逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

川崎鷹也「魔法の絨毯」が多くの人の心に響く理由をジャック・ラカンの「欲望のグラフ 第2図」で解説

この曲、多くの人に支持され、2022年4月21日現在、youtubeで6500万回以上再生されまくっている。

今日はこういったJ-POPが支持される理由についてを説明したい。
まず、この図を見てくれ。
これは欲望のグラフの第2図だ。

(引用元:ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』)

これだとわかりにくいから、事前に「魔法の絨毯」ブームの現象について書き込みをしておく。

これで説明がしやすくなった。
まず、ベクトルの出発点は、右下の$(斜線を引かれたS)で、主体はA(象徴界における他者)に<i(a)=想像的同一化>という運動を行う。

象徴界ってのは、我々が現在、住んでいる世界のことよ。
資本主義的イデオロギーや、そこから派生する意味作用(シニフィエ)に溢れた世界のことを指す。
それゆえ、同一化対象のAも、資本主義的な価値観に裏打ちされた成功者であるケースが多い。
そのAと同一化したいと頑張るんだが、どうしても人生は甘くねえ。

(引用元:闇金ウシジマくん(1)[ 真鍋昌平 ]

闇金ウシジマくんに出てくるバイトくんの池田。漫画家になる夢、若さゆえの全能感があったか、現実の日々の洗礼を受け続けることにより、夢に費やす時間は消えていく。

i(a)と描かれているように、Aへの同一化はやはり想像的同一化であり、Aと同一化できない。
だから主体のSは、斜線が引かれた"$"になっている。

この歯がゆい状況において、人間の欲望はどのような動きをしていくか。
そこで、欲望に影響を与える登場人物として出てくるのが、J-POPなど一部の音楽がメッセージとして発信しているルサンチマン(奴隷道徳)でもある。

川崎鷹也の「魔法の絨毯」が提供するシニフィエ、神話(金が無くても君を幸せにしようという資本主義的イデオロギーに対抗するルサンチマン)によって、求めていたA(他者)を通り越し、s(A)に到達する。

Aに向かっていたのに、どうして?

それはs(A)であれば、実現可能だからだ。
特に「お金がなくても君が守れる世界」「お金がなくてもパートナーになってくれる君が存在する世界」の主体になるのは、簡単だからな。
極端な話、ヒモとかニートでもなれるってことだ。

「魔法の絨毯」というシニフィアンから派生したシニフィエ(意味作用=お金が無くても君を守れるし愛を育むことはできる)を内面化することで、i(a)として同一化を図っていたはずのA(他者)まで変容する。

昨日までは青汁王子みたいな金持ちAになりたかったのに、今日はガンジーみたいな清貧でも大勢の人に尊敬されるAになれたらいいなというように。

Aが常にシニフィアンシニフィエ作用、シニフィアンからの神話やルサンチマンの提供によって、欲望の対象は当初のAとは別のs(A)になっているんだ。
どうしたよ?
本当は金持ちAになりたかったんじゃねえのか?

togetter.comこのまとめにあるように、資本主義的イデオロギーの事実に立脚した現実的な意見もあるだろうが、それは無視だ。
欲望のグラフには「Voix(声)」というものも描かれている。

声によって超自我(法規範)や資本主義的イデオロギーを内面化し、それは自分が求める対象aの発生と変容にも影響を与え続ける。
だが、自分にとって不都合な情報や内容を無意識的に拒絶する。
「魔法の絨毯」の世界観に否定的なアンチの話なんか「聞きたくないよ」と。
その残滓はVoixとして、A(他者)を通り抜けていく。

だから俺みたいな、J-POPの甘ったるい歌詞、ルサンチマンじゃねえかと意見する話は届かない。
自分が求める想像的同一化の対象に都合の悪い情報はシャットアウトされ、同一化対象であるAを形作っていく。

だがもはや、最初のAじゃないんだよ。

ベクトルをさらに進むと、m(想像的自我)を経由して、I(A)に到達してるよな。
このmからI(A)に伸びている矢印は、象徴的同一化で、本来、お前が求めていた同一化とは違ったものになっている。

欲望の対象が、常に象徴界(資本主義の世界)によって影響を被り、同一化対象が変容し、欲望が帰結した先は、全く違うものになってる。

(引用元:闇金ウシジマくん(1)[ 真鍋昌平 ]

なんで笑顔だよ、満足してるんだ。
漫画家になるんじゃなかったのか?

ウシジマくんに出ていたバイト君の池田は、最後は笑顔だ。
これは、本来の同一化対象はAであったけど、象徴界による洗礼や厳しさを経ることによって、いわゆる人生の妥協の連続によって、欲望の対象はどんどんと変容し「働けて、飯が食えて、笑って過ごせたらいいなあ」というI(A)に到る。

この妥協の産物であるI(A)についてはもう少し詳しく説明するため、ラカン理論の解読者として有名で、ロシアによるウクライナ侵攻でも話題になっていたスロヴェニア生まれの哲学者、スラヴォイ・ジジェクの分析を引用する。

想像的同一化と象徴的同一化とのこの差異を明快にするために、臨床とは関係のない例を挙げよう。
エイゼンシュテインチャップリンに関するその鋭い分析の中で、チャップリンの笑劇の決定的な特徴として、子どもに対する、悪意ある、サディスティックで侮辱的な態度を挙げている。チャップリンの映画では、ふつうとは違って、子どもたちは優しい扱いをされない。いじめられ、からかわれ、失敗を笑われ、鶏のように食べ物を投げられる。

しかし、ここで考えなければならないのは、一体どこから見れば、子どもたちが、保護を必要とするおとなしい存在としてではなく、いじめとからかいの対象に見えるのか、ということである。

答えはもちろん、子どもたち自身のまなざしである。
子どもたち自身だけが、仲間をこんなふうに扱えるのだ。このように、子どもたちにたいするサディスティックな距離には、子どもたち自身のまなざしへの象徴的同一化が含まれているのである。

その反対の極にあるのが、「善良な市民」へのディケンズの賞賛、すなわち権力と金をめぐる残酷な闘争とは無縁な、幸福で、親密で、汚れていない世界への、想像的同一化である。

しかし(ここにディケンズの誤りがあるのだが)、「善良な市民」が好ましく
見えるためには、ディケンズのまなざしはどこから注がれているのか。それは、権力と金にまみれた腐敗した世界の視点以外のどこであろうか。

これと同じずれは、農民生活のさまざまな情景(村の祭り、収穫をしている農民の昼休み、等々)を描いたブリューゲルの後期の田園絵画にも見られる。アーノルド・ハウザーはこれらの絵画は、真の平民態度や、労働者階級との交わりとはおよそ無縁である、と指摘している。これらの絵画のまなざしは、農民自身が自分たちの生活に注ぐまなざしではなく、農民たちの牧歌的生活を上から見下ろす貴族階級の外的まなざしなのである。
(引用元:イデオロギーの崇高な対象 (河出文庫) [ スラヴォイ・ジジェク ]

チャップリンにおける子どもへの冷たい態度は、無垢で残酷で、未だ超自我の内面化が未然である子ども自身の属性に同一化しているからって話。
「実際の現実社会に存在する子どもの属性を取り込んでいる」という点で、象徴的同一化と言える。

ブリューゲルが描いている農民生活の情景への賞賛も、ブルジョアジーが想像的領野で、従順で、文句を言わず、デモを起こすこともなく農作物を生産し続ける農民を求めているからであり、それは現実の象徴界における農民の生活を反映したものでは決してなく、勝手に理想化された労働者階級を生み出し、その農民のイメージと同一化することで、「農民はこうあるべきだ」と、自らの支配を正当化するイデオロギーに寄与させる。
「実際の社会にはほとんど存在しない貞淑な農民を恣意的なイメージで生産している」という点で、想像的であり、ブルジョアジーにとって都合がよい同一化対象と言えるだろうよ。


このウシジマくんに出てくるバイト君の池田もそうだ。本当の想像的同一化対象は、売れっ子漫画家として優雅な生活を過ごしている自分を漠然と夢想していた。
しかし象徴界、この資本主義社会の厳しい現実によって打ちのめされ、同一化対象は変容し、本来、求めていたi(a)の到達点であるAではなくなり、I(A)に帰結し、自己満足する。

この結果はハッピーエンドかもしれない。
よくある陳腐な、何度も再生産されている、古い日本映画、ALWAYS3丁目の夕日的な「貧しくても豊かだった」的な話。
じゃりん子チエって漫画も、そんな感じだったっけ?
いい漫画だったよな、最初の5~6巻ぐらいしか読めてないけど。
ちゃんと読み返そうかな。

だが現実は、漫画のラストみたいにはならない気もする。
I(A)は本来、求めていたi(a)の到達点であるAではねえんだよ。
だから人間は苦悩し、ルサンチマンを抱いたり、自己肯定感が失墜して自己嫌悪に苛まされる等、精神が引き裂かれることもあるんじゃないかってね。

川崎鷹也の唄だけじゃない。ありとあらゆるシニフィエ(意味作用)、ルサンチマン(奴隷道徳)の影響を受け、欲望の対象は変容の反復を繰り返す。
どこいったんだよ、本来の欲望は。

ただ、繰り返しになるが、それはそれで幸せなのかもしれない。
欲望の対象を、象徴界に溢れるシニフィエルサンチマンによって変容させる。
それによって、当初なりたかった自分に同一化できなくても、幸せを感じることができる。

これはルサンチマンの呼吸でもあるな。
弐ノ型「超地上的な希望の信仰」として、役に立つこともあるかもしれない。
欲望変容の作用があるからな。

ちなみに「超地上的」という表現は、ニーチェの和訳本に書いてた。
ルサンチマン(奴隷道徳)の内面化」でもいいかもしれない。

資本主義社会のシニフィエ(意味作用)は、カウンターとしてのルサンチマン(一部のJ-POPなど)を生むだけでなく、国家に都合のいいイデオロギー稲盛和夫の本など)も生みだす。
前者のルサンチマンを信仰した場合は、当ブログで紹介しているように精神の安定は図れるかもしれないが、社会的には馬鹿にされやすい。
後者の資本主義社会と親和性が高いイデオロギーを信仰した場合は、強制的に労働に駆られるが、敬虔で勤勉な労働者や生産者として社会的に評価を受けやすい。

どちらを信仰してもいいが、ルサンチマンイデオロギーの要求に応じられない主体が生み出す奴隷道徳である一面もある(ハライチ岩井のニート論など)ので、ルサンチマンへの傾倒や信仰は、超地上的(地に足がついておらず非現実的)な価値観とみなされても仕方ない。

けど、ルサンチマンにはいい側面もある。
って話をこのサイトではし続けている。