逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「母親になって後悔してる」女性の精神構造についてジジェクのラカン理論で解説

「母親なら子どもを愛して育てるべきだ」という考え方は、当然とは言い切れない、っていう話。

b.hatena.ne.jpこの本にちなんだ話題らしい。


まあそうだよなぁ、母親以前に人間、という感想を自分もつぶやいたりしてみたけどね。

この話もう少し、掘り下げることにする。
まずこの図。


これはジャック・ラカンの「欲望のグラフ 第1図」だとか言われている。
これについては、ジジェクの説明がわかりやすい。

というわけで、「欲望の基本的細胞」が描かれた最初の図から始めよう。これはたんにシニフィアンシニフィエの関係を図式化したものである。周知のごとく、ソシュールはこの関係を、二本の並行した波状線、あるいは同じ一枚の紙の裏表として視覚化した。その場合、シニフィエの線的進行は、シニフィアンの線的表現と並行している。

ラカンはこの二重運動をまったく違ったふうに構造化する。なんらかの神話的・前象徴的な意図(△)が、シニフィアンの連鎖、すなわちベクトル S ― S' で示されたシニフィアンの連続を「キルティング」する。このキルティングの産物(神話的――現実的――な意図がシニフィアンの中を通ってそこから外に出た後で、「反対側に出現する」もの)が、$という数学素(マテーム)で示される主体(分割され分裂した主体。それは同時に、消されたシニフィアンシニフィアンの欠如、空無、シニフィアンのネットワークの中の空所である)である。

この最小限の分節表現はすでにして、ここで問題になっているのが個人の主体への呼びかけであることを証明している(個人とは前―象徴的・神話的実体である。アルチュセールにおいても、主体へと呼びかけられる「個人」は概念的に定義されているのではなく、前提とすべき仮説的Xにすぎない)。クッションの綴じ目は、主体がそれを通してシニフィアンに「縫いつけ」られる点であり、同時に、ある支配的シニフィアン(「共産主義」「神」「自由」「アメリカ」)の呼びかけによって個人に語りかけ、個人を主体へと呼びかける点である。一言でいえば、それはシニフィアンの連鎖が主体化される点なのである。
(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 )

$(斜線を引かれたS)は、「世間がイメージする母親」のことだ。
換言すると、「母親なら子どもを愛して育てるべきだ」等のイデオロギーや、それを体現する支配的シニフィアンによる影響が内面化された母親、と言える。

そしてベクトル S―S' で示されたシニフィアンの連続、これは、イデオロギーが具現化した表象物だとか物質のことだね。
ありとあらゆるシニフィアン、記号や物質による意味作用(シニフィエ)によって、人間の意識には「母親はこうあるべきだ」というイメージが内面化される。

ちょっと街を歩けば、すぐに見つけることができる。
昨日、ブラブラと町を歩くと、こんなのがあった。

子どもに手を繋いでいるお父さん、お母さんのアイコン。
そうだよな。「母親ならば子どもと手をつなぐべき」だよな。

バーバーパパ、「LOVE YOUR FAMILY」と、家族を大事にするという価値観を前提としたデザインだ。

家に帰ってyoutubeを観る。

福山雅治家族になろうよ、いい曲だよな。
いつか母さんみたいな静かな優しさで~」ってね。

リリーフランキーの小説。2000年代に流行った。これ泣けたなぁ。
お母さんへの感謝の気持ち、あるよね。
こういう曲も生まれて、世の中に浸透するんだし。

music.oricon.co.jp
ママは本当に優しいよ。

JuniorのMama Used To Say。
id:KatsumiHori さんの訳によると、こんな感じの歌だ。

popups.hatenablog.comお前は若い だから楽しむのよ

遠慮しないで

やりたいことはみんなやりなさい

今がその時さ

胸を張って歩いて やっていることが好転するんだ


そして、ママはこう言っていた

ゆっくりでいいのよ、坊や

ママは言っていた

急いで年をとらないで

優しいママだよほんと。
子どもにやりたいことを、やらせてくれるんだね。

こんな風に、母親というのは、「子どもに愛情を注ぐ存在」であり、「子供から感謝される存在」であり、「子どもがやりたいことをやらせてあげる存在」という価値観が具現化したシニフィアンが、ちょっと探すだけで、ありとあらゆる場面で見つけることが出来る。
そしてその価値観を実践する理想的な母親が、$(斜線を引かれたS)だ。

じゃあこの三角形(△)の方は何だ?
これついては、小山太郎さんって人の論文の説明がわかりやすいな。

researchmap.jp主体化のベクトルが始まる点にある三角形(△)は、生体(生ける有機体)としての人間存在を表しており、身体的・生物学的・動物的な存在としての人間である。それは、いわば、前言語学的・前主体的・植物的で無性の状態である。

https://researchmap.jp/taro_koyama/published_papers/34030483/attachment_file.pdf

ジジェクの本では、なんらかの神話的・象徴的な意図(△)だとか、アルチュセールを引用して仮説的Xとされてる。
まあ原始的で根源的な人間存在、みたいな風に捉えることができるだろうな。

ではこの三角形(△)に近い存在とは、どんな母親だろうか?
具体例を出そう。


(引用元:闇金ウシジマくん(13)[ 真鍋昌平 ]

ウシジマ君に出てくる鈴木未來のママよ。
娘にキャバクラや風俗の仕事を勧め、また、漫画を読めばわかるが、もっと酷いことをさせる母親も出てくる。
「なんて酷い母親なの!」と、多くの人は思うだろうよ。

だけどその「なんて酷い母親なの!」と思う前提には、上記に挙げた大量のシニフィアンの影響を受けている。

 この基本的段階のグラフの最も重要な特徴は、主体の意図のベクトルが、シニフィアンの連鎖のベクトルを、後ろ向きに、すなわち遡及的方向にキルティングしていることである。前者は、すでに後者と交叉した点よりも前の一点で、ふたたび後者と交叉する。ラカンが力点をおいているのは、まさしくシニフィアンにたいする意味作用の効果の遡及的性格、すなわちシニフィアンの連鎖の進行よりもシニフィエのほうが後ろに位置しているという点である。意味の効果はつねに後ろ向きに、事後的(アプレ・クー)に、生み出されるのだ。

いまだに「浮遊」状態にある――その意味作用がいまだに固定されえちない――シニフィアンは、互いに互いの後を追う。それが、ある一点で――ちょうど意図がシニフィアンの連鎖を貫いて横断する点で――、あるシニフィアンが遡及的に連鎖の意味を固定し、シニフィアンに意味を縫いつけ、意味の滑りをとめる。
(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 )

ジジェクの精神分析によるとイライラの原因は無意識に抑圧していた未来の痕跡が回帰したからでも話したけどな。
このシニフィアンの遡及的性格、いわゆる母親と結びついたシニフィアンは、既に未来に、あらかじめ用意されている。
母親は、ある一点、「こうあるべき母親」という点で、意味の滑りを止められる。
そして「こうあるべき母親」が生み出す意味作用(シニフィエ)を、人間の無意識に内面化させる。

イデオロギーの内面化によって善悪の基準が規定される。それによって、ウシジマくんに出てくる母親や、子どもを放置してパチンコに興じる母親を見聞きした際、反射的に糾弾する。そういった母親を嫌悪し、あるべき姿ではないと、道徳的真実から逸れた存在だと考える。

だけど、それは本当に道徳的真実なのか?という疑問。
もしかすると、イデオロギー的真実にすぎないのでは?という猜疑心を持った場合。
イデオロギー的母親($)ではなくて、もっと根源的な人間としての母親(△)の気持ちが、理解できるかもしれない。

そして「後悔してる」と感じるのは、イデオロギー的母親($)の達成が未達か不完全な状態にあって、根源的な人間としての母親(△)として、子ども以外の対象を欲望しているということだと思われる。

「母親になって後悔してる」にどういう母親が出てくるか、まだ本を読めてないから知らないけどな。

恐らく、マイノリティとして扱われる母親だろう。
やっぱり、そういう「子どもや子育てを必ずしも最優先とはしない母親」というシニフィアンは、尊重されない。支配的価値観のシニフィエとして、社会に浸透することはないだろうよ。


星野源の「Family Song」は、髪型でもわかるように、サザエさんをモデルにしてる。
理想の家庭、ファミリーの体現者だよな、サザエさん一家はよ。

見たことはあるか?

河豚田笹江が、河豚田増夫と仲のいい夫婦生活の裏で、磯野波平の甥の則輔と不倫しているシーンを、見たことはあるか?
河豚田笹江が、息子である河豚田多良夫の育児にストレスを感じ、暴言を吐いて泣かしたり、ネグレクトや虐待行為を行っているシーンを、見たことはあるか?

一度もないだろうよ。

サザエさんが地上波で、ゴールデンタイムで、多くの人に届いても大丈夫で安心な存在として扱われる理由がそれだ。

夫を愛し、子どもを愛し、家事や育児に専念する。

生まれた時から、理想の母親は存在していた。
未来が既にある。サザエさんというハイパーリアルだけじゃない、女性をあらゆるシーン、あらゆる物質から、「母はこうあるべし」というイデオロギーを浸透させていく。

だけど本当は、サザエさんのような母親とは違う、自分がいる。

上記に挙げた酷い例ではなくても、「結婚しても恋はしたい」「結婚したけど他に好きな人が出来た」みたいなね。
そういう母親だっているだろう。

常にイデオロギー通りにいくとは限らない、子どもへの愛が機能しない場合もある。

anond.hatelabo.jp「母親になって後悔してる」ってのは、支配的シニフィアンに対する拒否反応、支配的イデオロギーからの逃走行為よ。

しかしなぜ、サザエさんのような母親になるようにと、イデオロギーを押し付けるのか?
それは吉村知事のこのツイートに回答が出てるな。

b.hatena.ne.jpこの資本主義社会、国家のシステムを維持するためでもある。
そのためには今ある人間だけでは足りない。
再生産する必要がある。
子どもを育てあげ、社会システムを稼働させ続ける生産者が必要だ。

そのために母親は、子ども愛し、夫のみを愛するといった、イデオロギー的振る舞いを強いられる。
まあ女性だけではなくて男性もそうだろうけどな。

偶然、プラウドのスペシャルムービー、「僕は、ずっと君の隣にはいられない。」を観て、理想的な父親というイデオロギーもあるなぁと思ったよ。


「こうあるべき」がしんどかったら、"ソロ"だとか"DINKS"だとか、そういうシニフィアンの価値観を実践する人間として生きていくのもいいだろう。
"多様性"というシニフィエとして、現代ではそういう人間も尊重されたりもする。

もちろん支配的イデオロギーシニフィアンがもたらすシニフィエの影響からは、逃れることはできない。

マイノリティを選んだからには、嫉妬や怒り、恨み辛みの感情を抱く機会も多くなるだろうよ。独身男性がマウンティングされ蹂躙される映像が流れた「開運!なんでも鑑定団」(2022年5月17日放送)にも書いたように、馬鹿にされたり差別されることもある。


だからルサンチマンでその感情を抑圧したり逸らしながら、強く生きないといけないね。