逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「月曜日のたわわ」のアイちゃんには無いが「エイリアン」のリプリーには存在する自立心について

昔、「恋するハニカミ」とかいうテレビ番組があった。
そこで確か細川茂樹、最近テレビ出てる?
その細川茂樹が「両手の法則」というなるものを提唱してたんだ。
「両手はかわいい」と。
グラスを両手で持つ女性、手を両手で握ってくる女性が「かわいい」と。

なぜかわいいか。これに対して、生物学的な説明もあったりする。

雌のとりうる方法として先に指摘したもう一つの例は、雄に求愛の給餌を要求することである。鳥類の場合、この行動は、雌がある種の退行をおこして雛の時期の行動を示しているのだとみなされるのがふつうである。雌は、雄が示すのと同様なしぐさをして、雄に餌をねだる。この種のしぐさは、女性のたどたどしい幼児的なしゃべり方や口をとがらせるしぐさを男性が愛らしく感ずるのと同様、雄鳥には抗しがたい魅力があるのだと考えられてきた。この時期の雌は大きな卵を造り出す仕事に必要な栄養をため込んでいる最中で、手に入る食物ならいくらでもほしいのだ。雄の給餌は、おそらく、雄が卵自体に対して直接投資をおこなうことを意味しているのだろう。つまり給餌は、雌と雄とが最初に子どもに対して加える投資量の、隔差を縮めるという効果をもっているのである。
利己的な遺伝子 [ リチャード・ドーキンス ]p234)

鳥が求愛して給餌を求める際、幼児的な仕草をするって話。

人間に当てはめた場合、例えば映画やドラマ等で、女性がしなだれて「ハキハキと喋らず滑舌を悪くなり、男性を見つめる」ようなシーンを観たことがないか。
ぶりっ子が「弱々しく、遅く、子どものような声を出す」のを、聞いたことはないか。

このような「力の無さ」や「無防備」であることがわかる身体の運動。
「両手の法則」にあるような、「両手がふさがっている状態」というのも、それに該当する。

そのため、ドーキンスが言うような弱さ、幼児への退行がある。
片手のみの身体運動は、「力強さ」や「余裕」等の雰囲気が現れている。

黒子のバスケ」で、黒子がイグナイト・パスを出すときや、火神がダンクを決めるのも、青峰が奇抜なストリートバスケをする際も、片手が交互に激しく運動する。

映画「デイジー」で、チョン・ウソンがカチコミをした際、銃を扱う時の動き。

片手による銃の扱い、攻撃が、非常にカッコいい。

じゃあドラゴンボールかめはめ波」や、幽遊白書の「霊丸」はどうなんだ。両手でするダンクもあるじゃねえか。幼児性とか退行とかねえだろう。
っていう指摘もあるかもしれない。
まあそうだろう。
その場合は幼児性だとか退行ではなく「全力で必至」なイメージも両手にあるな。

翻って「月曜日のたわわ」よ。
最初の1話、

・落ちたスマホを拾って両手で渡すシーン

があった。片手でも渡せるものを、わざわざ両手で渡すように描いている。
ここで弱弱しさ、女性らしさを、強調している。「両手を使わないと無理なの。片手じゃできないの」という退行の実践。

つまり細川茂樹の「両手の法則」というのは、あながち嘘ではなかったりするって話だ。
そして女性達はこのような「女性らしさ」みたいなものを、無意識的に、生まれてから死ぬまで、何度も何度も受動的に刷り込まれていく。
それはボードリヤールがいうハイパーリアルでもある。働かない存在が"ニート"として「ネガティブな事柄」に落とし込まれていく構造に似ている。
現実よりも先に、女性のイメージが、受動的に刷り込まれていく。

セーラームーンにおいて、月野うさぎは「戦う女」であるかもしれないが、タキシード仮面や月影の騎士が登場するときは、タキシード仮面様や月影の騎士に「守られる女」になる場合がほとんどであり、弱い存在へと変身(退行)している。

「問題のあるレストラン」というドラマで、序盤の新田結実(二階堂ふみ)と川奈藍里(高畑充希)の描かれ方に注目してほしい。
新田は、東大出のキャリアウーマンとして入社し、いわゆる強い女性として描かれている一面がある。
そして、ぶりっ子である川奈に、強い敵愾心や嫌悪感を示すシーンがいくつかある。

よく給湯室などで行われる、女同士、ホモソーシャルの会話でも、あるかもしれない。
「ぶりっ子ムカツク!」「男の前で態度変わる女ムカツク!」という感情。
女が弱さを出すことで「ヒロインの属性を身にまとおうとしている」「ヒロインになろうとしている」からだろう。
「ムカツク!」「ウザい!」等のぶりっ子への攻撃は、「ヒロインの座は私よ!」「あんたなんかヒロインにさせない!」や、「男に媚びることしかできない主体性のない女め!」といった意志の表出、マウンティングがある。
それは性淘汰に勝利するための最適戦略として、ぶりっ子を攻撃してライバルを打倒するという点で、理に適っているかもしれない。

「月曜日のたわわ」に戻ると、このぶりっ子に対する嫌悪感、女性から女性へのホモソーシャル的な嫌悪感が存在する。
「キモい」「ウザい」といった抽象的な表現で、本当の感情が隠蔽されるケースもあるけどな。
もちろん、男性から女性へのまなざしに対する嫌悪感も存在する。

では全く、もしくはほとんど嫌悪感を、問題を感じないケースは、どうだろう。

synodos.jpのデータによると、「日経新聞に載った広告に問題を感じるか」という問いに対して、なんと7割以上の女性が「問題を感じない」としていた。

アイちゃんは、男性の性的なまなざしに応じた女性であり、一部の女性にとってホモソーシャル的な嫌悪感を催す女性だ。
しかしそれを「問題ない」しているということは、先に述べた女性像の刷り込み、反復の力が作用している。
何度も何度も、女性的なイメージ、ハイパーリアルが受動的に刷り込まれ「女性は男性に守られるべき存在」「か弱さを演出して男性の気を引く」といった、ステレオタイプジェンダーロールを無意識的に受け入れている証左でもある。

では問題とした3割の女性の方は、どうだろう。

男性から女性への性的なまなざしや、ジェンダーロールを従属的に受けれいる女性に、嫌悪しているのだろうか。
ということは、社会が押し付けるジェンダーロールを拒絶し、男性に依存せず、己の力で力強く生きたいと考えているかもしれない。

力強く生きる女性として、判りやすい例が映画「エイリアン」のリプリーだ。

シガニー・ウィーバー演じる主人公の女性リプリーは、アイちゃんと全く対極的な行動を取っている。男性を拒絶している。

「エイリアン」では、リプリーがポ○ノ雑誌(ペ○スの擬態物)を口に押し込まれるシーンがある。


(引用元:エイリアン

“丸めた男性誌”は“男○器”を象徴しており、女性であるリプリーはセクシャルな記号として扱われている。
しかし最終的にリプリーはエイリアンを打ち砕くことで、ステレオタイプな女性像やイデオロギー(女性は男性に庇護される存在といった価値観、さだまさしの「亭主関白」で繰り広げられているような男性優位の家父長的価値観など)に、対抗しようとする力が働いている。

エイリアンの形態学的特長に着目すると、頭部はペ○スに似ており、口元からは濁った半透明の液体が滴り落ちている。
それゆえ、エイリアンは男性の象徴となってる。

つまり「リプリーがエイリアンを倒す」ということのコノテーション(暗示的意味)として、「女性は性的な記号として扱われるべきではない」「女性は勇敢だ」といったものが表象されることになり、これまでのセクシャルで、男性に対して従属的な記号として用いられる女性像に対するアンチテーゼが、映画「エイリアン」においては繰り広げられている。

みたいな話、何かの本に書いてあったよ。カルチュラル・スタディーズの本だった気がするが。

このような女性が男性からの抑圧から解放され活躍する物語は多数存在し、愛されているよな。「ジャンヌ・ダルク」「トゥームレイダー」「チャーリーズ・エンジェル」「ワンダーウーマン」「バイオハザード」等々。「プリキュア」もそうかもしれないね。

カウンターとして、こういった文化が生まれた。
「月曜日のたわわ」のアイちゃんのような、ステレオタイプな女性像に対抗する文化でもある。

その抵抗の奥底にある、動機は何だろうか。

それは、男性による支配を強いられる長い歴史の中で生まれた、従属的な女性像からの解放を目指したいという力への意志かもしれないし。

逆に、本当はハイスぺックな雄を獲得するため、ジェンダーロールを受け入れたかったが。男性が要請する女性らしさの体現の実現が、困難であると無意識的に判断した。そして、女性らしさを要請する男性を逆に攻撃してしまうといった、反動形成のようなルサンチマンの表出かもしれない。

そのルサンチマンが文化として具現化し、同一化対象になることで、精神的支柱になる。

一見、性的に冴えなく見える男、「エヴァンゲリオン」の碇シンジや、「アイアムアヒーロー」の鈴木英雄が、活躍する物語に惹かれるように。
同様に、性的に冴えないもしくは性的まなざしが排除された女性が活躍する物語を同一化対象として欲する。

抑圧されたものの回帰としてのリプリーワンダーウーマン、みたいなのが、あるかもしれないね。