逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

WBCどうでもいいとか野球ハラスメントとか言ってるのは金がなくテレビが買えないミニマリストかチームワークが苦手だが自尊心は肥大化してるチー牛説

ニューヨーク嶋佐、やってもうたな~!

www.jprime.jp岡村のコロナで美人がお嬢やります発言に匹敵する失言かもだ。

こりゃまずかったか…いや、でもそんなおかしいこと言ってるか?
正直でいいじゃねえか。

小山晃弘はアウトだと思ったけどよ。

小山晃弘「大谷翔平、28歳なのに高校生みたいな顔してて正直キモい」

大谷はいい化粧品使ってるらしいから肌が若々しい。童顔や若さもネオテニーと言ってヘイトに変換…どういう人がこの人の有料noteを購読してるのか知りたい。誰かを叩くルサンチマンで保とうとする自己肯定感は脆いよ

2023/03/13 21:49

b.hatena.ne.jp嶋佐は他人非難ではなく、自分の好き嫌いの話じゃねえか。

普段は大して野球見ないくせに、みんなが応援して盛りあがってるから付和雷同して、便乗して、盛り上がって、流される生き方してるよりよっぽどいいぞ。

大谷翔平はそんな流される生き方してない。
このように、マンダラチャートで目標設定をしてよ。

自分を研鑽するために時間を使ってる。
時間がもったいないから牛丼だと…?もっといいもん食えるのによ。

bunshun.jpかたや同調圧力に屈し、野球をなんとなく観ている人々と大違いだ。
イチローあそこでよく打てた、感動をありがとう!
だと?
感動なんて別にねえよ。
あ、2009年だったか、今は何回だっけ?
まあ野球のパフォーマンスとしてすごいって場合もあるかもだけどな。

www.youtube.comたけしも言ってるだろ。

ワールドカップを観ていて相変わらず「感動をありがとう」なんて言ってるやつはもうてんで駄目なんだよ。ほんとうの感動は、やった奴しか分からない。
by ビートたけし

その通りだほんと。その話は去年も散々した。

gyakutorajiro.com自分の、自分自身が成し遂げた歓喜じゃねえんだよ。

この漫画の黒沢がいいこと言ってるよ。
テレビの向こうで活躍するサッカー選手達に対して、
「俺が求めているのは……オレの鼓動……オレの歓喜。オレの咆哮。オレのオレによる、オレだけの……感動だったはずだ!」
「他人事じゃないか…!どんなに大がかりでも、あれは他人事だ…!」
ってね。その通りだって俺は思ったよ。

野球も同じだよ。

たけしだけじゃねえ。
マルクスも言ってる、「スポーツは人民のアヘンである」みたいな話をな。

www.jstage.jst.go.jpしたがって、第一期の「マルクス主義の旗の下」で進められたスポーツ研究とは、スポーツという身体文化は資本主義を体現し、人々に現行の資本主義社会体制への従属を求めるイデオロギー的な産物ということを告発することを強く展開するものであった。つまり、スポーツは「資本主義社会体制を維持するための民衆のアヘンである」ということになろう。このような研究のテーマは、まさにブローム(Jean-Marie Brohm)の著作のタイトル『スポーツ:測定される時間の奴隷』(1978)に象徴されていた[Brohm,1978]。
それゆえに、残念ながらマルクスが『ヘーゲル法哲学批判序論』で指摘した「宗教上の不幸は、現実の不幸に対する抗議である」というフレーズへの関心はほとんどなされなかった。つまり、このフレーズを「スポーツを現実の不幸への抗議」として読み変え、スポーツの内在的原理から現代社会を批判する試みは、この時期においてマルクス主義的アプローチの主要なテーマとはなりえなかったのである。

なるほど、スポーツによって資本主義に即した身体の最適化、政治的意識の希薄化や忘却についての作用を研究した人はいたようだが。
その逆で、スポーツにおける身体表現が、政治的批判にも成り得るという話もあるようだ。

確かにそうだよな、カタールワールドカップの時もあったしよ。

amamako.hateblo.jpだが、やはりアヘン的な側面もある。
ちびまる子ちゃん」を読めばわかる。

さ~~~野球だ野球だァ ♪ビ~~ルと野球で この世はバラ色~タララ~♫

ちびまる子ちゃん 10 [ さくらももこ ]

グータラなヒロシが、テレビの野球の勝負に一喜一憂し、自分の人生の直視から目を背けてる。

最近行った洋食屋にテレビがあって、WBCのダイジェストみたいなのがニュースで流れててよ。
その洋食屋のホールのオジサンは、仕事そっちのけでそのテレビを観てた。
そんで「よし!」とか言って、仕事に戻ってたけどよ。

ここで「よしっ!」とした時、スポーツ鑑賞を楽しみ、自分の目の前の労働への集中力を失っている。
自分のホール仕事が希薄可され、労働のさなかに「楽しさ」が加わっているが。

それで何か、自分の日々が劇的に変わるというわけではない。
せいぜい、労働の疲労を慰撫し、メンタルが一時的に上向く作用はあるのかもしれねえけどよ。

まる子:フンだ 巨人が勝ったってどうせおフロ入ってねるだけじゃん べつにどうってことないじゃん

ヒロシ:勝ったーっていう気分でフロ入るのがいいんだよ


ちびまる子ちゃん 10 [ さくらももこ ]

まる子がいうように、どうってことねえだろうよ。

また2009年のWBCの時、自分はちょうど会社で仕事中だった。
なぜか課長がテレビを付け、一同でWBCを鑑賞した。
皆が沸き上がっていた、仕事中なのに。
その空気を許す。国民的イベントだからか知らねえけどよ。

そのため、スポーツには薬物的な陶酔作用や、労働の辛苦を希薄化する作用があり得る。

また、上記で紹介した論文に「ヘゲモニー」という概念が出てくるが、これは野球観戦を半強制する空気の形成と関わってる。

navymule9.sakura.ne.jpこのヘゲモニー(hegemony):ヘゲモニーと は、人々による合意にもとづいた覇権や支配権のことをさす。マルクス主義思想家のアントニオ・グラムシ(1891-1937)は、強制や恐怖による権力支 配とは異なり、人々の合意による権力掌握のことについて指摘し、それをヘゲモニーと称した。これは、暴力や強圧的力により市民を屈服させるのではなく、合意を通して支配関係を確立するということである。つまり、力ずくの暴力ではなく、文化、道徳さらには教育というプロセス、さらには市民社会の確立や民主主義という政治制度がヘゲモニーの行使に関係しているのである。私たちは子供たちを学校に行かせたり納税したりするという、普通の市民的義務を果たすが、常に納得づくで行なっているわけではない、実際は政府や国家のイデオロギーが装置のように私たちを「それを行わなければならないよう」に仕向けていると考えられるのである

イデオロギーに似ているが、イデオロギーよりも気づきにくく、無意識的で、広範に影響を及ぼしている。

iss.ndl.go.jp12 Terry Eagleton,Ideology: An Introduction, Verso, 1991.(テリー・イーグルトン『イデオロギーとは何か』平凡社、1999年)、David McLellan,Ideology, second edition, Open University Press, 1995.
13 イーグルトンはグラムシヘゲモニー論にかんして以下のように述べている。「イデオロギーヘゲモニー、このふたつの用語の区別は、じっくり考えてみるにあたいする。グラムシヘゲモニーという語を、支配権力が、その支配体制に対して従属者から同意(concent)をとりつけることという意味で使っている―ただし、グラムシが、ときおり同意と強制(coercion)の両者を含めてこの語を使うことは事実である。さて、[ヘゲモニーには、]すぐに目につくイデオロギーとのちがいというものがある。というのは、イデオロギーは強制的に押し付けられるかもしれないというのが明らかだからだ。・・・ただしヘゲモニーはまた、イデオロギーよりも広い概念である。ヘゲモニーイデオロギーをふくむ。しかしヘゲモニーイデオロギーに還元されない。」Eagleton,p.112.240~241頁(p10)

いわば「合意形成のある特定の主義・主張・思想の行使」「空気のように無意識に作用する権力行使」みたいな訳が適切だろうか。

「日本代表を応援するのは、当然じゃない?」という空気感も、ヘゲモニーの一種だ。

じわりじわりと、頑張ってる日本人がいたら応援しなければならないと、身体が組織化されていく。

思い出してみてほしい。
中学や高校の時、なぜか野球部の試合の応援に、駆り出されたことはないだろうか?
あれも変だよな。
なんで卓球部とかカバディ愛好会とか三国志研究会の試合じゃなく、野球部の試合なんだよ。
吹奏楽部も暑い中、駆り出されたりよ。

bunshun.jp コロナ禍でブラバン応援が禁止された大会もあったが、今年は50人という演奏者の人数制限こそあったものの、平時の応援風景が戻ってきていた。地方大会でさえ、1回戦から吹奏楽部を動員して全校応援をする学校も多い。

そう、この野球というスポーツは、もはや生活に浸透している。
その覇権的力は、やはり野球の性質、資本主義との相性の良さにもあるだろうな。

それは大きく4つの要素がある。
1つずつ挙げていこう。


まずは「剛速球」だ。
大谷翔平や佐々木朗希が投げる100マイル(160km)オーバーの球。
これは直線的時間を礼賛する資本主義と非常に相性がいい。

とにかくスピードを出せ、PDCAを回せ、金を稼げと、速度を求める資本主義的加速主義の礼賛。


資本主義は直線的速度が求められる。
命を削り、短時間で最大の売り上げを計上する至上命題を多くの企業は課す。

うわーーっ!!
50キロオーバーのスピード違反だ!!
下手したら交通事故だ!!

 

闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

剛速球はその象徴として機能する。
だから剛速球を投げる人間は、資本主義社会の価値を示すアイコンとして礼賛される。

次に「時間の長さだ」。なかなか終わらない。2時間も3時間も費やす。
だがその時間の長さが大事だ。
覇権的スポーツの地位になったのは、長い人間の人生を象徴するからだ。
陸上競技の短距離種目のように、あっけなく終わっては困る。


さらに「チームプレー」だ。
個人競技であるテニスがそこまで盛り上がらないのは、人生が個人競技ではないからだ。
大体の人間は、会社等の組織に所属し、チームの一員として労働を与えられる。
その日々の所作や労働に、最も類似するリアリティを持つスポーツが野球だ。
「組織のためなら、チームのために自分を捧げる」という自己犠牲の精神を養うのにも野球はうってつけだ。デッドボールで塁に出たりな。


そして「逆転劇が起きる可能性の高さ」だ。
ルーザーになりそうだったのにウィナーになる。人生にもそれぐらいの起伏があってくれないと困る。

つくりもののドラマとは違うんだよ
野球はなァ
毎回毎回泣いて笑って最高の娯楽なんだっ!!

ちびまる子ちゃん 10 [ さくらももこ ]

久保田利伸の唄みたいに、グランドスラム(満塁ホームラン)で逆転するみたいな攻防戦もあるだろうよ。

www.youtube.comつまり野球とは人生を象徴するのにうってつけのスポーツで、それゆえ共感や感情移入しやすい側面があるのかもしれない。

でも共感できないやつもいる。
それは教育の失敗だ。


学校でソフトボールの授業があっただろう。
あれは球技を教えているというか、企業の一員として働くに際し、チームプレーを擬似的に学ぶ訓練だ。
それにうまく適応できない子どもは、ソフトボールや野球等の球技に良いイメージを持たない。

だからチームプレーの大切さ等の観念形成が未熟となり、個人主義や自信過剰等が促進され、社会に出ても組織の一員として働くことに支障をきたす。

なんでこんな仕事せなアカンのや~~~!?
俺は人に頭を下げるようなレベルの低い人間とちゃうわ


漫画ルポ 中年童貞 [ 桜壱バーゲン ]

そして仕事を辞め、低所得になる。
金は無いが、プライドだけは高いがゆえに。
牛丼屋でアクロバティックなメニューを頼もうとする。
「自分は人とは違うんだぞ」という自己認識を加速させるセルフ・イニシエーションとして、チーズ牛丼を頼む。

そう、チームプレイではなく、チー牛プレイが加速される。
だからこの記事のタイトルにあるように、「チー牛=チームワークが苦手なやつ」の可能性がある。

それに気付いてる人もいるんだよ。

名越稔洋は炎上してしまったが、事実として、薄々感じているからだろう。
チーズ牛丼を食べているやつが、肥大化した自尊心を持っている可能性があるということを。

gendai.media「チーズ牛丼食ってるやつはヤバい」だと差別になるから、「チーズ牛丼食ってそう」と、柔らかく表現したけどよ。

【画像】最新の女版チー牛がこちらwwwwwwww : ていへん!!

IT企業社長が、680円のメニューを頼むやつに苦言を呈したのは、事実として、牛丼よりも高い価格帯であるチーズ牛丼を頼むところに、そいつの自己主張の強さや、客観的事実の否認、自画自賛的な自惚れが見え隠れするからだ。

itainews.com「カネがないという」低所得であるという客観的現実があるにも関わらず、肥大化した自尊心によってそれが抑圧され、制限された現実の中で個性を出そうとする涙ぐましい努力の結実、それが「チーズ牛丼」なんだよ。

だから人材として扱いにくい。
牛丼屋に来てるくせに、金ねーくせに、プライドだけはいっちょ前だ。
ルッキズムとか容姿の問題じゃねえんだ。
チー牛問題ってのは、自分のわがままやプライドを抑えてチームワークができるかどうかを量るリトマス試験紙だっつーことよ。


あとチー牛に似ているのに「ミニマリスト」がいる。
ミニマリストを自称しているやつも、チー牛同様、カネがないという現実が横たわっているにも関わらず、それを「ミニマリスト」という概念(奴隷道徳)で抑圧し、自分を美化するプライドの高さが見え隠れする。

日経新聞の「風呂なし物件が若者に人気」記事に批判が殺到するワケ(マネーポストWEB) - Yahoo!ニュース

そうだよね。仕方なく住んでるのに「シンプルライフ」とか「丁寧な暮らし」とか「ミニマリスト」なんて美化するのはなんか、虚しい気がする。

2022/12/24 17:03

b.hatena.ne.jpだからチー牛やミニマリストは、自分の金がない稼げないという客観的現実を認めようとせず、ちっぽけな行動で自己ブランディングするんだよ。

その一例が「野球ハラスメント」よ。

woman.excite.co.jp《職場でWBC興味なくて見てないって言ってるのに昨日のWBC見た?って出勤すると聞かれるのなんなん》

《いい加減年寄りの野球ハラスメントにうんざり》

《サッカーの時も野球の時も興味が持てなくて今もリアルタイムで1度も観てないんだけど 仕事場とかで誰かにその話題を振られた時「観てなくて…」と答えると非国民扱いされるの意味わからん 応援したい人が応援するんじゃ駄目なの?》

周囲の「WBCを観て、応援して当たり前」という風潮に、SNSでは悲鳴にも近いような「興味がない」ユーザーの声も上がっている。

なーにが野球ハラスメントだっつーの。
そう、ここで俺は新しいルサンチマンを見つけた。
それが「能動的無関心」だ。


「野球を見ない」「興味がない」というどうでもいい自分の行為や感情等を「野球ハラスメント」と概念化し、自分がまるで特別なことを行ってるかのように、崇高化する。
だが実際、野球ハラスメントだとSNSでウダウダ言ってる自分と、大谷翔平やその他大勢の野球選手等の年収を比較した時、到底その人達に及ばないという客観的現実がある。

だからこそ無関心になった。

「野球ハラスメント」等といって他人を罵倒し、野球に能動的に無関心になることで、自分を崇高化するとともに、自分の経済的コンプレックス等を無意識的に喚起するスター選手から目を背け、自分の冴えない現実を抑圧しようとしてるんだ。

メジャーで活躍するのは、文化の違いや言葉のカベとか大変だけど、
目標に向かって障害を乗り越えていけたら人間的に成長出来るンで、
楽しいっス‼

チッ‼
将来有望な若いスポーツ選手の前向きな発言は、
正直、ヘコむ。
どう考えても俺の生活とはかけ離れていて、
どんな素晴らしい言葉も参考にならねェ。


(引用元:闇金ウシジマくん(8)[ 真鍋昌平 ]

これでわかっただろ?
「野球ハラスメント」とか言ってるチー牛やミニマリストも、ちびまる子ちゃんのヒロシも、怠惰なんだよ。

まるで贖罪のように、自分の非生産的な怠惰な日々を忘却するように、他人事である野球に熱狂し、全く自己研鑽を行わないヒロシと。

話題を振ってくれた人の気遣いや思いやりを「野球ハラスメント」と罵倒し、自分は忙しいだの他にやるタスクがある等と崇高化しているが、中身をよく見ると、大して金もねえ、何も築けてねえ、チーズ牛丼程度の贅沢で満足するチー牛やミニマリスト

どちらも「自分の人生と向き合ってない」という点で、情けねえ。
たけしが言うことが正しいよ。

www.asagei.com「感動ばっかりもらってどうすんだよ。たまには感動を与える側になってみろってんだ!」

大谷翔平は、フジテレビの社食で牛丼を食べただろうが、チーズ牛丼なんて食ってねえだろうよ。


チーズ牛丼で満足してる場合じゃない。

自分の悲劇的な現実から、逃げてはいけない。

フロイトによれば「勘違い」が起きた時、自分が無意識に抱いている偏見や抑圧していた感情や歪曲したい事実と対峙する契機となる

JALスマイルキャンペーン、色々と混乱があったみたいだね。

anond.hatelabo.jpまあ自分はJALではなく、ANA派だけどね。
陸マイラーANAの方が貯めやすいんじゃないかな。

メインのカードはリーダーズカードよ。

www.jaccs.co.jpこれはアフィリエイトリンクではないので、気にせずクリックしてくれ。案件探したが見当たらなかった。

昔、調べたことがあるが。
100円=1マイル以上を貯めるには、ANAとかJALの上位カードとか、アメックスとか、年会費が高いカードを手に入れなければならない。

しかしこのリーダーズカードは、1250円で11ポイント貯まる。(2023年3月時点)
つまり1ポイント、113円だ(1250÷11)。

そして1400ポイントにつき、ANAマイル960マイルと交換できる。
113×1400=158200円使えば、960マイルよ。
つまり164円で1マイル(158200÷960)…ANA一般カードの還元率0.5%を越えて、0.61%(≒100÷164)か。
悪くないだろう?


まあ旅行とかあんまりしない人はな。
Gポイントってやつに交換して、そのGポイント経由でTポイントにして、ウェル活をしてもいいし。
「Jデポ」っていうやつで、普通にカード利用分からキャッシュバックとかもできる。

興味ある人は申し込んでみるといい。

ちなみにハピタスから申し込んだ方がいい、1500ポイント貰えるからな。(2023年3月時点)

まあ、リーダーズカードの説明とは違って、ハピタスの方はアフィリリンクだけどよ。

上記の情報に価値があったと思ったら、仁義を通してハピタス登録してちょうだいや。

さて、軽くポイ活情報に触れたところで。
ANAマイラーの自分は、貯めたANAマイルで大阪に行くことにした。
毎週、火曜日の午後ぐらいかな、ANAの「トクたびマイル」ってのが掲載されて、少ないマイル数で飛行機乗れるのよ。

www.ana.co.jpJALスマイルキャンペーンの、ANA版みたいなもんだ。
すると「羽田空港関西国際空港」(3000マイル)、というプランがあったので。
このプランを申し込んで、大阪へ。

この「ミュシャと巡る旅」っていう展覧会に行こうと思ってたんだよ。

mucha.sakai-bunshin.com関西国際空港に到着。13時過ぎぐらいだったかな。
だが、空港を降りてすぐの飲食店に入るなんて無粋だ。
せっかく旅行に来たんだから、珍しい、地元の人が行くようなお店に行きたい。
だから空港内はスルー。

エアロプラザ(AEROPLAZA)の中も行ってみたけどね。

飲食店も、営業していない店が多く、スルーだ。

「東洋のベニス、堺でうまいもん食うたるで~」ってことで。
適当に調べたところ「堺カリー」ってのがあることを知った。

よし、昼は大阪カレーじゃ。大阪は最近、スパイスカレーのお店が増えてるっていうしね。

三国ケ丘駅から路線バスに乗り、向かう。
徒歩で歩くと…到着。時刻は14時20分ぐらいにもなっていた。

なんじゃ~こりゃ~テイクアウト専門かい!

せっかくバスを乗り継いで来たのによ…。
仕方ないので、周辺で食べられる店はないか探した。

「中国酒菜 華」は営業終了…確かに、もう14時40分過ぎてるし、いい時間帯だわね…。

パティスリーラボソアラ、うーん、スイーツは食後にしたいよね。

ここはどうだろう。

むぎまる、美味そうだ。ネギたっぷり、ネギヤキがあるかな~。
ガラガラと、中に入る、

誰もいない。
そりゃ15時前だからな…奥に人の気配はしたけど、今から呼んで作ってもらうってのもな…諦めて外に出る。

大失敗だ。素直に関西国際空港の中で昼食を食うべきだった。
そもそもANAの出発時刻だよ。
羽田空港12時出発、13時ちょい過ぎに関西国際空港に着いたから、堺まで移動してると14時過ぎになるわな。
だから11時のフライトにしてくれたらよかったのに…って、完全に個人的なワガママだけどね。

「炭火焼鳥 将吉」は、弁当は売ってそうか。いや弁当じゃなくて店内で食べたいよ。


力餅食堂」は、昭和レトロ感あっていいけど…うどんの気分じゃないなぁ。

 

お好み焼あじ房」…も、15時前だからさすがに営業してない。
お好み焼き、くいてー!

Pinksは営業してるみたいだったけど、カフェだしなぁ。

COFFEE SHOP DONKEY、いやコーヒーは食後だからなぁ。

Gelateria、店構えはいい感じ。でも先にメシを食いたい。


結局、彷徨った挙句、ジョリーパスタ大仙店へ。

ジョリーパスタなんてどこにでもあるチェーン店に行くなんてね…。
1月に紀伊田辺市を観光してる時も、ジョリーパスタ田辺新庄店、見かけたよ。

iine-y.com

まあサーモンといくらの明太子クリーム、美味かったけどよ。

ただ、このチェーン店に来たには理由がある。
態勢を整えようと思ったんだ。

目的はミュシャ展、「ミュシャと巡る旅」を、楽しむことだよ。
だからここから堺市博物館まで、バスを使うか徒歩で行くかタクシー呼ぶか、考えようと思って。


でも調べたら、ジョリーパスタから歩いて1kmぐらいだったからね。

よし、徒歩で行こう!と思ったんだけど…。
ふと地図を見て思った。
あれ、堺市博物館で、百舌鳥古墳があるとこだったか?
ミュシャの展示が古墳ある所でやってる?

なんか変だな…と思い、堺市博物館のホームページを見る。

www.city.sakai.lg.jpああ~間違えた!
ここじゃない、ミュシャやってないわ~!

こっちやがな…。

mucha.sakai-bunshin.com堺市博物館ではなく、堺市立文化館やないか~い!


ってね。パスタ食べ終わってから気付いたよ。
しかも15時まわってて、ミュシャ館の閉館時間も近い…あー、行く気なくした、もうええわ。

JR堺市駅で降りたら、すぐにアクセスできたのによ。
大体、カレー食いたいからって、三国ヶ丘で降りてウロウロしたのが間違いだ。いや、そもそもさっきも言ったが、関空に着いたのが遅すぎた。

しかし食い意地だけだろか。
そもそも、この勘違いは、どこで生じたのか。
それはもしかすると「あらかじめ形成されていた堺市に対する印象」が、影響したのかもしれない。

だから勘違いした。
ジークムント・フロイトは「勘違い」が起きる際、人間にどのような心理的機制が発生しているかを分析した。

 私は友人や患者の夢を報告したり夢分析の中で暗に言及したりすることがあるが、彼らが、一緒に体験した出来事の様子について私が不正確に語っていると指摘してくれることがこれまで何度かあった。考えてみれば、これもまた歴史的な勘違いであろう。間違いを訂正したあと、個々の事例をあらためて検証してみたが、そうするここでもやはり同じように、具体的な点に関して自分の想い出が不正確であったのは、私が分析において意図的に何かを歪曲するか隠すかした場合に限られるということが確認された。ここでもまた、気づかぬままに生じる勘違いは、意図的な黙殺や抑圧に対する代償として生じていたのである。(6)

 抑圧に由来するこういった勘違いと、実際の無知に起因する間違いとは明確に異なっている。例えば私がヴァッハウ地方(7)に行楽に出かけた際に、革命家フィッシュホーフ(8)の住んだ土地を通ったと思ったのは無知ゆえである。単に二つの土地の名前が同じだっただけのことで、フィッシュホーフのいたエンマースドルフは、ケルンテン地方にある。だが、私はよく知らなかったのである。(9)


(6)これの一例と見なしうるものが、『ヒステリー研究』(一九八五年、英語版全集二巻)、三〇七ー三〇九頁の付録Aで論じられている〔これは英語版全集の編者による注記であり、『ヒステリー研究』(日本語版全巻第二巻所収)の中で論じられるエミー・フォン・N夫人の症例に関して、その治療の時期や場所が従来のドイツ語諸版での記述に互いに矛盾があって一定していないことを指摘している。編者はそこで、フロイトが婦人の身元を隠すために治療の場所や時期を故意に歪曲しながら、その架空の時期や場所をその後、一貫して維持することを怠った可能性があるとしている。この英語版全集編者の指摘は、日本語版全集第二巻では、「病歴A」の編注(1)として、一部省略した形で紹介されている(四〇一頁)〕。
また同様の機制の一例が「十七世紀のある悪魔神経症」(一九二二年)に付された原注の中で論じられている〔同第十八巻、二二三頁〕。

(7)オーストリア北部、ウィーンよりいくらか西寄りに位置するドナウ河沿いの渓谷地帯。風光明媚で、デュルンシュタインやメルクの修道院など名所や史跡も多い。メルクの修道院の対岸、やや北東寄りにエンマースドルフという町がある。
(8)アドルフ・フィッシュホーフ(一八一六―九三年)。ハンガリーの出身でウィーンにて勤務医をしていたが、四八年のウィーンの三月革命で指導的な役割を演じた。革命が挫折したあと、逮捕されたが釈放され、医業に専念した。しかし間もなく健康を害して医師を廃業したあと、ふたたび政治評論などで活躍した。晩年をオーストリア南部ケルンテン地方のエンマースドルフで過ごし、その地で亡くなった。
(9)この例は『夢解釈』でも取り上げられている〔日本語版全集第四巻、二七五頁〕。

(「日常生活の精神病理 (岩波文庫 青642-1) [ フロイト ]」p384-385)

無意識に造形が深いフロイトでさえ、歪曲したい事実があり、それを「勘違い」によって実行してしまった。

例えば、思い出したが木島佳苗もそうかもしれない。

www.sankei.com状況が悪くても、ひたすら無罪を主張する。
まあこれは「勘違い」というより「自己暗示」かもしれないし、「演技性人格障害」と言う人もいるけど。

unagiinuu.seesaa.net抑圧したい現実、歪曲したい事実がある際、その欲望によって「勘違い」を発生させる心理的機制が、人間にはある。

フロイトはその実例を、他にも紹介している。

 四 もうひとつ、やはり恥ずかしいが教えられるところの多い勘違いで、一時的な無知とでも言うべき例を挙げる。ある時ひとりの患者が、私に、約束したヴェネツィアについての本を二冊貸してほしいと催促した。復活祭の旅行の下調べをしたいのだという。私は、もうそれは用意してあると答えて、本を取りに書斎に行った。しかし、実は、私はそれらを探し出しておくのを忘れていた。私は、その患者が旅行に行くと治療に余計な支障をきたす上に、医者にとっては経済的な損失になると考えて、その旅行に必ずしも賛成していなかったからである。というわけで、私は、書斎に入って、急いで辺りを見回し、かねてより目星をつけていた二冊の本を探した。一冊は『芸術の町ヴェネツィア』であるが、もう1冊、私は似た叢書の中の歴史関係の本を持っているはずである。そう、これだ、この『メディチ家』がそれだ。私はその本を手にして、待っている患者にそれを持ってゆくが、そこで恥じ入りながら自分が勘違いしたことを認める破目になる。実際のところ私も、メディチ家ヴェネツィアと何の関係もないことくらいは知っている。だが、ほんのしばらくのあいだおよそ見当違いとは思えなかった。ここで私は公正な振る舞いに出ることを迫られる。この患者には、再三、彼自身の症状行為の裏に何があるかを言ってきた手前、彼に対して自分の権威を守るには、このさい率直に開き直り、これまで隠していた、彼の旅行に対して自分が気乗りしない動機を告げるほかなかった。
 
 総じて、人間の中にある、真実を通すべきだとの圧迫は、通常、考えられているよりも遥かに強い。まさかこれほどまでに強いとは、と驚かされる。ちなみに、私が今ではほとんど嘘をつけないのは、精神分析に従事していることの結果なのかもしれない。何かを歪曲しようとしても、そのたびに勘違いや別の失錯行為をしでかし、そこから、右の例やその前に挙げた一連の事例のように私の不正直が露呈してしまうのである。

(「日常生活の精神病理 (岩波文庫 青642-1) [ フロイト ]」p385-386)

フロイトは患者に、旅行に行ってほしくなかった。
旅行になんて行かず、患者として診療に来て、顧客としてお金を落とし続けてくれと。個人的な経済的利益という欲望によって「勘違い」を起こした。

他にも、前の記事に書いたように、Colaboは気に食わないと無意識に思っていた。
だからファクトを検証することなく、「(日常的に)1食8300円の食事をしている」と、勘違いを起こした。

gyakutorajiro.comアベ政治に嫌悪感があった。
だからコロナ禍で困窮者が増えたのは自民党のせいだと「勘違い」して、侮辱する。

togetter.com困窮の要因は家庭環境が大きいだろう。

親が子どもの将来の年収に与える影響

http://www.isfj.net/articles/2017/%E3%80%90%E6%95%99%E8%82%B2%E2%91%A0%E3%80%91%E3%80%90%E9%9D%92%E5%B1%B1%E5%AD%A6%E9%99%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%80%91%E3%80%90%E5%AE%89%E4%BA%95%E5%81%A5%E6%82%9F%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E3%80%91%E3%80%90%E6%98%9F%E9%87%8E%E6%84%9B%E7%BE%8E%E8%8E%89%E3%80%91(%E8%A6%AA%E3%81%8C%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%AE%E5%B0%86%E6%9D%A5%E3%81%AE%E5%B9%B4%E5%8F%8E%E3%81%AB%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%8B%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E2%81%BB%E7%BF%92%E6%85%A3%E3%82%84%E8%A1%8C%E5%8B%95%E3%81%AE%E8%A6%B3%E7%82%B9%E3%81%8B%E3%82%89-).pdf

自民党政権がどれだけ影響を及ぼしたのかというファクトの検証は難しい。

陰謀論かファクトか、その線引きも個々人で異なる。
線引きは「勘違い」で行われる場合もある。

togetter.com根拠薄弱で陰謀論でしかない場合もあるし、説得力のあるエビデンスがあり事実と認められる場合もある。


お笑いもそうだ。
決めつけ、偏見、思い込み…いわゆる一種の「勘違い」で笑いを取る場合もある。

bunshun.jp自分が好きなコメディアン、西麻布ヒルズは紹介されてないようだ。
西麻布ヒルズ 黒人差●漫才」で検索してみてくれ。

 勘違いの機制というのは、あらゆる失錯行為のうちでも、どうやら最も緩いものであるらしい。つまり、勘違いが発生するとき、そこでは当該の心の活動がそれを妨害する何らかの影響と闘っていると見て間違いないが、妨害的に作用するこの正体不明の観念の性質の如何によって勘違いの種類まで決まってくるということはない。ここであらためて補足しておくが、言い違いや書き違いなどの多くの単純な例においても事情は同じであろうと推定される。つまり、私たちは、自分が言い違えたり書き違えたりする際、そこに常に意図以外の心的な働きによる妨害があると推定してもよいだろう。ただし、言い違いや書き違いは、似ているから、そのほうが楽だから、あるいは手早く済ませたいから、といった原則に従いはするものの、妨害的な要因が、言い違いや書き違いとして結実する錯誤の中に、固有の性格を首尾よく定着させることが往々全くできないでいることも確かである。言語的な素材(10)が迎え出てくることによって初めて、どのような錯誤となるかが決まりまたその決定の幅も狭まってくるのである。

 自分の勘違いを挙げるだけで済ますのも何だから、なおいくつかの事例を紹介しておこう。もっともこれらの例は、言い違いや取りそこないの項で挙げてもよかったものばかりである。ただ、これら失錯行為の各様態は、その価値についてはいずれも変わらず、何かが別のものに比べて特に高いというのでもないから、どこに挙げるかは特に意味はないと言わねばならない。

(10)本書四六九頁参照フロイトは言語のこの特性についていくつかのところで言及している。『夢解釈』では、「縮合」に関連して「単語は様々な表象の結節点として言わばあらかじめ曖昧であることを運命づけられている」〔日本語版全集五巻、八一頁〕と述べている。また『機知』では、駄洒落に関連して『単語は柔軟な素材であって、どうとでもなる』とも言われている〔同第八巻、三十六頁〕。さらに『グラディーヴァ』論(千九百七年)で、フロイトは、両義性が「語りの素材の可塑性ゆえに」可能となると指摘している〔同第九巻、九十六頁〕。

(「日常生活の精神病理 (岩波文庫 青642-1) [ フロイト ]」p386-387)

さて、では今回、自分が起こした「堺 アルフォンス・ミュシャ館」(堺市立文化館)と「堺市博物館」の勘違いは、なぜ起きたのだろうか。

抑圧されている無意識の欲望や偏見が妨害したことによる勘違いか?
それとも、単なる無知による勘違いか?
おそらくその両方だと思われる。

正直、堺市については詳しくないし、ミュシャ展があるから行こうと思っただけで、愛着もない。
むしろ恐怖というか、ネガティブなイメージがあった。
大阪はキタが上品なエリアで。
南はいわゆる「ミナミの帝王」や「ナニワ金融道」の舞台のイメージ。
まあそのドラマが指すミナミは、難波とか天王寺とか辺りだろうけど。

しかし大阪の南、岸和田だんじり祭りだとか、堺市のヤンキーのドキュメントみたいなのをテレビで見た記憶が、自分にはあった。
だから堺市=ヤンキーが多いというイメージが形成されたし。
実際、そのイメージと事実のギャップは、そこまで大きくないと思われる。

daiwaryu1121.comいわゆる大阪のサウスサイドに対する偏見だ。

そもそも「サウスサイド」、南というエリアは「治安が悪い」という偏見が、自分にはある。
横浜市よりも川崎市の方が、そして南部の方が怖いイメージがある。
北部はオザケンで、南部はBAD HOPだからな。

badhoppress.comアメリカのシカゴも、サウスサイドは危険だと言われているし。

www.famitsu.com名古屋も南区については、こういう動画があったりするからな。

www.youtube.comだから大阪の南の堺市も、兵庫県姫路市で俺をカツアゲしようとしてきた、ウシジマくんに出てくるようなヤンキーDQNみたいなのが多くいるんじゃないかってね。

(「闇金ウシジマくん(9)[ 真鍋昌平 ]

そんな町に、博物館といった文化施設が2つも3つもあるか~!?

という偏見、無意識に抱いている、大阪サウスサイドへのネガティブな印象。
その無意識が、単なる情報の不足とは別に、「勘違い」を起こした原因にもなっているかもしれない。
堺市博物館だろう、たぶん。何個も美術館とかねえだろ」といった抑圧されていた思い込み、見通しの甘さ、堺市に抱いていたネガティブなイメージが、正しい認知を妨害した。

だから「勘違い」が起きた時、それは1つのチャンスでもある。
自分の無知だけでなく、無意識に抱いている偏見や欲望や感情にも気づくことができるかもしれない。

さて、堺市ミュシャ展は逃してしまったけど。
八王子市夢美術館でやるみたいだから、こっちに行こうかな。

www.artagenda.jp
ちなみに、昼はジョリーパスタというチェーン店に行ってしまい、勘違いも起こしてしまったが。
夜は西成の「ホテル中央Bridge」という、3000円台の激安ホテルに泊まって。

iine-y.com芸人のギャロップ林がおすすめしてたホタテチャーハンも食べることが出来たので。

solomeshi.net概ねその日の夜に、大阪旅行の失敗は挽回できたかな。

「たった1件」というファクトを削ぎ落として日常的に「Colaboが一食1人8300円の食事をしている」と誤解釈されるように情報を改変したくなる理由をスラヴォイ・ジジェクによる「クレーヴの奥方」の分析とともに解説

先日、横瀬町で観音信仰のルーツを知り、そしてその霊場がコンビニみたいに増えている件から、宗教法人という存在自体に公金を投入したり税金を優遇するメリットあるのかな?と、考えたりしてその話を書いた。
「じゃあ調べたらどう?」と、ブコメで言われたりもしたけどな。

gyakutorajiro.comまあその件はさておき、Colaboの件で別の、人間の醜い欲望を垣間見てしまったっていうのかな。
無意識を研究するこのブログに相応しい事態が起きたので、紹介する。


住民監査請求の結果に対して、「Colaboが都民の税金で一食1人8300円の食事」みたいな話が、チラホラ見受けられた。

getnews.jpマジか?それはよくないなと思って俺も調べてみたらよ。
なんだよ、たった1回じゃねえかよ。

ひろゆき on Twitter: "税金を払う多くの庶民は、一食1000円以下で暮らして納税します。 一方、一般社団法人Colaboが、都民の税金で一食1人当たり8300円の食事をしても問題ないという事になりました。 まともに働いて納税するより、公金チューチューした… https://t.co/itkndTMHhv"

ファクトチェック <a href="https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/08jumin/4jumin/4jumin5_sochi2.pdf" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/08jumin/4jumin/4jumin5_sochi2.pdf すれば1人当たり8300円はたった1回。それを頻繁に行っているかのように印象操作する。自分の幻想(Colaboは悪)を信仰するためファクトを捻じ曲げる

2023/03/06 12:20

b.hatena.ne.jpひろゆき、残念だな。

この動画とか観たら、ファクトによって物事の真偽を検証していく弁舌が痛快だなと思ったりもしたのによ。

www.youtube.com別にこの人は、ファクトに誠実なんかじゃなくて。
皆が興味・関心を持ってくれる盛り上がりそうなネタを、一番リツイートされて共感を生むような意見に仕立てて流し、共感やファンを得ていてるだけの風見鶏な気がしてきた。

なんでこんな、いつも高いメシ食ってるみたいに誤解されるような情報の流し方をするのか?そしてその、Colaboへの捻じ曲がった糾弾をリツイートしたり、共感したり、信じてしまうのか?

その行動の謎を解き明かすヒントを見つけた。
それはラファイエット夫人クレーヴの奥方」という小説にある。



この小説の、スラヴァイ・ジジェクによるジャック・ラカン精神分析を用いた分析だ。
以下、引用とともに解説していく。

ラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』では、「夫の死後、奥方が熱く愛しあい、もはや法的・道徳的障害もないのに、ヌムール公と結婚しないのはなぜか」という謎への答えは、二重になっている。

まず、自分が公爵を愛したがために亡くなった、すなわち、自分の妻が公爵とともに二晩を過ごしたと考えた嫉妬の苦しみに耐えられなかった、優しい愛する夫の記憶。

彼女にとっては、夫の記憶を裏切らない唯一の方法は、公爵との関係を避けることである。


ところが、小説の結末となる、長い衝撃的(トラウマティック)な会話で、公爵に対してあからさまに認めるように、この理由だけでは足りないとし、十分な強さがない。別の不安と懸念によって、つまり男の愛が一時的であるということの自覚によって、維持されなければならないのだ。

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p78-79)

小説の全景は、この一節だけではわからないが。
どうやら奥方は未亡人であり、結婚しようと思えば公爵と結婚することができる。

ド・クレーヴの思い出のおかげだと思っていることは、私自身の心の平安という理由によって支えられていなかったら、弱かったことでしょうし、そう思える根拠は、義務という根拠によって維持されなければならないのです。(19)

(19)Madame de Lafayette,The Princesse de Cleves,Harmondsworth : Penguin Books 1978, p170.〔生島遼一訳『クレーヴの奥方岩波文庫など〕

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p79)

ド・クレーヴは亡き別れた夫のことだろう。

しかし、公爵と結婚しない理由は、旦那との思い出、記憶を裏切らないためだけではない。私自身の心の平安、だけでは弱い。
義務という根拠、が必要だった。

「公爵との結婚拒否」が維持されなければならない理由について、ジジェクはさらに以下のように分析する。

奥方は、公爵の自分への愛がすぐに満たされないからこそ、すなわち、そこへの障害が乗り越えがたいからこそ長続きし、確かなのだということをよく知っている。二人が結婚したりすれば、公爵の愛はたぶん冷め、別の女に見とれ、そうした未来の苦しみを考えることは、奥方には耐えがたい。

そこで、まさに二人の愛情を絶対で永遠のものに維持するために、二人は別々にいて、「肉の様式」、時間とともにやってくる価値の下落を避けなければならないのだ。「なぜ運命は、私たちの間にこのような乗り越えられない障害を置いたのでしょう」という奥方の嘆きの後、公爵は非難めいて答える。「障害などないのです。私の幸せに立ちふさがるのはあなただけです。あなただけが自分を何かの法に従わせている。道徳も理性も、そんなことをせよとは言っていないのに」。それに奥方が答える。「私の頭だけに存在する義務の観念に、多くものをささげているのは確かです」

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p79)

別々に住むという肉の様式、「公爵と結婚しない」という法は、なぜ必要か。

われわれの欲望を妨害する単純な外部の障害と、欲望そのものの根幹をなす、内側の、内在的障害とが対置される。あるいはラカン的に言えば、われわれの必要を外部から規制するものたる法と、内在的裏面、欲望の構成要素であり、結局はそれと同一である〈法〉との対置だ。

ここで重大なのは、「過剰決定」という基本構造である。すなわち、奥方は愛する人と結婚しないと決断する際、二つの理由に従っている点だ。

第一の(道徳的理由)が有効たりうるのは、第二の理由(「内面の平穏」、この先ある苦しみを避ける)によって支持されるかぎりでのことだ。
享楽(ジュイサンス)と快楽(プレジャー)の間の対抗的緊張の中で、象徴の〈法〉は、快楽原則の側にあり、快楽の当てにならない均衡を乱すような、〈現実〉とのトラウマを残す遭遇に対し、障壁として機能する。

まさにその意味でラカンは、象徴の〈法〉だけが、欲望を満たしきることに対する準・自然的障害を、禁止にまで高めると唱えている。

・・・主体の享楽への接近を担うのは〈法〉ではない――むしろそれは、ほとんど自然の障害から、取消線を引かれた主体を創造する。享楽に限界を立てるのは快楽、つじつまの合わない生活をまとめるものとしての快楽だからだ。(21)

不運なクレーブの奥方の場合、この快楽原則が優勢であることは、公爵と結婚しない本当の理由として「内面の平穏」への配慮を言うところに、明らかにうかがえる。奥方は「内面の平穏」すなわち均衡のとれた、恒常性(ホメオスタシス)による生活の方が、情熱的恋愛の苦しみに満ちた不安よりもいいのだ。

亡くなった夫の思い出のために公爵と結婚するのを妨げる禁止は、この快楽原理という「自然の障害」を道徳的禁止にまで高めた。このクレーヴの奥方の境遇から、「欲望は防御であり、享楽で一定の限界を超えてしまうことに対する禁止である」(22)という、ラカンの命題も把握できるようになる。

奥方の公爵に対する欲望を維持し、それを恒久化し、それを絶対なものに高める(公爵との結婚の)禁止は、公爵との関係を完成するという、過剰な享楽の苦しみに満ちた混乱に対する防御なのだ。真の〈法〉/〈禁止〉は、「徳と理性によって」、すなわちそれ自身の外にある代理者によって課せられるのではなく、欲望そのものに課せられる――欲望こそが〈法〉なのだ。

(21)Jacques Lacan,Ecrits : A Selection,New York : Norton 1977.p319.
(22)Ibid.,p332

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p79-81)

元夫を裏切らないという道徳的理由は、第二の理由「内面の平穏」を実現するためでもあった。
内在的障害と外部の法は表裏一体。
クレーブの奥方は、平穏な日々という欲望を充足させるため自身に内在的障害を課し、そして外部においては「結婚しない」という法を設けた。それは、精神的安定を保つ秩序として必要だった。


そう、ここでColaboの話と繋がる。
このクレーヴの奥方のメンタリティは、非常に、Colaboを叩いてる人達と似ている気がする。

クレーヴの奥方の「公爵と結婚しない」という欲望が、「Colabo叩き」に相当する。

そして享楽、ラカン的にいえばそれは現実界に相当するものだが、それはヘイトスピーチミソジニーの発露のような、非常に共感し難い、個人的な感情に基づいた欲動に相当する。

しかし、奥方が愛する人と結婚しないのは、これら二つの理由によるというのでは、話はすまない。奥方がそれらを上げるのは、第三の、もしかしたら決定的な、ある理由を隠すためだと言いたい。

それは享楽、すなわち、慎むという行為そのもの、愛する対象への距離を維持するという行為そのものによってもたらされる満足である。
この逆説的享楽は、対象のまわりを回り、何度もそれを外すことに満足を見出すものという、欲動の動きの特徴である。

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p82)

女性支援団体や、女性それ自身を、叩いて、叩いて、叩き続ける欲動の反復運動に快楽を覚えている。
「Colaboの会計に不正と認められる十分な証拠は無かった」というファクトが出ようが出まいが、「叩く」という行為それ自体に快楽を見出し、その享楽に没頭する。

それはつい最近、たぬかなが指摘したように。

gyakutorajiro.comそして最近、新たに、身長170cm以下人権なし発言で一世を風靡した「たぬかな」という女性が、こんなことを言っていた。

lgbtch.blog.jpこう一年もさ、ネットで私に付きまとう男って可哀想やなとつくづく思うねん

虚勢やなくて、ガチでその立場を案じた時に可哀想と思うねん。

やってさ弱者男性ってホンマに社会的な人権ないからね

男の弱者男性ってほんまの弱者やから生きてるだけでキツイやろ?

やってさ、他に勝てる競技がないねんもん 金すら稼げてない弱者男性の人生ってホンマに。キツいで

そら自分より金もルックスもある、周りからチヤホヤされてる女がたまたま問題起こしたらさ、

おうワイらの出番や!いうて我先にちっちゃい洞穴からわらわらと出てきてさ、徒党組んで生き生きと悪口並べ立てるよな

弱者男性が唯一輝けるのがネットで女をこきおろして叩く、それだけなんですよ

ネットで女をこきおろして叩く、その享楽に浸っていることを、明らかにされてしまった。

だが、そんな醜いヘイト運動を行っていると、そっぽを向かれるかもしれない。
馬鹿にされ、ネトウヨだのミソジニーだのと思われるかもしれない。世間体もよくないだろう。

だからそのヘイト感情を正当化するために、欲望の〈法〉を用意する。

つまり、(クレーヴの奥方の)三つの理由が〈想像界〉、〈現実界〉、〈象徴界〉の三項を指している。象徴界の道徳的禁止、快楽の均衡を求める想像界の配慮、欲動の現実界である。

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p82)

その法、道徳的禁止とは、いわゆる自分のヘイト感情を隠し「公金不正利用疑惑の追求」という大義名分、正義の仮面を用意して人前に出て、称賛され、応援されるための〈法〉だ。

gyakutorajiro.comColabo叩きをしている人の中には、バーハウやフロイトがいう転移感情によってミソジニーが醸成されている可能性があるということ。
醸成されたミソジニーと私怨によって、糾弾する対象が無意識的かつ恣意的に選ばれている可能性が高いって話だ。
普通にファクトを優先すれば、五輪談合の方が重大なのに。
なぜ、Colaboなのか。
すなわちそこには、自分の記憶の中にある、女性からの屈辱的な経験や記憶が転移した「転移性ミソジニー」がある。

自分の性的に恵まれない不遇な境遇、過去の欲望の未達によって、ネガティブな感情が醸成され、その嫉妬・怒り・恨み・辛みが、関係のない女性へと転移する。
しかし、その感情を正当化するルサンチマンに一定の品性を纏わせるために「公金不正利用疑惑」という正義の仮面を被る。
だが、その仮面の下には「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という、醜い私怨に満ちた感情が蠢いている。俺を苦しめた女性が苦しむ姿に喜びを見出してしまうというシャーデンフロイデだ。

理性的で、公金不正利用疑惑を追及している、正義感に満ち溢れ、弁が立つヒーローのように思われたい。

それによって、ミソジニー感情が根底にあるのではないのか?」「ヘイトスピーチではないのか?」といった、自分に非難が向けられるという、現実界のトラウマ的事態を避けることができる。

まとめると、ジジェクがいう象徴界の道徳的禁止が「Colaboへの公金不正利用疑惑の追求」であり、欲動の現実界「仁藤夢乃…女…腹立つ…叩いてやろう」というヘイト感情とバッシングの反復だ。
そして、想像界の理性的配慮によって、私的な快楽の充足(現実界)と、公益に寄与する正義(象徴界)のバランスを取ろうとする。

もし、公金不正利用疑惑という〈法〉(大義)もなく女性支援団体を叩いていたら、単にヘイトスピーチを流しているヤバい人だと思われて誰も相手にしてくれない。
そのために理性(想像界)を働かせ、法(象徴界)という制限の中で、誰にも共感されない欲動の享楽(現実界)に至ることがないよう、象徴界の中で、快楽の充足(Colabo叩き)を行う。

だが、その3つの均衡が狂った。

どこが狂ったかというと、象徴界(法)だ。

自分の中の正義、見立てでは「Colaboは公金チューチューをしている団体、私たちの税金を無駄遣いしている」と、考えていた。
だがそれは「厳然たる現実」ではなく「自分がそう欲望する秩序」に過ぎなかった。
現実は、たった192万の会計不備が明らかになっただけだった。

mainichi.jpそんなわけあるか?
Colaboは悪い団体だろ?そうだろう?そうに決まってる!なんでだ!?
ちゃんと監査したのか?
おーい!!


と、納得できない現実。

なんでだよ…うーん、待てよ。
この資料に、1食8300円だと・・・これだ!


そう、資料の中で、自分が欲望する〈法〉、「コラボは悪い団体」という秩序を証明するために、最も都合のいい情報を取捨選択する。

東京都監査事務局の監査結果において、「Colaboは悪い」ということを示す、最もインパクトのある情報を拾い上げる。
すなわち、以下の⑤番だ。

① 20,990円 食事代 12名(1人当たり1,749円)
② 29,710円 食事代 6名(1人当たり4,952円)
③ 21,330円 食事代 8名(1人あたり2,666円)
④ 54,340円 食事代 16名(1人当たり3,396円)
⑤ 66,396円 食事代 8名(1人当たり8,300円)
⑥ 41,699円 食事代 6名(1人当たり6,950円)
⑦ 27,587円 食事代 10名(1人当たり2,759円)
⑧ 21,750円 食事代 10名(1人当たり2,175円)

https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/08jumin/4jumin/4jumin5_sochi2.pdf

だが意識的にも無意識的にも、自分が欲望する象徴界の〈法〉を十全に機能させるために、「都合の悪い情報」は消す。

東京都監査事務局の調査において、この食事代はたった1件であったという事実。
弁護団声明による反論という事実。

colabo-official.net まず、「一回当たりの支出が比較的高額なレストランでの食事代」は、2万円以上のレストランの領収証のことを指すと思われます。高額にみえるかもしれませんが、これは大人数での食事代(ひとりあたり1750円~3400円程度で令和3年度の1年間で5回程度)でした。

 また、一人当たりの食費がそれ以上になることが3回程度ありましたが、Colaboの支援対象の女性のお祝い事をするためでした。支援事業において女性との面談等において飲食店を使う際にはファミリーレストラン等の単価の低いレストランばかりですが、この時はお祝い事のため、比較的高額となったにすぎません。たまに行うお祝い事の値段としては特段問題になるほどの金額ではないと思料しておりますし、Colaboに関わる女性たちの多くは生育環境に複雑な問題を抱えており、誕生日や進学、就職などを祝われるという経験がこれまでなかった若年女性もいます。そのようなことも踏まえると、時に、親しい人とお祝いの気持を分かち合う食事の席を経験する機会をもうけることも、重要な若年女性支援事業の一環であるとColaboは考えています。

これらのファクトを無視して、「Colaboが(日常的に)一食1人8300円の食事をしている」という、自らが欲望する〈法〉=幻想を作り上げる。


風見鶏のひろゆきが援護してくれたのもラッキーだった。

getnews.jpひろゆき氏「Colaboが都民の税金で一食1人8300円の食事しても問題ない事になりました」「まともに働いて納税するより公金チューチューした方が豊かに暮らせますね」

ひろゆきも言ってるぞ!
権威付けがされ、情報がまるで正確であるかのように、自分の欲望に合致するように都合よく解釈する。

「8300円が1回だった」というファクト、そんなのは関係ない。
そう、都合の悪い情報は削ぎ落す。

自分の欲望を満たすため、自分の欲望の秩序に不適切な情報は、ファクトだろうが関係なく排除し、それを隠蔽したり、元の情報を捻じ曲げる。


なんでそこまでして、叩きたいのか?

それについては、自分自身に問いかけるしかない。
自分がColaboを悪とする社会を望んでいるのはなぜか、そういった欲望が自身に存在するのはなぜか。

それは例えば、以前も述べたように性的不遇や経済的コンプレックス、女性からの仕打ち等が影響している可能性もある。
快楽(現実界)が満たされることなく、抑圧の日々の中で乱れていく自我、瓦解寸前の自尊心、どうすればいい…そこで、寄りすがったのではないだろうか。

「Colaboは悪い」「仁藤夢乃氏も、女性支援団体も、公金で支援される女性も悪い」という物語を。

その物語(幻想)を内面化すること、そして快楽の充足を、パートナー獲得から女叩きに置き換えることで、今までの人生で遭遇した自分自身の性的不遇を、無意識的に解消しようとしているのではないだろうか?

天童荒太が言ったことは正しいかもしれない。

gyakutorajiro.com天童荒太は、人間には物語が必要だといった。

人間は映画に出てくる森田のような、厳しい現実を突き付ける存在には耐えられない。

だが事実ではなく、削ぎ落したり捻じ曲げた事実、ファクトを無視して、人を叩いていいものだろうか?
それが理性のある、節度のある人間が、することなのかよ!?

だから全く応援できない。
Colabo叩いてる連中は。
正義を振りかざしたいなら、自分の欲望ではなくて、ファクトに忠実になるんだな。

もしファクトではなく自分の欲望で誰かを糾弾しているのに気づいたなら、「Colaboを叩かなきゃ」という感情は今すぐ捨てた方がいい。
このお題にもピッタリだな。

ミソジニーやヘイト感情といった個人的な欲望で誰かを糾弾する行為なんかやったところで、生活水準やQOLが向上することなんてない。

自分の生活、人生を向上させることに向き合った方がいいと思うけどな。