての同一性を備えている。
しかしこの主婦の、その実体は、《異なるもの》の回りもまわっている。
何度も何度も、株の信用取引永遠回帰している。

その《異なるもの》こそが、「株の信用取引による勝利によって大金を得る」という試み、志向性であり、貧しく質素な家庭生活という同一的なものへの回帰を拒否し、その同一性が廃止され解消される世界を前提とし、それを追い求める力への意志だ。

還帰するということは、存在するということであるが、しかしもっぱら生成(なる)について言われる存在(ある)なのである。永遠回帰は、「同じもの〔自体〕」を還帰させるわけではない。そうではなく、還帰するということ、それは、生成それ自身について言われる〈同一的に―なる〉ことなのである。還帰するということは、したがって、唯一の同一性ではあるが、二次的な力(ビュイサンス)として言われる同一性、差異について言われる同一性であり異なるものについて言われる同一的なもの、異なるものの回りをまわる同一的なものなのである。

差異によって生産されたそのような同一性こそが、「反復」として規定されるのである。

したがってまさに、永遠回帰における反復の本質は、同一なものを差異から出発して考えるところにある。しかしそのように考えることは、もはやけっして、理論的な表象=再現前化ではない。そのような思考は、諸差異の生産のキャパシティーに即して、すなわち、それらの還帰のキャパシティーあるいは永遠回帰のテストに耐えるキャパシティーに即して、実践的にそれら諸差異の選別を遂行するのである。

・・・(中略)・・・

以上のすべてのアスペクトからして、永遠回帰とは、存在の一義性のことであり、この一義性の現実的(エフェクティブ)な実在化なのである。永遠回帰において、一義的存在はたんに考えられるだけではないし、肯定されるだけでさえなく、さらに現実的に実在化されるのである。

《存在(ある)》は、ただひとつの同じ意味において言われるのであるが、この意味は、存在がそれについて言われる当のもの〔差異〕の回帰、すなわちその反復としての永遠回帰という意味なのである。永遠回帰における車輪は、差異から出発しての反復の生産であると同時に、反復から出発しての差異の選別なのである。

(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第一章 それ自身における差異)

闇金ウシジマくんフリーエージェント編で、何度もカモにされる竹山という情報弱者が出てくる。

「清栄ハイパーメソッドもありきたりでイマイチぴんと来ねぇな…
どうやったらこれで月収100万円稼げるんだよ?
今度こそはバイト生活から抜け出せると思ったのに、また騙されたのか?」

(引用元:闇金ウシジマくん(31)[ 真鍋昌平 ]

そのカモの男は、決して、そのカモにされるという表象=再現前化を求めて、情報商材の購入という永遠回帰を行っているわけではない。

天生翔(フリーエージェントくん編に出てくる金持ち)のような成功者という、一義的存在を求めている。

それを現実的に実在化するために、現在の実体という差異から出発し、情報商材を購入するという反復の生産を行い、差異を回帰させ、〈同一的に天生翔になる〉という極限へと向かう。

ドゥルーズが言うには、永遠回帰は差異のある実体が、反復の生産と差異の回帰によって一義的な存在へと向かう力への意志と、完全に同一なものには還帰しない不等性を備えている。
それゆえニーチェは、手回しオルガンの歌のような同一性に従属した永遠回帰ではなく、永遠回帰による差異化と反復の生産を繰り返して極限の果てに向かう人間を超人として肯定したのだと。

映画監督による性被害のフラッシュバックという反復強迫強迫神経症反復強迫認知症の方の16時に必ず外出する反復強迫も、その永遠回帰によって何らかの目的、一義性へと向かう力への意志があるのかもしれない。

gyakutorajiro.com

www.jspn.or.jp

toyokeizai.net

まとめ.オールドルーキーにおける新町亮太郎の反復強迫

以上の3つの反復強迫の中から、新町における反復強迫がどれなのかを考えると。
おそらく3つ目の「差異へと向かう反復強迫」であるだろう。

新町は、自分が没落していることを途中までは自覚していなかった。

dramataro.com主人公はサッカー選手としても…
日本代表、J、J2、J3
きちんと階段を降りているのに、「まだ日本代表に復帰する!」って思っているのがスゴい。
辞めていった先輩や後輩を見ているだろうに、スーパーポジティブって言って良いのかな。

前半のボロボロっぷりから後半の落差よ!
初回でこんなに成長しても良いの!?ってくらいになっちゃった。

しかし、遂には現実を突き付けられる。
川の土手でサッカーを楽しむ少年達の姿を見て、「その調子、いけ、打て!」と、自らをその少年達に投影し、同一化した瞬間、過去の記憶が蘇る。
ワールドカップで決定打のシュートを決めたシーン、ファンへのサイン、ファンミーティングでの楽しい記憶(差異)が回帰する。
しかし「引退」という残酷な現実の言葉(差異)も回帰し、サッカー選手としての同一性を保つことができず「うう…そんな…」と、亮太郎は泣き崩れる。

もしこの時、サッカー選手としての同一性の崩壊を受け入れず、「欲動の反復強迫」のように、何が何でもサッカー選手を継続するため、例えば他の選手を妨害したり、選手としての雇用権限を持つ人間に脅迫行為等を行うような、倫理や理性を突破し、どんな手段も厭わない、欲動の実践を行う可能性もあったかもしれない。

「現実逃避・自己憐憫反復強迫」によって、過去の栄光に自縄自縛となり、自らがサッカー選手だった時の映像の反復視聴を続けて自尊心を保ちながら、手回しオルガンのようにあらかじめコード化された譜面をなぞる円環構造の中に留まり、妻の新町果奈子(榮倉奈々)に生活を依存する、無気力状態のラストマンとなってしまう可能性もあったかもしれない。

しかし「差異へ向かう反復強迫」は、高柳雅史(反町隆史)や深沢塔子(芳根京子)による「現実を受け止めてください、新町さん」「プロとして、現役引退ということです」「サッカーファンしか知らない新町さんに商品価値はないんです」という象徴的去勢、「差異の回帰」によって同一性に変容を強いられ、「サッカー選手へと向かい続ける欲動に見切りをつける」という「反復を生産」する。
スポーツマネジメント会社の契約社員として象徴的秩序に復活し、家族を守るために日々の仕事を続ける永遠回帰を受け入れている。

まあ日曜劇場ゆえに「欲動の反復強迫」「現実逃避・自己憐憫反復強迫」のような、悲劇的結末に繋がるような反復強迫は、描かれることはないにせよ。

JFLに行ってもサッカーを続ける三浦知良や、A級順位戦から陥落した羽生善治も、このドラマの主人公と似たような、かつての自らの栄光がフラッシュバックする永遠回帰の中にいるような気がする。

ボールを蹴ることや棋譜を読む反復によって、自らの肉体や知力の衰えという悲劇的な差異が回帰したとしても、それでもプレーヤーを続けるということは、何かしらの一義性を求め続けるという強さを備えているという点で、超人と言えるかもしれないね。

news.yahoo.co.jp

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