逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「肉屋の女房の夢」についてのフロイトとラカンの夢分析およびその応用

6月なのにもう梅雨明けで暑い日が続くからだろうか、怪談っぽい夢のツイートが話題になってたね。

togetter.com夢についてはフロイト夢分析が有名だろうな。
フロイトによれば「夢とはつねに、そこで欲望が実現されるような何か」「夢は願望充足である」っていうのが有名ね。

ラカンも夢については、「肉屋の女房の夢」の分析において、フロイトの夢解釈をさらに具体的にしていたので、紹介しよう。

まず肉屋の女房の夢について。登場人物は4人。


【登場人物】
・女性患者(肉屋の女房。ヒステリー症状があるのだろうか、フロイトの患者)
・夫(女性患者の夫)
・女友達(若い娘)
・画家

私は、夕食をご馳走したいと思っている。しかし、燻製の鮭が少々あるほかは、食糧が何もない。買物に出かけようと思ったが、日曜の午後で、店はどこも閉まっていることを思い出す。よく買物をしている店に電話しようと思ったが、電話が故障している。それで、夕食をご馳走しようという望みを諦めなければらない。


フロイト、「夢判断」「フロイト著作集2」、人文書院 154-155頁。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p165)

これをフロイトはどう解釈したか。

この女性患者の夫は卸の肉屋で、実直な、とても働き者の男である。彼は数日前、妻に言った。
かなり太ってきたし、やせるための療法をやってみようと思う。早起きして、運動して、かなり節食して、もう夕食に招かれても受けないことにしよう、と。彼女は笑いながら話し続けた。

夫は、行きつけの料理店の、常連たちのテーブルで、一人の画家と知り合いになった。この画家が、夫をモデルにして絵を描きたがった。こんなに表情に富んだ顔を、まだ見たことがないからだという。しかし、夫はいつもの粗野な態度で答えた。たいへんに感謝しますが、若いきれいな娘のお尻の方が、私の顔よりあんたの気に入るでしょう。

この女性患者はいま、夫に夢中であり、たえず夫をからかっている。キャヴィアをくださらないでね、と夫に頼んだこともある。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p166)

フロイトは「若い娘」についての話を、女性患者からおそらく聞いた。この若い娘は、女性患者のことか、それとも女友達のことだろうか。
ラカンによると、女友達のことらしい。(それについては後述)

「実は、彼女は以前から、毎朝キャヴィアを塗ったサンドウィッチを食べたいと思っているのだが、この出費を自分に禁じている。」――あるいはむしろ、彼女はそうした許可を自分に与えないのです。

「むろん、夫にそのことを言っていたならば、すぐにキャヴィアを手に入れていただろう。しかし、彼女はそのことでなるべく長い間夫をからかうことができるように、反対に、キャヴィアをくれないように夫に頼んだのである。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p166)

フロイトが、女性患者の無意識に迫っていく。

私はもう一押しする。抵抗を克服しなければならないとき決まってそうするように、しばらく経ってから、彼女は私に言った。

彼女は昨日、女友達の一人を訪ねた。この友達に対して、彼女はかなりやきもちを焼いているのだが、それは、夫がいつもこの友達をほめそやしているからである。ありがたいことに、この女友達はひどくやせっぽちで、自分の夫は豊満な女が好みである。

では、このやせた女友達が何を話題にしたのだろうか。むろん、もっと太りたいということである。女友達は、彼女にこう尋ねた。『私たちをいつまた夕御飯に招いてくださるの。あなたのところでは、いつもたくさん食べるのよ。』

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p167)

欠けているピースが揃っていく。フロイトは、さらに女性患者に問い、その夢の正体を明らかにする。

あの燻製の鮭はどこから夢のなかにやって来たのでしょうね

――彼女は答える。
ああ、それは私の友達の大好物なのです。

偶然にも、私はその女性を知っており、この女友達なる人が、ちょうど私の女性患者がキャヴィアに対してしているのと同じ振舞いを、燻製の鮭に対してしていることを知っているのである。※

フロイト「夢判断」p125-126

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下p167)

なるほど、女友達も燻製の鮭を、夫に出会うために、女性患者の家で食べたい。そのためには、キャヴィアを拒否する女性患者と同じく、日常生活では燻製の鮭を食べていないんだろうな。

夫はモテモテってことか。

ラカンはこのフロイトの解釈に対して、こう付け加える。

キャビアの欲望は、夢の中ではいったい何によって表されているのでしょうか。それは、夢のなかに現れている人物、つまり彼女が同一化している女友達という媒介によって表されています。

フロイトは、この女友達についていくつかの特徴を指摘しています。女友達もまたヒステリー者であるのかどうかは、重要ではありません。すべては純粋にヒステリー的です。

女性患者はヒステリーであり、もちろんもう一人もそうです。そして、このことは、ヒステリーの主体がほとんどすっかり〈他者〉の欲望から出発して構成されるだけに、いっそう容易にそうなるのです。

夢の中で患者が伝えている欲望とは、女友達のお気に入りの欲望、つまり、鮭の欲望であり、女性患者が夕食をご馳走できないまさにそのときでさえ、彼女には燻製の鮭だけが残っています。
この燻製の鮭は、〈他者〉の欲望を指し示しているのですが、同時にそれを、満たされることのできるものとして、しかしもっぱら、〈他者〉に対してのみ満たされることのできるものとして、指し示しています。「そもそも、心配することは何もない。燻製の鮭がある」というわけです。


(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p172)

「燻製の鮭がある」ということは、女友達はまだ、この鮭を食べることができていない。女性患者にとっては、この状況が大事みたいだ。

だからといって、夢は、彼女が女友達にそれをご馳走してあげることになる、とは言っていません。しかし、意図はそこにあります。

その代わりに、女友達の要求、夢の発生的要素が放置されたままになっています。女友達は彼女に、夕食に招いてくれるよう要求しました。

彼女のところで女友達はたくさん食べますし、そのうえ、男前の肉屋に会うことができます。この愛想のよい夫は、いつも女友達のことをほめそやしており、彼もまた頭のなかにささやかな欲望を持っているに違いありません。

そして、彼を描きたい、彼の非常に興味深い、表情に富んだ顔をデッサンしたいという画家の申し出に関して、非常にすばやく喚起されている若い娘のお尻は、まさしく、彼の欲望を示すためにそこにあるのです。

 

要するに、めいめいが、強さこそ多少違いますが、表に現れている以上の、ささかやな欲望を持っているわけです。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p173)

以上の、フロイトラカンの分析を、ラカンのシェーマ(図式)に記入すると、以下のようになる。

この図は「ソフィスト達の「結婚できないのはあなただけじゃない」という奴隷道徳($◇a)の供給と内面化によって自らの自尊心や存在意義を保つ」等の記事で紹介している欲望のグラフの完成図とは少し違う。

何段階か前の欲望のグラフだが、今回の女性患者の夢を説明するには、この欲望のグラフの方が適している。

シェーマに描かれてる記号については、随所で説明されている。以下のラカンの説明に従って、「肉屋の女房の夢」の内容を反映したのが、上の図という感じ。

最初の行は、一方の側にある欲望の小文字dを、他方の側にあるaのイメージと、mつまり自我(モワ)に――主体と小文字のaとの関係を介して――結びつけます。

第二行目はまさしく要求を表しており、欲望との関わりにおける〈他者〉の位置(ポジション)を経由して、要求から同一化へと向かっています。こうして、〈他者〉は分解されているのがお分かりですね。〈他者〉の向こうには欲望があります。この行の途中には、Aのシニフィエがあります。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p138)

〈他者〉の向こうの欲望・・・A◇d
A(他者)のシニフィエ・・・s(A)


三行目については、以下のように説明されている。

別の言い方をすれば、まさしく〈他者〉の欲望が横線で消されている限りにおいて、主体は、横線で消された自分の欲望、自分自身の満たされていない欲望を認識するようになるのです。主体が、自分のもっとも本来的な欲望、つまり性器的欲望に出会うのは、〈他者〉の媒介によって横線で消された欲望においてです。
まさにこうした理由で、性器的欲望は去勢によって、言い換えればシニフィアン・ファルスとのある関係によって、徴し(しるし)づけられています。これはら、二つの等価なものです。

(中略)

実際、パロールと超-パロール la sur-parole、父の法、これをどのように名づけるのであれ、これらのものの彼方には、全く他のもの bien autre choseを要請することができます。まさにこうした資格においてこそ、ファルスというこの選択的シニフィアンが、もちろん法が据えられているのと同じ水準で、導入されます。通常の条件では、ファルスは〈他者〉との出会いの第二段階に位置しています。私のささやかな定式では、私はこれをS(Ⱥ)、横線で消されたAのシニフィアンと呼びました。問題になっているのは、まさしく、先ほど私がシニフィアン・ファルスの機能として定義したものです。シニフィアン・ファルスの機能とは、〈他者〉が、シニフィアンによって徴しづけらえた者として、つまり横線で消された者として徴づける、という機能です。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p175)

〈他者〉の欲望が横線で消されている限り・・・S(Ⱥ)
横線で消された自分の欲望、自分自身の満たされていない欲望・・・$
シニフィアン・ファルスの機能・・・Φ(グラン・フィー、象徴的ファルス)

まとめると、こうなる。

まず、女性患者(肉屋の女房)の自我 m は、大文字の他者であるAに向かう。
このAは、夫や女友達だ。
夫は、女友達や画家のシニフィアンの要求を受け、s(A)に向おうとする。
夫は画家を利用して、女友達を呼びたいと思っているが、女房(女性患者)は夫が若い娘のお尻(女友達)に夢中になってしまうことを警戒している。

女房の欲望(d)は、欲動の公式($◇D)に向かう。
ここは、要求と欲望の裂け目であり、女房はヒステリーの危険に晒される。

女友達の要求(D)は、決して受け入れたくないという欲望がある。
女友達と会わない夫(対象a)を求める女房は、「キャヴィアをくださらないでね」という夫へのからかいによって、理想の夫を求め続ける欲動の循環運動を行う。

キャビアを拒否し続ける」ことで、夫の安心を妨げ、より夫との関係を強固にできるということらしい。

このヒステリー者は、彼女の夢よりも前に、生活のなかでは何を要求しているのでしょうか。夫に惚れ込んでいるこの女性患者は、何を要求しているのでしょうか。それは愛です。ヒステリー者たちは、誰もがそうであるように、愛を要求しています。


ただし、患者たちにおいては、それはより厄介なものです。女性患者は何を欲望しているのでしょうか。彼女は、キャヴィアを欲望しています。必要なのはただ読むことだけです。そして、彼女は何を望んでいるのでしょうか。彼女は、キャヴィアをもらわないことを望んでいるのです。

問題なのは、まさにこういうことです。すなわち、ヒステリー者が、彼女を満足さsるような愛情に満ちた関係を保つためには、第一に、彼女が「他のもの autre chose」を欲望することが必要であり――キャヴィアはここでは他のものであること以外の役割は持ってはいません――第二に、この「他のもの」が、それがしかるべき役割をみごとに果たすためには、まさしくそれが彼女には与えられないことが必要であるのはなぜか、ということです。

彼女の夫にとって、彼女にキャヴィアをあげるのは願ってもないことなのだが、そうするとおそらく彼は少し安心してしまうだろう、と彼女は想像しています。しかし、フロイトがはっきり述べているのは、彼女は夫がキャビアをくれないことを望んでおり、それは、熱烈に愛し合うこと、つまり、果てしなく相手をじらし、お互いからかい合うのを続けられるようにするためである、ということです。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p170-171)

女房による「キャヴィアの拒否」によって、夫も女友達も、接触を果たすことができない斜線を引かれた存在S(Ⱥ)となる。

また、このような女房の欲望の源泉、その彼方に、先述の図の第三行目、Φ(象徴的ファルス)が存在している。

この象徴的ファルス(シニフィアン・ファルス)の解釈は難しいが、「欲望の対象」というか、「欲望の源泉」という感じだろうか。
対象ではないということは、代替可能性がありそうな気がする。

ご覧の通り、フロイトはそこでためらいもなしに、シニフィアン・ファルスを導入します。彼が分析のなかでそれ自体として強調しなかった唯一の要素とは――我々にもやるべきことを残しておかなければなりませんでしたので――まったく驚くべきことですが、こういうことです。

すなわち、ファルスに対する主体の振舞いの曖昧さは、すべてジレンマのうちに、つまり、主体は、このシニフィアンを持つことができるか、それともそれであることができるかのいずれかであるという、このジレンマのうちにあるということです。

このジレンマが生ずるのは、ファルスが欲望の対象ではなく、欲望のシニフィアンだからです。このジレンマは絶対に重要です。それは、去勢コンプレックスのあらゆる横滑り(グリスマン)、あらゆる変質、私ならあらゆる奇術といいますが、その根底にあります。

どうしてファルスがこの夢のなかにやってくるのでしょうか。いま述べた見方からすれば、ファルスそれ自体として、フロイトの文句――「Das ist nicht mehr zu haben」すなわち「もう手に入りません」――をめぐって、このヒステリー女性の夢のなかで現勢化されたのだと言ったとしても、言い過ぎであるとはまったく思いません。

(中略)

これはもちろん、私が前面に出している考え方と一致しています。それは、ファルスとはシニフィアンであり、誰がこれを持っていないかと言えば〈他者〉が持っていないシニフィアンである、という考え方です。実際、ファルスで問題になるのは、言語(ランガージュ)という平面において分節化される何かであり、そしてまた、それ自体として〈他者〉の平面上に置かれる何かです。それは〈他者〉の欲望として分節化されるような欲望のシニフィアンです。

(引用元:ジャック・ラカン「無意識の形成物」下 p192-193)

このシニフィアンは、女友達という〈他者〉の平面上に置かれている。
夫の女友達への欲望、それは執着と反復性を備えた欲動(享楽)となり得る。
画家の要求は、女房がその要求を女友達の尻と結びつけてしまうように、まさにその尻が欲望のシニフィアンとして、女房に向ってくる。

もしこのシニフィアン・ファルスがなければ、女房自身がこのファルスを手に入れることができれば、この夫に執着する必要性がなくなったり、ヒステリー的なジレンマからも解放される気もするな。

欲望の対象の夫ではなく、女友達という他者によって規定される、夫が求める欲望のシニフィアンだろうか。


その他者によって生まれる欲望のシニフィアンは、女房からすれば、受けいれることは出来ない。

女房は、他者の要求と、自らの欲望の裂け目で苦しんでいる。

それに対応するために、"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]という夢を生み出して対応し、何とか自我を保っているという感じだ。

以上が「肉屋の女房の夢」について、主にラカン的な解釈で、紐解いてみた内容だ。

さて、翻って、ツイッターで話題になっていた「汚い部屋で女性と同棲する夢」はどうだろうか。

フロイトラカンの言うように「他者の要求を打ち消して自らの願望充足を実現する」というのであれば。

「男女の下着」「知らない女性」が同じ空間にあるということは、まず、知らない女性は誰かとの性的関係を彷彿とさせる。
4日目の夢で、知らない男性が2人いたということは、その女性はその2人の男性とも関係を持っているのだろうか。性に奔放なのだろうか。何にせよ知らない女性は、「見知らぬ男性2人」との関係性を彷彿とさせる点で、男性を要求している気がする。

そして「下宿の部屋が汚い」「煙草」「部屋の煤け具合」「ホコリだらけのスノコ」「古びたタイル」というのは、その女性と明らかに結びついてる。

しかしその要求に、「同棲」という形で、ツイ主は割って入る。
つまりツイ主は、その見知らぬ女性の要求を、「同棲」という形で、拒否する。
肉屋の女房が、「キャヴィアの拒否」を行ったように。

汚れている女性からの要求。
それを「同棲」で拒否するということ。

つまりそれは「女性が奔放に生活することの否定」ではないだろか。

つまりツイ主は、勝手な個人的推測だが、「ある女性に奔放な行為をされて傷ついた」「女性に何らかの仕打ちを過去に受けた」可能性があるのではないだろうか。

それゆえ、この夢には2つの可能性が浮かび上がる。

(1)「同棲」によって、女性の奔放さを受容しようという願望
その場合、自己変革したいという欲望の充足になる。ショッキングな出来事があっても、耐えられるようにするための準備として、その夢は役に立つ。

(2)「同棲」によって、女性の要求を拒否し、自分の欲望に適った女性を獲得しようとする願望
女性患者(肉屋の女房)がキャビアの受け取りを拒否したの同様に、女性の要求を否定することで、常に奔放ではない、自分に対してのみ強い愛を注いでくれる情熱的な女性を求める欲望。

「またここに来たのね」というのは、見知らぬ女性の要求(他の男性との接触)が未達となったがゆえに残念だというツイ主への嫌味か。

であれば、(2)の可能性が高いかも。

まあ情報が少ないから何とも言えないけどね。

何にせよ、夢には必ず他者の欲望、および他者の欲望が具現化された要求が、混じっているのではないかという話でした。