逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

主婦が宗教にはまりやすい理由に「お金への憎悪」がありそれは経済的モラルハラスメントによる奴隷状態によって引き起こされる

昨日は、専業主婦の人達をディスるような、品性のない記事を書いてしまった。

gyakutorajiro.com結局、社会で働くことのストレスから逃れたいんだろう。
働きたくないがゆえに、専業主婦になっているにも関わらず「主婦も大変」とかよく言うよな!って感じだ。

いや、まあ育児は大変だと思うよ。
「お母さん」は立派だと思う部分はある。

だが専業主婦に憧れる女ってのは、ちょこっと家事やって、10時ぐらいに終わったらテレビ観て、昼は高いランチに行ったりして。
ついでにスイーツとかのお店で美味いもの食べるんだよ。

専業主婦を叩くようなことを書いたが、家庭の事情もあって結果的にそうなった人もいるのにね。
たぶんニートを叩くのに近いかもしれない。
結局はどこかで、自分も資本主義の価値観に毒されている。

「働かざる者食うべからず」「金を稼げ」「ちゃんと納税しろ」という資本主義の支配的イデオロギーの価値観の刷り込みが、ありとあらゆるところで行われている。
それをアルチュセールは「国家のイデオロギー装置」と呼んだ。
その話は前にしたから今回は割愛。

gyakutorajiro.com労働礼賛、資本主義礼賛。
サントリーのボスのCM『宇宙人ジョーンズ・禁じられた惑星』は、象徴的だよな。

「働かない社会」を、無気力で怠惰な世界として描いている。
役所広司「人はなぜ働くのか」「なんで働けないんだ、なんとかしてくれ」と。
当初、「働かなくていいのちょっと嬉しい」と喜んでいた神木隆之介も、「最初は嬉しかったけど・・・」と、意識が変容していく。

終盤、トミー・リー・ジョーンズ中島みゆきから、「労働禁止スイッチ」のようなものを奪って、最終的には素晴らしい労働の、資本主義の世界が復活する。

だがこのCMはいわゆる「切り取り」に過ぎない。
一面的な部分しか描いていない。
労働の現実、資本主義の現実は、もっと辛いものがあるんだよ。

命をすり減らして金に換えている。

「責任」という大義名分の名の下に、「もっと稼げ」「もっと売上をあげろ」と、馬車馬の如くノルマという鞭を叩かれ続ける人間たち。
だからザ・ノンフィクションで北海道大学を出て大手メーカーに就職した若者が、

「責任」っていう言葉がそもそもめっちゃ嫌いなんや

と、発言するのも無理はない。

そういう資本主義の残酷な側面には光を当てず、いい部分だけを切り取ってつくったのがあのCMだ。

そして外で働いているサラリーマン等の労働者は、会社や上司から受けた理不尽な要求や苦労を、専業主婦である妻に対して愚痴をぶつけたり、八つ当たりを行う。

そんなに家事ができないって言うなら
僕と同等に稼いでみなよ‼

ももこが生活を支えてくれるなら
僕はこんなつらい仕事すぐにでも辞めて家事に専念したい‼

心からそう思うよ!

(引用元:夫の扶養からぬけだしたい [ ゆむい ]

ももこはいいよな。僕は大変なんだ、と。
お金を稼ぐ苦労がどれだけ辛いか、旦那に延々嫌味を言われ続けるモラルハラスメントを受け続ける。

妻はどう思うだろうか。

「苦労してお金を稼いできてありがとう」と思うだろうか?
そんな嫌味で恩着せがましい夫が、どんどん嫌いになる。
「金を稼いでいるやつが偉いんだ」「俺が食い扶持を稼いできてるんだ」と、金金金金・・・カネによって頬をひっぱたかれているような、カネという首輪によって妻は心も身体もがんじがらめにされる。

やがて妻の旦那への憎悪は、金それ自体への憎悪へと変貌していく。
「そんなにお金を稼ぐことって偉いの?」「お金さえなければ・・・」と。

例えばその夫への憎悪、お金への憎悪から、漫画「夫の扶養からぬけだしたい」のように、経済的自立へと向かうケースもあるが。

それが宗教に向かうケースがある。

その心理的カニズムは、ジョルジュ・バタイユが「呪われた部分」という著書で既に明らかにしている。

バタイユは、人間が物に支配された状態、いわゆる労働を強いられる社会に支配された状態を「奴隷状態」「物への低下」と呼んだ。

だが《存在するもの》を物の次元へ還元することは奴隷状態だけの問題なのではない。
奴隷制度は廃止されたが、我々は人間が物に落とされている社会生活の光景を知っているし、こうした物への低下が奴隷制度を待つまでもなく存在しているということを知らねばならない。

労働が世界へ導入されたとたん、すぐに内奥性が、欲望の深さが、欲望の自由な荒れ狂いが、理性的な連鎖に取りかえられてしまったのだ。理性的な連鎖とは、今現在の瞬間の真実がもはや重視されず、諸操作の後々の成果が重視される、そういう未来時とのつながりのことである。

最初の労働は物の世界を築いた。古代人の俗なる世界が一般にこの世界に対応している。物の世界が創りだされるとすぐに、人間自身がこの世界の物の一つになってしまった。少なくとも働いているあいだはそうなった。

この堕落をどの時代の人間も回避しようと努力した。人間はその第一歩から、不可思議な神話や残虐な儀式を通して、失われた内奥性を追い求めていたのである。

(引用元:『呪われた部分 全般経済学試論・蕩尽 (ちくま学芸文庫) [ ジョルジュ・バタイユ ]』第1章 アステカ人の供養と戦争 第7節 供犠あるいは蕩尽)

売上、ノルマ、四半期目標、中期経営計画…理性的な連鎖という未来からの襲来、あらえかじめ定められた未来に向かうよう強いられる人間たち。

そして物の次元によって、失われた人間としての自尊心や神聖さ(失われた内奥性)を取り戻す試みとして。
いわゆる"宗教"が機能する。

宗教とはその長い努力であり、不安に満ちた探求だった。いつも宗教で問われていたのは、現実の次元から、つまり物の貧しさの次元から、人間を引き抜いて、神的な次元へ返すことだった。人間が用いる動植物(人間は、まるで動植物が人間のためだけに価値があり、動植物自身のためにはいささかも価値がないかのようにして、動植物を用いている)が内奥の世界の真実へ返されるのである。人間は動植物から聖なるコミュニケーションを受け取り、そしてこのコミュニケーションが人間を内面の自由へ返していく。

(引用元:『呪われた部分 全般経済学試論・蕩尽 (ちくま学芸文庫) [ ジョルジュ・バタイユ ]』第1章 アステカ人の供養と戦争 第7節 供犠あるいは蕩尽)

動植物の話は本題から逸れるが、理性の連鎖の世界において、人間は飲食行為等(動植物の蹂躙)を行っているがゆえに、その反動として動植物に関わる宗教的教義が生まれる。

夫によって、扶養者によって、金を稼ぐことの尊さを押し付けられ、主婦は物の貧しさの次元に日々追いやられていく。

つまり専業主婦の実情とバタイユの分析を鑑みると、結論としてこう言える。

宗教への傾倒には経済的従属性が大きくかかわっている

と。それゆえ、経済的従属性の高い専業主婦に、宗教へ傾倒する人間が多いという事実とも結びつく。

そこで旧統一教会の教義が、威力を発揮する。
「お金はサタンのもの。神様に捧げないと幸せになれない」によって、妻は夫からの従属、および経済的従属から解放される。

www.mbs.jpお金を否定する、それによってお金を稼ぎお金によってハラスメントを行う夫や経済的扶養者を否定する。

山上容疑者の母親も、おそらくは夫に経済的に依存していた。
喧嘩が絶えなかったという山上徹也のツイートもある。

gyakutorajiro.com父がもっと強権的になることも出来た。実際、暴力を振るったこともあるようだ。

生活費を自分以外の人間に依存する物理的従属。そして夫からの、扶養者からの経済的ハラスメントを受忍せざるを得ない精神的従属。
その被支配的な状況から、自らの個人として尊厳、失われた内奥性を取り戻すことが出来る行為が献金であり、宗教的教義の実践だということ。

資本主義社会が発展する以前の、最も原始的な狩猟採集の社会においても、労働や物は存在し、それによって奴隷状態に追いやられた人間は、その内奥性を喪失し、それを取り戻すため宗教を利用してきた。

そのため、どんな宗教も、労働や物や金銭と表裏一体であり、コインの表と裏のような関係性を持っている。

その否定し難い労働や物の現実があるからこそ、フリードリヒ・ニーチェキリスト教を、宗教をルサンチマン(奴隷道徳)だと言ってのけた。

労働や物から解放されたいからといって、現実から目を背け、形而上的観念の世界へ没入すること、価値転倒を推し進め、強者を貶めるルサンチマンの生産と信仰を行い続ける者を"ラストマン(末人)"と非難した。

宗教を完全否定はしないが、現実にある労働と物の世界、それを否定することは出来ない。

人間はその前提事実を受け入れ、その環境において最適な生き方を実践していくしかない。

その前提事実を無視し、宗教への圧倒的傾倒を実践し続けた場合、家庭崩壊や宗教虐待と言った破滅的結果をもたらすことは、既に明らかだろうよ。