欲望、欲動、欲求の違いについて、ささっと説明するのは難しかったりする。
また精神分析では、欲望も欲動も欲求も、使い分けている。
というわけで、この3つの違いについて、ジャック・ラカンとジークムント・フロイトの精神分析を元にアプローチしていきたい。
まずこれは、ジャック・ラカンの欲望のグラフ第2図よ。
この第2図および欲望については、川崎鷹也「魔法の絨毯」が多くの人の心に響く理由をジャック・ラカンの「欲望のグラフ 第2図」で解説でも説明した。
ちょっと修正しておくか。
前の記事で書いた図は判りにくい部分があったし。
また、前の記事で紹介した、闇金ウシジマくん1巻に出てくるバイトくんの池田の欲望の動きも、この図で表すことができる。
まず、漫画家志望の池田の欲望は、i(a)で表され、A(大文字の他者)へと向かう。
ここにおけるAとは、例えば売れっ子漫画家、ワンピースの尾田栄一郎だとか呪術廻戦の芥見下々等、シニフィアンのネットワークで構成されているこの現実(象徴界)に存在する他者だ。
「欲望とは他者の欲望である」というラカンの言葉は、このように既に欲望する対象が未来に、象徴界にシニフィアンとしてあらかじめ存在しているからだろうな。
しかしそう簡単に、売れっ子漫画家になれるわけではない。
想像的同一化は果たすことができず、現実(象徴界)というシニフィアンのネットワークの抑圧や影響によって、i(a)には到達できず、I(A)に帰結してしまう。
こんな風にラカンの欲望のグラフ第2図は、人間の欲望を捉える際に非常に汎用性の高い図示法ではあるんだが。
このグラフには、欲求と欲動については詳述されていない。
強いていえば、ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」で「神話的・前象徴的な意図(△)」と記載されているものが、欲求や欲動に関連してくる部分かと思われる。
この現実社会というシニフィアンのネットワークに突入する前段階の人間を示している。
そのため、欲望の中には、欲求や欲動も含まれている。
そして含まれているのは、△に近い位置にある、この「a」の部分だ。
このaを明らかにすることで、欲望に存在している欲求や欲動も明らかすることができる。
まずこのa、これは「対象a」である。
これについては重要なので、分かりやすい事例を挙げよう。
それは「喫茶店で店員同士がイチャイチャしていると腹が立つ理由をジャック・ラカンの概念で解説」という記事でも説明した。
gyakutorajiro.comこの記事にあるように、
・イチャイチャする店員(象徴界)
・逆寅次郎の自我(想像界)
・逆寅次郎の性的衝動(現実界)
この3つが交錯する場面で発生した、
・逆寅次郎がスターバックスの店員とイチャイチャする願望(対象a)
が、対象aだ。
その逆寅次郎の自我が理想とする対象aを、図示しよう。
その際に利用するのは、ジャック・ラカンの有名な「ボロメオの結び目」(ボロメオの輪、ボロメオの環ともいう)だ。
これに書き込むと、こんな感じだね。
こんな風に対象aは、欲望を構成している想像界と象徴界と現実界が交差する重複箇所に、発生している。
現実界における欲望について、もう少し詳しく説明しておこう。
現実界については、人間の生物学的な欲求、「本能」だとか、ジークムント・フロイトにおける「エス」と言われる部分に関連していると思われるが。
ラカンは現実界の欲望を「不可能なもの」としている。
不可能なもののこの機能は、否定的な形態をとる諸々の機能と同様、気をつけて取り扱うべきものです。これらの概念を取り扱う最良の方法はそれらを否定によって捉えないことだ、ということだけ示唆しておきましょう。
この方法は我われをここで、可能なものとは何かという問いへと導くことになるでしょう。不可能なものとは必ずしも可能なものの反対ではありません。ですから、我われとしては、可能なもの(ル・ポシブル)に対置されるべきはまさしく現実的なもの(ル・レール)ですから、現実的なものを不可能なものと定義することになるでしょう。
(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下) (岩波文庫 青N603-2) [ ジャック=アラン・ミレール ]p106-107)
なぜ不可能か?
それは闇金ウシジマくんの板橋を見ればわかる。
(引用元:闇金ウシジマくん(11)[ 真鍋昌平 ])
板橋は、入社以来の友人である小堀の奥さんに欲情した。
「結子の奴、俺に気があるな!小堀とはご無沙汰みてーだし、今度、俺様がGスポットと究極の性〇帯ポル〇オをせめまくって失神させてやる!」
と、性衝動を抱くが、実現することはなく不可能に至り、このようなセリフを吐きながら帰途につく。
その理由は、ラカン的にいえば象徴界における法による抑圧、フロイト的にいえば現実原理による抑圧があるからよ。
G・グロデックがくり返し強調しているところによると、我々が我々の自我と呼んでいるものは、生において本質的に受動的な振舞いをしており、彼の言い方を借りれば、我々は見知らぬ統御しがたい力によって「生きられて」いる。我々としても、隅々までぴったり同じとまではいかないにしても、皆これと似たような印象を持っており、したがって、このグロデックの洞察に対して、学の殿堂のうちでしかるべき場を占めていただくのに、何らためらうところはない。その洞察に敬意を払うためにも、ここで私としては、知覚系に発しまずは前意識的であるものを自我と呼び、それに対して、この自我と地続きでありながら、無意識的な振舞いをするこれとは別の心的ものを、グロデックの用語を借りて、エスと呼ぶことにしたいと思う。
こうした見方をすることで、記述し理解するためにプラスになるかどうかは、やがて判明することになるだろう。ともあれこのように見ると、我々にとって個人は、ひとつの心的なエス、何であるかしかと分かっていない無意識的な存在ということになり、このエスの表面に知覚系を核として成長した自我が載っかっているという格好になる。図解しようというのであれば、付け加えるべきは、自我は、エスの全体をすっぽり覆い尽くしているわけではなく、覆っているのは、エスの表面が知覚系と化している範囲にのみ限られているということであり、そのさまは、たとえば胚盤葉が卵の上に載っているのに似ている。自我はエスとはっきり区分されているのではなく、下方でエスと合流してひとつになっているのである。
しかし、抑圧されたものもまたエスの中に流れ込んでおり、エスの一部にすぎない。それゆえ、抑圧されたものは、抑圧抵抗を通して自我とはっきり分かたれてはいるものの、エスを通せば自我と通じ合うことができる。
すぐ分かるように、我々がこれまでの病理学からの示唆に基づいて記述していた様々な区分は、その大半が、心の装置の表面に広がる―我々が唯一知っている―諸相に関わるものにすぎない。以上の連関は、敢えて素描することも可能だろう。むろんこの場合、輪郭線はあくまで叙述の便をはかるためだけのものであって、そこに特別な解釈がこめられているわけではない。
もうひとつ付け加えておくと、自我は、「聴覚帽」を被っており、しかも脳解剖学によって証明されているように、それは片一方の側だけに限られている。聴覚帽は、自我のいわば斜め上に載っているのである。
たやすく理解できようが、自我はエスの一部であって、エスが外界の直接的影響を通して知覚―意識による調停のもとに変容したもの、言ってみれば、エスの表面分化の延長上にあるものである。自我は、エスならびにエスの意図に外界の影響がきちんと反映されるよう努力し、エスのなかで無際限の支配を奮っている快原理を現実原理に置き換えようとする。
自我にとっての知覚の役割は、エスのなかで欲動が占めている役割に等しい。
つまり、自我は、激情をはらんだエスとは反対に、理性や分別と呼べるものの代理をしているということである。
(引用元:『フロイト全集〈18〉―自我とエス』p18-20)
逆寅次郎が、「男はつらいよ」の車寅次郎が繰り広げるロマンスのような、喫茶店でイチャイチャする店員(象徴界)を知覚し、「俺もイチャイチャしたい・・・」(想像界)と考え、男性店員の方に「変われよ!」と叫びながら歩み寄り、その男性店員を排除して自らの性的衝動を満たそう(現実界)としても。
警察を呼ばれて逮捕され、収監されて監獄で罪を償う日々を強いられる。(象徴界)
フロイトが「エスが外界の直接的影響を通して知覚―意識による調停のもとに変容したもの」というように、自我はエスという性衝動によって変容を強いられる。
またフロイトは「自我にとっての知覚の役割は、エスのなかで欲動が占めている役割に等しい。」と述べているように、欲動をより、人間の根源的な衝動に位置づけている。
ラカンは、セミネール「欲動の分解」において欲望や欲求ではなく欲動を説明する際、このようなフロイトにおける現実界のエス、欲動について「現実的なもの」「新しいもの」として説明している。
私としてはそこに障害物があるとは思えません。しかも、フロイトにおいて現実的なものが現れるのはこのような仕方でのことですから。つまり快原理に対する障害物という形のことですから、なおさら私には障害物があるとは思えません。
現実的なもの、それは不調和であり、それは外界の対象に手を伸ばすときに望まれるようには、すぐにはうまくいかないということだと思われています。しかし私は、こうした考え方はのフロイトの考え方を単純化したまやかしだ、と思っています。現実的なものは、先回申し上げたように、快原理の領野からの分離によって、つまり脱性化によって、そしてその結果その経済が何らかの新しいものを容認することによって、特徴づけられるのです。この何らかの新しいもの、それがまさに不可能なものです。
しかし、この不可能なものはそれ以外の領野においても欠くことのできないものとして現れます。快原理においては不可能なものがあまりにも現前しているので、不可能なものはそこでは決してそれとして認められることはない、ということこそが、この快原理の特徴ですらあります。
快原理の機能は幻覚によって満足することだという考えは、そのことを図式化するためのものです。しかしそれは図式化にすぎません。対象をつかむことによって欲動はいわば、己が満足するのはまさにそれによってではない、ということを学びます。いかなる「欲求 Not」すなわち欲求のいかなる対象も欲動を満足させることはできないからこそ、欲動の弁証法の出発点において、「Bedurfnis」と「Not」が、つまり欲動的要請と欲求とが、区別されているのです。
(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下)[ ジャック=アラン・ミレール ]p107-108)
例えば「喉が渇く」「腹が空いた」という欲求を満たすのは、日本等の国にいれば簡単だが。
欲動は簡単ではない。
先述の板橋も、小堀の奥さんと簡単に不倫をすることができない。
脱性化され、快原理からの領野から分離される。
ここで、ラカンがいう「可能なもののの反対ではない、現実的なもの」「新しいもの」とは何だろうか。
おそらく、このことだろう。
(引用元:闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ])
「街中じゃこんな若い娘をじっくり見られないからなぁ…くふふぅ。女の子選べよ、小堀!!」
(引用元:闇金ウシジマくん(11)[ 真鍋昌平 ])
「グチョオ クチョオ グチョオ スカーッ グチョッグチョ グチョグチョ スカー」
友達の奥さんと不倫をするのは容易ではなく、だが、やろうと思えばできるという点で不可能ではない。「可能なもののの反対ではない、現実的なもの」である。
かといって不倫という「現実的なもの」とはいえその快原理を満たすには障害も多い。それゆえ、板橋にとって小堀の奥さんは脱性化され、代わりに容認できる「新しいもの」が生まれる。
それが、出会い喫茶で金銭を媒介としたコミュニケーションや、オ〇ホールでの自慰行為等の象徴界の産物(幻覚)であり、欲動だ。
しかしこれらは代償行動にすぎず、対象をつかんでも、欲動を満足させることはできない「不可能なもの」でもある。
それゆえ、欲動は弁証法的運動を繰り返す。ラカンは「欲動は対象の周りを巡る」と述べている。
乳房の対象としての機能、つまり私が対象aという概念で導入したような欲望の原因としての対象の機能における乳房、それに欲動の満足というべき機能を与えなくてはなりません。もっとうまい表現は次のようになるでしょう。
「欲動はその周りを巡る la pulsion en fait le tour」。他の諸対象についてもこの定式を当てはめることができるでしょう。フランス語では「tour」という語は英語の「turn」つまりその周りを巡る標点という意味と、「trick」つまり手品のトリックという意味がありますから、この定式は両義的に取ることができます。
(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下)[ ジャック=アラン・ミレール ]p109)
闇金ウシジマくんの板橋の性衝動においては、どの対象の周りを巡っているだろうか。
先述のように小堀の奥さんや、出会い喫茶の若い女性等の対象の周りをグルグルと廻っているのは確かだ。
しかしこのシーンでは、女性を侮辱し、欲動を満たす対象にはしていない。
(引用元:闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ])
「うらぁ!!遅ーよォ!! サイフ用意してからレジ並べ!バカ!! 若ーのかババァなのか紛らわしい恰好してんじゃねェーぞ!!ババァ!! お前はババァだ!!ババァ!!」
ファッションが若かったので、後ろ姿では若い女性だと間違え、欲動が対象に向きかけたようだが。
つまり板橋は「女性であれば誰でもいい」というわけではなく、女性の性的魅力を判別するための、知覚や身体の組織化が発生している。
その無意識的組織化の実践は、シニフィアン(象徴界)の影響だ。その組織化によって欲動を向ける女性を瞬時に判別する。
ラカンも、欲動においては対象が重要ではないということ、その交換可能性を述べている。
フロイトが言っているのはこのことです。テクストをお読みください。「欲動において対象であるもの、それは本来はいかなる重要性もないということはよく知っておいてもらいたい。対象はまったく無差異(アンディフェラン)である」。
フロイトを読むときは、いつでも耳をそばだてて読まねばなりません。しかもこのようなくだりを読むときはなおさら聞き耳を立てずにはいられません。
いかなる欲動においても、欲動においては対象は無差異であるというようなことが言えるためには、欲動の対象をどのように考えればよいのでしょう。たとえば口唇欲動を取り上げるならば、問題は、食べ物でも、食べ物の記憶でも、食べ物の残響でも、母親の世話でもなく、乳房と呼ばれているなにものかである、ということは明らかです。
この乳房は、同じ一連のものに属しているので、一見自然に出てくるように見えます。しかし、フロイトが欲動において対象は何の重要性もない、という指摘をしているのは、乳房は、おそらくその対象としての機能について全面的に考え直さなければならないからでしょう。
(引用元:ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念(下)[ ジャック=アラン・ミレール ]p109-110)
まとめると、以下になる。
【欲求】:飢えや渇きや性欲を満たしたいといった生物学的、根源的な衝動。
【欲動】:欲求が、シニフィアンのネットワーク(象徴界)によって抽象化されたもの。欲求と同じく反復性がある。
【欲望】:シニフィアンのネットワーク(象徴界)による影響や抑圧によって、リビドー(性衝動)が変容し、金銭や社会的地位、名誉などを求めること。
もちろん当サイトのメインテーマであるルサンチマンは、欲望の次元で発生するものだ。
だからいつもは欲望の話をしている。
ただ欲望について、上述のように欲動や欲求の影響も無視することはできないゆえ、欲望の話をするなら、欲動や欲求の話もしなければならない。
「友達がほしい」「誰かと一緒にいたい」といった衝動や感情も、姉妹サイトの、人はなぜ群れたいか?の答え→フロイトによれば群棲欲動は性欲動に内包されているからで語ったように、「ちびまる子ちゃんに出てくる大野君や杉山君みたいにイケてる人と友達になりたい」といった条件によって対象が選別化・抽象化される場合、その群棲欲動は文字通り、欲望というよりは"欲動"だ。
闇金ウシジマくんの板橋が「若ければいい」という条件によって対象選別と抽象化を行った無意識的な心理行動と非常に似ている。
以上のように、欲動には反復性があり、欲動の対象には交換可能性がある。
余談だが、フロイトを解釈病と批判しながらも、ドゥルーズ&ガタリは「あらゆる性的現象が経済的事柄であること」(アンチ・オイディプス)と述べていたように、フロイトにおける防衛機制の「昇華」に類似した欲望を語っている。
ドゥルーズ&ガタリは「欲望とは機械である。これは隠喩ではない。」と言った。
〈それ〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〈それ〉は呼吸し、過熱し、食べる。〈それ〉は排便し、愛撫する。〈それ〉と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。連結や接続をともなう様々な機械の機械がある。〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。
こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。 (アンチ・オイディプス 合本版 資本主義と分裂症【電子書籍】[ ジル・ドゥルーズ ])
〈それ〉の上に、「エス」というルビが振られている。それは「エス」ではないと、フロイトを批判している。「何という誤謬」だと。
エスではなく、人間を衝き動かしてるのは、機械なんだと。
ドゥルーズ&ガタリは、人間が象徴界によって法律や規範や目標となる対象等を内面化する以前に、「機械」という概念で欲求や欲動に近い根源的な衝動も含めて、欲望を捉えようとしたんだろうね。
フロイトやラカンの精神分析は、人間の欲望や無意識に迫る上で非常に重要なテキストだけど、ドゥルーズ&ガタリの欲望論も刺激的で説得力があるから、またちょくちょく紹介するかね。