逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

能力主義への抵抗を彷彿させる山下達郎の言説はルーザーを「従順な身体」に組織化してグッドルーザーを生産するルサンチマンにも成り得る

好きなアーティストに山下達郎がいる。
名曲揃いで、かなり魅了されて自分は聞き込んでいる。
「クリスマス・イブ」や「RIDE ON TIME」だけじゃない。

「風のコリドー」「高気圧ガール」「マーマレイド・グッドバイ」「Get Back In Love」「蒼氓」「アトムの子」「ジュブナイルのテーマ」「ミライのテーマ」…挙げればキリがない。

SILENT SCREAMER」も、うねるようなギターが超カッコいい。

「SILENT SCREAMER」
80年の名作『RIDE ON TIME』の“Out Door Side”(アナログ盤のA面)に収められていた「SILENT SCREAMER」。この曲も「BOMBER」と同じように複合リズムのファンクがサウンドの基調になっている。左右に振り分けられたギターが織りなすカッティングの絡み具合が聴きどころだ。ちなみに、右が山下達郎で左が椎名和夫。まずはその椎名の雄叫びのようなギター・ソロで曲がスタートしていく。

冒頭からオーバードライブとフランジャーを組み合わせた独特のジェット・サウンドが登場。当時の椎名和夫のシグネイチャー・サウンドで、見事な滑空感を作り出している。ペンタトニック・スケールを主体とするフレージングなのだが、チョーキングの組み込み方や、豪快なサステインから戻るタイミングなど、実にきめ細かに計算されているプレイだ。

間奏も見せ場が多い。難波弘之のピアノ・フレーズを少しだけ聞かせたあとに、斉藤ノブがラテン・パーカッションを盛大に打ち鳴らす。そうして場を温めたところで、満を持して椎名のギター・ソロに突入。こういった演出も実に憎らしい限りだ。
(引用元:椎名和夫にしか弾けないジェット・フェイザーのソロ | ギター・マガジンWEB|Guitar magazine

直撃世代ではないが、ベストアルバムの「OPUS」も、何回も聴いた。

「土曜日の恋人」も名曲だよな。
土岐麻子NONA REEVES等、多くの人にカバーされてる。


「SPARKLE」のイントロも、もうこれ聴いたら、非リアの自分でさえ「夏だな~」という高揚感に充ち溢れる。

matome.eternalcollegest.comこのイントロをサンプリングしたBOO feat MUROの「SMILE IN YOUR FACE」も名曲だよな。結婚式とかにも合いそうな曲だ。

そんな自分だから、最近、山下達郎のインタビュー記事とかが目に入って、つい読んでしまうね。

news.yahoo.co.jpそんでこの記事の中で、興味深い話があった。

「『人力飛行機』は、無一物の若者が、さあどうやって上に上がっていこうかという歌です。夢なんていらないか?といったら、そんなことないわけですよ。だけど歌の文句のように『夢は必ずかなう』なんてことも、安直にはとても言えない。教育で重要なのは、かなうことばっかり夢想させるんじゃなく、失敗した時にどうするかを教えること。能力とか才能は、全員が同じじゃない。勝ち負けではなく、その人の身の丈に対する充足を、哲学的、倫理的に教えないと。そうじゃないと、勝者と敗者が明確化した場合、敗者が勝者に怨念を抱いたりする。逆に勝者がそれを怖がったりもする。そういうのは昔からあるんだけど、今はSNSの匿名性の中ですさまじく増幅されている感がありますよね。気の弱い人だと、ネットでたたかれて、『私は才能ないからやめます』みたいになったりする」

「『人力飛行機』は最初の一歩の歌で、本当はその先にあるものも考えないといけないんですが、歌はそこまでやるとクドくなるので。口幅ったくいえばフィロソフィーというか、そういうものの反映は、なるべくきれいにやりたい」

敗者が勝者に怨念を抱く、これはルサンチマンと訳されることがある。

まあ自分は怨恨=ルサンチマンとは捉えてなくて、ルサンチマン「強者に打ち勝つために弱者が価値転倒等によって生み出した奴隷道徳」「嫉妬・怒り・恨み・辛みを乗り越えるための心理的機制」と捉えているから、怨恨はルサンチマンが発生する前段階で生じる感情だ。

山下達郎の楽曲は大好きだが、インタビューのこの箇所に、違和感を感じた。
もっと具体的に言えば「失敗した時にどうするかを教える」「身の丈に対する充足」という箇所であり、これは資本主義がその残虐性を隠蔽するルサンチマンという抑制装置として機能し、アルチュセールがいう国家のイデオロギー装置として機能し得る可能性に満ちているということよ。

イデオロギーというと、少し違和感があるかもしれない。
失敗した敗者を安堵させる価値観の提供は「言説」の方がしっくりくるか。
イデオロギーと言説の違いについては、とりわけ言説については、ミシェル・フーコーが言及している。というかこの概念の産みの親だ。

イデオロギーとは違うが、イデオロギー同様、権力関係と結びついてる。

言説という用語が有益であると多くの人が考える理由は、言説が権力関係と結びついているというフーコーの強調にある。多くのマルクス派理論家は、特定の言表や観念が制度によって権威づけられ、個人の観念に特定の影響をもつその事態を指示するためにイデオロギーという用語を用いてきたが、言説という概念はこのイデオロギーとう概念よりももっと複雑である、というのも、前章で触れた権力と抵抗についてのフーコーの発想からすれば、言説はたんに諸個人への諸観念の集合の押しつけではないからである。『性の歴史Ⅰ 知への意思』でフーコーは次のように述べている。

言説も、沈黙と同様に、決定的に権力に従属させられたものでも、決定的に対抗させられたものでもない。錯綜し不安定な一つの働き=ゲームを認めなければならないのであって、そこでは、言説は、同時に権力の道具にして作用=結果であるが、しかしまた、障害、支える台、抵抗の点、正反対の戦略のための出発点でもあるのだ。言説は権力を運び、産出する。言説は権力を強化するが、しかしまた内側から蝕み、危険にさらし、脆弱化し、その行手を妨げることを可能にする。
(『性の歴史Ⅰ 知への意思』邦訳一三〇頁)

ミシェル・フーコー (シリーズ現代思想ガイドブック) [ サラ・ミルズ ]p93-94)

このように言説は、特定の権力やその権力にとって都合のいい価値観を押し付ける作用があるが同時に、それに抵抗するような双方向的な性質もある。今までこのブログでは、母親らしさを強制するイデオロギーひきこもりを問題視するイデオロギー女の子らしさを求めるイデオロギー、について語ってきた。

これを、母親らしさを強制する言説、ひきこもりを問題視する言説、女の子らしさを求める言説、としても誤りではない。が、このサイトではルイ・アルチュセールが提唱した「国家のイデオロギー装置」の存在を証明するため、イデオロギーという言葉の方を多用してる。

上記イデオロギーに抵抗するものとして、フェミニズムという言説、phaさんによる言説などがある。

book.asahi.comまた言説は、世界を認識する濾過装置みたいな説明もされているね。

それゆえフーコーは、世界に物理的対象があることを否定しているのでも、言説以外のなにものも存在しないと主張しているのでもない。私たちは物質的対象や世界総体を、言説とそれが私たちの思考に押しつける構造によってはじめて、考えることができるし、経験できると言っているのである。

世界についての考察する過程において、私たちは、利用できる構造にしたがって経験や出来事を分離し解釈しているのであり、解釈をおこなう過程において、私たちはこの構造に、しばしば問いに付すことが困難であるような堅牢さと正常さを与えるのである。エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフは非言説的なものの問題を次のようにするどく論じている。

あらゆる対象が言説の対象として構成されるという事実は、思考の外部に世界があるかどうかという問いとはなんの関わりもない。……地震あるいはれんがの落下は、私の意志とは無関係に、ここでいま起きているという意味で、確実に存在する出来事である。しかしその対象としての種別性が「自然現象」という観点から構築されるか、あるいは「神の憤怒」の表現という観点から構築されるかは、言説的領野の構造によって定められる。斥けられるべきことは、そうした対象が思考にとって外在的であるということではなく、それとはかなり異なる主張、すなわち、出現の言説的条件の外で、対象が対象としてみずからを構成できるといった主張である。
(Laclau ana Mouffe 1985:108)

それゆえ、ラクラウとムフの視点からすれば、対象は実在し、出来事は現実世界において生起するのであるが、私たちはつねにこうした出来事を言説的構造の内部で理解し解釈することになるのであり、かつ、言説がみずからの理解を構造化するやり方を私たちはつねに認識しているわけではない。

身体の事例に立ち戻るなら、私たちはみずからの身体をまったく直接的な力であるかのように経験していることがわかる――痛みを感じる、退屈や空腹を感じる――ところが、すべてのこうした感覚が特定の意味や効果をそれらにあてがう言説構造をとおして濾過されているのである。

ミシェル・フーコー (シリーズ現代思想ガイドブック) [ サラ・ミルズ ]p96-97)

まあ確かに、「言説がみずからの理解を構造化するやり方」ってのは、認識が及ばないことがあるよな。
当たり前のように「お母さん」という言葉を使うけど。
その背後には、サザエさんクレヨンしんちゃんに出てくるお母さんを正常とし、闇金ウシジマくんに出てくるようなお母さんを軽蔑すべき異常な対象として排除するような権力構造があることを、いちいち考えたりしない。
「母親らしいこと何かしてくれたのかよ!」と叫ぶ時、その「母親らしい」というのは、シニフィアンの意味作用の反復的な内面化で形成された言説だ。
ここには特定の女性を是とし、特定の女性を否とするような、権力構造がある。

この記事でも言説について、紹介されてるな。

liberal-arts-guide.com本題に戻ろう。

山下達郎が音楽を通して「失敗した時にどうするかを教える」「身の丈に対する充足を提示する」行為を実践した場合、それは単なる音楽ではなく、言説になる。

まあ山下達郎だけじゃなくて、あらゆる音楽の中に、人間を言説という権力構造の中に組み込む力が働いている。

その力、言説に含まれているものの正体が、ルサンチマンよ。
失敗してもいい、負けてもいい、ルーザーを肯定する言説、奴隷道徳によって、人間は怨恨を抑圧し、自尊心を維持することができる。

川崎鷹也の「魔法の絨毯」のように、「金がなくても君を守りたいんだ」という言説を自分の耳という器官から、身体に澄み渡らせて脳でその価値観を内面化する時、たとえ資本主義社会におけるルーザー、低所得者等であっても、自己肯定をすることができる。


イルカの「なごり雪」やケツメイシ「さくら」やofficial髭男dismの「Pretender」等、振られた現実を抑圧する言説で、自己肯定をすることができる。

サイプレス上野とロベルト吉野「メリゴ feat. SKY-HI」やJambo Lacquer「マスヨウニ」や大橋トリオ「きっとそれでいい」等、ありのままでいいんだよという現状肯定で現実を抑圧する言説で、自分を納得させる。

このような、ルーザーを肯定するルサンチマンの言説によって、ミシェル・フーコーがいう「従順な身体」を形成する。

同性愛と子どものセクシャリティがいかに構成されたのかを分析するのと同じく、フーコーはまた、女性の身体とセクシャリティが社会的抑圧によって形成されるあり方も考察している。女性の身体、とりわけ中産階級の女性の身体はありとあらゆる多様な実践と言説的体制の主題であった。フェミニストの理論家たちは、第一章で論じた規律体制という概念をとりあげ、女性の身体への女性性の働きかけの分析に活用した。

規律体制とは、人間の振る舞いが監視され、欲求、運動、感情の統制にかかわる一連の規制や調整に服従させられる場所である。『監獄の誕生』でフーコーは、十九世紀において、監獄や軍隊など、それらの制度の円滑な運営のために導入された規律の構造について記述した。この制度内で、人々は指令に服従し、日常的行動すら厳格な一群の規律にしたがって遂行するよう強制されるのである。

この一群の規則は、個人の人格の一部であるようにあらわれるまでにいたる。資本主義的生産は監獄や軍隊、そしてそれ以外の制度に由来する多数の技術を植民地化し、労働倫理の構築をともないながら、時間厳守、自己規律、きちょうめんさのような観念が労働者自身によって望ましい特性として内面化されることを保障する。

同様にして、フェミニストのなかには、女性性は規律体制としてみなすべきだと論じる者もいる。女性性が達成されるのは(もしされが達成されるとしてだが)、脱毛、化粧、体操、ダイエット、衣服への配慮を通して、女性的理想にみずからの身体を合わせていく長期にわたる努力=労働の過程の末にである。フェミニストの理論家が関心をよせたのは、まさにこのような身体への働きかけである。

ミシェル・フーコー (シリーズ現代思想ガイドブック) [ サラ・ミルズ ]p155-156)

note.comこの社会全体に、規律体制は及んでいる。別に監獄とか軍隊とか、閉ざされた空間だけじゃない。
資本主義社会は、働かないニートやひきこもりを社会問題とする規律体制を作り出し、ドラマ「こもりびと」で松山ケンイチが「こんな人間でも生きてる価値、あると思う?」と心情を吐露していたように、規則が内面化するように仕向ける。
そうなるとこの社会も、監獄とか軍隊同様、閉ざされた空間かもしれないね。

脱毛とか化粧も、半ば強制的な役割のように女性に要求されているという点で言説だよな。


山下達郎の発言もそうだ。
この「ルーザーに自尊心の拠り所になる奴隷道徳を供給する」というルサンチマンの実践が、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリが「アンチオイディプス」で言及していたように、資本主義社会の秩序を怨恨によって脱コード化する流れに対抗する、公理系化する力だ。

怨恨によって、秩序を乱されたり犯罪を犯されたら困る。
「従順な身体」を人間に内面化せねばならない。
そのためには、ルーザーにおいても、嫉妬や怨恨を乗り越え、ある程度の自己肯定感を持ったグッドルーザーになってもらわないと困る。

そこで、音楽、映画、小説・・・ありとあらゆる資本主義の生産物が、自尊心を供給する。

又吉直樹の小説「火花」で、スパークスも、あほんだらも、ルーザーではある。
姉妹サイトの、映画「火花」は、夢を追い続けたけど諦めた人達全てを救う鎮魂歌という記事で書いたが、神谷の発言は、ルーザーに自尊心を与え、従順な身体として生きていく言説として機能する。

「この壮大な大会には勝ち負けがある。だからおもろいねん。でもな、淘汰されたやつらの存在って、絶対無駄じゃないねん。まあ”やらんほうがよかった”って思ってるやつもいてるかもしれへんけど。じゃあ、例えば優勝したコンビ以外はやらん方がよかったかっていうと、絶対そんなわけないやん。1組だけしかおらんかったら、絶対そんなおもろくなってないと思うで」
「だから1回でも舞台に立ったやつは、絶対、必要やったんや。絶対に、全員必要やったんや」
「だからこれからの全ての漫才に俺らは関わってんねん」
「つまり何をやってても、芸人に引退はないねん」
「徳永は10年間面白いことを考え続けたわけやん。そんでずっと劇場で人を笑わせてきたわけやろ。」
「それってとてつもない特殊能力を身に付けたいうことやで。ボクサーのパンチと一緒やな。あいつら無名でも簡単に人〇せるやろ。芸人も一緒や。ただし芸人のパンチは、殴れば殴るほど人を幸せにできんねん」
「だから芸人辞めて、人の仕事でメシ食うようになっても、笑いでどつきまわったれ。お前みたいなパンチ持ってるのどこにもおらんからな」

昔、流れていたジョージア明日があるさ』のラジオCM。
敢えて、誰もが羨む一流企業の名刺を放棄、一流企業勤めという属性を削ぎ落してルーザーに近付き、それでも自分を愛してくれる女性と出会うことができた。

浜田雅功、一部上場企業トアール・コーポレーション勤務。若い頃は名刺を出せば女性にキャーキャー言われてました。でも、会社の名前で勝負するのって、格好悪いでしょ。そう思うて、初めての女性と食事する時は、“海山商事”という架空の小さな会社に勤めてることにしたんです。すると途端にモテなくなって・・・ショックでした。でも、一人だけボクのこと好きになってくれた女性がいました。それが今の妻です。
あれから10年。昨日、『会社辞めようと思うんや』って相談したら、『じゃあ海山商事でも作れば』と言うんです。妻はずっとオレを見ててくれてる。顔はきれいとは言えないけど、心はきれいな私の妻です。」

そんで、ジョージアのテーマだが何かが流れるのよ。
いいCMだね。純愛、TRUE LOVEの実践だ。まさにこのラジオCMは"純愛"というものを、コピーだけで提示している。
現実のラブストーリーや結婚ってのは、このCMみたいな甘っちょろいもんじゃねえけどな。
年収、ルックス、地位、肩書き、名誉、家柄といった価値尺度によって、純愛の価値はどこいった?そもそもあった?って感じだよな。
だからこそ、ルーザーを肯定する言説でもある。川崎鷹也の「魔法の絨毯」に似てる部分もあるが、このコピーの方が何か解像度が高くてリアリティがあって好きだな。

一流企業勤めではなくても、愛してくれる人はいるんだよというルサンチマンの供給によって、低所得者や、借金だらけの三流企業や零細企業に勤めるルーザーに自尊心を与え、従順なグッドルーザーにする言説。

昔ジャンプで『ROOKIES』(森田まさのり)っていう野球漫画があったが、そこで御子柴がいいこと言ってた。何巻か忘れたが。

「甲子園に行けなくてもいい・・・行けるかもしれないんじゃないか・・・俺、そういうのでいいんだ、そういうので、いいんだよ・・・」

だったような。ルーザーでもいい。「行けるかもしれない」でいいんだよ。
あとまたジャンプだが、『ホイッスル』(樋口大輔)っていうサッカー漫画があった。これも何巻か忘れたんだが、

「努力してもダメかもしれない・・・けど、いいんだ、ゼロじゃあ、なくなる・・・」

みたいなセリフがあった。

こんな風に、資本主義社会が供給するルーザーを肯定する言説をお手軽に内面化し、自尊心を維持している。
この事実に遭遇した時、ルーザーである自分をグッドルーザーにして自分を正当化していると気付いた時、すごく虚しい気分になった。

別に誰かを傷つけたりとか秩序を乱したいとかは思わないし、「従順な身体」でもグッドルーザーいいんだけど、なんか自分の行動って浅はかだなって。

今まで愛して、消費してきたコンテンツで、自分自身の問題を抑圧していた。

ルーザーであると自己認識して自尊心が下落しそうになったときに、ルーザーを肯定する言説を接種し、その言説を内面化し、自分を癒して自己肯定感を上向きにし、精神を平穏にしたり、自尊心の維持を行っていた。

消費によって自尊心を維持する、かつての俺であり、ただの消費活動で人にマウンティングする嫌悪する対象であるサブカル人間そのものだ。

でもやっぱり、天童荒太人間には物語が必要だと言ったように、求めてしまうんだよな。
自分を肯定できるルサンチマンを。

吉田恵輔監督の、「BLUE」っていう映画を観た。


ネタバレはしない。
ラストシーンの瓜田信人(松山ケンイチ)が、素晴らしい。
本当に癒された。全てのルーザー、ルーザーだと自己認識している人々の心を癒してくれる、美しいルサンチマンの賛歌だ。
自尊心が下がっていたり、死にたいだとかよからぬ考えを抱いている人々、弱者男性等に、ぜひ観てほしい映画だね。

まあでもグッドルーザーを生産するコンテンツといえば、そうかもしれないけど。