このサイトの主なテーマは、ルサンチマンとともに「無意識を顕在化する」というのもあるから、今日はその話をするか。
「おっ」と惹きつける広告、もしくは無意識的に目を留めてしまう広告。
そのような広告には必ず、人間の性欲、リビドーを喚起させる仕掛けが組み込まれている。
今日はその一部を紹介したい。
例えば、この広告。
「合コン」という言葉が入っていたので、思わず目が留まった。
合コンという、生殖行為の前段階に位置するコミュニケーション活動、ないし疑似的生殖活動をメッセージに含めることで、人間の欲望を喚起する。
「欲望」といったのは、合コンという行為は人間の文化であり、それは欲求とは異なる。
フランスの精神分析学者ジャック・ラカンによれば「シニフィアン連鎖に出会う時点で欲求は既に欲望」といもいえるけどね。
我々は、主体と世界との純粋に想像的な関係が、主体と、それに対立すると言われている現実との関係の発展の根源にあるものとする考え方が、さまざまな困難と袋小路を引き起こしているのを見たわけですが、我々の置かれているこうした地点においては、私がずっと使い続けてきたささやかなシェーマを再び取り上げることが重要になります。
(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p321)
想像的な関係と、現実の関係は、異なる。
それは明らかだ。誰しも自分の思い通りに世界は動いてくれない。
ここには何か欲求(ブゾワン)と呼んでもよいようなものがありますが、私はいまから既に、これを欲望(デジール)と呼びます。なぜなら、起源的な状態も、純粋な欲求という状態も存在しないからです。
そもそもの初めから、欲求は欲望の平面上で、つまり、人間においてシニフィアンとある関係を持つことになるような何かの平面上で動機づけられています。この欲望する志向は、まさにここのところで、主体に対してシニフィアン連鎖として立てられているものを横切ります――これには、シニフィアン連鎖が既にそのさまざまな必然を彼の主体性に課してしまっているという場合もありますし、またそもそも、シニフィアン連鎖が母のもとでつねに既に構成されてしまっており、母のもとで既にその必然と障壁とを主体に課しているという形において初めて、主体がシニフィアン連鎖に出会う、という場合もあります。
主体はご存じの通り、まず〈他者〉という形でシニフィアン連鎖に出会い、次にメッセージという形でこの障壁に達します。このシェーマ上に、これが投影されているのを見ていただかなくてはなりません。
(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p322)
以前、「欲望と欲動と欲求の違い」の違いについて、話した。
gyakutorajiro.com【欲求】:飢えや渇きや性欲を満たしたいといった生物学的、根源的な衝動。
【欲動】:欲求が、シニフィアンのネットワーク(象徴界)によって抽象化されたもの。欲求と同じく反復性がある。
【欲望】:シニフィアンのネットワーク(象徴界)による影響や抑圧によって、リビドー(性衝動)が変容し、金銭や社会的地位、名誉などを求めること。
この定義は間違いだとは思っていないけど。ラカンが言うように、人間の欲求は図におけるA、すなわち〈他者〉と出会うことが必然であるという点で、既に欲望なのかもしれないね。
「合コン」という文字で喚起された欲望。
なぜ喚起したか。
それは「広告に注目してもらうため」である。
この広告を作った人は、人間の心理をよくご存じだな。
この「合コン」等のシニフィアンの記号について、ラカンはこのような分析をしている。
記号は、本能の理論のなかで、イメージとの関係によってしか特徴づけられないということはありません。記号は、欲求を目覚めさせるには十分だがそれを満たすには足りないような、そうした類の疑似餌(ルアー)ではないのです。
記号は、他のシニフィアンとの関係のなか、例えば、記号と直接に対置されている、記号の不在を意味するシニフィアンとの関係に位置しています。
記号は、既にシニフィアンとして組織立てられ、既に象徴的な関係のなかで構造化されている一つの総体のうちに場所を占めています。これは記号が、現前が不在とせめぎ合い、不在が現前とせめぎ合う、その連結点において現れる限りのことです――このせめぎ合いそれ自体は、通常、声による分節化と結びついていますが、この分節化において既に、シニフィアンであるような離散的要素は現れているのです。
(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p323)
「記号の不在」、それは「合コンができない」という現実だ。
欲望はシニフィアンで日々、離散させられている。(法律やルールなど)
それゆえに「お部屋と合コンしませんか?」は、強大だ。
まず「~しませんか?」という、声がけのようなシニフィアンである点。
いかなる現実にであれ、主体がそのなかに導き入れられるということを、何であれ、欲求不満(フリュストラシオン)や不調和、衝突、やけど、何でも構いませんがそうしたものの単なる経験から出発して考えることは絶対にできません。
一つの「環界 Umwelt」を一歩一歩たどたどしく、直接に手探りで研究する、ということはないのです。
動物では、本能が助けになってくれます。ありがたいことです。動物が世界を再構築しなければならないとすれば、死ぬまでかかっても足りなかったことでしょう。
ではなぜ人間に、あまりにわずかしか適応していない本能を持った人間に、言ってみれば自らの手で、世界の経験を行うことを期待したりするのでしょうか。シニフィアンがあるという事実は、非常に重要です。そして――こんなことを言うのは月並みでほとんど愚かしいことなのですが――人間が現実を体験する際の主要な表現手段とは、なんといっても声なのです。人間が受ける教育は、本質的に大人のパロールからやって来ます。
(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p326)
ラカンが「経験から出発して考えることは絶対にできません」というのは、「言語を覚えて、言語秩序に入っていないと無理だ」ってことだろうな。
声によって、教育によって言語を覚え、言語秩序に突入することで動物としての欲求が、人間としての欲望に分節化される。
欲求が言語によって変容した「合コン」という欲望の文化を無意識的に覚える。
そしてこの広告の一番の強力な部分は、「合コン」というワードを利用して、「欲望を強く喚起する幻覚を作り出している」ということだ。
逆に事柄を反対側から、妄想という面から捉えようとして、皆さんはこれを、フロイト以前のある時期に仕方なくそうしていたように、主体のある種の欲望に対応させたいという気になるかもしれません。何度かそれを見やって、妄想として斜めからちらちらと見ることによって、皆さんはそれに成功します。しかし、妄想のあらゆる現象のうちの主要な現象、もっとも際立った、もっとも数多くみられる、もっともはびこっている現象が、欲望の満足の夢想に関係するような現象ではけっしてないということは、明らかではないでしょうか。そうではなく、それは言語幻覚と同じぐらい確固たる何かなのです。
人は、この言語幻覚はどの水準で生み出されているのだろうか、言語幻覚では主体において精神運動性幻覚――これを確認しておくことはたいへん重要なのですが――といった形での、内的な反映のようなものがあるのではないか、投影か何かがあるのではないか等々のことを問います。しかし、この幻覚の構造化において支配的なもの、分類の最初の要素という役割を果たすに違いないものが、幻覚のシニフィアン的構造であるということは、最初から明らかではないでしょうか。
幻覚とは、シニフィアンの水準で構造化された現象なのです。この現象において最初に強調されるべきなのは、それがシニフィアンの現象だということである、このことを見て取ることなしには、これらの幻覚の組織化について一瞬たりとも考えることはできません。(中略)
お気づきの通り、このささやかなシェーマでは、欲求は回路のいわば外側のこの部分、右側の部分でかかわってきます。欲求は、ぎりぎりのところでしか存在しない何かのような、シニフィアン連鎖の一種の尻尾のような形で現れてくるのですが、しかし、そこではつねに、何かがこのシェーマのこの水準にたどり着くたびごとに起こります。
(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p324-325)
ラカンは、人間の妄想や内なる精神等が幻覚を作り出すということではなく「言語構造、この世界の象徴秩序そのものが、幻覚を作っている」ことを強調していると思われる。
人間は、妄想する。しかしその妄想する意識は、言語を覚え、言語秩序での生活を過ごさないとその行為自体を行うことはできない。
あらかじめ、生まれた時点で、未来が用意されている。義務教育が用意されている。幻覚は自分が見ているのではなくて、幻覚を見るように仕向けられている。幻覚を見るためのコード(規則)を覚える。
何かそんな話、前にしたな。
gyakutorajiro.com話を戻して、「合コン」という快感をもたらし得るシニフィアンを、「お部屋探し」に結びつけたシニフィアン連鎖を作る。
「合コン」という快感原則に近いシニフィアンの尻尾をつかんだら、「お部屋探し」という現実原則のM(メッセージ)にまで意識が向かう。
機知がまさしく快感に行き着くのは、機知では必ず、〈他者〉の水準で実現されるものが、意味の彼方を目指すことによって初めて潜在的に完成されるからです。この意味の彼方は自身のうちに、ある満足を含んでいるのです。
(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p325)
「機知」ってのはウィットとかジョークだとか笑い話の意味らしい。
shigemoto.blog105.fc2.comここにおいては、ウィット(含蓄)を含む「広告」も当てはまるだろう。
広告は、機知(お笑い)とかと違って、「クスっと笑える」ケースとは違う場合もあるだろうが、何らかの満足を得るようには仕向けられている。
快感原則がシェーマ化されるのが回路の外側の部分とすれば、同様に、現実原則はその反対側に位置づけられています。我々が経験のなかでかかっているような人間主体にとって、これ以外には現実原則のいかなる理解も定義も可能ではありません。
というのも、主体はそこで、二次過程の水準に入るからです。現実が問題となっているとき、シニフィアンが人間の現実的なもののなかに、独自の現実として実際に入って来るのを無視することなどできません。ランガージュなるものがあり、世界の中でそれが語ります。そしてそのことによって、シニフィエであるような一連のもの、対象が存在します。これらは、シニフィアンが世界に存在しなかったならば、絶対にシニフィエではなかったことでしょう。
(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p325)
快感原則無しには、現実原則は生まれなかった。
「お部屋探し」だって、「暑さや寒さ、災害から身を護る快適な住居環境で生命を維持したい」という生物学的で根源的な欲求、その欲求がランガージュで組み立てられた象徴秩序と結びついて、「お部屋探し」という欲望が生まれた。
つまり全ての広告、広告でだけではなく、あらゆる現象には、現実原則(メッセージ)の奥深くに、快感原則が眠っている。
しかしその快感原則を、強く刺激しないと、広告が無視されるケースがある。
それゆえ「お部屋と合コンしませんか?」というキャッチコピーにした。
「お部屋探し」という、メッセージを伝えるだけでは足りない。
人間の快感原則を刺激しなければ、シニフィアンの幻覚が作用しない、「お部屋探し」という現実原則のメッセ―ジを届けることができない可能性がある。
「不動産契約」「金銭の獲得」というシニフィエを生むためには、まず現象の上流、根源に位置する人間の快感原則を刺激するのが肝だ。
実はそれは、おそらく広告代理店の人間は意識的に行っている。それはラカンの精神分析を踏襲したというよりは、「性欲を刺激する」という形だろうけど。
今日は1つの広告しか紹介しなかったけど、次回、もっと実例を挙げる。
ほとんどの広告が、快感原則を刺激するようになっているという事実を明らかにする。
(続き:広告という記号による言語幻覚は快感原則を刺激するマーケティング手法を採用している)