逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

フェミニズム離れを考える暇がないほど強大な女性らしさを無意識に押し付けるイデオロギーの存在について

フェミニズム、女性の性的消費について、女性の権利について、これに関する話題は定期的に盛り上がるね。
こんな記事を見かけた。

b.hatena.ne.jpなるほど、「フェミニズムから離れていく若い女子」は何を考えているか?という問い。
これを今日の記事の肴にするか。
確かにこの記事で述べられている結論、

反対すべき理由があり、賛同すべき理由がないからです。
私たちの利益を代弁していないからです。
私たちの楽しみを奪うからです。

女性当事者が多くいる領域でバッシングを行っていると認知されてきているから。

は、共感できる気もする。
だけどもう1つある。フェミニズム離れの最も大きな原因だと思われる理由がある。

それは「最初から関心が無い、もしくは、ほとんど興味がない。」だ。

マクドナルドとかに行って、ちょっと女性の会話を小耳に聞いてみればわかる。

町中探して、女性の権利だとかフェミニズムの話だとかをしている女性を探す方が大変よ。

高橋幸って人の考察も読んだ。
考察に入る前に、冒頭でもう真実が書かれてる。

gendai.ismedia.jp「女であるという理由で差別された経験がないから、フェミニズムが言う女性差別というのはよくわからない」

「現代ではもう女性差別みたいなものはないと思う」

フェミニズムについて、現在の女子大学生に聞いてみると、こんな答えが返ってくることがある。

って書いてるように、そもそも意識しないんだ、フェミニズムだとか女性の権利だとか。

そんなことよりも「恋したい」「愛されたい」「イケメンと付き合いたい」といった事柄の方が重要なんだよな。

だから「アンチフェミニズム」と「ポストフェミニズム」という区分けも疑問符を投げかけないといけない。
その区分けにすら入ってない女性、サイレントマジョリティーを完全に無視して議論が進んでいるから、全くピンと来なかった。

マクドナルドで見かけた女性のように、フェミニズムなんてのに関心が無い、日常生活でほとんど意識に上がらない、マジョリティーがいる。
「ポストフェミニズム・性別役割重視(19.4%)」というデータは、疑わしい。
なぜなら「そもそも関心が無い」女性に言及してない、その存在を無視してるからよ。

せめてフェミニズムを知っていますか?興味や関心、考えたことはありますか?」という質問から始めないと、信憑性が無い。
いきなりフェミニズムの議論から入ると、インタビューを受けた女性も知識が無いと思われないよう、無意識に、無理して意見を取り繕って、本音と違う曖昧な内容や虚偽が混じった内容が発せられる可能性が大きくなる。

「性別役割重視」という、まるで、意識的にその選択を行っているかのように書いているけどな。
どちらかというと無意識だ。
女性は無意識的に、「女性らしさ」というイデオロギーを、身体に刻み込まれる。

「女の子だ」という名づけが他動的であるかぎり――すなわち「女の子化」といったものが強制されるプロセスを起動するものであるかぎり―「女の子」という言葉、いやむしろその象徴的力は、身体として行為される女性性の形成(しかしけっして規範どおりにはならない)を司っている。しかしこれこそが、生存可能な主体の資格を得てそれを維持するために、規範の「引用」を強いられる「女の子」なのである。女性性とはこのように、けっして選択の産物ではなく、むしろ規範の強制的な引用であり、しかもその規範に備わる複雑な歴史性は、規律・規制・懲罰の関係と不可分なものである。
ジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』)

このジュディス・バトラーによる人間は「女の子」にさせられるんだっていう話は、前のたわわ広告に抱く嫌悪感の中には女性達の身体に刻み込まれたイデオロギーに対抗するルサンチマンも同居しているの記事でも引用したけどな。

「月曜日のたわわ」だとか、「宇崎ちゃんは遊びたい!」だとか、「ラブライブ!」よりも、フェミニズムや男女役割平等を推進したいならもっと問題視すべき、強大な存在があるだろうよ。

例えばアンパンマンとかな。赤ん坊は「女の子だ!」と名付けされ、母親の子育ての中で、アンパンマンを観る。
となると、しょくぱんまんに恋するドキンちゃんの振る舞いに同一化する可能性があるだろう。
しょくぱんまん様と、"様"付けちゃってるよ。
男女対等になってない。
自ら、主君と家臣の関係のように、男性を崇める振る舞いをドキンちゃんは実践している。

「ああ アンパンマン優しい君は いけ みんなの夢 まもるため」という唄が流れるが、なんでだよ。ドキンちゃんメロンパンナちゃんだって、みんなの夢を守ることが、あるんじゃないのか?
なぜ、男性というかパンだが、男性の声をしているアンパンマンが、当たり前のようにみんなの夢を守る存在になっている?主題歌になっている?
男がみんなの夢を守る、女を守る。女性は男性に庇護される存在といった価値観、さだまさしの「亭主関白」で繰り広げられているような、男性優位の家父長的価値観と同じ構造だ。
なぜフェミニストは月曜日のたわわを糾弾して、もっと強大なジェンダーロールを内面化させる力を持つアンパンマンを糾弾しない。

サザエさんもそうだろうよ。専業主婦のサザエさんの振る舞いを視聴して、女性がそれを無意識に内面化してしまう。
「母親になって後悔してる」女性の精神構造についてジジェクのラカン理論で解説でも話したが、「こうあるべき母親」というイメージが何度も反復され、そのイデオロギーが無意識に浸透していく。

そんで本屋に行ってみると、どうだ。
「彼を手に入れる方法」だの「ヨリを戻す方法」だの「愛される女子になる」だの「女子力どうこう」だの、恋愛だのスピリチュアルだのに関する本がそこそこあるだろうよ。
コンビニには、ananだの美人百花だのが置かれ、女性誌には大抵、恋愛に関するコンテンツがセットになっている。

やれ、家に帰ってテレビを付けてみれば、何が流れている。
例えば、古いけど「東京ラブストーリー」だとか、「ロングバケーション」だとか、「愛してると言ってくれ」だとか。
花より男子」「イケメンパラダイス」「逃げるは恥だが役に立つ」だの、恋愛ドラマの目白押しよ。
最近はラブストーリーも減ったが、ドラマだけじゃない。
グータンヌーボ」だの、「あいのり」だの「テラスハウス」だの「あざとくて何が悪いの」だの。

テレビに飽きてYoutubeを観る。もちろん、サカナクションの山口一郎のように恋愛の曲を書けない的なスタンスを持っている人もいるだろうが、相変わらず男女の恋愛模様を歌った曲は大量に生産され続けている。
aikoの曲に、フェミニストなんて出てこない。

基本的に二人しかいない。柴田淳の「片想い」のように、三角関係を描く場合もあるが。

男女の性を明言しない場合もあるものの、「10年でも100年でも君を愛してる」(BOO feat MURO - SMILE IN YOUR FACE)、「そうさ住所、一緒んとこにしよう、yeah yeah」(KICK THE CAN CREW 「住所 feat. 岡村靖幸」)、「グッバイ、君の運命の人は僕じゃない」 (Official髭男dism - Pretender)、と言うように、二人の世界に没入するように人間を仕向ける物質が大量に存在する。

映画もそうだ。
最近、ピースオブケイクという映画を観た。

梅宮志乃(多部未華子)は引っ越し先で、隣人の京志郎(綾野剛)を一目見て、こう感じた。

でもさ、大体感じちゃったわけよ。出会った瞬間、好きとかの前に、「あっ、この人とどうにかなっちゃうな」って。

頭で考える以前、感情以前に、無意識のレベルで目の前の男性に瞬時に好意を寄せることができる女性が平然と出てくる。

こんな風に、メディアは異性愛至上主義の恋愛コンテンツを垂れ流し続けてるし、これからも垂れ流し続ける。
BEAMSの広告にあるように「恋愛をしろ」という強大なイデオロギーが存在している。

そんだけ飽和状態どころか、もう血管が破裂するぐらいに異性との恋愛のイデオロギーを無意識に過剰摂取され続けている生活をしている女性が、フェミニズムだのジェンダーだの、考える余地が残っていない可能性だってあるだろうよ。

その余地の欠如、リソース不足の状態は、上に述べた女子大学生の「現代ではもう女性差別みたいなものはないと思う」という発言が示してるんじゃないかってね。
考える余地がないほど強大な恋愛イデオロギーによって無意識に男性を愛し、愛される存在になろうというように身体が組織化される力が働いている。

ルイ・アルチュール的にいえば、この異性恋愛の強制執行力は、国家のイデオロギー装置における「情報のAIE」「文化的AIE」よ。国家は、それが意図的ではない形態を取るにせよ、異性愛の恋愛を推奨する。
子どもという労働力を再生産し、資本主義を維持・発展してほしいからな。

本当に男女平等を求めたいなら、月曜日のたわわだとかの漫画以前に、もっと強大なアンパンマンから見直してみろやって話だ。
しょくぱんまんに様をつけるドキンちゃんを規制しないといけないし、河豚田増夫に収入を依存する専業主婦の河豚田笹江を、ワーキングウーマンにしてみろってね。
クレヨンしんちゃんの野原みさえをフェミニストにして、春日部駅の前で田嶋陽子お得意の穴と袋の話をする回を流してみろってんだ。

bunshun.jpそんなの放送するテレビ局はいないだろうし、思想が強すぎるっていうんで、スポンサーもつかねえだろうな。
放送されてたとしても、総務省が規制に入るかもしれない。
政教分離」の名のもとに、思想が強いコンテンツ排除しますという名目で、放送禁止にされる。

だが、異性愛イデオロギーの教義だけは、排除されない。
それは資本主義と非常に親和性がいいからね。