逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

ソフィスト達の「結婚できないのはあなただけじゃない」という奴隷道徳($◇a)の供給と内面化によって自らの自尊心や存在意義を保つ

面白い記事を読んだ。

davitrice.hatenadiary.jpベンジャミン・クリッツァーさんという有名な人らしい。
「21世紀の道徳」という本を出しているみたいだね。

批判されているのは、この本と、この記事。


p-shirokuma.hatenadiary.comベンジャミン・クリッツァーさんは、このような本や記事は、以下のような問題点があると指摘する。

・「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、読者が既に抱いている信念や感情を慰撫するだけ。

・「非モテ」や「弱者男性」が事前に抱いている被害者意識をさらに補強するだけ。

ソフィストのように感情に訴えるレトリックを用いて感覚的な興奮を味わせて溜飲を下げるものを与えているだけ。

結果、「それらの不健全な感情を悪化させて、当の読者たちの人生の質をも下げさせている。」とのこと。

確かにすごく共感できた。
不健全な感情を煽ったり、悲観的な言説を繰り広げても、何の解決にもならない。

まあでもそうなんだけど、そのソフィストの話を、人間は求めてしまう。

なぜ求めてしまうか。

それはある種の心地よい宗教、ルサンチマン(奴隷道徳)だからだ。
ニーチェは、人間が抑圧され隷属の日々を過ごす中で、価値転倒によってルサンチマンを生み出すことを発見した。

ベンジャミンさんが記事で引用している、メロンダウトさんのこのツイートは、多くの人にいいねされている。

これもルサンチマンだ。

ルサンチマンには色々な種類がある。
前回、能力主義への抵抗を彷彿させる山下達郎の言説はルーザーを「従順な身体」に組織化してグッドルーザーを生産するルサンチマンにも成り得るで語ったルサンチマンは、「ルーザーに自尊心の拠り所になる奴隷道徳を供給する」という性質があった。

しかしこのタイプのルサンチマンも、人間の意識・無意識に供給するという点は共通しているが、少し違う。
「自分だけじゃないんだ」という安心感によって、一個人にかかる負荷を分散するルサンチマンだ。

このルサンチマンの存在を証明するため、卑近な事例を出そう。
2022年5月16日放送の「月曜から夜ふかし」における「幸福度が最低の年齢が発表された件」についての話の中で、マツコデラックスがこんな発言をした。

・・・48歳だからちょうど2年前ぐらいよ。こんな、何にもすることがない、仕事場と家の往復で、バカじゃないの。って思ってたけど。
みんなが困ったわけじゃん、コロナって。
あんまりいい言い方じゃないんだけど、困っている人もいっぱいいる中でこういう言い方をするのはあれだけど、なんか、何・・・ちょっと分散したのよね。『自分の困った・苦しい』気持ちが、『世の中のみんなが困った・苦しい』と。あれこれ、どっちの困っているなんだろう?みたいな。
ちょっとごまかせたのよ。

そう、このように、コロナウイルスによるストレスで自分は苦しめられたが「自分だけじゃないんだ」という安心感によって、ストレスが分散され、希薄化される。

それゆえ、御田寺さんやシロクマさんの言説は、価値を帯びる。

「こんなにも結婚できない人はいるんです、データも示しています」というルサンチマンの供給と、それを「自分だけじゃないんだ。みんな結婚できないし、不安じゃないぞ」というルサンチマンの内面化によって、安心感と自尊心を得ることができる。

このルサンチマンを自分は、「西武池袋線の駅員との会話から怒りやストレスを和らげる方法を発見」で示したように「ストレス共有化」と述べている。

さて、その供給された奴隷道徳を内面化した弱者、まあ自分も独身で結婚できないし低所得だしそうなんだけど、その弱者、声なき者の精神はどのような動きをしていくだろうか。

精神分析のアプローチをしてみよう。

スラヴォイ・ジジェクは「イデオロギーの崇高な対象」において、ジャック・ラカンの欲望のグラフ第3図を用いて、ヒステリーの構造について説明する。

シニフィアンの連鎖が「キルティング」されて、そのシニフィアンの意味が遡及的に固定された後には、つねにあるずれが残る。それは第三図において有名な「汝何を欲するか」の生み出す開口部で示されている――「汝は我にかくのごとく語る。だがそれによって汝は何を欲するか。汝の目指すところは何か」。

したがって、「キルティング」の曲線の上方にあらわれるこの疑問符は、言表と言表行為とのずれの残留を示している。言表のレベルでは、あなたはこう言うが、あなたはそれによって、それを通して、何が言いたいのか?(発話行為理論の確立された術語を用いれば、もちろんこのずれを、ある言表の、発語と発語内容な力との差異としてあらわすことができる)。

そして、言表の上方に疑問があらわれるまさにその地点に、つまり「何故にあなたはこう言うのか」という場所に、要求とは異なる欲望(図中のd)を位置づけなければならない。
あなたは私に何かを要求している。だが、あなたが真に欲しているのは何か。この要求を通してあなたが狙っているのは何か。
この要求と欲望との間の亀裂が、ヒステリー的な主体の位置を決定する。

ラカンの固定的な定式によれば、ヒステリー的要求の論理は「私はあなたにこれを要求する、だが、私が本当にあなたに要求しているのは、私の要求を拒むことだ、これは私の本当に欲しいものではないのだから」というものである。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

シニフィアンの連鎖が「キルティング」されて、そのシニフィアンの意味が遡及的に固定された後」というのは、ジャック・ラカンの欲望のグラフ第2図についてのジジェクの説明だ。
それについては 欲望と欲動と欲求の違いについてラカンおよびフロイトの精神分析と闇金ウシジマくんの実例で解説の記事で既に説明した。

「汝、何を欲するか?」は、この現代社会において、シニフィアンの影響を受け続けた人間が、自らに課す要求だ。
実家の両親などによって「ちゃんといい会社に勤めている人にしなさい」「気立てがよくて、一緒に故郷に帰ってくれる奥さんを見つけなさい」等の要求もあるだろう。
その要求とともに、欲望(d)は、対象aに向かう。

対象aは、男性においては「可愛くて料理が上手な理想の奥さん」という家事能力を体現した存在であったり、女性においては「身長170cm以上で年収600万円以上」のよう資本主義的価値を備えた人物であったり。
そして両者ともに、パートナー候補の対象を知覚した際に自我で行う無意識的なルッキズム的審判によって対象aが構築される。

しかし対象aを求める独身は、欲望のグラフ第3図にあるように、$◇a [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]、疎外の袋小路に突入する。

縁の過程、循環的過程、この関係は、この小さな菱形によって支えられます。私は自分のグラフの中で、アルゴリズムとしてこの菱形を使っています。なぜなら、あの欲望の弁証法の最終的諸産物をいくつか統合するにあたって、この菱形が必要だったからです。

たとえば、まさに幻想のなかにも、これを組み込まないわけにはゆきません。つまり、幻想は"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]―棒線で消されたS、錐穴、小文字の「a」となります。

また、要求と欲動が結合するあの根源的な結び目にも、これを組み込まないわけにはゆきません。この結び目は"$◇D"[S barré poinçon grand(エス・パレ・ポワンソン・グランデ)]―棒線で消されたS、錐穴、大文字のDと書かれます。これを我々は叫びと呼ぶことができます。

(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下) (岩波文庫 青N603-2) [ ジャック=アラン・ミレール ]p197)

結婚できない独身者はこのように、疎外(◇)の状態に置かれ、幻想($◇a)の中に向かう。

実現可能性の低い「理想のパートナー」という要求を拒み、欲望は実現可能性の高い幻想によって充足される。
闇金ウシジマくん」に出てくる板橋のように、欲望の中に含まれる性衝動という欲動のエネルギーを、対象aを求めて向け続ける。


(引用元:闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

「街中じゃこんな若い娘をじっくり見られないからなぁ…くふふぅ。女の子選べよ、小堀!!」

(引用元:闇金ウシジマくん(11)[ 真鍋昌平 ]

「グチョオ クチョオ グチョオ スカーッ グチョッグチョ グチョグチョ スカー」


ラカンが"欲動はその周りを巡る la pulsion en fait le tour」"と述べたように、対象aに近い存在の周りを、終わらないメリーゴーランドのように廻り続ける。

この終わりなき欲動の湧出と発散の繰り返しは「享楽」と呼ばれる。

後期フロイトは「快感原則」という次元を導入することによって―ラカンによってなされたように、そのすべての結果を考慮に入れるならば―そこから更に二歩前進し、右に述べたような構図を完全に変える。

死の欲動」の仮説は直接にこの点に関係してくる。それが意味するところはこうだ―「快感原則」によって動かされる心的装置の調和的な回路を妨害する異物・闖入者は心的装置の外にあるのではなく、心的装置に内在しているのである。「外的現実」とは無関係に、こころの内在的機能そのものの中に、完全な満足に抵抗する何かがあるのだ。

いいかえれば、たとえ心的装置がそのまま放っておかれたとしても、「快感原則」が追求する均衡には絶対に到達することなく、その内部にあるトラウマ的闖入者の周りを回り続けるだろう。「快感原則」が躓く限界は、快感原則の内部にあるのだ。

この異物、すなわち「内的限界」に対するラカンの数学素はもちろん<対象a>である。<対象a>は「快感原則」の閉回路を中断し、その均衡のとれた運動を狂わせる。あるいは、ラカンの基本的な図を引用すると、左のようになる。

したがって踏み出すべき最後の一歩は、この内在的障害物をそのポジティヴな次元において据えることである。たしかに<対象a>は快感の円が閉じるのを妨げ、縮小不能な不快感を導入するが、心的装置はこの不快感そのものの中に、つまり到達しえないもの、つねに失われているものの周りを永久に回り続けることに、倒錯的快感を覚える。いうまでもくこの「苦痛の中の快感」に対してラカンが与えた名前は享楽[jouissance]であり、どうしても対象に到達できないこの循環運動―この運動の真の目的は目標へといたる道程と合致する―が、フロイトのいう欲動である。

欲動の空間はこのように逆説的で曲がった空間なのである。<対象a>は空間内に存在する実在物ではなく、究極的には、空間そのもののもつある種の歪みに他ならない。このゆがみのせいで、われわれはまっすぐに対象に到達しようとすると必ず曲がらなくてはならないのだ。
スラヴォイ・ジジェク汝の症候を楽しめ ハリウッドvsラカン /筑摩書房)』p84-p85)

先述のように、欲望のグラフ第3図では、終わらないこの疎外状態から幻想を求め続ける欲動の運動($◇a)を、ヒステリーの構造としてジジェクは解説していた。

しかし享楽の袋小路から脱出できる場合もある。

それがジャック・ラカンの欲望のグラフの完成図だ。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

「理想の結婚相手」という対象aを手に入れることができなくても大丈夫ではないがあなただけではないぞ、というシニフィアンを求める。

そのシニフィアンこそ、御田寺さんやシロクマさんが供給するルサンチマンの信仰と内面化($◇a)だ。

したがって、グラフの左側の下向きのベクトルの三つの水準は、それらの順序を調整する論理という点から捉えることができる。
まず第一にS(Ⱥ)がある。これは、〈他者〉の欠如を、つまり享楽(ジュイツサンス)に侵入されたときに象徴秩序に生じる矛盾(インコンシステンシー)をあらわしている。

次に、空想の公式$◇aがある。空想の役割は、その矛盾を隠す遮蔽幕になることである。

最後にs(A)がある。これは空想に支配された意味作用の効果である。
空想は「絶対的意味作用」(ラカン)として機能する。空想は、われわれがそれを通して世界を一貫して意味のあるものとして経験できる枠組み、つまりその中で意味作用の特定の効果が生じる先験的な空間を構成する。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

ジジェク的に言えば、独身が享楽の袋小路に突入した場合、理想のパートナーとの結婚という欲望を実現するのが困難になり、矛盾した状況(S(Ⱥ))になる。

そこで、空想の役割が必要となる。

御田寺さんやシロクマさんが供給するルサンチマン(空想)によって、自らの矛盾した状況、結婚したいのに、出会い喫茶等の風俗やオ〇ホールでの自慰行為の享楽を繰り返してしまう矛盾した状況によって、自尊心が傷ついたり自己嫌悪に陥ったりといった疎外と死の欲動への接近を回避するため、遮断幕となるルサンチマンが必要になる。

「例え結婚できなくても、みんな結婚できていないし、自分だけじゃないぞ」という空想の意味作用の効果(s(A))を獲得する。

「結婚できなくても生きていくんだ。それでいいんだ。」という人間として、I(A)に至ることができる。象徴的同一化を果たすことができる。

まあベンジャミンさんが言うように、人生を余計に惨めにしているといえば、そうかもしれない。
幻想を信仰してアイデンティティを保ってるんだからな。
しかし弱者を「あなただけじゃないんですよ」という慰撫するルサンチマンは、別に御田寺さんやシロクマさんだけが供給してるだけじゃない。

上に述べた「生きていくんだ。それでいいんだ」という、玉置浩二の唄(田園)もそうだ。

これもルサンチマンの供給なんだよね。
でもその内面化がうまくいかないと、どうなるか。

(引用元:「最強伝説 黒沢 3 [ 福本伸行 ]」)

最強伝説黒沢の黒沢のように、「生きているだけでいい」のような幻想の信仰には納得できず、苦悩する。

欲望のグラフ第4図のように象徴的同一化を達成することができず、疎外され続け、死の欲動に接近する危険を抱えながら生きていく。