逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

金曜日が嬉しくて月曜日が憂鬱な理由をドゥルーズとガタリの脱領土化・再領土化・領土化の概念で解説

昨日は金曜日だったから、電車に乗った時、みんなの表情筋が少し緩んでいるような気がしたね。

やっぱり金曜日は美しい。仕事のプレッシャーから、一時的かもしれないが開放される歓喜に町が満ち溢れている。
柳楽優弥が金麦のビールを飲んでいるのも、金曜日じゃないのか。


金麦も、"金"っていう言葉入っているように、金曜日のシニフィアンから生まれるポジティブなシニフィエの力を利用しているのかもな。
犯罪発生件数も、金曜日は少ないんじゃないの。

ではなぜ金曜日は素晴らしいか。

そこで参考になるのは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの著作「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」だ。この二人の著作は、資本主義の正体に緻密に迫ってる。

そしてこれらの本には「脱領土化」「再領土化」「領土化」という言葉が頻繁に出てくる。
とりわけ最も出てくる言葉は「脱領土化」だ。
脱領土化を把握することで、再領土化と領土化も浮き彫りになる。

これらの概念は、欲望と欲動と欲求の違いとともに、資本主義だけでなく人間の無意識を探る上でも、ドゥルーズガタリが生み出した非常に重要な概念だ。

というわけで、これらの概念に迫っていこう。

千のプラトー」に、このような一節がある。

チャレンジャー教授、あのコナン・ドイルでおなじみの、地球を機械で責めて唸り声をあげさせたチャレンジャー先生が、例によって猿顔負けの気まぐれさで地質学や生物学の概説をあれこれミックスして、講演を行った。教授の説明によれば、この大地――脱領土化された世界、大氷河、一巨大分子としての地球――は、器官なき身体そのものである。

この器官なき身体は、まだ形をなしていない不安定な物質や、あらゆる方向の流れに縦横に貫かれ、自由状態の強度や放浪する特異性、狂ったような移行状態の粒子がそこに飛び交っている。だが、さしあたっていま問題なのはそのことではない。というのも、このとき同時に地球の上に、ある点ではありがたくもあるが他の多くの点では遺憾ともいえる、きわめて重要かつ不可避な一つの現象が起きている。すなわち地層化という現象である。

地層はまさに「層」であり、「帯」であって、その本質は、物質に形を与え、共鳴と冗長性にもとづく安定したシステムのうちに強度を閉じ込め、特異性を固定して、地球というこの身体の上に大小の分子を構成し、それらの分子をさらにモル状の集合体へと組み入れていくところにある。地層とは捕獲であり、いわば「ブラック・ホール」であって、圏内を通過するいっさいのものを引き止めようとする閉塞の現象なのだ(1)。

地層は、この地球の上でコード化と領土化によって作用する。コードと領土性を両輪に進行する。地層は神の裁きであり地層化全般は、まさに神の審判の体制そのものなのである(だが大地あるいは、この器官なき身体は、どこまでも裁きを逃れて逃走し、地層化を脱して、脱コード化し、脱領土化しつづける)。


(1)Roland Omnes, L'univers et ses metamorphoses,Herman, p.164.「臨海半径以下で崩潰した星は、ブラック・ホール(吸蔵天体)と呼ばれるものになる。この表現が意味しているのは、そのような物体の方へ送り出されるものはもはや何一つそこから再び出てくることはできないということである。それゆえそれは完璧に黒色である。いかなる光も放射せず反射しないからだ。」

(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] BC一〇 〇〇〇年――道徳の地質学(地球はおのれを何と心得るか))

チャレンジャー教授は、アーサー・コナン・ドイルの小説に出てくる人らしいね。

www.webmysteries.jp器官なき身体については、「痴漢行為者や未遂者の意識は「社会的機械」による器官の組織化と「器官なき身体」の闘いの狭間で悶絶する」という記事の方が詳しく説明している。

gyakutorajiro.com器官なき身体は、分かりやすくいえば「器官の組織化が行われる際に生じるそれに抵抗するパワー」みたいなもんだ。


また、上記で引用したように、領土化というのは、無秩序な状態から地層のようなある安定した分子構造へと有機化する運動のようだ。
しかしこの領土化に対し、これに抵抗する脱領土化があるようだ。


では、脱領土化とは何か。
このような一節がある。

ルロワ=グーランの分析から出発して、われわれは、どのようにして内容が手-道具という対に結びつき、表現が顔面-言語、顔-言語という対に結びついてるかを理解することができる(23)。

手は、ここでは単なる器官と見なされてはならず、一個のコード化作用(指によるコード(デジタルコード))、活動的な構造化、活動的な形成(手による形式、あるいは手による形式的特徴)と見なされねばならない。内容の一般形式としての手は、道具においてみずからを拡張するが、道具はそれ自体活動中の形式であり、形式化された質料としての実質をともなう。

そして最後に、生産物は形式化された資料、または実質であり、今度はそれが道具として役立つことになる。手による形式的特徴が、地層にとって構成の統一性になるとすれば、道具や生産物の形式と実質の方は、傍層と上位層として組織化され、この傍層と上位層はといえば、それ自体、真の地層として機能し、人間集団におけるもろもろの非連続、断絶、交通や伝達、遊牧性と定住性、多様な閾と相対的な脱領土化速度を示すのである。

なぜなら、内容の形式的特徴または一般的形式としての手によって、われわれはすでに脱領土化のある大きな閾に到達し、それを開放することになり、比較されるさまざまな脱領土化と再領土化の機動的な作用そのものを、それ自体で可能にする加速器が作動し始めるからである――まさに、有機的な基層における「発達の遅れ」の現象こそが、こうした加速を可能にするのだ。

手はただ単に脱領土化された前肢ではない。自由に使える手は、物をつかみかつ移動するための猿の手に比べて脱領土化されているのである。他の諸器官の相乗的な脱領土化を考慮に入れること(例えば、足)。また、もろもろの環境の相関的脱領土化をも考慮に入れること――草原(ステップ)は森林よりも脱領土化された結合環境であり、身体と技術に脱領土化の選択的圧力をかけてくる(手が自由な形態として現れ、火が技術的に作り出せる質料として現われうるのは、森林においてではなく、草原においてである)。
そして最後に、もろもろの補完的な再領土化を考慮に入れること(手を補償して、草原の上に実現される再領土化としての足)。こんんなふうにしてさまざまな有機的、生態的、技術的地図を作ること、それを存立平面の上に広げること。

(23)Andre Leroi-Gourhan,Le geste et la parole,technique et langage,Albin Michel,p.161.

(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] BC一〇 〇〇〇年――道徳の地質学(地球はおのれを何と心得るか))

そうだよな。人間が作る手によって、人間は料理をするときは包丁を使うし、プログラミングをするときはキーボードを使う。
生産物である料理やシステムは、社会を覆う地層として機能してるだろうし。

発達の遅れ、というのも、まあ確かにそうか。

猿、オランウータン、チンパンジーの手の方が、筋力がある。
人間の脳は筋肉の退化と引き換えに進化したって話もあるように。

natgeo.nikkeibp.co.jp吉野家に行けば、自分が手を使わなくても金を払えば店員さんが牛丼を出してくる。脱領土化によって加速器が作動しているとも言えるな。

相関的脱領土化、確かに文明において火器が発展していくとともに、森林は草原化していき、加速器の作動による牛丼の自動提供にも見受けられるように、人間の手も自由になっていってるかもね。

omizu-water.hatenablog.comやがて硝石そのものや硫黄が燃焼剤として使われるようになり,10世紀以降,五代十国の分裂から宋王朝(940-1279)による再統一の過程で火器が発達していきます.この頃開発された火器には火薬の推進力で飛ばす「火箭」,火薬を中に入れた「火毬」などがあります.

何となく脱領土化がつかめてきただろうか。
ドゥルーズガタリのこの箇所は、この「Trois problèmes. L Espèce, l Instinct, l Homme」という本に影響を受けたらしい。

www.abebooks.comフランス語全くわからないから知らないけど、「千のプラトー」の原注によると、

「自らの森を離れ、発達が抑制され、小児的になって、類人猿は自由に使える手と柔軟な咽頭を獲得したにちがいなかった」


「森は猿を生み、洞窟と草原(ステップ)が人間を生んだのである」

って書かれてる箇所があるんだって。進化生物学の本かな。

最後に、再領土化だ。

・・・他のあるものは、もろもろの飛び地をなしているが、その復古主義はまさに現代のファシズムを養いうるとともに、革命的なエネルギーも引きだしうる(小数民族、バスク地方の問題、アイルランドカトリック教徒、インディアン居留地)。

またあるものは、脱領土化運動の動向そのものの中で、あたかも自発的に形成されるかのようである(街路の領土性、団地の領土性、「徒党」。)
また別の領土性は、たとえ、国家に反逆し、国家に深刻な問題をつきつけることはあるとしても、国家によって組織され優遇される(地方分権主義、ナショナリズム)。

ファシズム国家は、おそらく、資本主義における経済的政治的再領土化の最も幻想的な企てであった。ところが、社会主義国家もまた、それ自身の小数者やもろもろの領土性をもち、そこれらは国家に対抗してみずからを再編成する場合もあれば、逆に国家によって作り出され組織される場合もある(ロシアのナショナリズムや党という領土性。つまり、プロレタリア階級は、人工的な新しい領土性を基盤としてはじめて、自分を階級として構成することができた。これと併行して、ブルジョワ階級は、ときには最も古代的な形態において自分を再領土化する)。いわゆる〈権力の人格化〉は、いわば、機械による脱領土化を裏打ちするひとつの領土性なのである。

現代国家の機能が、脱コード化し脱領土化した流れを調整することであるということが真実なら、再領土化を行うことによって、脱コード化した流れが社会の公理系のあらゆる末端から逃走しないようにすることである。

資本主義国家がそこに存在して、資本の流れを地上にとどめないとすれば、資本の流れはやすやすと月まで移送されてゆくことになるであろう。ときにはそんな印象までもつことさえある。例えば、融資の流れの脱領土化がある一方、購買力と支払い手段とによる再領土化が行われる(これは中央銀行の役割である)。あるいは中心から周辺に進む脱領土化の運動は、周辺の再領土化をともなう。これは、ときには社会主義あるいは国家的資本主義といった現代的形態において認められることである。極限においては、脱領土化と再領土化を区別することは不可能である。二つは相互に入り組んでおり、あるいは同じひとつのプロセスのいわば裏表のようなものなのである。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第一〇節 資本主義の表象

団地の領土性、確かに国家の領土性とは別にあるだろうな。回覧板とか団地特有のルールとか。佐野史郎の限界団地、観たいけど廃盤になってそうだ。

融資の流れの脱領土化は、金利の引き下げだな。
金の流れを活発にする。
競争が激しくなり、物価が上昇する。

www.boj.or.jpそれに伴い購買力が下がるので、金利を上げる(再領土化する)。
しかし辛坊治郎が言うように、金利を上げると国家の借金返済の金利負担が増える。

news.yahoo.co.jpマンションの実質価格が上がって、マンションの購入は冷え込むだろう。
衣食住において、より大きな資本の流れ、資本の最大化を期待できる業界、すなわち銀行や不動産会社を優先するのであれば、金利を上げられない。

同時に中心から周辺、脱領土化の流れがある。

www.jcp.or.jp資本主義国家は、不動産業界や銀行においては脱領土化(金利引き下げ)によって融資の流れを加速させるが、その業界に存在しない人間や共産党が言う庶民においては、再領土化(物価上昇)を行い、庶民達の脱領土化(再分配)は二の次にする。

銀行や不動産業界を脱領土化し、金を使わない末端の庶民に再領土化を行い、資本の流れを最大化する公理系を稼働させるのが資本主義社会だ。

ここて概念の定義がある程度クリアになったので、まとめに入ろう。


【領土化】:地層へと組織化していく力、人間に特定の価値観を浸透させる力

【脱領土化】:領土化によって有機化され安定していた状態を変性する力、あるイデオロギーや価値基準によって身体を組織化する行為、および、逆にその組織化から逃走する力

【再領土化】:脱領土化による逃走を防ぐ力


ここである事実が浮かび上がる。
それは、全ての人間は脱領土化と再領土化を繰り返しているということだ。

サラリーマンは、1週間の仕事が終わる金曜日の夜から土日に脱領土化し、日曜日のサザエさん症候群を経て、月曜日のブルーマンデー症候群とともに再領土化が起きる。

起きない人間もいる。
見城徹藤田晋のように「月曜日が楽しみ」というような、脱領土化されている状態を保ち続け、意識にも上がらない人もいる。
社員が脱領土化してしまっては困るからだろうか、月曜日を神聖化する再領土化の力もある。

shozando2.hatenadiary.org「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹藤田晋著より。

こう語るのは見城氏だが、しかも日曜日は大嫌いだという。朝起きて、日曜だとがっかりするともいう。さらに、「今日は会社に行けないのだ」と思うと悲しくなってしまうそうだ。
実に意外な考え方の人だとも思える。普通なら日曜あるいは休日なら仕事から解放されると思うものだ。ところが、氏は仕事をすることこそが苦痛からの解放だと感じていた。
こういう考えは氏自身も特殊だとわかっているようだが、成功するためには、日曜日を楽しみにしているようではダメだと思っていた。
藤田氏も、仕事の始まる月曜日が憂うつになったことは一度もないという。別に日曜日が嫌いというわけでもないようだが、365日仕事に夢中になっているという。
仕事が何よりの趣味だと言えるのは強いと感じる。自身もこんなに幸せなことはないと思っているようだ。仕事と趣味の境目がないというのもすごいことだとも思える。

そりゃ自分がトップだからな、会社という領土における頂点の人間は、他人を領土化できるし、脱領土化しようとする人間を、再領土化することもできる。

このAmazonプライムのCM「いちばんの特典」を観てほしい。

若葉竜也、いい俳優だよな。
映画「AWAKE」では理知的な将棋の棋士を、「愛がなんだ」では女性に虐げられる弱弱しい若者を演じていた。

余談はさておき、このCMでは大きく分けて、2つのシークエンスがある。

短い昼食休憩で食べる牛丼、取引先企業のロビーでの「申し訳ございませんでした」という謝罪、Suicaでの残高不足。
資本主義の領土ではこのように、直線的な時間の流れにおいて、資本を最大化するための公理系が働いている。時間はイデオロギーとして機能している。

gyakutorajiro.com会社で叱られ、売上を求められ、速さを求められる資本主義的イデオロギーによる領土化を被る若葉達也。

そしてもう1つのシークエンスが、アマゾンで7199円の買い物、おそらくトレッキング用品だろうか。

コンクリートジャングルから、森林に向かった。

先述したように、ドゥルーズガタリ草原(ステップ)は森林よりも脱領土化されていると言った。その考えであれば、ステップよりもコンクリートジャングルはより、脱領土化されているといえよう。

しかしその脱領土化された空間(会社)から、森林に戻るのは、再領土化ではないか?

そうは言えない。視点によって変わる。
猿や動物達にとっては、森林こそが、住んでいた領土だった。
人間によって文字通り空間が脱領土化され、森林が草原になるとともに生息領域を奪われ、個体数が減少していった種もいるだろう。

抗戦した動物もいるかもしれない。三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)のように、脱領土化を進める人間達を逆に蹂躙し、人間達の住む場所を脱領土化するヒグマのように。

先に述べた見城徹藤田晋のような経営者と、若葉達也等の部下・社員の立場で考えてみよう。
経営者は、入社した新入社員をまず、脱領土化する。
「働くとは何か」「あなたのこの会社での存在意義」を、叩きこむ。

anond.hatelabo.jp猿や動物たちが人間に脱領土化されたように、新入社員は経営者に脱領土化される。それは地層化する力であり、神(給料によって欲求や欲望を満たしてくれる存在)の裁きだ。

神の裁きによって何が起きるか?
それが「器官なき身体」の発生だ。

われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。

アルトーは確かに器官に抗して闘う。

しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。

器官なき身体は、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。神の裁き、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す〈者〉の仕事なのだ。なぜなら、〈彼〉にとって、器官なき身体は耐え難いものであり、〈彼〉は、器官なき身体を追いかけ、これに先行し、有機体を先行させるため、器官なき身体の息の根をとめてしまうからだ。有機体自身がすでに神の審判であり、医者たちはこれを利用し、これから権力を盗むのだ。

有機は身体でも器官なき身体でもない。それは器官なき身体の上にある一つの地層、つまり蓄積、凝固、沈澱などの現象にすぎない。この現象は、形式、機能、支配的な階層化された組織、組織化された超越性などを器官なき身体に強制し、そこから有益な作用を取り出すのだ。

地層は絆であり、ペンチである。「私を縛りたければそうするがいい。」われわれはたえまなく地層化される。しかしこの〈われわれ〉とはいったい誰だろうか。それは〈私〉ではない。主体は有機体と同じく地層に属し、地層に依存するからだ。今ならこう言うことができる。〈われわれ〉とは器官なき身体である。有機体、凝固、褶曲、転倒は、器官なき身体の上に、つまりこの氷河のような現実の上に形成されるのだ。

神の裁きが重たくのしかかり、そしてその裁きが下されるのはこの器官なき身体の上、裁きを受けるのは器官なき身体である。器官なき身体の内側でこそ、器官(オルガヌ)は有機体(オルガニスム)と呼ばれる構成関係に入るのだ。器官なき身体は叫ぶ。おれは有機体を強いられらた。不当にも俺は折り畳まれてしまった。おれの体は盗まれた。神の裁きは、器官なき身体をその内在性からはぎとり、これに有機体、意味作用、主体をでっちあげる。まさに器官なき身体が地層化されるのだ。だから器官なき身体は二つの極の間で振動する。器官なき身体を折り曲げ、屈服させてしまう地層化的表面と、器官なき身体を展開し、実験に向けて開く存立平面とのあいだで振動するわけだ。そして器官なき身体が一つの極限であり、われわれがいつまでもこれに接近し続けるとすれば、それは、一つの地層の後にはいつも他の地層があり、一つの地層は他の地層の中にはめこまれているからだ。神の裁きを成り立たせるには、有機体だけではなく、他にも多くの地層が必要だからだ。器官なき身体を解放し、すべての地層を横断し解体する存立平面と、器官なき身体を閉じこめ、折り畳んでしまう地層化的な表面との間には、たえず烈しい闘いがある。

(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] 一九四七年十一月二十八日――いかにして器官なき身体を獲得するか)

器官なき身体を閉じ込める有機化、神の裁きに、労働者である若葉達也は抗う。

その抵抗こそが、森の中へのトレッキングだ。
神の裁きによる地層化、それによって生まれたイデオロギー空間から、逃走する。コンクリートジャングルを森林へと、脱領土化しようとする。

しかし有機化の力は強大だ。会社だけでなく、「メシ食ってけるのかよ?」「家族はどうすんだ?」「住宅ローンは?」等、多くの地層によって、器官なき身体を屈服させようとする。


(引用元:闇金ウシジマくん(11)[ 真鍋昌平 ]

「ギギギ・・・会社……行きたくねェーなァ…」

再領土化される月曜日。
ドアの前で立ち尽くして歩き出せないサラリーマン。1日の業務や出会う人からの圧力等を想像し、気分が落ち込み、足が前に出なくなる朝。

闇金ウシジマくんのサラリーマンくん(小堀)が玄関から外に出れないのは、会社という社会的機械に、自らの身体という器官機械が接続され有機化されるのを拒んでいるからだ。器官なき身体が立ち現れ、抵抗しようとする。会社という有機体によって盗まれた小堀の身体。

無理して出社し、再領土化された身体で仕事を行おうにも、仕事でミスが多ければ叱責や罵詈雑言を受け、ADHDアスペルガー症候群といった発達障害のレッテルを貼られる場合もあるだろう。

また、再領土化の恐怖による萎縮によりに鬱、適応障害などの機能不全や、それ以上の最悪のケースもあり得る。

こんな風に、領土化されている会社という地層に足を運び、休日に森林浴でリフレッシュした身体は脱領土化されるが、週が明ければ会社によって再領土化される。

これが、金曜日が嬉しくて、月曜日が憂鬱な理由だ。
脱領土化する金曜日、再領土化される月曜日。

現代社会を生きる人間は、恐ろしいほどに脱領土化と再領土化を繰り返している。
それゆえ、この分裂症的負荷に耐えることが難しい人間も出てくる。

ドゥルーズガタリが言うように、人間は領土化された資本主義という全体主義の地層に突入させられている。
資本主義が「全体主義」ってのは、違うのでは?
資本主義は、多様性にあふれていて民主主義で自由主義だと。
ネオリベラリズム新自由主義な格差拡大の残酷さはあるけれど、それは自由の代償だと。

まあ確かに、北朝鮮やロシアや中国ほどの強力な領土化が行われている全体主義国家よりはマシかもしれないが。

日本だって全体主義がないとは言えない。
それはこのサイトの他の記事でも再三語っている「こうあるべき姿」を強制する領土化の力だ。
ひきこもりを社会問題化して非難するのも、働かない者を労働に向かわせて国家の発展に寄与してもらうようにするための、ある意味で全体主義だろうよ。

ポーランド出身のパヴェウ・ヤシュチュク(Pawel Jaszczuk)は「High Fashion」によって、ドイツ出身のマイケル・ウォルフ(Michael Wolf)は「東京コンプレッション」によって、再領土化された人間の姿を暴き出す。

www.vice.comwww.mirainoshitenclassic.comwww.flotsambooks.com俺たちが奴隷であると気付かされた。

企業のホームページ、キラキラ働いている採用ページや会社案内とは裏腹に、領土化された人間達の姿を暴いてみせた。

でも、誰かから承認されたり尊敬されるためには、再領土化を受忍しなければならない。この日本も、たまに脱領土化できる自由はあるにせよ。

amazonのCMの若葉達也みたいに、森に行きたくなってきたな、ほんと。
森林浴は体にいいらしい。

mento-re.com森の精霊たちによって、器官なき身体を取り戻す。