逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「表現規制派」「表現自由派」を語る末人はフロイトがいう防衛機制の「知性化」によって自らのコンプレックスを抑圧する

ずっとやってるな。
みんなこういう性的表象物、性に関する話題が好きなんだな。

anond.hatelabo.jp表現自由派と表現規制派の議論、まあ俺もたまにブログでやんや書いたり、つぶやいたりしてるけどね。

gyakutorajiro.comまず、こういうすぐ、人が創造したものにケチをつける輩、俺もその気があるからあんま言えないんだけど、そういう不遜な輩を、フリードリヒ・ニーチェは「終末の人間」「末人」(ラストマン)と呼んだ。

彼らのもっとも憎むのは、創造する者である。
録板と古い諸価値を壊す者、破壊者である。――彼を、彼らは犯罪者と呼ぶ。
すなわち、善い人々は――創造することができない。彼らはつねに、終末の端緒である。――
彼らは、新しい諸価値を録板の上に書く者を、十字架につける、彼らは、未来をおのれの犠牲にする、――彼らは、人間の未来全体を十字架につけるのだ!
善い人々――彼らはつねに、終末の端緒である。――

(引用元:フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき」)

ではなぜニーチェが言うように、末人は創造する者を憎むのか。
それは「持たざる者」だからだ。

例えば、たわわ広告を憎む一部のフェミニストは、「女性を性的消費している!」と糾弾する一方で、アンパンマンに出てくるドキンちゃんが「しょくぱんまん様」と言っているのに、その従属的な態度を非難しない。
その話は前にしたな。

gyakutorajiro.comアンパンマンサザエさんのような強いジェンダーステレオタイプを持つ表象物を、気にも留めない一方で。
たわわ広告や宇崎ちゃん、ラブライブ、温泉むすめのように、女性の乳房や身体の一部の器官(部分欲動の対象)が強調されている表象に対しては、バッシングをする。

なぜならそれは「自らが欠如している、保有していない、他者の欲望の対象だから」なんだよ。ジャック・ラカンが「欲望とは他者の欲望である」と述べたように、他者の欲望を満たす器官を備えている性的表象物には、極めて不快感が喚起される。

ハナレグミ秦基博が「眠りの森」という曲でも歌ってる。「上下をする胸の線~♪」ってね。男達は乳房にまなざしを向ける。

眠りの森 / 冨田ラボ (Authentic Session with 秦基博)

大きくて光り輝く瞳、男性を惹きつける魅惑的な乳房や尻、それらは自分においては「欠如」している可能性があるゆえに、「否定」したくなる。

フロイトラカンの「肉屋の女房の夢」の話でも、それはしたな。

gyakutorajiro.com肉屋の女房は、夫を魅了する魅惑的な女友達を否定するために、「女友達が家を訪れない状況」「女友達が好物である燻製の鮭が食べられない状況」を、夢として作り出した。

同じように一部フェミニストは、「表現規制派」という夢(ルサンチマン)を作り出した。
器官が強調された女性表象に対して、一部フェミやツイフェミも、自らの器官を、必ず相対化している。

それは受動的かつ無意識的に行われるため、「やっていない」と意識的に否定はするが、しかし先述したように、ドキンちゃんアンパンマン)をスルーし、器官の一部が強調されたアイちゃん(月曜日のたわわ)を否定する行為によって、自らが無意識的判断を行っていることを証明してしまっている。

一部オタクの「表現自由派」もそうだ。

満たされない欲望、「キモい」と呼ばれる現実の生活に対して、手に入らない「欠如」対象である、大きな瞳と魅惑的な器官を持つ女性を創造することを肯定する。

このように「表現自由派」「表現規制派」だけではないが、人間には自分の人生において「欠如」しているものがある。

その「欠如」を満たすために人間が作り出す空想的産物が、ジャック・ラカンが言う「対象a」だ。

対象aは、主体がいかにして〈他者〉(象徴的秩序)の中に支えを見つけるか、という行きづまりを解決するために出現することを、常に心に留めておかなければなりません。

第一の答えは、もちろん、シニフィアンの中に見つけるということです。つまり、主体が自分自身を〈他者〉の中のシニフィアンと同一化することによって、主体自身が他のシニフィアンを表象することになるようなシニフィアンです。

しかし、〈他者〉そのものが、筋の通らないすべてではないもの、欠如のまわりに構成され、本質的に失敗したものであるかぎり、主体がまさしく〈他者〉のただ中にある空虚、〈他者〉が失敗をする地点と一体化して、〈他者〉の中にニッチを見いだすというさらなる可能性が開けてきます。
そして、対象aは、〈他者〉の中のこの空虚を実在化して、それを体現します。わたしたちは言葉が失敗する地点において対象に出会うのです。

(引用元:スラヴォイ・ジジェク「快楽の転移」p292)

オタクもフェミニストも、象徴的秩序において、まともな人生を過ごせていないのではないのか?
俺もそうだが、「まとも」というのは、この資本主義社会が要請する支配的イデオロギーが強烈に刷り込みを与える幸福のロールモデルだ。

カップルはそれほど、気にならなくなった。
それよりたちが悪いというか・・・目に痛いのは、子供連れだ・・・!

(引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

「結婚して、子どもを作って、キャッチボールして、老後は庭を剪定したり、ゲートボールやハイキングに出かける」といったありふれた幸せのことだ。

スラヴォイ・ジジェクが語るように、その欲望の行き詰まり、他者が実現している欲望(家庭を持っている、金を持っている、ルックスがいい等)の欠如を満たすため、遂にフェミニストやオタクは、新たな価値観を生み出した。

表現規制派」「表現自由派」というシニフィアン
欠如を埋めるために作り出した概念。
ジジェクがいう「言葉が失敗する地点」によって、生み出された対象。

自らのコンプレックスが表出しないように、溢れ出ないように、自尊心や自己愛を保持するために、作りだした。
表現規制派」「表現自由派」という対象aを。

表現規制派」「表現自由派」という〈他者〉が生み出した、ニッチな価値観。この、ほとんど誰も興味を払わないシニフィアンに同一化することで、この空想的構築物の中に、自分の幸せや実存を叶えてくれる何か(対象a)があると思い、この空虚に一体化する。

このように、ラカン対象aという概念は、主体と対象の現実の間にあって、両者をとりもつ仲介人としての象徴的秩序(シニフィアン)であるという一般的な概念を逆転させたものです。

ラカンにとっては、主体と〈他者〉は対象において重なり合います(もしくは、集合論の用語を使えば、対象は$と〈他者〉の交わりです)。

「対象」は$たる主体という空虚と、〈他者〉の中にぱっくりと口を開く空虚を体現します。ここでも、内面が外面と一致する「ねじれた」空間というトポロジーが現れます。
対象と一体化することは、〈象徴界〉の外にあるものではなく、〈象徴界〉それ自体の外疎(エクステイメット)な核との一体化、象徴界の中のそれ以上のもの、象徴的なもののまさに中心にある空虚との一体化なのです。

(引用元:スラヴォイ・ジジェク「快楽の転移」p292)

簡単に書くと、

$(主体)ーーー空虚(「表現規制派」「表現自由派」等の対象a)ーーー現実の表象物(象徴界

ではなくて、
欲望の喚起ーーーーーーーーー他者(象徴界
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$(主体)ーーーーーー現実の表象物(象徴界
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対象aーーーーーーーーーー他者(象徴界

のように、主体は他者の影響を受ける象徴界において、現実の表象物(たわわ広告等)の影響も受けて、それによって一部フェミは不快感を、一部オタクは満足を得る。

そして一部フェミはその不快感を除去するため、一部オタクはその満足を持続するため、別の崇高な対象(対象a)、空虚(「表現規制派」「表現自由派」等の対象a)を作り出して、そこに自意識を払ったり同一化することで、他の欲望の行き詰まりを隠蔽するんだ。

対象aについて常に頭に入れておくべき第一の点は、ラカンのカテゴリーにはよくあることですが、わたしたちが扱っている概念は、そのもの自身と、そのものの反対および/もしくは異質なものを包含するものだということです。

対象aは、欲望が周囲を回り、そのために、欲望を引き起こすような純粋な欠如、つまり空虚であると同時に、その空虚を隠す、つまりそれを埋めることにより空虚を見えなくさせる想像的な要素です。

大切な点は、もちろん、そこを埋める要素なしには欠如はありえない、ということです。埋める材料こそが、その材料が作り替えるものを支えているのです。

(引用元:スラヴォイ・ジジェク「快楽の転移」p293)

「表現自由派」「表現規制派」という空虚(対象a)を作り出して、空虚(自らのコンプレックス)を埋める。

一部フェミやツイフェミは、「アイちゃん」という性的コンプレックスを喚起する材料を、逆にコンプレックスを埋める材料に利用し、「表現規制派」という価値観に作り替えた。

オタクは、「アイちゃん」という二次元の魅惑的な材料を、現実の女性に「キモい」と言われる性的コンプレックスを埋める材料に利用し、「表現自由派」という価値観に作り替えた。

抽象的概念という奴隷道徳を生産し、その防衛機制装置によって、自らのコンプレックスを隠蔽したり変容させる。

概念や価値観、宗教などのルサンチマン(奴隷道徳)が生まれるとき、必ずそれを声高に叫ぶ人間の中に欠如しているものがある。

このように、ラカンジジェク対象a(奴隷道徳の中にあると思ってる真実など)によって、人間が自らの欲望の未達という欠如を埋めたり隠したりして、自我を保っていると語ったように。

フロイトもこのような人間を緻密に分析してる。

フロイトの方が判りやすいな。

フロイトはこのような行為を、防衛機制の「知性化」と呼んだ。

theory.work表現規制派」「表現自由派」も、やってることは、闇金ウシジマくんに出てくるDQNと大して変わらない。

それにコイツらみてーな薄い大人の無駄遣いのツケを、オレら若い世代が払うハメになってンだ!
ツケの一番大きな代償は、オレ達日本人が誇りを持てず、国も家族も自分さえも愛せねェようになっちまったコトだ!

これからの時代、愛国心と思いやりの気持ちが大事じゃねェ?
国と仲間と家族を大事にしねェーとよ!!

(引用元:闇金ウシジマくん(4)[ 真鍋昌平 ]

ウシジマくんに出ているネッシーは"知性化"によって、自分の耐えがたい現実の隠蔽、自尊心の崩落を免れるため、自分が劣悪な社会的ポジション(低所得、プータロー、半グレ行為をせざるを得ない状況)にいるという現実を、「政治が悪い」「社会がこうしたんだ」「俺たちを虫けらのように扱っているんだ」と"合理化"と"抑圧"、あるいは"投射"することによって、隠蔽する。責任の所在の多くを他者になすりつける。

持たざるフェミニストやオタク達も同様に、知性化という防衛機制で「表現規制派」「表現自由派」という概念を生み出し、「この広告は性犯罪を助長する」だの表現の自由が侵害されるだの」等、誰も大して興味のない話に盛り上がる。
スピリチュアル・メッセージを自分に向って吐き続け、自己暗示によって自らは正しいと陶酔し、敵を作り出して自らの持論をぶつけて爽快感を得るとともに、他人の価値観を貶める合理化を行い、別の欲望の未達を抑圧し、「あなたたちが悪い」と投射する。

カッコつけてるんじゃねえぞ。カッコ悪いんだよ。

Mr.childrenの『彩り』という歌にも、「今 社会とか世界のどこかで♪ 起きる大きな出来事を取り上げて議論して♪ 少し自分が高尚な人種になれた気がして♪」というフレーズがあるだろ。

ニッチな価値観に没入している人間を、ミスチルは馬鹿にする。

もっと生理的で動物的で本質的な欲求や欲動、資本主義社会が押し付ける幸福のロールモデルが喚起する欲望に同一化できないがゆえに、末人は評論家になり、カルト宗教の教祖のように「表現規制派」「表現自由派」という奴隷道徳(ルサンチマン)を生産した。

いわゆるニーチェがいうディオニソス的な欲望を満たすことが出来ない閉塞感や劣等感、欲求不満を抑圧するために、無意識的に「学問」「評論」「表現規制派」「表現自由派」というアポロン的価値観、アポロン的空虚を生産し、それに没入し、専門用語や難しげな話等の抽象的概念をこねくり回し、コンプレックスを曖昧化して自尊心や自己愛を維持する。

情けねえな、ほんとによ。

まあ、俺もこんな持論を垂れ流れしている点で、人のこと言えないかもだけどな。