逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「たった1件」というファクトを削ぎ落として日常的に「Colaboが一食1人8300円の食事をしている」と誤解釈されるように情報を改変したくなる理由をスラヴォイ・ジジェクによる「クレーヴの奥方」の分析とともに解説

先日、横瀬町で観音信仰のルーツを知り、そしてその霊場がコンビニみたいに増えている件から、宗教法人という存在自体に公金を投入したり税金を優遇するメリットあるのかな?と、考えたりしてその話を書いた。
「じゃあ調べたらどう?」と、ブコメで言われたりもしたけどな。

gyakutorajiro.comまあその件はさておき、Colaboの件で別の、人間の醜い欲望を垣間見てしまったっていうのかな。
無意識を研究するこのブログに相応しい事態が起きたので、紹介する。


住民監査請求の結果に対して、「Colaboが都民の税金で一食1人8300円の食事」みたいな話が、チラホラ見受けられた。

getnews.jpマジか?それはよくないなと思って俺も調べてみたらよ。
なんだよ、たった1回じゃねえかよ。

ひろゆき on Twitter: "税金を払う多くの庶民は、一食1000円以下で暮らして納税します。 一方、一般社団法人Colaboが、都民の税金で一食1人当たり8300円の食事をしても問題ないという事になりました。 まともに働いて納税するより、公金チューチューした… https://t.co/itkndTMHhv"

ファクトチェック <a href="https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/08jumin/4jumin/4jumin5_sochi2.pdf" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/08jumin/4jumin/4jumin5_sochi2.pdf すれば1人当たり8300円はたった1回。それを頻繁に行っているかのように印象操作する。自分の幻想(Colaboは悪)を信仰するためファクトを捻じ曲げる

2023/03/06 12:20

b.hatena.ne.jpひろゆき、残念だな。

この動画とか観たら、ファクトによって物事の真偽を検証していく弁舌が痛快だなと思ったりもしたのによ。

www.youtube.com別にこの人は、ファクトに誠実なんかじゃなくて。
皆が興味・関心を持ってくれる盛り上がりそうなネタを、一番リツイートされて共感を生むような意見に仕立てて流し、共感やファンを得ていてるだけの風見鶏な気がしてきた。

なんでこんな、いつも高いメシ食ってるみたいに誤解されるような情報の流し方をするのか?そしてその、Colaboへの捻じ曲がった糾弾をリツイートしたり、共感したり、信じてしまうのか?

その行動の謎を解き明かすヒントを見つけた。
それはラファイエット夫人クレーヴの奥方」という小説にある。



この小説の、スラヴァイ・ジジェクによるジャック・ラカン精神分析を用いた分析だ。
以下、引用とともに解説していく。

ラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』では、「夫の死後、奥方が熱く愛しあい、もはや法的・道徳的障害もないのに、ヌムール公と結婚しないのはなぜか」という謎への答えは、二重になっている。

まず、自分が公爵を愛したがために亡くなった、すなわち、自分の妻が公爵とともに二晩を過ごしたと考えた嫉妬の苦しみに耐えられなかった、優しい愛する夫の記憶。

彼女にとっては、夫の記憶を裏切らない唯一の方法は、公爵との関係を避けることである。


ところが、小説の結末となる、長い衝撃的(トラウマティック)な会話で、公爵に対してあからさまに認めるように、この理由だけでは足りないとし、十分な強さがない。別の不安と懸念によって、つまり男の愛が一時的であるということの自覚によって、維持されなければならないのだ。

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p78-79)

小説の全景は、この一節だけではわからないが。
どうやら奥方は未亡人であり、結婚しようと思えば公爵と結婚することができる。

ド・クレーヴの思い出のおかげだと思っていることは、私自身の心の平安という理由によって支えられていなかったら、弱かったことでしょうし、そう思える根拠は、義務という根拠によって維持されなければならないのです。(19)

(19)Madame de Lafayette,The Princesse de Cleves,Harmondsworth : Penguin Books 1978, p170.〔生島遼一訳『クレーヴの奥方岩波文庫など〕

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p79)

ド・クレーヴは亡き別れた夫のことだろう。

しかし、公爵と結婚しない理由は、旦那との思い出、記憶を裏切らないためだけではない。私自身の心の平安、だけでは弱い。
義務という根拠、が必要だった。

「公爵との結婚拒否」が維持されなければならない理由について、ジジェクはさらに以下のように分析する。

奥方は、公爵の自分への愛がすぐに満たされないからこそ、すなわち、そこへの障害が乗り越えがたいからこそ長続きし、確かなのだということをよく知っている。二人が結婚したりすれば、公爵の愛はたぶん冷め、別の女に見とれ、そうした未来の苦しみを考えることは、奥方には耐えがたい。

そこで、まさに二人の愛情を絶対で永遠のものに維持するために、二人は別々にいて、「肉の様式」、時間とともにやってくる価値の下落を避けなければならないのだ。「なぜ運命は、私たちの間にこのような乗り越えられない障害を置いたのでしょう」という奥方の嘆きの後、公爵は非難めいて答える。「障害などないのです。私の幸せに立ちふさがるのはあなただけです。あなただけが自分を何かの法に従わせている。道徳も理性も、そんなことをせよとは言っていないのに」。それに奥方が答える。「私の頭だけに存在する義務の観念に、多くものをささげているのは確かです」

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p79)

別々に住むという肉の様式、「公爵と結婚しない」という法は、なぜ必要か。

われわれの欲望を妨害する単純な外部の障害と、欲望そのものの根幹をなす、内側の、内在的障害とが対置される。あるいはラカン的に言えば、われわれの必要を外部から規制するものたる法と、内在的裏面、欲望の構成要素であり、結局はそれと同一である〈法〉との対置だ。

ここで重大なのは、「過剰決定」という基本構造である。すなわち、奥方は愛する人と結婚しないと決断する際、二つの理由に従っている点だ。

第一の(道徳的理由)が有効たりうるのは、第二の理由(「内面の平穏」、この先ある苦しみを避ける)によって支持されるかぎりでのことだ。
享楽(ジュイサンス)と快楽(プレジャー)の間の対抗的緊張の中で、象徴の〈法〉は、快楽原則の側にあり、快楽の当てにならない均衡を乱すような、〈現実〉とのトラウマを残す遭遇に対し、障壁として機能する。

まさにその意味でラカンは、象徴の〈法〉だけが、欲望を満たしきることに対する準・自然的障害を、禁止にまで高めると唱えている。

・・・主体の享楽への接近を担うのは〈法〉ではない――むしろそれは、ほとんど自然の障害から、取消線を引かれた主体を創造する。享楽に限界を立てるのは快楽、つじつまの合わない生活をまとめるものとしての快楽だからだ。(21)

不運なクレーブの奥方の場合、この快楽原則が優勢であることは、公爵と結婚しない本当の理由として「内面の平穏」への配慮を言うところに、明らかにうかがえる。奥方は「内面の平穏」すなわち均衡のとれた、恒常性(ホメオスタシス)による生活の方が、情熱的恋愛の苦しみに満ちた不安よりもいいのだ。

亡くなった夫の思い出のために公爵と結婚するのを妨げる禁止は、この快楽原理という「自然の障害」を道徳的禁止にまで高めた。このクレーヴの奥方の境遇から、「欲望は防御であり、享楽で一定の限界を超えてしまうことに対する禁止である」(22)という、ラカンの命題も把握できるようになる。

奥方の公爵に対する欲望を維持し、それを恒久化し、それを絶対なものに高める(公爵との結婚の)禁止は、公爵との関係を完成するという、過剰な享楽の苦しみに満ちた混乱に対する防御なのだ。真の〈法〉/〈禁止〉は、「徳と理性によって」、すなわちそれ自身の外にある代理者によって課せられるのではなく、欲望そのものに課せられる――欲望こそが〈法〉なのだ。

(21)Jacques Lacan,Ecrits : A Selection,New York : Norton 1977.p319.
(22)Ibid.,p332

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p79-81)

元夫を裏切らないという道徳的理由は、第二の理由「内面の平穏」を実現するためでもあった。
内在的障害と外部の法は表裏一体。
クレーブの奥方は、平穏な日々という欲望を充足させるため自身に内在的障害を課し、そして外部においては「結婚しない」という法を設けた。それは、精神的安定を保つ秩序として必要だった。


そう、ここでColaboの話と繋がる。
このクレーヴの奥方のメンタリティは、非常に、Colaboを叩いてる人達と似ている気がする。

クレーヴの奥方の「公爵と結婚しない」という欲望が、「Colabo叩き」に相当する。

そして享楽、ラカン的にいえばそれは現実界に相当するものだが、それはヘイトスピーチミソジニーの発露のような、非常に共感し難い、個人的な感情に基づいた欲動に相当する。

しかし、奥方が愛する人と結婚しないのは、これら二つの理由によるというのでは、話はすまない。奥方がそれらを上げるのは、第三の、もしかしたら決定的な、ある理由を隠すためだと言いたい。

それは享楽、すなわち、慎むという行為そのもの、愛する対象への距離を維持するという行為そのものによってもたらされる満足である。
この逆説的享楽は、対象のまわりを回り、何度もそれを外すことに満足を見出すものという、欲動の動きの特徴である。

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p82)

女性支援団体や、女性それ自身を、叩いて、叩いて、叩き続ける欲動の反復運動に快楽を覚えている。
「Colaboの会計に不正と認められる十分な証拠は無かった」というファクトが出ようが出まいが、「叩く」という行為それ自体に快楽を見出し、その享楽に没頭する。

それはつい最近、たぬかなが指摘したように。

gyakutorajiro.comそして最近、新たに、身長170cm以下人権なし発言で一世を風靡した「たぬかな」という女性が、こんなことを言っていた。

lgbtch.blog.jpこう一年もさ、ネットで私に付きまとう男って可哀想やなとつくづく思うねん

虚勢やなくて、ガチでその立場を案じた時に可哀想と思うねん。

やってさ弱者男性ってホンマに社会的な人権ないからね

男の弱者男性ってほんまの弱者やから生きてるだけでキツイやろ?

やってさ、他に勝てる競技がないねんもん 金すら稼げてない弱者男性の人生ってホンマに。キツいで

そら自分より金もルックスもある、周りからチヤホヤされてる女がたまたま問題起こしたらさ、

おうワイらの出番や!いうて我先にちっちゃい洞穴からわらわらと出てきてさ、徒党組んで生き生きと悪口並べ立てるよな

弱者男性が唯一輝けるのがネットで女をこきおろして叩く、それだけなんですよ

ネットで女をこきおろして叩く、その享楽に浸っていることを、明らかにされてしまった。

だが、そんな醜いヘイト運動を行っていると、そっぽを向かれるかもしれない。
馬鹿にされ、ネトウヨだのミソジニーだのと思われるかもしれない。世間体もよくないだろう。

だからそのヘイト感情を正当化するために、欲望の〈法〉を用意する。

つまり、(クレーヴの奥方の)三つの理由が〈想像界〉、〈現実界〉、〈象徴界〉の三項を指している。象徴界の道徳的禁止、快楽の均衡を求める想像界の配慮、欲動の現実界である。

(「信じるということ (Thinking in action) [ スラヴォイ・ジジェク ]」p82)

その法、道徳的禁止とは、いわゆる自分のヘイト感情を隠し「公金不正利用疑惑の追求」という大義名分、正義の仮面を用意して人前に出て、称賛され、応援されるための〈法〉だ。

gyakutorajiro.comColabo叩きをしている人の中には、バーハウやフロイトがいう転移感情によってミソジニーが醸成されている可能性があるということ。
醸成されたミソジニーと私怨によって、糾弾する対象が無意識的かつ恣意的に選ばれている可能性が高いって話だ。
普通にファクトを優先すれば、五輪談合の方が重大なのに。
なぜ、Colaboなのか。
すなわちそこには、自分の記憶の中にある、女性からの屈辱的な経験や記憶が転移した「転移性ミソジニー」がある。

自分の性的に恵まれない不遇な境遇、過去の欲望の未達によって、ネガティブな感情が醸成され、その嫉妬・怒り・恨み・辛みが、関係のない女性へと転移する。
しかし、その感情を正当化するルサンチマンに一定の品性を纏わせるために「公金不正利用疑惑」という正義の仮面を被る。
だが、その仮面の下には「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という、醜い私怨に満ちた感情が蠢いている。俺を苦しめた女性が苦しむ姿に喜びを見出してしまうというシャーデンフロイデだ。

理性的で、公金不正利用疑惑を追及している、正義感に満ち溢れ、弁が立つヒーローのように思われたい。

それによって、ミソジニー感情が根底にあるのではないのか?」「ヘイトスピーチではないのか?」といった、自分に非難が向けられるという、現実界のトラウマ的事態を避けることができる。

まとめると、ジジェクがいう象徴界の道徳的禁止が「Colaboへの公金不正利用疑惑の追求」であり、欲動の現実界「仁藤夢乃…女…腹立つ…叩いてやろう」というヘイト感情とバッシングの反復だ。
そして、想像界の理性的配慮によって、私的な快楽の充足(現実界)と、公益に寄与する正義(象徴界)のバランスを取ろうとする。

もし、公金不正利用疑惑という〈法〉(大義)もなく女性支援団体を叩いていたら、単にヘイトスピーチを流しているヤバい人だと思われて誰も相手にしてくれない。
そのために理性(想像界)を働かせ、法(象徴界)という制限の中で、誰にも共感されない欲動の享楽(現実界)に至ることがないよう、象徴界の中で、快楽の充足(Colabo叩き)を行う。

だが、その3つの均衡が狂った。

どこが狂ったかというと、象徴界(法)だ。

自分の中の正義、見立てでは「Colaboは公金チューチューをしている団体、私たちの税金を無駄遣いしている」と、考えていた。
だがそれは「厳然たる現実」ではなく「自分がそう欲望する秩序」に過ぎなかった。
現実は、たった192万の会計不備が明らかになっただけだった。

mainichi.jpそんなわけあるか?
Colaboは悪い団体だろ?そうだろう?そうに決まってる!なんでだ!?
ちゃんと監査したのか?
おーい!!


と、納得できない現実。

なんでだよ…うーん、待てよ。
この資料に、1食8300円だと・・・これだ!


そう、資料の中で、自分が欲望する〈法〉、「コラボは悪い団体」という秩序を証明するために、最も都合のいい情報を取捨選択する。

東京都監査事務局の監査結果において、「Colaboは悪い」ということを示す、最もインパクトのある情報を拾い上げる。
すなわち、以下の⑤番だ。

① 20,990円 食事代 12名(1人当たり1,749円)
② 29,710円 食事代 6名(1人当たり4,952円)
③ 21,330円 食事代 8名(1人あたり2,666円)
④ 54,340円 食事代 16名(1人当たり3,396円)
⑤ 66,396円 食事代 8名(1人当たり8,300円)
⑥ 41,699円 食事代 6名(1人当たり6,950円)
⑦ 27,587円 食事代 10名(1人当たり2,759円)
⑧ 21,750円 食事代 10名(1人当たり2,175円)

https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/08jumin/4jumin/4jumin5_sochi2.pdf

だが意識的にも無意識的にも、自分が欲望する象徴界の〈法〉を十全に機能させるために、「都合の悪い情報」は消す。

東京都監査事務局の調査において、この食事代はたった1件であったという事実。
弁護団声明による反論という事実。

colabo-official.net まず、「一回当たりの支出が比較的高額なレストランでの食事代」は、2万円以上のレストランの領収証のことを指すと思われます。高額にみえるかもしれませんが、これは大人数での食事代(ひとりあたり1750円~3400円程度で令和3年度の1年間で5回程度)でした。

 また、一人当たりの食費がそれ以上になることが3回程度ありましたが、Colaboの支援対象の女性のお祝い事をするためでした。支援事業において女性との面談等において飲食店を使う際にはファミリーレストラン等の単価の低いレストランばかりですが、この時はお祝い事のため、比較的高額となったにすぎません。たまに行うお祝い事の値段としては特段問題になるほどの金額ではないと思料しておりますし、Colaboに関わる女性たちの多くは生育環境に複雑な問題を抱えており、誕生日や進学、就職などを祝われるという経験がこれまでなかった若年女性もいます。そのようなことも踏まえると、時に、親しい人とお祝いの気持を分かち合う食事の席を経験する機会をもうけることも、重要な若年女性支援事業の一環であるとColaboは考えています。

これらのファクトを無視して、「Colaboが(日常的に)一食1人8300円の食事をしている」という、自らが欲望する〈法〉=幻想を作り上げる。


風見鶏のひろゆきが援護してくれたのもラッキーだった。

getnews.jpひろゆき氏「Colaboが都民の税金で一食1人8300円の食事しても問題ない事になりました」「まともに働いて納税するより公金チューチューした方が豊かに暮らせますね」

ひろゆきも言ってるぞ!
権威付けがされ、情報がまるで正確であるかのように、自分の欲望に合致するように都合よく解釈する。

「8300円が1回だった」というファクト、そんなのは関係ない。
そう、都合の悪い情報は削ぎ落す。

自分の欲望を満たすため、自分の欲望の秩序に不適切な情報は、ファクトだろうが関係なく排除し、それを隠蔽したり、元の情報を捻じ曲げる。


なんでそこまでして、叩きたいのか?

それについては、自分自身に問いかけるしかない。
自分がColaboを悪とする社会を望んでいるのはなぜか、そういった欲望が自身に存在するのはなぜか。

それは例えば、以前も述べたように性的不遇や経済的コンプレックス、女性からの仕打ち等が影響している可能性もある。
快楽(現実界)が満たされることなく、抑圧の日々の中で乱れていく自我、瓦解寸前の自尊心、どうすればいい…そこで、寄りすがったのではないだろうか。

「Colaboは悪い」「仁藤夢乃氏も、女性支援団体も、公金で支援される女性も悪い」という物語を。

その物語(幻想)を内面化すること、そして快楽の充足を、パートナー獲得から女叩きに置き換えることで、今までの人生で遭遇した自分自身の性的不遇を、無意識的に解消しようとしているのではないだろうか?

天童荒太が言ったことは正しいかもしれない。

gyakutorajiro.com天童荒太は、人間には物語が必要だといった。

人間は映画に出てくる森田のような、厳しい現実を突き付ける存在には耐えられない。

だが事実ではなく、削ぎ落したり捻じ曲げた事実、ファクトを無視して、人を叩いていいものだろうか?
それが理性のある、節度のある人間が、することなのかよ!?

だから全く応援できない。
Colabo叩いてる連中は。
正義を振りかざしたいなら、自分の欲望ではなくて、ファクトに忠実になるんだな。

もしファクトではなく自分の欲望で誰かを糾弾しているのに気づいたなら、「Colaboを叩かなきゃ」という感情は今すぐ捨てた方がいい。
このお題にもピッタリだな。

ミソジニーやヘイト感情といった個人的な欲望で誰かを糾弾する行為なんかやったところで、生活水準やQOLが向上することなんてない。

自分の生活、人生を向上させることに向き合った方がいいと思うけどな。