綾野剛主演の、オールドルーキーの第1話を見た。
www.tbs.co.jp普段テレビドラマはあまり観ないが、綾野剛は好きな俳優なのでチェックしている。
ガーシー(東谷義和)に後ろ暗いものを暴露されてはいるが、ガーシーも「ちゃんと謝罪して、やり直したら、ええやないか」「剛は男性のファンとかもようけおると思うぞ」的なことを言っていたように、綾野剛は同性も惹きつける魅力がある。
映画「日本で一番悪い奴ら」であったような、良心の呵責なく目的のために悪事を繰り返すハードボイルドさとか、ドラマ「アバランチ」で見せたようなアクション等が、男性の同一化対象としても魅力なんだろうな。
特にアバランチの第5話「夜明け」は、絶望の淵に立たされた男、羽生誠一(綾野剛)が、職場の社長の一人娘である和泉あかり(北香那)との出会いと出来事の中で、再生に進んでいく素晴らしい神回だった。
www.fujitv-view.jpしかしオールドルーキーは、第1話を見るからに、アバランチほどのカタルシスを得るのは難しい印象はあったかな。
気になったシーンがある。
新町亮太郎(綾野剛)が、子どもたちと共に、自分が活躍した2009年6月16日のワールドカップアジア予選の映像を、何度も何度も視聴する。
この「録画された過去の映像を何度も見る」という行為は、美化された記憶の反復行為であり、ニーチェがいう永遠回帰だ。
ニーチェは永遠回帰を「科学的な事柄」「宇宙の根本的な運動」としたが、具体的にはどのような現象なのか。
過去の文献や出来事などを紐解くと、大きく分けて永遠回帰は3つに分けられる。
・欲動の反復強迫
・現実逃避・自己憐憫の反復強迫
・差異へ向かう反復強迫
それぞれ、見て行こう。
1.欲動の反復強迫
この永遠回帰は、フロイトにおける死の欲動、ラカンやジジェクが語る対象aを求め続ける享楽、に該当する。
まずフロイトが語る反復強迫は、以下の論文やサイトの説明が詳しい。
患者は抑圧されたものを医師が望むように過去を追憶する代わりに,現在の体験として反復するように余儀なくされる。フロイトは,被分析者の抵抗が自我から生じ,それに続いて起きる反復強迫は意識されぬ抑圧されたものに由来すると考える。意識的な自我と前意識的自我の抵抗は快感原則に奉仕しているが,反復強迫はたいてい自我に不快をもたらす過去の体験を再現する。
転移や人の運命には,快感原則の埒外にある反復強迫が存在すると仮定できるし,災害神経症者の夢と子どもの遊戯本能もこの強迫と関係するとみる。
反復強迫と直接的な快い衝動満足とは緊密に結合し,転移の現象が抑圧を固執している自我の抵抗に奉仕しているのは明らかであるという。ここからフロイトは,「反復強迫が快感原則をしのいで,より根源的,一次的,かつ衝動的である」と考える。(引用元:https://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000004588/19-190.pdf)
快感原則の埒外、にあるもの。それが反復強迫だと。
死の欲動とも言っている。
dokushoboyo.com だが、文化の進歩は一方で、戦争を美的観点から拒否する反戦論者を生むことにもつながっているという。
フロイトによれば、文化の進歩には二つの特徴があり、それは欲動を制御するようになることと、それが主体の内部に向かうようになることだ。この点に関するフロイトの説明は不明瞭だが、内部へと向けられた攻撃性を内在化させた人々の中から戦争に対する嫌悪感を生理的に持つ人が生まれることを言いたかったのかもしれない。
フロイトは最後に、このような平和主義者が主流になるまで、われわれは待たなければならないと締めくくっている。
しかしそれは後期のフロイトの見解のようで、初期は快感原則との関係性も語っていたようだ。
digitalword.seesaa.netS.フロイトは初期には反復強迫の症状を、『無意識的願望の充足の障害』と解釈したり『現実的な苦痛や不安の回避』と理解しようとしたりしたが、晩年のフロイトは『エロス(生の欲望)』と『タナトス(死の欲望)』との中間領域に生起する力動として反復強迫を位置づけた。快楽を求めて不快を避けるという『快感原則(快楽原則)』の彼岸に、万物を自然的な死(無機物)の状態に還元しようとする『タナトス(死の欲望)』が生まれるのであり、タナトスはリビドーの欲動の量をゼロ(静止)に近づけようとするのである。
下記サイトにて引用してくれているフロイトのテキストにも、死の欲動とは異なる、フロイトの反復強迫への言及を垣間見ることができる。
kaie14.blogspot.com【快原理の彼岸(1920年)】
精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格 dämonischen Zuges といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成 Symptombildung によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫 Wiederholungszwang と別個のものではない。
あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。
もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかに強くわれわれの心を打つ。
一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎに三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(……)
以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。もちろん、反復強迫の作用が、他の動機の助力なしに純粋に把握されるのは、ごくまれな場合であることを知っておく必要がある。小児の遊戯のさいに、われわれは、その発生についてどのような別種の解釈ができるかをすでに指摘した(糸巻き遊び fort-da)。
反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い欲動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。転移の現象が、抑圧を固執している自我の側からの抵抗に奉仕しているのは明らかである。治療が利用しようとつとめた反復強迫は、快原理を固執する自我によって、いわば自我の側へ引き寄せられる。
運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多いと思われるので、新しい神秘的な動機を設ける必要はないように思う。もっとも明白なのは、災害の夢であろうが、ほかの例でも一層くわしく吟味すると、われわれがすでに知っている動機の作用によってはつくしがたい事態のあることをみとめなければならない。反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 ursprünglicher、一次的 elementarer、かつ衝動的 triebhafter であるように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
確かに欲動は、欲望の欠如を満たすそうと際限なく運動を続けるため、それを追い求め続けることで死に接近する危険性が生じる。
そのことについては、ラカンおよびジジェクのテクストとともに、以下の2記事で説明した。
gyakutorajiro.comしかし上記記事で紹介している、闇金ウシジマくんにおける出会い喫茶での遊び、オ●ホールでの自慰、ホスト遊び等は、その過程において、快楽物質の分泌や満足感等を得ているゆえ、快感原則の埒内にある。
快感を再体験するため、永遠回帰させるために、タイガーウッズやアンジャッシュ渡部のように何度もそれを求める。
結果的に、快感を求め続ける依存症となり、象徴界の社会的規範やモラルを無視し、肉体を酷使することも厭わないという点で死に接近している。
つまり快楽を追い求め続ける欲動の反復強迫は、快感原則の埒内の行為ではあるが、段階的に快感原則の埒外へと向かう、死の欲動に至る病(ラカンやジジェクにおける享楽)だともいえよう。
また、このようなケースもある。
欲動に従い快楽を追い求める東出昌大やアンジャッシュ渡部を糾弾する正義中毒の主婦や。
www.jprime.jp老人に多い、モンスタークレーマーだ。
business.nikkei.comこれら主婦や老人も、実は、タイガーウッズや東出や渡部と同じような快感を得ている可能性がある。
もちろん、行っている行為は全く違う。
しかしクレームを言うことで、「日常生活の他のストレスや怒りを発散できる(陰性転移)」効果があり、「相手から謝罪をされる」「共感してくれる"いいね!"の数がどん増えていく」際に承認欲望の充足も得られている。
そのため、クレームを言う際に、心地よさを得ることができる欲動の回路が、クレーマーには形成されており、クレームを止めることができないクレーム依存症になっている。
実は糾弾している東出や渡部と同じように、クレームを言うときに興奮状態になっているという点で、ドーパミン等の生物学的快楽物質が出ている可能性は高い。
またSNSでは、クレームを言う事で共感の痕跡である「いいね!」やリツイート等の承認欲望の充足にも貢献するため、欲動の反復強迫は、自らの快楽の充足のために行われているといえよう。
2.現実逃避・自己憐憫の反復強迫
現実逃避・自己憐憫の反復強迫については、当サイトの様々な記事で、一番多く語っているだろうな。これはルサンチマン(奴隷度徳)の信仰等による、現実や不快な出来事を抑圧する防衛機制とも言える。
例えば音楽を聴く行為。イルカの「なごり雪」やケツメイシの「さくら」やofficial髭男dismの「Pretender」等、振られた現実や、好きな人を手に入れられなかった現実を抑圧したり合理化するために、反復強迫としてこれらの音楽は何度も再生されて人気を博している。
gyakutorajiro.com植木等の曲を何度も聴く、ちびまる子ちゃんのヒロシ。
gyakutorajiro.com命にかかわること以外、どーでもいいことばっかりだよ
いうニヒリズムによって、自分の現状を肯定する。
ニーチェがいう、ルサンチマンを信仰する人間であり、ニヒリズムに従属するラストマン(末人)とも言えよう。
diamond.jp 最高の価値を失った人間に、ツァラトゥストラは、ニヒリズムの最も極端な形式とされる「永遠回帰」を説きます。本書の第4部で、ツァラトゥストラは「超人」を教えるべく、「永遠回帰」と「運命愛」の思想を広めようとするのです。この世界には、「神の創造」による始まりもなければ、「最後の審判」という終わりもありません。キリスト教では、神の国を目指して過去から未来への直線的な世界観がありました。しかし、神が死んだニヒリズムの世界では、生が意味も目標ももたず、創造と破壊を無限に繰り返す円環状の世界となります。映画『ニーチェの馬』(タル・ベーラ監督、ハンガリー映画、2011年)では、この無意味な世界観を独特な映像美で表現しています。
「君は今生き、またこれまで生きてきたこの生を、もう一度、いな数限りなくくり返し生きねばならず、そこには何の新しいこともなく、すべての苦悩も快楽も思想もため息も、君の生のすべてが最大もらさず再来し、いっさいは同じ系列と順序に従う」(同書)意味もなく同じことの繰り返しという「永遠回帰」の世界においては、未来への希望もなく、いっさいが空しくなります。「永遠回帰」はニヒリズムの最高形態です。
平日、サラリーマンで苦労している人間は、土日や休日に自然環境に行こうとする。
gyakutorajiro.com資本主義的イデオロギー空間からの逃走。何度も何度も、森へと足を運ぶ反復強迫。
もし、amazonのCMに出ている若葉達也に、会社でのストレスが無かった場合、その反復強迫は起きなかったかもしれないね。
またフロイト的に言えば、「欲動の反復強迫」はエスの領域で起きており、「現実逃避・自己憐憫の反復強迫」は、エスが暴走しないようにするための、現実原則の領域で起きている。
しかし、抑圧されたものもまたエスの中に流れ込んでおり、エスの一部にすぎない。それゆえ、抑圧されたものは、抑圧抵抗を通して自我とはっきり分かたれてはいるものの、エスを通せば自我と通じ合うことができる。
すぐ分かるように、我々がこれまでの病理学からの示唆に基づいて記述していた様々な区分は、その大半が、心の装置の表面に広がる―我々が唯一知っている―諸相に関わるものにすぎない。以上の連関は、敢えて素描することも可能だろう。むろんこの場合、輪郭線はあくまで叙述の便をはかるためだけのものであって、そこに特別な解釈がこめられているわけではない。
もうひとつ付け加えておくと、自我は、「聴覚帽」を被っており、しかも脳解剖学によって証明されているように、それは片一方の側だけに限られている。聴覚帽は、自我のいわば斜め上に載っているのである。
たやすく理解できようが、自我はエスの一部であって、エスが外界の直接的影響を通して知覚―意識による調停のもとに変容したもの、言ってみれば、エスの表面分化の延長上にあるものである。自我は、エスならびにエスの意図に外界の影響がきちんと反映されるよう努力し、エスのなかで無際限の支配を奮っている快原理を現実原理に置き換えようとする。
自我にとっての知覚の役割は、エスのなかで欲動が占めている役割に等しい。
つまり、自我は、激情をはらんだエスとは反対に、理性や分別と呼べるものの代理をしているということである。
(引用元:『フロイト全集〈18〉―自我とエス』p18-20)
エスの欲動が求める対象を「手に入れられない」「達成できない」ゆえ、現実原則の自我によって抑圧する。
そのための抑圧装置として、音楽を聴いたり森へのトレッキングを行う反復強迫も、その一つだ。
3.差異へ向かう反復強迫
これはフロイトが語る糸巻き遊び、戦争神経症は、これに該当する。反復によって現状の打破を試みる力への意志とも言える。
www.philosophyguides.orgただ、ここで「反復強迫」に着目したい。反復強迫は、快をもたらす可能性のない過去の経験を呼び起こす。災害神経症はその一例だ。患者の意識は、不安を形作ることで刺激を克服しようとしているように見える。その意味で、反復強迫は快感原則よりも根源的と言えるのではないだろうか?
有機体は最終的に、自己を無に帰そうとする。私たち人間の死は内的な原因によるものだ。それは適応であり、目的である。ここには、有機体の早期の状態を回復しようとする欲動、すなわち死の欲動が働いていると考えることができる(もっともこの知見は、生物学の進展によっては無効となる仮説かもしれないが)。快感原則は生の欲動(エロス)ではなく、死の欲動(タナトス)のもとにあるのではないだろうか?
快原理の欲動の苦しみから立ち現れる死の欲動としての反復強迫も語っているが。
記憶の回帰によって不安を形作り、その原因となった不快な出来事を乗り越え、現状を変革するための反復強迫にも言及している。
hojo-lec.hatenablog.comフロイトはまた、自身の幼い孫が、母親の不在時に飽きずに行っている〈糸巻き遊び〉からも示唆を得ます。糸巻き遊びとは、ベッドに腰掛けた孫が糸巻きをその向こう側に投げてみえなくし、糸を巻いて手許に戻す、またそれを放擲する一連の動作を指していますが、孫は糸巻きを投げるときに「Fort(いないいない)」、引き戻すときに「Da(いた)」との言葉を発します。彼はこれを、孫が母親を糸巻きに見立てて象徴的に殺害し、また復活させることを繰り返し、母の不在=死を恒常的に経験し、死に対する耐性を構築しているものと解釈します。
糸巻き遊びの反復によって、子どもは母親不在の分離不安を乗り越える自我を獲得する。
ニーチェは「現実逃避・自己憐憫の反復強迫」のような、ルサンチマンの信仰やニヒリズムの従属によって永遠回帰を受け入れる侏儒やヘビやワシを非難した。
www.ksc.kwansei.ac.jp このニーチェの想定している「永劫回帰思想」が、俗にいわれいている「輪廻思想」とは違うということを特筆しておきたい。インドなどに見られる「輪廻思想」は、「バラモンは死んでもバラモンに生まれ変わる。バイシャは生まれ変わってもバイシャ」というように、人間の力を乗り越えたところで輪廻が行われていると言えよう。したがって、「輪廻思想」を享受している現在のヒンズー教徒の中には、ある種の諦めの感が存在している。いってみれば、この手の「輪廻思想」を説く人は、背面世界論者、決定論者になりやすいのである。ところが、ニーチェはこのような背面世界論者、決定論者に対して批判を加えてきた。ニーチェが想定している「永劫回帰」の中では、人はただその流れに身を任せているのではなく、人間それぞれが超人となる努力を積まなければならないのである。
ツァラトゥストラは、侏儒が「あらゆる心理は曲線である。時も円環をなしている」といったことに対して、怒りをあらわにしている(『幻影と謎』参照)。
また、ツァラトゥストラの蛇と鷲が「一瞬一瞬に存在は始まる。それぞれの『こころ』を中心として『かなた』の球は回っている。中心は至る所にある。永遠の歩む道は曲線である」と語ったときにも、彼の蛇と鷲に対して「手回し風琴」といっている(『快癒しつつあるもの』参照)。侏儒も、ツァラトゥストラの動物達もいっていることは当たっているのである。ところが、そのことを安易にしゃべることは、背面世界論者、決定論者になりかねないのである。
第二部までのツァラトゥストラは「永劫回帰についてしゃべることは、背面世界論者、決定論者を増やす可能性がある。しかし、しゃべらなくてはいけない」という葛藤の中で生きていた。したがって、第二部の終わりで、あれほどまでにツァラトゥストラが永劫回帰について語ることを恐れたのではないだろうか?しかし、彼は自ら永劫回帰について語ることを選んだ。『幻影と謎』の中で、侏儒に対して永劫回帰の可能性を語ったあと、ツァラトゥストラは「喉に蛇がかみついた牧人(口から蛇が入って喉にかみついている状態)」に出会っている。
「そしてまことにそこに見いだしたのは、いまだかつて私が見たことのないものだった。一人の若い牧人、それがのたうち、あえぎ、痙攣し、顔をひきつらせているのを、私は見た。その口からは黒い蛇が重たげにたれている。
これほどの嘔気と蒼白の恐怖とが一つの顔に現れているのを、私はかつて見たことがなかった。かれはおそらく眠っていたのだろう。そこへ蛇が来て、彼の喉にはい込みーしっかりとそこにかみついたのだ。
わたしの手はその蛇をつかんで引いたーまた引いた。ー無駄だった。私の手は蛇を喉から引きずり出すことができなかった。と、わたしのなかから絶叫がほとばしった。『噛め、噛め。蛇の頭を噛み切れ。噛め!』ーそう私の中からほとばしる絶叫があった。私の恐怖、憎しみ、嘔気、憐憫、私の善心、悪心の一切が、一つの絶叫となって、私の中からほとばしった(中略)
ーだが、その時牧人は、私の絶叫のとおりに噛んだ。遠くへ彼は蛇の頭を吐いた。ーそしてすくっと立ち上がった。
それはもはや牧人ではなかった。人間ではなかった、ー一人の変容したもの、光に包まれたものであった。そしてかれは高らかに笑った。いままで地上のどんな人間も笑ったことがないほど高らかに」(P245~246)
侏儒およびヘビとワシは、現状を打破しようとしない永遠回帰に従属している。手回しオルガンのような画一化されたメロディの中に没落してしまっている。
そうではないと。ニーチェは永遠回帰が訪れ続けるこの現実においても、それに従属するのではなく、その中で力を発揮して生き続けることができる人間こそが、ツァラトゥストラであり、超人に至る道だと語っている。
ドゥルーズも「差異と反復」において、ニーチェの永遠回帰を同一性への回帰ではなく、差異化する力として捉えている。
けれども、実体と諸様態とのあいだには、それでもなお或る無差異が存続している。すなわち、スピノザ的な実体は明らかに諸様態に依存してはいないのだが、しかし諸様態は実体に依存しており、しかも、他のものとしての実体に依存しているのである。
実体は、それ自体、諸様態について言われ、しかも諸様態についてのみ言われるという条件が必要になるだろう。そのような条件が満たされうるのは、存在は生成について言われ、同一性は異なるものについて言われ、一は多について言われる等々となるような、より一般的なカテゴリー上の逆転という代償を支払う場合だけである。
同一性は最初のものではないということ、同一性はなるほど原理として存在するが、ただし二次的な原理として、生成した原理として存在するということ、要するに同一性は《異なるもの》の回りをまわっているということ、これこそが、差異にそれ本来の概念の可能性を開いてやるコペルニクス的転回の本性なのであって、この転回からすれば、差異は、あらかじめ同一的なものとして定立された概念一般の支配下にとどまっているわけがないのである。
ニーチェが永遠回帰ということで言わんとしたことは、まさに以上のことに他ならない。
永遠回帰は、《同一的な》ものの回帰を意味しえないのだ。なぜなら、永遠回帰は、同一的なものとは反対に、すべての先行的な同一性が廃止され解消されるような世界(力(ビュイサンス)の意志の世界)を前提にしているからである。
(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第一章 それ自身における差異)
先述した「欲動の反復強迫」のように、快原理に従って死に接近するまでも快楽の反復強迫を繰り返すのでもなく。
「現実逃避・自己憐憫の反復強迫」のような反復とは違う。
(違うといっても、ドゥルーズ的には「欲動の反復強迫」「現実逃避・自己憐憫の反復強迫」の中にも、差異に向かう力の内在性を見出すかもしれないが。)
ニーチェやドゥルーズが語る永遠回帰のように、「差異へ向かう反復強迫」には、現状を変えようとする力への意志がある。
ドゥルーズのこの永遠回帰における差異化の力について、判りやすい例がある。
「私は絶対騰るって言うから買ったのよ!?こんなの嘘じゃない!?私は知りませんよ!? 2000万円なんて、絶対払いませんから!!」
「知らないわよ!!知らない知らない!!こんなコトになるなら、あんな株、絶対絶対買わなかったわよ!!絶対騰るって言うから、信じて買ったのよ!!あんたのせいよ!!」
(引用元:闇金ウシジマくん(8)[ 真鍋昌平 ])
この主婦の実体は「ひきこもりのフリークス(大人子供)を抱える親」という様態を備えている人間として描かれている。その様態を備えた実体としての同一性を備えている。
しかしこの主婦の、その実体は、《異なるもの》の回りもまわっている。
何度も何度も、株の信用取引を永遠回帰している。
その《異なるもの》こそが、「株の信用取引による勝利によって大金を得る」という試み、志向性であり、貧しく質素な家庭生活という同一的なものへの回帰を拒否し、その同一性が廃止され解消される世界を前提とし、それを追い求める力への意志だ。
還帰するということは、存在するということであるが、しかしもっぱら生成(なる)について言われる存在(ある)なのである。永遠回帰は、「同じもの〔自体〕」を還帰させるわけではない。そうではなく、還帰するということ、それは、生成それ自身について言われる〈同一的に―なる〉ことなのである。還帰するということは、したがって、唯一の同一性ではあるが、二次的な力(ビュイサンス)として言われる同一性、差異について言われる同一性であり異なるものについて言われる同一的なもの、異なるものの回りをまわる同一的なものなのである。
差異によって生産されたそのような同一性こそが、「反復」として規定されるのである。
したがってまさに、永遠回帰における反復の本質は、同一なものを差異から出発して考えるところにある。しかしそのように考えることは、もはやけっして、理論的な表象=再現前化ではない。そのような思考は、諸差異の生産のキャパシティーに即して、すなわち、それらの還帰のキャパシティーあるいは永遠回帰のテストに耐えるキャパシティーに即して、実践的にそれら諸差異の選別を遂行するのである。・・・(中略)・・・
以上のすべてのアスペクトからして、永遠回帰とは、存在の一義性のことであり、この一義性の現実的(エフェクティブ)な実在化なのである。永遠回帰において、一義的存在はたんに考えられるだけではないし、肯定されるだけでさえなく、さらに現実的に実在化されるのである。
《存在(ある)》は、ただひとつの同じ意味において言われるのであるが、この意味は、存在がそれについて言われる当のもの〔差異〕の回帰、すなわちその反復としての永遠回帰という意味なのである。永遠回帰における車輪は、差異から出発しての反復の生産であると同時に、反復から出発しての差異の選別なのである。
(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第一章 それ自身における差異)
闇金ウシジマくんのフリーエージェント編で、何度もカモにされる竹山という情報弱者が出てくる。
「清栄ハイパーメソッドもありきたりでイマイチぴんと来ねぇな…
どうやったらこれで月収100万円稼げるんだよ?
今度こそはバイト生活から抜け出せると思ったのに、また騙されたのか?」(引用元:闇金ウシジマくん(31)[ 真鍋昌平 ])
そのカモの男は、決して、そのカモにされるという表象=再現前化を求めて、情報商材の購入という永遠回帰を行っているわけではない。
天生翔(フリーエージェントくん編に出てくる金持ち)のような成功者という、一義的存在を求めている。
それを現実的に実在化するために、現在の実体という差異から出発し、情報商材を購入するという反復の生産を行い、差異を回帰させ、〈同一的に天生翔になる〉という極限へと向かう。
ドゥルーズが言うには、永遠回帰は差異のある実体が、反復の生産と差異の回帰によって一義的な存在へと向かう力への意志と、完全に同一なものには還帰しない不等性を備えている。
それゆえニーチェは、手回しオルガンの歌のような同一性に従属した永遠回帰ではなく、永遠回帰による差異化と反復の生産を繰り返して極限の果てに向かう人間を超人として肯定したのだと。
映画監督による性被害のフラッシュバックという反復強迫、強迫神経症の反復強迫、認知症の方の16時に必ず外出する反復強迫も、その永遠回帰によって何らかの目的、一義性へと向かう力への意志があるのかもしれない。
まとめ.オールドルーキーにおける新町亮太郎の反復強迫
以上の3つの反復強迫の中から、新町における反復強迫がどれなのかを考えると。
おそらく3つ目の「差異へと向かう反復強迫」であるだろう。
新町は、自分が没落していることを途中までは自覚していなかった。
dramataro.com主人公はサッカー選手としても…
日本代表、J、J2、J3
きちんと階段を降りているのに、「まだ日本代表に復帰する!」って思っているのがスゴい。
辞めていった先輩や後輩を見ているだろうに、スーパーポジティブって言って良いのかな。前半のボロボロっぷりから後半の落差よ!
初回でこんなに成長しても良いの!?ってくらいになっちゃった。
しかし、遂には現実を突き付けられる。
川の土手でサッカーを楽しむ少年達の姿を見て、「その調子、いけ、打て!」と、自らをその少年達に投影し、同一化した瞬間、過去の記憶が蘇る。
ワールドカップで決定打のシュートを決めたシーン、ファンへのサイン、ファンミーティングでの楽しい記憶(差異)が回帰する。
しかし「引退」という残酷な現実の言葉(差異)も回帰し、サッカー選手としての同一性を保つことができず「うう…そんな…」と、亮太郎は泣き崩れる。
もしこの時、サッカー選手としての同一性の崩壊を受け入れず、「欲動の反復強迫」のように、何が何でもサッカー選手を継続するため、例えば他の選手を妨害したり、選手としての雇用権限を持つ人間に脅迫行為等を行うような、倫理や理性を突破し、どんな手段も厭わない、欲動の実践を行う可能性もあったかもしれない。
「現実逃避・自己憐憫の反復強迫」によって、過去の栄光に自縄自縛となり、自らがサッカー選手だった時の映像の反復視聴を続けて自尊心を保ちながら、手回しオルガンのようにあらかじめコード化された譜面をなぞる円環構造の中に留まり、妻の新町果奈子(榮倉奈々)に生活を依存する、無気力状態のラストマンとなってしまう可能性もあったかもしれない。
しかし「差異へ向かう反復強迫」は、高柳雅史(反町隆史)や深沢塔子(芳根京子)による「現実を受け止めてください、新町さん」「プロとして、現役引退ということです」「サッカーファンしか知らない新町さんに商品価値はないんです」という象徴的去勢、「差異の回帰」によって同一性に変容を強いられ、「サッカー選手へと向かい続ける欲動に見切りをつける」という「反復を生産」する。
スポーツマネジメント会社の契約社員として象徴的秩序に復活し、家族を守るために日々の仕事を続ける永遠回帰を受け入れている。
まあ日曜劇場ゆえに「欲動の反復強迫」「現実逃避・自己憐憫の反復強迫」のような、悲劇的結末に繋がるような反復強迫は、描かれることはないにせよ。
JFLに行ってもサッカーを続ける三浦知良や、A級順位戦から陥落した羽生善治も、このドラマの主人公と似たような、かつての自らの栄光がフラッシュバックする永遠回帰の中にいるような気がする。
ボールを蹴ることや棋譜を読む反復によって、自らの肉体や知力の衰えという悲劇的な差異が回帰したとしても、それでもプレーヤーを続けるということは、何かしらの一義性を求め続けるという強さを備えているという点で、超人と言えるかもしれないね。