逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

広告という記号による言語幻覚は快感原則を刺激するマーケティング手法を採用している

昨日の話の続きをするかね。

gyakutorajiro.comフランスの精神分析学者ジャック・ラカンによれば「記号はシニフィアンとして幻覚を作る機能を持つ」という話だった。

シニフィアン、はこのサイトでは当然のごとく使っているけど、一旦これも整理するか。
シニフィアン「世界を認識する時に用いられる言葉や概念」という定義にしておくか。
それゆえ、人間による恣意的な部分がある。そして記号とシニフィアンの違いだが、記号はシニフィアンよりも範囲が広いイメージだな。
シニフィアンは記号の部分集合みたいな、「シニフィアン⊂記号」のイメージ。

既に最初に引用したフリース宛の五二番の手紙をご覧になれば分かりますが、フロイトが無意識の諸構造の誕生をはっきり述べようとしたとき、そして、一時過程を正確に説明するのを可能にしてくれるような心的装置の一つのモデルが、彼にとってはっきり形を取り始めたとき、フロイトはまず最初に、欲求の現れに対して幻覚的に応えるような記憶の刻印が、一つの記号、「Zeichen」以外の何ものでもないことを認めざるを得ませんでした。

(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p323)

記号(Zeichen)は、欲求を引き出すトリガーになる。
同義でもいいんだが、ラカンシニフィアン「人間の精神に何らかの意味や影響を与え得る機能が含まれている」という点で、単なる記号(それだけでは何も意味しないシニフィアン)と区別して用いている気もする。

シニフィアンは何ものかを意味している。そして何ものかを意味するためにシニフィアンを用いる誰かがいるという考え方、これらは「Signatura rerum(本態標)」と呼ばれます。これはヤコブベーメの著者のタイトルです。それが意味するところは、自然現象においては、神なる人物がいて、我々に神のラングを語るのだということです。

そうかといって現代の物理学はすべての意味(シニフィカシオン)を無に帰すとは考えてはいけません。極限において、一つだけ意味(シニフィカシオン)があるのです。ただしそれを意味する者は誰もいませんが。物理学の内部にシニフィアンのシステムがあるというそのことだけで、少なくともシステムが一つ存在するということ、つまり「Unwelt(環界)」という意味(シニフィカシオン)を含意しています。
つまり物理学は、一とすべてという二つのシニフィアンの最小限の結合を含意しています。すなわちすべては一か、あるいは一はすべてということを含意しています。


科学におけるこれらのシニフィアンは、その数がいかに少なくとも、それらは初めから与えられているものであって、それを何らかの経験主義的態度が引き出すと考えるのは誤りであり、いかなる経験的理論といえども、自然数全体の存在すらも説明することはできません。

ユングが私達にそれと反対のことを説得しようとしたとしても、歴史や観察や民俗学の示すところによると、原始共同体、あるいは未開民族集団というような文化におけるシニフィアンの使用の水準では、たとえば5という数字を見出すことは一つの征服です。オリノコ河の河畔には4という数字は習得しているがそれ以上の数を知らない部族がいます。そういう部族と、5という数が驚くべき可能性を開いた部族、しかも彼らが挿入されているシニフィアンの体系全体と矛盾を来たさない可能性を開いた部族とを、はっきりと区別することができます。

 

(引用元:ジャック・ラカン「精神病 下」p46-47)

"5"という数字を知らない部族がいるように、シニフィアンはあらかじめ用意されているものではない。概念や名称等のシニフィアンは、経験で生み出される場合もあるだろうが、自然数っていうシニフィアンも、目に見えるものではないよな。
日本語のシニフィアンの体系全体に「5」が加わっていても矛盾は来さない。5は現代の多くの社会や共同体では、シニフィアンとして確立されている。

ただ、話がややこしくなるから、今回は「記号」も「シニフィアン」も、同義として話を進めるか。
記号論」っていう、精神分析と別のジャンルもあるからな。

liberal-arts-guide.comまずありとあらゆる広告には、リビドー(快感原則)を刺激する仕掛けとなる記号が含まれている。
Youtubeの動画を見てみるといい。自分はRasmus Faberの「Divided/United」という曲をよく聴く。


この曲は、人間が心の内で無意識で行っていることを唄っているような感じもするな。
シニフィアンという記号や概念や他者によって世界を切断(Divided)して、認識や価値観を構成(United)するっていうね。

まあそれはさておきこのPVを見る直前に、Youtube広告が流れる。

youtubeの動画広告はテレビ等より規制が緩いのか、「儲けませんか?」という広告や、「痩せてかわいい子と付き合える」だの、「夫にまた求められるようになる」だの、極めて快感原則を喚起する内容になっている。


(引用元:無意識の形成物(上) [ ジャック・ラカン ]p324)

ラカンのこの図のように、現実原則のM〈メッセージ〉、つまり記号で構成される幻覚(広告)を見せる際、広告の中身とあまり関係がない場合でも、快感原則のA〈他者〉を、リビドーが向かう対象を、用意しておく。
動画広告だと、セクシーな女性であり、イケメンの男性だ。

つまり広告という現実原則の中に、リビドーが向かう備給対象(A)を設定しているということだ。

リビドー備給については、このサイトの説明がわかりやすいな。

blog.goo.ne.jp エスには本能的エネルギーのリビドーがあります。フロイトは、このリビドーの量は個人によって異なるが一定で、それが移動したりたまったりすると考えました。
 例えば、異性を好きになったとします。リビドーはその異性に向かいます。このとき、リビドーが「備給された(カテクシス)」と言います。「備給」とは「充当」とも訳されている 概念で、リビドーが特定の感情や思考、対象などに注がれることを意味します。一方、好きになった異性に向けられていたリビドーが自分に向かうと、極端に自分の身体を気にしたりします。一方、これとは逆に、対象から今まで向けてきた興味・関心を切り離し、リビドーを引き上げることを「逆備給」と呼びます。これは、臨死患者などがこの世への未練を断ち切って安らかな最期を迎える、いわゆる死の受容における重要なプロセスとされるものです。このように、リビドーはまるで経済における貨幣のように働いているので、この考えを「経済論」と呼びます。
 また、フロイトは、人間の心のなかで起こる意味ある事柄(心的行為)を、リビドーの動きとして心的構造論のなかで説明しています。「心のなかで起こる意味ある事柄」とは、夢や思い違い、悩みといった類です。それらの現象は、エスや、超自我の無意識的な部分から発せられるリビドーが自我に与える力関係から起こってきます。このような考えを、精神分析における「力動論」と呼んでいます。
 フロイト精神分析理論を理解するには、「局所論」「心的構造論」「経済論」「力動論」といった枠組みが必要となります。

前回も話したが、「合コン」というワードを使うということは、それが活発な若い男女もターゲットになるし、例えば俺のような独身の30代後半~40代等、合コンが欠如している人間も対象になるだろう。

文字だけの広告だが、不在の他者、リビドーが向かう対象が現れるかのような幻覚を作り出している。

何度も言うが、このような、言語幻覚(広告)の中に快感原則を刺激する記号を仕込むマーケティング手法は、ありとあらゆる現場で利用されている。

例えば、この転職サイトの広告だ。

サラリーマンが、転職サイトを探している際中になぜか、吉谷彩子が合いの手を入れる。
それは、「このサイトを利用して転職する」という現実原則のメッセージを伝えるために、その幻覚をより一層強力に機能させるために、人間のリビドーを刺激する必要がある。
そこで、吉谷彩子が利用される。

こちらの飲料のCMも、人間の快感原則を刺激している。

福原遥が全面的に出演し、商品をPRしているが「満たされろ」というシーンで、抱きしめるポーズを取っている。
すなわち、シニフィアンの連鎖に、リビドーを刺激するシニフィアンを必ず組み込む。

それが消費者を、人間を引き付ける力になる。

しかしあまりにそれが露骨な場合、サントリーのCMの「コックーン!」が炎上した時のように、リビドーを喚起する描写が強すぎる場合は、視聴した人が気付いていしまう。

それゆえ「快感原則を刺激はしているが、それだとは気付かれないようにする」という、ギリギリのラインを責める必要がある。
それが上記の転職サイトであり、飲料のCMだ。

また、これは別に男性に対してだけではない。

飲料のCMの福原遥は、化粧をしているシーンや会社でプレゼンをしているシーンがあるように、「働く女性の1日」を描いている。
それゆえ、福原遥は男性だけでなく、女性の同一化対象としても機能し、商品を消費することで福原遥のような可愛いくて、バリバリ働く女性になれますよ」というメッセージを女性にも与えることができる。

この松坂桃李貫地谷しほりのCMもそうだ。

松坂桃李貫地谷しほりという記号、ルッキズム的魅力を備えた人物を、シニフィアンの連鎖に加える。
転職活動をすると、貫地谷しほりのような魅力ある女性になれるかのような、松坂桃李のような魅力的な男性と近付けるかのような印象を与える。


ピタットハウス鈴木亮平も然り。カッコよくて頼もしい兄貴としての力を放つことができる記号であればあるほど、その広告に価値が出る。


こんな風に、広告の中に快感原則を刺激するシニフィアンを加えることで、視聴者によりその世界観に浸ってもらうようにしなければならない。

では全く、一見すると全く性的な印象がない?と思われるCMはどうだろか。

www.youtube.com吉永小百合のCM、一見すると、性的な印象はないように思える。

だが吉永小百合という存在、それは、ターゲットとなる中高年においては、若い時の吉永小百合、大女優としての吉永小百合等、ありとあらゆる吉永小百合に付随するシニフィアンの記憶が、無意識に堆積している。

つまりこのCMのように新幹線で旅に出ることで「自分の女性としての魅力を向上させたい」「吉永小百合のような女性になりたい」という無意識の願望に対する応答となり、その快感原則を刺激するためには、吉永小百合という記号でなければならない。

 

長塚京三もしかり。

www.nicovideo.jp俳優として権威と品格があり、社会的実績を積んでいる男性という記号を設けることで、それに同一化することで「男としての魅力を向上させたい」「長塚京三のような男性と旅に出たい」というリビドーを刺激する。

「新幹線で旅に出る」という現実原則のメッセージの役割は「新幹線」と「旅行先」の記号だけでも担えるはずだが、それだけでは足りない。
吉永小百合」「長塚京三」という快感原則、人間の欲望を喚起する記号も必要になる。それによって、言語幻覚の力を最大限に発揮させようとする。

パリッとしたスーツを着た3人の男性。松重豊野間口徹満島真之介

www.youtube.com松重豊「してやられたな」とつぶやく時、そこには「ものすごく豪華なホテルの中にある喫茶店が映し出される。
また、「飛行機のターミナル」「都会の景色を一望できる大きな窓ガラスがあるオフィス」が映し出されている。

つまりこの名刺サービスを利用すれば、「こんなにも立派な場所でコーヒーを飲めるようになれますよ」「飛行機で出張できるぐらいに出世できますよ」「こんなにも立派な場所で仕事ができるようになれますよ」という、快感原則を刺激するステータスシンボルの記号が加えられている。

また、男性しか出ていないCMだとしても、「パリッとしたスーツで立派なビルで働く高収入の男がいい」というような、女性の欲望を満たす記号、そこには「女性のまなざし」も含まれている。

景色が悪いワンルームマンションで仕事をしているような男が出るようなCMには絶対にしない。会社のブランドイメージを強くする作用も、上記の記号にはあるだろう。
ターゲットを絞れば、そういうCMの方が共感を得られる場合もある気もするけどね。

このように、よくある消費者金融のCMだけでなく、ほとんどの広告やCMに、性的表象が隠されている。
宮川大輔と犬しか出てなくてもだ。


「半額」という、金銭のアピール、これが性的だ。
金銭は欲望と深く結びついているがゆえに、快感原則を刺激する記号となる。

テレビCM以外はどうだろう。
最初に紹介した不動産会社の広告以外に「サブリミナル広告」というのもある。
なんかの本に載ってたので、紹介しよう。
(引用元がわからなくなっているので、もし権利者等がこの記事を読んだ場合は言ってくれ)

まずこれ。

これは深層意識に訴える形で、人間のリビドーを刺激している。
写真を逆にすると、それがわかる。

まるで女性がマス〇ーベーションをしているかのような構図になる。

日本で発売されたかは知らないが、90年代初期のペプシコーラ

ネオン調の赤と青のラインによって、"SEX"という文字を浮かび上がらせている。
青と赤が交わって"X"の部分を構成してるのが面白い。

タバコで有名なCAMEL。

スレンダーな女性の像を埋め込むことで、男性の快感原則を刺激し、購買意欲へと繋げる。

いい加減しつこいかもしれないが、この酒の広告にも埋め込まれている。

右側のグラスに入っている氷3つを、よぉ~く凝視してみると、それがわかるw

"subliminal seduction"だの"深層意識"で検索したら、こういう広告が出てくるかもしれない。
でもバレた時が面倒だから、今はあまりこんなサブリミナル広告みたいなのは少ないかもしれない。

ただ、こういう露骨なものでなくても、テレビCMでさえ必ず、人間のリビドーを刺激する何かが隠されている。
それは先述した通りだ。

昔、よく視聴していたCMがあった。


このCMに流れていた曲がすごくよくて、調べたことがある。「Tahiti 80だ!」と思った。1000timesを昔、ヘビーローテーションで聴いた時期があったので、声が似ていると思った。
けど、タヒチ80ではなかった。
Jhameelというアーティストの「Tokyo New Story」という曲らしい。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jpしかしよくよく思えばこのCMも、快感原則を刺激しようとしているな。
夏の東京に新幹線で旅をすれば、イケメンと出会えるっていうね。

芸能人が出てなくても関係ない。

無意識的にリビドーを刺激する。商品やサービスをPRするとともに、「こうすれば快感を得られますよ」「気持ちいいですよ」というメッセージを、無意識のレベルで与える。

しかし快感原則と結びついたシニフィアンの過剰供給、この「気持ちよくなるために消費しろ」というメッセージの過剰供給が、それが実現できないストレスによる「生きづらさ」とか、他の病気に繋がるケースも、あるような気もするな。