逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

たわわ広告に抱く嫌悪感の中には女性達の身体に刻み込まれたイデオロギーに対抗するルサンチマンも同居している

この話題、長いな。
まだ盛り上がってるんだね。

b.hatena.ne.jpこの広告に嫌悪感を抱く人を精神分析してみるか。
そもそもなんでこの広告を嫌悪するのか、自問自答してみるといい。

まず結論として、この嫌悪感は「たわわな女子高生」それ自体というよりは、「たわわな女子高生をまなざす男性」に嫌悪感を抱いている。

それを証明するのが、「豊満なバストを持つ女性が男性に礼賛される」「豊満なバストを持つ女性が性的に消費される」という現実だ。
その現実の形成過程は話が長くなるから割愛。

この「まなざし」という概念は、フワちゃんや指原莉乃になりたい願望の中に「フワちゃんや指原以外の他人」が混ざっている理由について精神分析の概念で解説でも説明した。

誰しも他者の「まなざし」によって形成される対象aを持っている。
では、月曜日のたわわの女子高生を嫌悪するフェミニストや、その他大勢の人達の対象aは、なんだろうか。
嫌悪しているのは「豊満なバストを持つ女性が男性に高評価される」という現実。
つまり「豊満なバスト等の身体的特徴によって女性は評価されるべきではないし、愛玩対象として消費されるべきでもない」という現実を求める。
その現実の実現には、「巨乳を愛でない男性」という対象aが大多数存在する社会にしなければならない。

そのため、たわわを礼賛する男性を糾弾し、存在の否定行為を行う。
そしてこの否定行為そのものに興じることを、ジジェクによると、ラカン理論における「享楽」と呼ぶらしい。

後期フロイトは「快感原則」という次元を導入することによって―ラカンによってなされたように、そのすべての結果を考慮に入れるならば―そこから更に二歩前進し、右に述べたような構図を完全に変える。「死の欲動」の仮説は直接にこの点に関係してくる。それが意味するところはこうだ―「快感原則」によって動かされる心的装置の調和的な回路を妨害する異物・闖入者は心的装置の外にあるのではなく、心的装置に内在しているのである。「外的現実」とは無関係に、こころの内在的機能そのものの中に、完全な満足に抵抗する何かがあるのだ。

いいかえれば、たとえ心的装置がそのまま放っておかれたとしても、「快感原則」が追求する均衡には絶対に到達することなく、その内部にあるトラウマ的闖入者の周りを回り続けるだろう。「快感原則」が躓く限界は、快感原則の内部にあるのだ。

この異物、すなわち「内的限界」に対するラカンの数学素はもちろん<対象a>である。<対象a>は「快感原則」の閉回路を中断し、その均衡のとれた運動を狂わせる。あるいは、ラカンの基本的な図を引用すると、左のようになる。

したがって踏み出すべき最後の一歩は、この内在的障害物をそのポジティヴな次元において据えることである。たしかに<対象a>は快感の円が閉じるのを妨げ、縮小不能な不快感を導入するが、心的装置はこの不快感そのものの中に、つまり到達しえないもの、つねに失われているものの周りを永久に回り続けることに、倒錯的快感を覚える。いうまでもくこの「苦痛の中の快感」に対してラカンが与えた名前は享楽[jouissance]であり、どうしても対象に到達できないこの循環運動―この運動の真の目的は目標へといたる道程と合致する―が、フロイトのいう欲動である。

欲動の空間はこのように逆説的で曲がった空間なのである。<対象a>は空間内に存在する実在物ではなく、究極的には、空間そのもののもつある種の歪みに他ならない。このゆがみのせいで、われわれはまっすぐに対象に到達しようとすると必ず曲がらなくてはならないのだ。
スラヴォイ・ジジェク汝の症候を楽しめ ハリウッドvsラカン /筑摩書房)』p84-p85)

「別に否定行為を続けることは、楽しんでやってるわけではない」「身体的特徴によって差別されない社会を目指すことは、快感原則とかではない」という反論があるかもしれない。

確かにそうかもしれない。

けど、たわわを否定する人達が、「理想の男性」という対象無しに否定行為を続けているかというと、断定もできない気もする。
何を目的に、声高に否定しているんだって話だ。
目的という理性的なものではなく、衝動的に攻撃していないか。
たわわ広告、バストを強調された二次元の美女に、なぜ生理的嫌悪感を感じ、攻撃をするか。

それは最初にも述べたように、「男性によって権威化された、たわわな女性」に対する嫌悪感であり、「男性のまなざし」に対する嫌悪感ではないだろうかって話よ。

男性の根源的で本能的な、生物学的な美意識と結びついてる部分もあるのだろうか、本当の理由はわからない。ただ、メディアが垂れ流す広告、漫画などの文化、ありとあらゆる生産物によって、多くの男性はパブロフの犬のように巨乳に性的魅力を覚えることから、巨乳が権威化されている現実はある。

ドゥルーズガタリが「欲望機械は、まさに社会的機械、技術的機械と同じもの」(『アンチ・オイディプス(下)』p341)と述べたように、まさにメディアや企業や文化が生み出した物質的生産物は、人間の欲望を無意識的に形成していく。

そしてその欲望に応じられる身体的特徴は支配的なイデオロギーとして社会全体に浸透する。
女性の身体にも、そのイデオロギーは刻まれる。

「女の子だ」という名づけが他動的であるかぎり――すなわち「女の子化」といったものが強制されるプロセスを起動するものであるかぎり―「女の子」という言葉、いやむしろその象徴的力は、身体として行為される女性性の形成(しかしけっして規範どおりにはならない)を司っている。しかしこれこそが、生存可能な主体の資格を得てそれを維持するために、規範の「引用」を強いられる「女の子」なのである。女性性とはこのように、けっして選択の産物ではなく、むしろ規範の強制的な引用であり、しかもその規範に備わる複雑な歴史性は、規律・規制・懲罰の関係と不可分なものである。
ジュディス・バトラー問題=物質となる身体』)

イデオロギーが刻まれた女性の自我は、そのイデオロギーと自らの身体的特徴の相対化を行う。
行う、といっても主体的・意識的に行っているわけではないケースもある。

受動的総合」のように、資本主義的現実、各時代の支配的な価値観やそこから派生する生産物等によって、無意識的な影響を被り自我を形成していく。

そのようなイデオロギーによる主体化と自我のせめぎ合いの経験を通じ、嫉妬や怨念、自己嫌悪、コンプレックス等のネガティブな感情が発生し、それに対抗するための「ルサンチマン(奴隷道徳)」を生み出す。

何とかして支配的なイデオロギーに、巨乳が礼賛される主流の価値観に対抗しようとするルサンチマンの実践が、無意識的にも意識的にも行われている。
川崎鷹也の例でも挙げたように、金を持たざるものが、資本主義という支配的イデオロギーに対抗する手段としてJ-POPを用いるように。
巨乳を持たざるものは、その支配的イデオロギーを打倒するためのルサンチマン(奴隷道徳)を生み出す。
女性を身体的特徴で差別するのはやめましょう」「女性を性的対象物として愛でる広告物を陳列しないようにしましょう」と。
生み出したルサンチマンによって、メリットを得る女性は大勢いる。
身体的特徴によって差別される機会が減るんだからな。
月曜日のたわわを嫌悪し否定する人々は「更年期のしわわ」だ、BBAの嫉妬だと、馬鹿にされていた事例があるが。

anond.hatelabo.jpそれは当たっているかもしれない。
衝動的な嫉妬心によって、たわわ広告を否定するルサンチマンをぶつけている人も、中にはいるだろう。

では、その活動を恒常的に行っているフェミニスト、運動家、ツイフェミ等はどうだ。
その活動を「享楽」として、楽しんでいる場合もある。
というと、否定の声が飛んでくるかもしれない。
私が楽しいからやってるんじゃない、女性の身体的特徴による差別や、ジェンダーステレオタイプの払拭のためにやっている」という、外聞のいい社会的正義を掲げる人もいるかもしれない。

それでも、なんで時間を割いてやってるんだって話だ。
その男性への糾弾活動それ自体に、楽しさを覚えているんじゃないかってね。
なぜ楽しいか?
私に振り向かない男性に、羞恥心が与えられ、貶めることができるから」「身体的特徴で差別を行う愚かな男性の意識を変え、私が求める理想の男性を増やすことができるから」ではないのか。
それはルサンチマンによる復讐行為だ。

「女性が身体的特徴で差別されない」という非現実的なルサンチマンが、もし現実性を帯びていけば「女性を身体的特徴で差別しない理想の男性」という、自分の欲望を満たしくれる対象を数多く生み出すことができる。

さらにこのルサンチマンの実践が、身体的特徴に根差した差別的イデオロギーを刻まれてしまった女性達の精神的支柱となり、支持を得て、金儲けもできるかもしれない。

実際、「金がなくても君を守れる」というルサンチマンを歌にした生産物は、ありとあらゆるJ-POPの世界に存在している。
これは多くの人々が根源的に、資本主義という支配的イデオロギー、終わらないラットレースから解放されたい欲望を抱いてることの証左でもある。
そしてルサンチマンの実践によって、寧ろ、資本主義という支配的イデオロギーにおける成功者となっている。
何千万回と再生されているYoutubeの広告収入を考えると、莫大な金額だろう。
イデオロギーからの解放運動という社会的活動は、同時に、個人的欲望の実現に寄与する。

つまり、ルサンチマンは金にもなるってことだ。
たわわ広告を非難することは、対象aを求め続ける「享楽」であり、「金儲け」という個人的欲望を実現する生産的側面も有している。非難による自分へのメリットは多いある、暇だからやっているわけじゃない。

性的な生産物に衝動的に攻撃を行ってしまう人は、支配的イデオロギーに対抗するルサンチマンによって既存の価値観を否定する。その否定の実践を通じ、自分の都合のいい価値観の浸透や、それに伴う自分が求める対象の構築、自らが自尊心を獲得しやすい社会的土壌が獲得できるメリットがあるがゆえに、たわわ的な存在を否定し続ける。

これがルサンチマンの力、ってやつだな。
このサイトではニーチェのようにルサンチマンを否定していない。
ルサンチマンを、辛い現実を乗り越えるためのマインドフルネス的な実践として位置付けている部分もある。

ここまでで、たわわ等の身体を男性が愛でる支配的イデオロギーに、女性がルサンチマンによって対抗していることを語ってきた。
また、このルサンチマンは既に語ってる「弐の型:超地上的な希望の信仰」だ。
「男性が、女性を身体的特徴で差別しない」社会を善として無意識的にも意識的にも信仰し、そうなるように影響力を与え続け、メリットを得るための行動。

信仰と同様に、女性がよく行っている、より攻撃的なルサンチマンの実践がある。
それは男性に対して「キモい」という呼びかけ、によって、男性に羞恥心を芽生えさせる活動だ。

長くなったからそれについては別の機会で語るかな。