逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

孤食の日常を過ごす人に共食の楽しさという現実を突き付ける残酷さを見た「月曜から夜ふかし」(2022年4月18日放送)

月曜から夜ふかし」というテレビ番組は悪趣味だが面白い。
素人の一般人にフォーカスを当てているけど、「笑ってコラえて」よりも毒がある印象がある。
アイデンティティは、他者や環境による押しつけの影響を多分に受けるが、この番組はその押しつけがどきつい。
赤羽や小岩での路上インタビューを取り上げる際、番組が求めるラベリングに合致する人が取り上げられる。
赤羽や小岩らしさが無い人は排除され、赤羽や小岩の街のイメージとの同一化が果たせている人を積極的に取り上げて笑いに変える。
京都と滋賀、大宮と浦和など、街同士の対立構造をより煽れる人選によって番組は構成される。

2022年4月18日の放送「街行く人のリアル孤独のグルメを調査した件」にも、そうのようなラベリングの毒があった。
特に最後に取り上げた人、北千住で一人で住む女性。
わざわざ「独身」という情報を伝える。
この番組では、取り上げる人物が独身の場合はそれをはっきりさせることに余念がない。
独身である方が悲壮感や哀愁が漂うため、その属性を積極的に利用する。

番組では「自分が作る料理がとにかくまずい」とその女性は語る。
本当にそうなの?スタッフが気になり、招かれた女性宅にお邪魔する。
そして大根の味噌汁を作ってもらう際、桂剥きをする女性に話しかける。マズい要素見当たらないと、気遣う言葉を投げかける。
「美味しそう」とスタッフは褒め続ける。
女性は感極まり、涙があふれる。

そして女性とスタッフが食事を共にする際、女性は「美味しんだけどマジで」と言う。
なんでマズいと言ってたのか、女性はその理由を「独りだったからかな」と語る。

この一連のやり取りを、ビートルズの音楽もBGMに利用し、感動エピソードに仕上げた。

VTRを観たマツコ・デラックスは「グサッときたわ」と。
マツコの気持ちはわかる。自分もグサッときた。
自分も40歳になりかけてる独身者なので、孤食が日常だ。
「独りで食ってる時 美味しいかどうかどうでもイイ」とマツコが言うが、それに似たような感覚はある。
ただ、どうでもイイというよりは、寂しさや虚しさ、喪失感や自己肯定感の欠如等のネガティブな感情によって、味覚刺激が機能しにくくなっているという感じだろうか。
それゆえ味覚が鈍くなるため、寧ろ料理は「より美味しいもの」を求める。

「孤独のグルメ」に共感している独身者は食事ぐらいしかドーパミンを出せる機会がないので糖質制限炊飯器がオススメでも語ったが、かなり美味しいものであれば、孤食の寂しさを上塗りできるパワーもあるからな。

そしてグサッと来た後の、マツコによる怒涛の口撃がすごかった。
薪をくべる村上の力も加わり、この感動エピソードの残酷さを暴き出す。
みんなで食べるご飯は楽しいかもしれないけど「それを正義という編集をしたね」と、スタッフを糾弾する。
もちろん、バラエティだから、マツコが感じたであろう不快感も、笑える話に仕上げてたけどな。
けどこの不快感の正体、これは、そこまで生易しいものじゃない。

この不快感の背景には、支配的イデオロギーの強制があり、スラヴォイ・ジジェクがいう「現実の過剰」がある。

したがって、我々が「文化」と呼ぶものは、その極めて存在論的な地平においては、死による生の支配、すなわち「死の欲動」がポジティヴな存在を得るような形式なのである。ロッセリーニの映画の基本的に「ヘーゲル的」教訓もまたここにある。我々は、現実界的なるものとしての行為、すなわち象徴的限界の侵犯によっては、<前象徴的な生の実体とのいわば直接的な接触>を(再)確立することはできない。

むしろその行為によって我々は、<現実界>の深淵(象徴的現実はそこから生まれたのである)へと再び投げ込まれる。

ここで我々は、バーグマンを使ったロッセリーニの映画の魅力をさらに詳しく突き止めることができる。それら一連の映画は全て、「本物の」実体的な生活を描いた部分を含んでおり、表面上は、ヒロインの救済は、彼女がその実体的な「本物性」に溶け込むことができるかどうか、その能力にかかっているように見える。

『ストロンボリ』のカリンは閉鎖的な村の共同体での生活を受け入れなくてはならない。『ヨーロッパ一九五一年』のイレーネは、最後に彼女を聖女と崇める貧者たちの素朴な、だが本物の信仰の中に身をおかなくてはならない。『イタリア旅行』のイギリス人夫婦はイタリアの民衆の自発的な生命力に触れることで、自分たちの行き詰まった関係を打開する。しかし、これらの映画の戦略はまさしく、この囮そのものを告発し、その虚偽性を暴露することである。

『ストロンボリ』のカリンは恐怖を体験することによって「生まれ変わる」。その恐怖に比べれば、島の共同体の悲惨さなどは色褪せてしまい、漁師たちの生活が実につまらないものであることが暴露される。『ヨーロッパ一九五一年』の最後で、イレーネは宗教的イデオロギーを断固として拒否する。社会から見放された貧者たちが彼女を聖女に祭り上げるのは、単なる残酷なアイロニーにすぎず、彼女と貧者たちとのすれ違いの証拠である。イタリアを旅するイギリス人夫婦は、生命力溢れるイタリアの民衆の背後に、古代の彫像や遺跡の無気力な存在を見る。

このように、この三つのどれにおいても、そこにあるのは現実から<現実界>への、つまり現実そのものの中にある「現実以上のもの」への、移行である。

火山は「島の上にあって島以上のもの」であり、<現実界>の過剰である。同様に、聖者になることは「宗教的イデオロギーの中にあってイデオロギー以上のもの」であり、イデオロギーの中にある非イデオロギー的な核である。そして古い遺跡は「イタリアにあってイタリア以上のもの」であり、過去の失われた享楽の、沈黙せる目撃者である。三つのいずれの場合も、ヒロインはこの「実体」の亀裂に気づくことができる。

それは彼女が余所者の立場にあり、彼女の視線は外部からの視線だからである。実体の内部にいる者は必然的に盲目である。彼らを盲目にするメカニズムは、犠牲のメカニズムと同じである。犠牲の基本的機能は、<他者>の傷を癒すことである。「実体的な」(「原初的な」)共同体を繋ぎ止めているのは、その犠牲の儀式であり、「余所者」とはつまり、この儀式への参加を拒絶する者のことである。
(引用元:スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』p95)

共食ではない、孤食でもいいじゃないという価値観は、タナトスを肯定するような性質がある。
けど、現実はそうもいかない。

資本主義的イデオロギーに寄与する強大な象徴化、すなわちLGBTQより異性愛孤食よりもカップル・家族・集団での飲食を礼賛する権力の行使は、ありとあらゆる場所で行われている。
孤食を貫く価値観は、共食の推奨という強大な権力と結びついた象徴化から抜け出そうとする、前象徴的な生の実体の一つよ。
ただ、その象徴化の影響を受けまいと過ごしていた時に、テレビのスタッフ達の侵犯によって、もう戻れなくなった。
マツコが「正しい事をしたの?」「アレを気づかせてしまうことは正しいの?」と問いかけるように、孤食の日常との接触の再確立が、難しくなる。

だから残酷なんじゃねえかって話だ。

孤食が日常である人間に、共食のイデオロギーを強制とは思われないように侵犯させる一連のスタッフの動き。
共食のイデオロギー、その魅力を侵犯させることで、このイデオロギーを体現できない非イデオロギー的な主体である独身単身世帯の人間に「亀裂」が生まれる。
「やっぱり孤食は寂しいんだな」と、気付かせてしまった。

だって自分は、共食のイデオロギーが支配的な社会においては余所者、なれねえんだからな。
恋人や家族など食事を共にするパートナーが日常的に存在する人々にとっては、この価値観は当たり前のことのように無意識的に礼賛し、他者にもそれを良きものとして流布させる。

自らの主体性でそうしているというよりは、資本主義的イデオロギーによる無意識的な強制が行われている。
その強制の犠牲によって、共食という儀式は生まれ、浸透しきっている。
もちろん、象徴化やイデオロギーの発生以前に、生物学的な段階でパートナーを求める性欲動によって、群れることや共食を求める一面もあるだろうけど。

ただスタッフ達は、テレビ番組の収録日だけしか、余所者と共食の儀式を行わない。
日常的に来て共食をしてくれるわけじゃない。

わかりやすい例でいうと、これは映画「マトリックス」において、モーフィアスがネオという余所者に対し、青いカプセルか赤いカプセルを選ばせる行為に近い。
ただ、類似点はあるものの、モーフィアスとは異なる。番組スタッフ達の場合は、共食のすばらしさという現実を突き付ける赤いカプセルを「無理矢理に飲み込ませた」からだ。

だからモーフィアスとは違う。もっと残酷だ。

どちらかというと、自分に都合のいい歴史観イデオロギーによって「こちらこそが正しい現実なんだ」という現実を、安定した秩序によって統治されていた国家の現実にぶつけ、破壊し、現実を上書きしようとするプーチンに近い。

b.hatena.ne.jpもちろん、共食のすばらしさの提示によって命を落とすことはないから、プーチンほどひどくないけど。
モーフィアスとプーチンの中間みたいな行為だ。


この番組収録後、女性はサイファー(ジョー・パントリアーノ)のようになる可能性だってある。
共食礼賛の現実を突き付け、個々人がそれぞれの価値観によって平穏に過ごしていたマトリックスを破壊されたんだからな。
態度を硬化させ、後悔や絶望感の拡大、ルサンチマンが肥大化する可能性もある。

そのルサンチマンがポジティブに作用すれば問題ないけどな。
そもそも、本当に感動エピソードだったのかも怪しい。

(引用元:蒼太の包丁31 [ 本庄敬 ])

こういう涙だったかもしれない。
自分は共食の儀式に、参加したくてもできない余所者だと気付かされた。

だからやっぱり、残酷だ。

好きな番組なんだけど、今回のこのシーンはやっぱ、グサッとくる不快感があったな。