「人生ってマジでなんなんだよ」っていう記事がバズってたな。
b.hatena.ne.jpこの感覚、非常に共感できる。
特に「とにかく労働が多すぎる」のが、非常にしんどい。
それが定年の60歳まで、で終わればまだいい。
60歳を過ぎても、労働し続けなければならない状況に追いやられる可能性も多々ある。
書き手の増田は「強制的にやらせるもん」という認識があるみたいだが、同感だ。
働くことはいいこと、働くという"お茶"は「おいしいもの」で、飲みなさい、熱中しなさい、と言ってくる。
この前の「「今日の仕事は楽しみですか」「月曜日のたわわ」の広告に嫌悪感を抱くのは間接的に差別されているから」って記事で紹介した稲森和夫の本とか読むと、本当にそうだ。
確かに、仕事を通じて社会に何か影響を与えたり貢献できたら、人生に意義を見出せて、気持ちいい気分になれるかもしれない。
だがそのようなクリエイティブな営みによって自己実現できるのは非常に稀なレアケースで、ほとんどの人間はほぼ「売上」という資本主義的実績を、所属する企業などの組織から求められ、実績の対価のおこぼれで食いつなぎ、強迫神経的に日々を過ごしている。
じゃあそれを強いているのは誰なんだ?と考えると。
アルチュセールの本に答えがあった。
われわれは国家のイデオロギー諸装置を通して、専門化された個別の諸制度の形態のもとで直接、観察者の前に現れる一定数の現実を表そうと考えている。われわれはこうした装置の経験に基づくリストを提出してみよう。こうしたリストは当然、詳細に検討され、試され、訂正され、書き直されることが必要となるであろう。
こうした必要を留保して、さしあたりわれわれは国家のイデオロギー装置として以下の諸制度を見なしうる(われわれが列挙する順番に特別な意味はない)。−宗教的AIE(様々な教会制度)
−学校のAIE(様々な公立、私立の《学校》制度)
−家族的AIE
−法的AIE
−政治的AIE(政治制度、その中での様々な政党)
−組合的AIE
−情報のAIE(新聞、ラジオ、テレビなど)
−文化的AIE(文学、美術、スポーツ等)AIEは“国家の抑圧装置”と混同されるものではないことを断っておく。
ルイ・アルチュセール『アルチュセールの「イデオロギー」論(三交社の本)
上のイデオロギー装置、全部だ。
全部、資本主義国家に寄与してる。
ミシェル・フーコーが権力を分散的で多価的なものとみなしていたように、権力はありとあらゆる場面で人間の身体に作用している。資本主義という社会的機械に、人間の器官機械は接続されている。
資本主義的主体から逃れようとすると、社会から落伍者の烙印を押される。
闇金ウシジマくんの「フリーターくん」編で、ニートである宇津井は、ルサンチマンをぶつける。
(闇金ウシジマくん(8)[ 真鍋昌平 ]より)
「どいつもこいつも子供中心主義ってヤツか?企業マーケティングのイイカモだぜ!」と、吐き捨てる。
また「ニートである」という事実は、差別的に描かれる。
武田鉄矢や松山ケンイチが出ている「こもりびと」というドラマにもあるように、ひきこもりは「社会問題」として扱われる。
なぜ社会問題か?そもそもなぜ社会問題化されるのか?
それは資本主義と極めて相性の悪い非生産的な営みだからってのもある。
だから「ひきこもり」という現象に対して、「社会問題だ」という呼びかけが行われ、「解決すべきネガティブな事柄」という烙印を押す。
つまり「働かない人間」は、"社会問題"の構造の中に組み込まれ、解決すべきネガティブな事象として、扱われる。
それゆえ資本主義者に生きる多くの人間に、働かないことに対するネガティブな印象が共有される。
同時に「働いている人間」に対しては、自尊心を供給する。
「降りることを許さない」というのは、もし仕事をやめて降りた場合、「非生産的で怠惰な人間」「社会問題として解決すべき人」といった何かしらのネガティブな烙印を押されてしまうことを、増田も薄々気付いているからだろうな。単純に生活できなくなるってのもあるかもだけど、
このように資本主義社会では賞賛されるべき人間とそうでない人間が、あらゆるシーンで、あらゆる形式で、刷り込まれる。
実際は働かない人間を差別しているのに、"社会問題"という概念によって隠蔽することで、「差別ではありませんよ」という形式を取る。
だが、本質は差別に他ならない。
社会問題化された主体の自尊心は傷つき、上記の宇津井のように、嫉妬や怨恨等からルサンチマンを生み出して誰かにぶつけたりする。
このように"社会問題"とされる現象や事柄には、必ず支配的なイデオロギーを内包している。
上記の場合は、際限なく生産性を求める資本主義のイデオロギーだ。
セクシャルマイノリティであるLGBTQの権利を尊重しましょう、ダイバーシティを尊重しよう、という耳障りのいい言葉や概念の前提には、必ず異性愛イデオロギーが存在しているという話も前にしたな。
更に言うと、資本主義イデオロギーの体現者は、カッコよく描かれる。
「プロフェッショナル 仕事の流儀」「ガイアの夜明け」等、とにかく賞賛されるべき存在として描かれる。
ニートが「こもりびと」として描かれるのと対極的だ。
「プロフェッショナル ニートの流儀」が存在しない。
"ひきこもり"は、支配的なイデオロギーによって"社会問題"という概念の中に押し込まれ、それに該当する人間を、その差別的なまなざしを隠蔽しながら差別している現実がある。
つまり、概念や言語で構築されたフィクションのコンテンツが、現実に先行している。
ジャン・ボードリヤールはこれを「ハイパーリアル」と呼んだ。
ボードリヤールは、シミュレーションの三つのレベルが存在すると説く(『象徴交換と死』)。第一のレベルは現実の明らかなコピー(模造)で、第二のレベルは現実と表象の境界があいまいになるほどよくできたコピー(生産)だ。第三のレベルは現実世界の個別的な部分にまったくもとづかない、コピーそのものの現実を生み出すコピー(シミュレーション)である。
いちばん良い例は、おそらく、コンピューター言語やコードによって生成される世界である「ヴァーチャル・リアリティ」だろう。したがって、ヴァーチャル・リアリティは抽象的存在である数学的モデルがつくりだす世界であり、ボードリヤールがハイパーリアルと呼ぶのは、〔現実〕世界の構築に先立ってモデルが出現する、この第三レベルのシミュレーションのことだ。
(ジャン・ボードリヤール (シリーズ現代思想ガイドブック) [ リチャード・J.レイン ] p55)
一見すると、テレビ番組のコンテンツ、例えば「プロフェッショナル 仕事の流儀」「ガイアの夜明け」等は、現実を踏まえたドキュメント性があるゆえ、第2のレベルであるように思える。
だけどそうじゃない。
「カッコよく描かれている」という点で、作り手による主観やイデオロギーが反映されている。その点で、第2のレベルでもあるようで、第3のレベルでもある。
「こもりびと」はどうだ?
現実に起きている事柄に基づいたドキュメント性の高いドラマか?
いや、そうとも言い切れない。
現実に起きているというよりは、現実にした。
「こもりびと」という呼びかけによって。
後から現実が出てきたんだ。
もちろん、先にひきこもり的な現象はあったかもしれない。
働かない八兵衛みたいな百姓は昔からいたかもしれない。
だけど、働かない八兵衛に遭遇せずに人生を終える人間も大勢いたはずだ。
つまり、受け取る主体によってはハイパーリアルに成り得る。
ひきこもりという概念、物語が先行して意識に刷り込まれる。自分の生活に関係なかった人間が、社会問題にされた対象となり、情報として入ってくる。
ひきこもりという、自分の日常生活のリアルでは全く起きていない現象や事柄を知る。
無意識に巻き込まれて、刷り込まれる。
ひきこもりは社会問題だということ、すなわち、汗水垂らして働くのは社会問題ではないということを。
ハイパーリアルには大抵、イデオロギーが含まれている。
もしくは、イデオロギーに対抗するためのカウンターの価値観や、ルサンチマンが含まれている場合もあったりするが。
大抵は資本主義と親和性が高いイデオロギーが優勢するゆえ、資本主義のハイパーリアルはなくならないし、死ねまで供給され続ける。
それを避ける人もいる。この野球選手とかもそうかもな。
minimarisuto.jp上記のウシジマくんに出てくる宇津井のように、イデオロギーの要請に応じられない主体は差別される。
差別されない、隔絶された空間などを生み出したり逃げることも、出来なくはないが。やろうとしても「働け」という圧力は無くならない。
「逃げた」という人もいるだろう。
「逃げた」と馬鹿にする人間の背後にあるイデオロギーは大抵、資本主義と相性のいい価値観ばかりだったりするな。
まあとにかく、降りられない何かってのは、資本主義社会のイデオロギーに立脚したシミュレーションやハイパーリアルがその正体だって話でした。