逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

宗教2世を描いた映画「星の子」における父性隠喩とラカン的精神分析

本業で新しい仕事が増えたので、最近忙しい。
まあ食べていくために仕事が増えるのは有難いんだけど、趣味のラカン研究も疎かになりブログ更新の時間確保も難しくなってしまったけど、せめて月1ぐらいは何かを残しておくか。

最近、「星の子」という映画を観た。
宗教2世、信者2世の境遇を描いた映画だ。
あらすじはこんな感じ。



父(永瀬正敏)と母(原田知世)から惜しみない愛情を注がれて育ってきた、中学3年生のちひろ芦田愛菜)。両親は病弱だった幼少期の彼女の体を海路(高良健吾)と昇子(黒木華)が幹部を務める怪しげな宗教が治してくれたと信じて、深く信仰するようになっていた。ある日、ちひろは新任の教師・南(岡田将生)に心を奪われてしまう。思いを募らせる中、夜の公園で奇妙な儀式をする両親を南に目撃された上に、その心をさらに揺さぶる事件が起きる。

www.cinematoday.jp

以下、ネタバレあり。

この映画に出ていた宗教2世の芦田愛菜と姉のまーちゃん(蒔田彩珠)の家庭は、先月話した山上容疑者の家庭とは、少し異なっている。

gyakutorajiro.comそれは「父・母ともに、宗教に傾倒してしまっている」という点。
片方だけではない。

その場合、〈父の名〉の権威はどうなるのか、エディプス・コンプレックスはどうなるのかという話だが。

まず「父がいない場合」について、ジャック・ラカンはこのように述べている。

最初は、あらゆるドラマを産み出すのは、父の存在感の何らかの過剰、あるいは父の過剰であるとつねに信じられていました。それは、恐怖を与える父のイメージが外傷の一つの要素だと考えられていた頃でした。

神経症の場合は、父が優しすぎた場合の方がずっと深刻であることが、すぐに気づかれました。

人はゆっくりとしたしくじりから学ぶことを重ねて、我々はいまや反対側の端におり、父性欠如について議論しています。弱い父、従順な父、屈服させられた父、妻に去勢された父…(中略)…がに股の父、何でもござれというわけです。

それでもやはり、このような状況から明らかにされるものに気づくよう努めて、我々が前進するのを可能にしてくれる最小限の公式を見つける必要があるでしょう。


(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p244)

父親がいない場合でも、「子と母と父」というエディプスの三角形は形成される。

初めに、環境的要素として、父が具体的にそこにいるのかいないのかという問題があります。こうした研究の展開されるべき水準に、つまり現実(レアリテ)という水準に立つとするなら、我々は、父がそこにいない場合でさえもそこにいることが、まったく可能なことであり、考え得ることであり、現実にあったことであり、経験によって触れ得ることであると言うことができます。

我々は既にこのことから、父の役割に関する環境科学的見地からの操作には、いくらか慎重にならなければならないでしょう。父親がそこにおらず、子供が母親と二人だけにされた場合でさえも、まったく正常=規範的(ノルモー)なエディプス・コンプレックス ―― 一方では規範化するもの(ノルマリザン)たる限りで規範的(ノルモー)であり、また正常から逸脱されるものである(デノルマリーズ)限りで、つまり例えば、それが神経症にさせるという効果を持つということによっても正常(ノルモー)であるという、二つの意味で正常=規範的(ノルモー)なエディプス・コンプレックスが ―― 他の場合と正確に同質の仕方で打ち立てられます。


(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p245)

そして父が不在でも「子が母の超自我を乗り越えて、父を自我理想としてエディプス・コンプレックスを克服する」という自我形成もあり得る。

なぜなら、父とは「隠喩」だからだ。
生物学的に血のつながりのある父でなくても機能するケースがある。
それについては後述する。

ラカン理論では、正常な精神状態を神経症としているらしい。
まあ人は誰しも、神経症的なところはあるといえばある。
潔癖だったり、没頭する趣味などがあったり、変なこだわりがあったりね。

kagurakanon.sakura.ne.jpこのような観点から、ラカン精神分析においては、人の精神構造を具体的症状の有無にかかわらず、神経症圏、精神病圏、倒錯圏のいずれかに分類する。ラカン的な意味での「いわゆる一般人」というのは「症状が顕現していない神経症者」ということになる(現代ラカン派では異論もある)。

つまり、ラカンの理解からいうと、エディプスコンプレックス=〈父の名〉の有無は精神病圏と神経症圏を分かつ重要なメルクマールとして機能するのであり、エディプスコンプレックスとはむしろ「引き起こされなければならないもの」とさえいえるのである。

しかしこの映画のように、母と父が同じ価値観を共有していた場合はどうなるのだろうか。
ラカンは父性欠如についての話の中で、以下のように述べている。

父の欠如の問題は、再考に値します。しかし、非常に流動的な世界に入って行きますので、どういう点で探求が誤りを犯しているかを理解させてくれるような、一つの区別をここで行う必要があります。

この探求が誤りを犯すのは、それが見出すもののせいではなく、それが探しているもののせいです。私は、この探求には方向性の誤りがあると思います――問題はあるけれど混じり合うことのない二つのもの、つまり規範的なもの(ノルマティフ)としての父と、正常なもの(ノルマル)としての父が混同されているのです。

もちろん父は、自分自身が正常でない場合には、非常に規範を逸脱させるものであり得るわけですが、それは父の――神経症的であれ、精神的であれ――構造の水準で、問題を投げ出してしまうということです。つまり父が正常であるということと、家族のなかでの彼の位置が正常であるということは、別々の問題なのです。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p246)

つまり「規範的なものとしての父」と「正常なものとしての父」というものがあるとのことだ。
そしてエディプス・コンプレックスの克服を行う父は「規範的なものとしての父」であり、神経症的で、子どもと母親の接近を禁じ、父への同一化を促す。

逆に「正常なものとしての父」は、母と子どもを最大限に尊重する優しさを持つ一方で、子どもに規範を押しつけることなく、精神病的なリスクを抱えている。
そのリスクとは、先日も話をした母親の欲望の暴走、母の超自我による支配だ。
「正常なものとしての父」の場合は、母親を抑えつけることができないかもしれない。

もちろん、逆もあり得る。
父のみが宗教に傾倒し、それを母親と娘に強要するといったケースの場合、父の超自我による支配だ。
女児にとって、父親のファルスを超える対象に遭遇しなければ、支配からの脱却は難しいかもしれない。

以下の宗教2世の方の体験談(3-1~3-4)においても、家族とは別の彼(理解のある彼くんってやつ?)の存在によって離脱できたという話がある。

つまり、父であろうが母であろうが、自我理想を形成するにはエディプス・コンプレックスの克服が望ましいが、母と父が同じ価値観を共有し、同じ宗教に傾倒していた場合。母もしくは父の超自我の内面化によって、宗教を信仰する自我理想が形成されてしまう可能性が高い。

父とは象徴的なものだ。

そこで、当然ながら皆さんはこうおっしゃるでしょう。――「父とは、象徴的な父です。あなたは既にそうおっしゃったではありませんか」――確かに、それはもう十分に申し上げましたので、今日はくり返しません。今日は、象徴的な父という概念にもう少し正確さを与えることを申し上げます。それはこうです――父とは一つの隠喩なのです。

 

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p255)

ラカンは、父とは現実の父以外にも置き換えられるシニフィアンだと述べる。

では、隠喩とは何でしょうか。すぐにそれを申し上げて、この表に書くことにしましょう。そうすれば、表の厄介な帰結を修正することができるでしょう。既に説明したことがありますが、隠喩とは、別のシニフィアンの場所にやって来ている一つのシニフィアンのことです。ある人たちはこれを聞いて面食らうに違いありませんが、私は、それこそがエディプス・コンプレックスにおける父であると申し上げます。

正確に言うと――父とは、別のシニフィアンの代わりに置き換えられた一つのシニフィアンです。ここに、父がエディプス・コンプレックスのなかに介入してくる、その原動力、本質的な、独特の原動力があります。父性欠如は、この水準に求めるのでなければ、他のどこにも見つからないでしょう。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p255)

宗教に傾倒する母の超自我の場所に、父がやってくる。

エディプス・コンプレックスにおける父の役割とは、象徴化のうちに導入された最初のシニフィアンつまり母性的シニフィアンの代わりに置き換えられた一つのシニフィアンである、ということです。


皆さんに隠喩の定式として一度ご説明したことのある定式に従えば、父は、母の場所に[=母の代わりに]やって来ます。
SがS'の場所にやって来るということですが、このS'とは母であり、この母は、xであるような何か、つまり母との関係におけるシニフィエと、既に結びつけられています。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p255)

父がやってくれば、母は消えるだろうか。
ラカンは「消えてしまうこともある」と言う。

それは行ったり来たりする母です。母が行ったり来たりすると言うことができるのは、私が、既に象徴的なもののなかにとらえられた小さな存在であって、象徴化することを学んだからこそです。

言い換えれば、私が母を感じようとなかろうと、世界は彼女の到来とともに変化しますし、消えてしまうこともあります。


問題はこうです――シニフィエとはどんなものなのか。母は何を望んでいるのか。彼女の望んでいるものが私であればいいのですが、彼女の望んでいるのは私だけではないというのは明らかです。彼女に働きかける何か別のものがあります。彼女に働きかけるもの、それがxであり、シニフィエです。そして、母が行ったり来たりすることのシニフィエ、それがファルスです。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p255-256)

彼女が望んでいる物、母親の欲望は、子どもだけではなく、宗教団体への献金もあり得る。それがファルスとして機能し、家庭を支配することもある。

しかし隠喩的な父(父性隠喩)が機能した場合、例えば上図におけるSとして、S'の母を押さえつける対象が存在すれば、母親の欲望であるx(宗教)を消去できることもあり得る。

子どもは、S(1/s')という、母親の欲望はs'は分母として残留することはあるが、父性的なS(Subject)の力によって抑制される。


映画においては、母と父は同一の価値観を持っていたため、S'は母と父の両方であり、Sは叔父(大友康平)や岡田将生だ。
芦田愛菜は、母と父と同じように、宗教を信仰し、教義を守り、宇宙のエネルギーが注入されている水を飲んでいた。

しかし姉は、母と父とは別の審級、例えば学校における同級生や、大友康平が演じる親戚の叔父さん等の〈他者〉と出会うことで、価値観や自我の変容を迫られる。

他者のシニフィアンの影響を受けて、〈他者〉との大きく逸脱した価値観を両親を異常視する自我が芽生え、遂には家出してしまう。
上記の公式がそのまま成り立った。

妹における芦田愛菜も同じような道を辿りそうだった。
しかし辿らなかった。

映画が進むにつれ、姉と同様に両親の異常性に気付き始める。
最も大きいのは、愛する対象だ。
数学の教師、岡田将生が演じる教師の南の魅惑的なルックスに惚れ込み、授業中に似顔絵を描き続ける。

つまり欲望のグラフ第3図における「汝、何を欲するか?」において、対象aの位置に、南がくる。
欲望のグラフ第3図については、以前書いたこの記事がわかりやすいか。

gyakutorajiro.com第3図は要求と欲望の裂け目であり、自我が危険な状態である。

世間は宗教に白い目で見る。

南は、自動車で芦田愛菜を送迎したが、「待て!あそこに変なのがいる」と、宇宙エネルギーの水で湿らせたハンカチを頭に乗せている両親を、変質者のまなざしで見る。

その「宗教に傾倒するやつは受け入れられない」という要求に遭遇し、芦田愛菜の南への欲望は、その達成の困難を深く認識し、夜の町を涙を流しながら疾走する。

第2図において、両親が宗教でも平穏な日常を過ごせていた。
しかし両親の超自我を超える欲望の対象、対象aの出現によって、第3図への突入を免れることはできなかった。

どうなったか。

それはラストシーン、親子3人で星を観るシーンにあるように「現状の受容」だ。
岡田将生には、自動車での送迎の後も、教室で罵倒された。

withnews.jp徹底的に両親を否定された。
また、その前には叔父さんの家庭から「高校はうちから通わないか」という提案を受けて、両親の超自我の支配から、芦田愛菜を解放してあげようという提案も行った。

しかしそれでも、芦田愛菜はその提案を拒む。
姉のように両親を見捨てず、両親のそばにいることを伝える。
欲望のグラフ第4図、象徴的同一化を達成する。

確かに、世間からは白い目で見られるし、差別される。
かといって両親は優しいし、私も両親を愛する気持ちを捨てることはできない。

それゆえ第4図における"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の幻想を作る。
その幻想は「宗教には疑問はあるけど、両親を見捨てることはできない」というものだ。

もし、大学生や大人になれば、この幻想は変容し「両親から宗教を取り上げるのは無理なので、別居して距離置きながら自分は過ごそう」というものに変容して、象徴的同一化に至るかもしれない。

両親の意志を尊重するなら、その方が幸せかもしれない。


しかし山上容疑者は違った。
母親が信仰している、(宗教)から引き離すためだったのかは知らないが、行動を起こした。
それは許されざることではある。
母親を救うのであれば、別の方法があったのではないだろうか。

できるなら、この「「親の宗教」に20年囚われた女性が語る壮絶過去 」に出てくる女性のように、母親の価値観を否定してでも、母親と戦ってほしかったな。

toyokeizai.net「うちの子が赤ちゃんのとき、母親が無意識に『儀式』をしようとしたんです。子どもの健康にいいと思ったんでしょうけれど、私が『それはちょっと嫌だから、やめてほしい』とはっきり言ったら、受け入れてくれて。それも大きかったと思います」

カウンセリングに通っていた頃、道子さんは母親とさんざん電話で「バトル」をしたそうですが、母親は少しずつ道子さんの話に耳を傾けてくれるようになっていました。おそらくそれで、母親への信頼が戻ってきたのかもしれません。