逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

山上容疑者はアベガーも嫌悪する冷静な思考を持つが母親に逆らえないエディプス・コンプレックスの可能性がある

昨日の「ラカン派の精神分析を学んでいるはずなのに片田珠美氏はラカン的な視点が欠けている」という記事、かなりアクセスが増えている。

gyakutorajiro.com問題点の指摘として、ある程度の説得力があったからだと思われる。

あまり悲惨な出来事を記事にしてアクセス集めをするのは不謹慎な部分もあるが、動機や原因を詳しく解明しないと再発防止にも繋がらないゆえ、ブラックボックスのままで終わらせないためにも、話を続ける。

というか単に、自分のサイトのアクセスが多いのはいいことだし私利私欲な部分もあるのは否めないけど。知識人や著名人の説明もどうも説得力に欠ける部分が多いゆえ、自分で調べるしかないと思ったというのもある。

news.goo.ne.jp 片田氏は「容疑者は恨みの感情に長年とらわれ、相手を置き換えてでも復讐を果たさないと精神の安定が保てない状態に陥っていたのだろう」と推測する。

 碓井真史・新潟青陵大教授(社会心理学)は「あくまでも恨みを晴らす相手は旧統一教会だったはずだ」との見方を示す。その上で「通り魔事件を起こす犯罪者と同じ心理で、元首相の安倍氏を狙うことで自身の境遇をアピールし、旧統一教会に批判を集めようと考えた可能性がある」と分析する。

片田珠美氏も碓井真史氏も、家庭崩壊の大きな原因となった母親および母親と山上容疑者との関係性への言及が一切ない。
あまり調べずに書いているのが伺える。

片田珠美氏が語る「置き換え」という防衛機制は、「八つ当たり」がそれに近い。
以前、当サイトの別の記事でも話をした。

gyakutorajiro.com映画「空白」において、青柳直人(松坂桃李)が、添田充(古田新太)に追い詰められるストレスで、弁当屋にキレたのが「置き換え」の事例でもある。

青柳直人は、「特選海苔弁当」を買ったが、それは特選海苔弁当ではなく、唐揚げが入っていない普通の「海苔弁当」だった。
そして、弁当屋に怒りをぶつけた。
怒りの対象を、添田充から、弁当屋の店員に変えた。

つまり「置き換えは、全く関係ない対象にも転移する」ということだ。
例えば机などの物品や、弁当屋の店員などは、ストレスを吐き出す対象が置き換えられた結果ではある。

しかし安部元首相の場合は、物品や弁当屋の店員等とは異なり、置き換えられた怒りの対象として「関連性がないとは言い難い対象」でもある。
実際に宗教団体にビデオメッセージを送ったのは事実として、ミヤネ屋でも7月15日の放送でそれが流れていたのを観た。
全弁連がそれに対して抗議文も送ってることも、報道されている。

このように「置き換え」という防衛機制は、安部元首相のような関連性がある対象においても、物品や店員等の関連性がない対象にも起きるように、様々な事柄に当てはまる現象のため、それのみを原因とするのはあまりにも具体性に欠ける。
確かに理由の一因としてはあり得るが、網目が大きすぎるんだ。

昨日の話にあるように「ラカン的な視点が欠けている」というのは、上記の記事においても変わらない。

また、ホリエモン氏や落合陽一氏が言うような「アベガーや安部批判論者も原因」というのも、かなり部分的で、理由としては小さいだろう。

gyakutorajiro.com実際、先日話題になっていた山上容疑者のツイッターアカウントのツイートを見ると、アベガーの影響を受けていない事実が浮かび上がる。

自民党に対して、否定的なツイートもあるようで。

逆に、「自民党でもいい」というようなツイートもあり。

野党を嫌悪するツイートもある。

立場としては自民党支持ではないが、かといってアベガーのような乏しい根拠で否定する自民党批判者も嫌悪している」事実が浮かび上がる。
決して、アベガーに自分を投影して同一化するような性格ではなく、確固たる自分の思想を持っている。
まあ確かに、郡山高校という高偏差値の進学校に進学できる知性を備えているゆえ、デマや根拠のない情報に共感したり流されるタイプではなさそうではある。

もっと大きい原因に迫るには、やはり家族の関係性に焦点を当てる必要がある。

ジャック・ラカンおよびジークムント・フロイトは、父と母と子、この三角形の関係性を重要視する。
それに対して批判的な心理学者等もいるだろうが、この事件において家族内の問題性が極めて強いという点で、ラカンの分析は有効性を発揮すると思われる。


ラカン精神分析のアプローチを試みてみよう。

〈自我理想〉をめぐっては、問いが立てられてこなかったということ、この点については先ほど既に取り上げましたが、ここでもまた、先ほど取り組み始めた還元に努めてみましょう。皆さんにはこう申し上げておきます――父はここで、邪魔者の位置を占めることになった、といまから主張するのは、あまり前進することではありません。
彼がそうした位置を占めるのは、嵩高いからではなく、禁止するからです。しかし、父は正確には、何を禁止するのでしょうか。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p251)

〈自我理想〉というのは、「象徴的な同一化対象」と思ってくれたらいい。
そして〈理想自我〉というものもある。
〈自我理想〉は、〈理想自我〉とは異なり、〈自我理想〉は現実社会での生活によって象徴的に去勢されたゆえに生ずる自分像だ。

わかりやすい例を言うと、東京卍リベンジャーズに影響されて暴走行為を行った事件がある。

www.sankei.comここにおいて、東京卍リベンジャーズに出てくるキャラクターは、カッコいい等のかなり短絡的な衝動で〈理想自我〉の同一化対象となる。

しかし、警察による検挙、法による象徴的な去勢によって、暴走した若者の多くは悔い改め、それぞれの道に進むであろうし、自我も成長を遂げ「暴走族」ではなく「サラリーマン」等になるとする。
ここにおける「サラリーマン」は、〈自我理想〉であり、このサラリーマンが「象徴的な同一化の対象」となる。

ルソーの後期の著作、すなわち彼が精神病の譫妄(せんもう)状態で書いた『ルソー、ジャン=ジャックを裁く』にも、同じような分裂が見られる。この著作を、名と姓に関するラカンの理論を粗述したものと捉えることもできよう。ラカンによれば、名は理想自我、すなわち想像的同一化の点をあらわすが、姓は父親に由来し、父の名として象徴的同一化の点、すなわちわれわれが自分自身を観察し判定する(裁く)際に依拠する審級をあらわす。この区別において見落としてはならない事実は、i(a)は常にI(A)に従属しているという点だ。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

つまりラカンがここで議論しているのは、家族内で子どもが、母や父の法によって象徴的に去勢され、〈自我理想〉というI(A)に向かうまでの自我の成長についてだ。

しかし、どうして父なのでしょうか。経験が証明するところでは、母もまた禁止を行います。ハンス少年の観察記録を思い出してください。そこでは、「しまっておきなさい、そんなことをするものではありませんよ」と言っているのは母です。一般に、「いつまでもそんなことをしていると、お医者さんを呼んで切ってもらいますよ」と言うのは、たいてい母です。ですから、父は、現実的欲動の水準で禁止するという点では、それほど重要ではないと言うべきでしょう。この点について、昨年皆さんにお見せした三段階の表をもう一度取り上げましょう――これがいつも最後には役に立つことがお分かりですね。


(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p251)

ハンス少年はフロイトが父親を介して分析した患者だ。

conception-of-concepts.comそうである以上、ハンスは自分に似ている存在におちんちんがないとは思えず、母にも妹のハンナにもおちんちんを帰着させる。そして、それへの絶えざる関心は、当然のごとく他の人のそれを見たいという欲望を生じさせ、母の着替えを注視したり、父や母に「おちんちん」を持っているかを尋ねたりもする。

ハンスの症例を説明していると話が先に進まないので、割愛する。

去勢(カストラシオン)の脅かしの水準では、何が問題になっているのでしょうか。それは、想像的な脅かしに関する父の現実的な介入、R.iです。

想像的な脅かしというのは、子供のペ〇スを実際に切ってしまうのはめったにないことだからです。皆さんに申し上げておきますが、この表では、去勢とは象徴的行為であって、その動作主=要因は現実的な誰か、子供に「切ってしまいますよ」と言う父親か母親であり、またその対象は想像的対象です――子供が切られてしまうと感じるのは、子供がそう想像するからです。この逆説に注意してください。皆さんはこう反論なさるかもしれません。――「それこそまさに去勢の水準ですが、あなたは、父はそれほど役に立たないとおっしゃっているじではありませんか。」私はまさにそう申し上げているのです。そうなのです。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p252)

ここでラカンが言っているのは、〈超自我〉R.iが機能し、想像的に子どもにしつけを行うのは、父親にも母親にも成り得るという話だ。
最初の表の「現実的父」の部分は、「現実的母」にも成り得る。

実際に父親が機能するのは、二列目の水準になる。

他方で、父は何を禁止するのでしょうか。我々が出発したのはそこでした――父は母を禁止するのです。対象として、母は父のものであり、子供のものではありません。まさにこの平面上で、少なくともある段階では、男児でも女児でも、父との競合関係が成立します。この競合関係はそれだけで攻撃性を産み出します。父は、子供からまさしく母を奪い取る(フリュストル)のです。

これがもう1つの段階、欲求不満(フリュストラシオン)の段階です。ここでは、父は権利所有者として介入してくるのであって、現実的な人物としてではありません。例えば父が母を電話で呼び出す場合でも、結果は同じです。ここで欲求不満(フリュストラシオン)に介入してくるのは、まさに象徴的なものとしての父です。この欲求不満(フリュストラシオン)は、子供が必要としているものたる母という、現実的な対象にかかわる想像的な行為S'.rです。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p252)

「象徴的母」は、父親の介入によって、「現実的」に子供は自分の物ではないことを認識し、「欲求不満」に陥る。

最後に来るのが三番目の水準ですが、これは剥奪(プリヴァシオン)の水準で、エディプス・コンプレックスの分節化のなかに介入してきます。ここで問題となるのは、母よりも自分の方を好むようにさせるものとしての父であり、これは、皆さんが最終的な役割つまり〈自我理想〉の形成に至る役割のうちへと絶対に介入させてなくてはならない次元、S←S'.rです。
最終的な同一化が打ち立てられるのは、父がどのような面からであれ、強さの面からであれ弱さの面からであれ、母よりも好ましい対象になる限りにおいてのことなのです。


(中略)


結局のところも問題なのは、父の持つ本質的に禁止的な機能が、男児において第三の平面のはっきりとした結末つまり剥奪へ行き着かないということがいったいどのようにして起こるのか、ということです。剥奪は、理想的な同一化と相関しており、この理想的同一化は男児と同じく女児にも生じる傾向があります。女児においては、父が〈自我理想〉となる限りにおいて、自分はファルスを持たないという認識が生まれます。しかし、これは女児にとって好ましいことです――これに対して男児では、これが完全に惨憺たる結末となるかもしれませんし、時として実際にそうなのです。ここでは、動作主=要因はIで、対象はsです――I.sですね。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p251-252)

ラカンが言うこの「第三の平面のはっきりとした結末つまり剥奪へ行き着かない」という状況は、山上容疑者の家庭内の状況にも当てはまっている気がしてならない。

小文字の想像的な自我i(ideal)ではなく、父による剥奪を経た大文字の自我I(Ideal)によって、子どもという主体S(Subject)は小文字のs(subject)となり、エディプス・コンプレックスを克服するのが一般的な家庭だ。

しかし父が死んでしまったことにより、エディプス・コンプレックスの出口へと、山上容疑者を連れていくことが出来なくなった。山上容疑者にとって、父もしくは父性を持つ誰かが〈自我理想〉の対象となる前に、惨憺たる結末に至ってしまった。

それによってもたらされるのは、上記の図の一列目、母親の〈超自我〉の暴走だ。

    父親は不在で、父性的機能(平和をもたらす法の機能、父-の-名)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我は恣意的で、邪悪で、「正常な」性的関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。もちろん『鳥』が描こうとしている行き詰まりは、現代アメリカの家族の行き詰まりである。父性的自我理想が不十分なために法が獰猛な母なる超自我へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃衝動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」。


(引用元: 斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ / スラヴォイ・ジジェク p188)

事実、山上容疑者は母親の欲望に呑み込まれ、母親に対しては強い恨み言を言っていない。

news.yahoo.co.jp

ツイートを検索しても、宗教団体や韓国人に対する怒りや恨みのつぶやきは大量に見受けられるが、なぜか、献金の原因となった母親に憎悪が向いていない。

これはおかしいと思わないだろうか。
例えば、「虐めを待つ人」という、家族からの虐待被害者・加害者の実体験を描いた漫画がある。

このケースでは、父親が再婚相手の継母によって、洗脳のような状態に陥り、父親の権威が機能不全となり、母親の〈超自我〉が強大になり、子どもが虐待されている。

そして子ども達は、母親への怒り、そして変えられてしまった父親への失望を抱く。

山上容疑者も、その兄も妹も、ネグレクト等の虐待はあった。

news.yahoo.co.jp家庭によっては、子どもの育児をそっちのけで宗教活動に没頭する母親に、怒りが向くケースもあるだろう。
「くそばばあ!」と言うような、反抗期が来てもおかしくない。

そうなれば、恨みの矛先は、宗教団体だけでなく母親にも向かうはずだが、なぜ向かわないのだろうか。

家族には向かっていないが、しかし、母親が最も上位に位置している。
父親に対しても反抗し、母を守ろうとした。
それはまだ4歳という幼さゆえ、父よりも母に愛着を抱くのは、仕方がないことかもしれないが。

オイディプス王の悲劇と類似性がある。
父を拒絶した。
父による理想的同一化、「俺と同じように、宗教へ傾倒する母を止めろ」という父の要求よりも、母を優先した。
家庭内が父性欠如の状態となっている。

つまり山上容疑者は、エディプス・コンプレックスの出口に繋がる二列目と三列目、父による母の剥奪と、父を自我理想として同一化対象とする過程を引き受けることなく、一列目の母の〈超自我〉に従い続けている。

父がもっと強権的になることも出来た。実際、暴力を振るったこともあるようだ。

しかし、父は母の祖父のおかげで出世した恩義もあるゆえ、母に対してそこまで強権的にはなれなかった事情も伺える。

news.yahoo.co.jp 実はこの社長、すなわち徹也の母方の祖父も父とは別の大阪府内の大学の土木科を卒業していた。そして、63年に建設会社を設立。徹也の父は入社後、ヒラ社員から工事部長を経て、最終的に取締役にまで出世している。

他にも、「from:@333_hill since:2020-1-20 until:2020-1-30」でツイートを検索した際、気になるツイートがあった。

これはどういうことかというと。

koto88.com山上徹也容疑者の母親は夫を亡くしたことで子供を連れて実家に戻ります。

実家は奈良市平松市にあり、祖父が1人で生活をしていました。

祖父は1人で過ごしていたが、同居することになったんだ。
しかし祖父は母親の常軌を逸した献金に、怒りを覚えていた。
出て行ってほしいと思っていた。

「オレ達」というのは、山上容疑者・母親・兄・妹の全員なのか否か、わからないが。
しかし「オレを守るのは、皮肉な事に張本人の母だった。」とあるように、母親は山上容疑者を守っていたのだろうか。

祖父も、血縁関係にある自分の娘を、無下にすることはできなかったのだろうか。

理由は複数あるにせよ、最も大きい要因は山上容疑者が供述するように「宗教団体への献金による家庭崩壊」にある。怒りの対象の置き換え、アベガーへの共感や同一化、ゼロではないかもしれないが、部分的だ。

明らかになっていない事実は「祖父が出て行けと言った理由」「祖父に従いなぜ母親を止めなかったかのかの理由」
これを、警察やジャーナリストは明らかにするべきではないだろうか。そこに、このような事件が起きてしまった背景、二度と起こさないための大事な何かが、ある気がする。

祖父が、夫の代わりとなって〈父の名〉の権威として、山上容疑者をエディプス・コンプレックスの克服に導くことも可能だったはずだ。

例えばそれがもし「山上容疑者が常に母親の味方をし、それによって祖父の献金の抑止などの行動が邪魔されていた」等の事実が明らかになった場合、「母子分離の失敗」「母親への愛情の固着」等、もっと大きな原因が把握できるような気がする。