逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

自殺を防ぐために意識的にストレスを吐き出し、ヒミズの内田のような相対化によって幸福感を持続させる

今日は衝撃的なニュースがあった。

b.hatena.ne.jp竜ちゃんの死去、「なんで?」「どうして?」と思った人は多いだろう。俺もその一人だ。

三浦春馬竹内結子、神田沙也加、上島竜兵…芸能界の一線で活躍していた人達。
誰しもがなりたくてもなれる存在じゃない。
多くの人々を物語の世界に引き込む演技力がある役者、魅惑的な歌声で空間を一変させ様々な感情を喚起する歌手、ありとあらゆる方法で人を笑わせる芸人。
実力がないとなれないし、テレビや映画に出ることはない。

だからこそ、人並みよりも多くの収入を得ていたり、豊かな生活をしていると思ってた。
例えば俺みたいに、低所得で人間関係が希薄な生涯独身者予備軍が、風呂場で汁になって発見される人生を予見して絶望することはあるかもしれない。
それとは対極的な、傍から見たら社会的には成功して、ビクトリーロードを歩んでいるように見える。

タワマンから、夜景にライトアップされた東京タワーや東京スカイツリー、高層ビルを望むウィナーズビューを眺めてる。
狭いワンルームマンションから、生活で使用した水が下水に流れていく音を聴きながら、窓から黒ずんだ壁やボロいアパートしか見えないルーザーとは違うはずだ。

なのになんでだ?どうしてだ?
「ご冥福をお祈り申し上げます」よりも先に「何なん?」って感じだ、藤井風の歌にもあったが。あの時の笑顔は何なん?

そして考えてみたところ、一つの仮説が思い浮かんだ。
それは「自死を選んでしまう人は、ルサンチマンが機能していないのではないか?」ということだ。

例えば松居一代は、夫であった船越英一郎を糾弾し、ストレスを吐き出した。

gendai.ismedia.jp東谷義和(ガーシー)は、親交のあった芸能人が行った理不尽な出来事などを暴露していっている。

www.youtube.comこの2人は、当ブログで紹介しているルサンチマンの実践「ストレス共有化」を行っているともいえる。
自分が受けたストレスを吐き出す、もちろん金儲けという目的もあるだろうが。

ただ、自分の中にたまっているストレスを吐き出して、多くの人達と共有化できれば、自らのストレスは無くなることはないが、希薄にすることはできる。

神田沙也加の件の後報道で、恋人との軋轢があったとかなかったとか、色々とニュースが出た。それが事実かどうかは知らないけど。
もし神田沙也加が、松居一代や東谷義和のような胆力というか、ムカつくことや腹立つことがあれば、たとえカッコ悪くても大きな声をあげてストレスを見える形で吐き出していれば、違った結果になったんじゃないか?って思ったりもする。

だってみんな、何も言わないだろ。
だからこそカッコいいってのもある。
いやカッコいいって思わない方がいいな。
言っていいんだよって話。

でも三浦春馬竹内結子、神田沙也加、上島竜兵が、舞台以外で、誰か特定の人の悪口を言ったり、腹立ったことをガツンとSNSで物申したり、感情的に振る舞っているのを見たことがある人は、いるか?
いないんじゃねえかって思う。
「言いたくてもいえない」状況や、「言おうとすら思わない」ような内罰的な自意識を、持っているんじゃねえかって。

確かにそっちの方が、人としてはリスペクトできるんだよ。
多くを語らずミステリアスな部分を残す方が、役者や芸人として都合がいい場合もある。
だけどそれによって、本来の自分を押し殺しちまうんじゃないかって思うのよ。

だからこそ、腹立った時は、言えばいいんだよ。
君は誰のために生きてるの?」って、キマグレンも言ってるだろうよ。

そしてもう一つ、三浦春馬竹内結子、神田沙也加、上島竜平の4人がおそらくやらないであろう、カッコ悪いルサンチマンがある。

それはシャーデンフロイデ(Schadenfreude)、他人の不幸によって自分を相対化し、幸せを得る営みのことよ。俗語で"メシウマ"とも言ったりするな。


一流の人は、仮に誰かと自分を比較することがあっても、本当に自分の周りの一流の人としか比べていないんじゃないかってな。
もっと相対化する範囲、比較対象を広げてみたらどうだって。
芸能界ではなく一般大衆と、比べてみるんだ。
そしたら、あんた達は相当すごいんだよ。
自分を卑下する必要はないし、自己嫌悪に陥るのも疑わしいぐらい、お金もあるし、人に多くの影響を与えている。
楽しい老後も待っているはずだ。

例えばヒミズに出てくる、パチンコ屋のバイト先にいた内田がやっていたような相対化。


(引用元:ヒミズ(3)[ 古谷実 ]

「日本に生まれた」という、国ガチャに成功したという事実だけで、幸せをかみしめる。傍から見たらカッコ悪し、情けなくも見える。
しかしこれが、生き続けるために重要だったりする。
学校では教えてくれない。
似たような例は、給食を残そうとした時に「食べられない人もいるんだから」って説教されることぐらいか。

この相対化ができたり、無意識に行っていると、人生に悲観したり自己嫌悪に陥る頻度が下がる。
自分の人生はイケてないかもだけど、あの人達よりはマシだ」という相対的幸福感を感じることで、自尊心を保持することができる。

(引用元:賭博黙示録カイジ 6 [ 福本伸行 ]

安全であることの愉悦…人の不幸を見て安堵する。

この議論の過程で、人が不承不承にせよ、忌まわしいものの魅力に対するさまを例証するべく、ソクラテスは、アグライオンの息子レオンティオスから聞いた話を語る。

ペイライエウスから北の城壁の外側沿いにやってくる途中で、彼は地面にいくつかの死体があり、処刑人がそのそばに立っているのを見た。彼は近くに行って見たいと思ったが、同時に嫌悪を感じて引き返そうとした。
しばらくは煩悶し、目を蔽っていたが、ついに欲望に勝てなくなった。彼は眼を見開いて、死体に駆け寄ると叫んだ。

「さあ来たぞ。お前たち呪われた眼よ。この美しい光景を思いきり楽しめ」

理性と欲望の葛藤の例証として、不穏当あるいは不法な性的欲望の、よりありふれた例を選ぶのは避けながら、プラトンは人間が堕落や苦痛や切断の光景にたいする欲求をも有していることを自明のことと考えているように見える。

確かに底流にはこの軽蔑すべき衝動があるという事実も、残酷な写真を検討するさいに考慮に入れる必要がある。
近代の初めには、不気味なものに向かってゆく内なる性質の存在を認めることが、よりたやすかったかもしれない。
人々は苦しみのイメージを見たがる、とエドマンド・バークは書いた。

「われわれは他人の現実の不幸や苦痛に、或る程度の、それもけっして僅かではない程度の、喜びを感じると私は確信している」と、彼は『崇高と美の観念の起源にかんする哲学的考察』(一七五七年)で述べている。
「なにか異例の嘆かわしい惨禍の光景ほど、われわれが熱心に追い求めるものはない。」
シェイクスピアのイアゴーと芝居における悪行の魅力についてのエッセイのなかで、ウィリアム・ハズリットは問いかける。
「なぜわれわれはいつも、新聞で恐ろしい火事やショッキングな殺人の記事を読むのか。」
なぜなら、彼が答えて言うには、「悪行を好み」残酷を好むのは、同情心と同様に人間が生まれつきもっている性質だからである。
(引用元:他者の苦痛へのまなざし [ スーザン・ソンタグ ]

これはルサンチマンの実践の一つとして、加えておく。

一流の人達は、これができない可能性が高い。
できないからこそ、一流になれたってのもあるかもしれない。

自分よりも下だと思える他人を探して、それによって束の間の相対的幸福感で満足しているルサンチマンを行っているやつが、一流の役者や芸人になんてなれねえだろからな。
逆に、ストイックに芸を追い求め、昨日の自分と勝負しているような人こそ、自尊心のエアポケットに急に落ちてしまって、取り返しのつかない選択をしてしまうのではないかって。

だからカッコ悪いかもだけど、自分を守るためにストレスを吐き出す。
それによって誰かを傷つけてしまったとしても、死んでしまうぐらいに辛いなら、その選択もありだ。
もちろん、物理的に傷つけるのはダメだけど、自分が精神的に甚大なダメージを食らってるなら、何らかの方法でその負のエネルギーを自分とは別の方向に分散させないといけない。
「誰のために生きてるんだ」って話だ。

勝ち組の人、社会的成功者こそ、ルサンチマンというマインドフルネスを活用してほしいねほんとに。