逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

ジジェクの精神分析によるとイライラの原因は無意識に抑圧していた未来の痕跡が回帰したから

今日は何の話をしようかな、と。
毎回、ルサンチマンに関する話をしてる。
もう少し一般受けするような話題はないかと、人気ブロガーの人の記事を読んだ。

catpower.hatenablog.comなるほど、そうだよな。
「イライラの原因」というもの、これは普遍的で、誰しも興味がありそうなテーマでもある。
今日はそれについては話そう。

だけど最近は、特にイライラすることはなかった。
駅で見かけた部活の顧問がパワハラっぽい感じで、嫌な記憶がフラッシュバックしそうになったぐらいか。

だけど、もっと感覚を研ぎ澄ます。
全集中すれば、イライラできるのではないか。
と、イライラするために全集中するという不毛行為、能動的被害妄想を行い、何とかイライラの原因になりそうなものを探すことができた。
まずは、これよ。

東京駅の丸の内側から、八重洲側に向かう自由通路で発見した。
前の独身男性がマウンティングされ蹂躙される映像が流れた「開運!なんでも鑑定団」(2022年4月26日放送)の記事でも、この広告は紹介したけどな。

これは、独身男性にとっては不快感を煽るような広告表象であるよな。
家族4人で旅館に行って、スイッチで遊ぶだぁ?俺はいない!俺にも嫁と子どもを!!Give me family!!」と、よくある嫉妬心を喚起する掲示物だ。


あとドンキに行ったら、ドンペン君が、奥さんと子どもがいるバージョンのデカい絵ががあった。撮影し損ねたけど。
孤独でおひとりさまを満喫するドンペン君はいないのか。
やっぱりドンペン君も結婚して、子どもが欲しいんだよね。

イライラ…俺には手に入らないぞ…。

このように、核家族イデオロギー、二世帯家族的イデオロギー、老夫婦的イデオロギーの表象物は、ありとあらゆるところに溢れてる。

多くの人は、これら幸せ家族の表象物と同じように、自分も家庭を持って子ども作って、年金暮らしして、みんなに囲まれてご臨終できると思っていただろう。
人生がまともに推移していれば、できた。


引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

この黒沢の感覚を、スラヴォイ・ジジェクは「象徴的発達に同化されえなかった想像的固着」と呼んだ。

したがって分析とは象徴化である。すなわち、意味のない想像界の痕跡を象徴界に統合することである。このような捉え方は、無意識が本質的に想像的なものであることを示唆している。無意識は、主体の歴史の「象徴的発達に同化されえなかった想像的固着」からなるのである。したがって無意識とは、「象徴界の中で実現されるであろう何か、より正確には分析における象徴的発達がなされたときには実現されてしまっているであろう何か」である(ibid.,p.158)。

したがって、「抑圧されたものはどこから回帰するのか」という問いにたいするラカン的な答えは、逆説的ながら、「未来からである」ということになる。症候は意味のない痕跡であり、その意味は、過去の隠された深みから発掘・発見されるのではなく、遡及的に構成されるのだ。つまり、分析が真実を生み出すのである。真実とはすなわち、症候にその象徴的位置と意味をあたえるシニフィアンの枠組である。われわれが象徴秩序の中に入るやいなや、過去つねに歴史的伝統という形であらわれ、それらの痕跡はあたえられない。その意味は、シニフィアンのネットワークの変容にともなってつねに変化しつづける。歴史的断絶が起き、新しい支配的シニフィアンが出現するたびに、そのことが遡及的にあらゆる伝統の意味を変化させ、過去の物語を構造化し直して、その物語がまったく新しいふうに読めるようにするのである。
(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 2 症候からサントムへ)

想像的には、自分も結婚して子どもを作って、一緒にキャッチボールをすると思っていた。
「未来に最上級の期待抱いた~♪」(miwa)みたいな、そんな大げさなもんじゃなくて、なんとなくできるだろうという感覚があった。

象徴界における発達(象徴的発達)の先には、ありふれた未来、子どもとキャッチボールする未来があった。
44歳の独身男性である黒沢は、無意識に描いていたその未来に、同化することができないことに気付いてしまった。

未来が先にあった。同一化対象としての未来、ハイパーリアルがあらかじめ存在し、内面化もしていた。
その抑圧していた同一化対象が、44歳の自分に、ニンテンドーの家族的表象とともに、はっきりと回帰してきた。
この時、想像的固着が象徴化された真実となり、イライラや嫉妬心、怒り、自己嫌悪や虚無感等が生じる。

分析=象徴化と断言する前に、ジジェクラカンの次の一節を引用している。

症候の弁証法

バック・トゥ・ザ・フューチャー

 ラカンはその著作の中で、時間のパラドックスに関連して、一度だけSFに言及している。すなわち最初のセミネールで、症候が「抑圧されたものの回帰」であることを説明するために、時間の逆行というノーバート・ウィーナーの隠喩を用いている――

ウィーナーは、それぞれの時間的次元がたがいに逆向きに進行しているような、二人の人物を仮定する。たしかにこのことにはなんの意味もないが、こんなふうにして、なんの意味もなかったものが突如として何かを意味するようなものになるのだ――ただし、まったく異なる領域において。

どちらか一方が他方に向けてあるメッセージ――たとえば四角形――を送ったとすると、逆方向に向かっている人物には、四角形が見える前にまず四角形が消えるところが見えるだろう。われわれもまたそれと同じものを見ているのだ。症候ははじめはわれわれの前に一つの痕跡としてあらわれる。その痕跡はあくまで痕跡のままでありつづけ、分析がかなり先まですすみ、われわれがその意味を実現してしまったときにはじめて理解されるのである(Lacan,1988,p.159)。
(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 2 症候からサントムへ)

逆行といえば映画「テネット」に、四角形的なものが徐々に姿を現してくる、そんなシーンあった気がするな。

破裂した後の爆弾が、破裂する前の爆弾に戻る、逆行してくる。
つまり、爆弾は既に配置されているってことだ。
未来からやってきて、内面化される。無意識の次元への闖入者ゆえ、当初はなんの意味ももたなかったかもしれないし、それはすぐに消えて痕跡となる。

だけど突如として、何かを意味する契機が訪れる。

資本主義社会という象徴界の中で日々暮らす中で、自分を理解していく中で、爆発する未来に近付いてく。


水戸線に乗っていると、ローラの車内広告があった。
肌は、わたしを幸せにすることができる。」というキャッチコピーとともに。
こんな感じの広告だ。

images.app.goo.glローラのようになりましょう、ローラを同一化対象にしましょうと。
無言の圧力を何度も何度も受け続ける。

ローラという未来からの爆弾、あらかじめ用意されていたハイパーリアルを受け取った女性は、ローラを目指すように仕向けられる。
もちろん、薄々なれるわけはないとはわかってるけど、まあ近付けるんじゃないかなと。

だが人生を長く生きていると、そうなれたかもしれない対象、憧れの対象との、圧倒的断絶、人生における歴史的断絶を、認識する瞬間が訪れる。


引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

サッカーを応援して、日本代表のプレーに黒沢は、感動しきれなかった。
表面的には感動しているようで、自分の深淵にある、抑圧していたものが回帰する感覚を抱いていた。

自分も目の前のサッカー選手たちのように、華やかな未来に向かって日々を生きていた。
その期待は、意味のない想像界の痕跡、象徴界の中で実現されるであろう何か、だった。
感動ではなく、慟哭という症候が立ち現れる。

回帰とともに、怒りとなって、暴走する者。
タナトスとなって、自分や誰かを傷つける人間もいるだろうな。

ジジェクが「意味のない痕跡」と言っている理由は、その痕跡が「書き換えられるから」かもしれない。

anond.hatelabo.jp 長年無職が続き、焦っていた。すべてを一発逆転できる職業への憧れが強まった。職歴ない若ハゲという弱者が逆転できるのは、有名人しかなかった。歌手かタレントになって誰もが知る存在になり、一刻も早く屈折だらけの人生にピリオドを打ちたかった。雑誌を立ち読みして、芸能事務所やテレビ局のオーディションの宛先に応募した。ハゲている。成功を手に入れたいと一通、一通、合格してデビューする想像をしながら、書類を記述したが、ジャニーズのようなアイドル系は名前すら読まれることなく秒殺で書類落ち、俳優系もいくら送っても連絡は来なかった。歌も喋りもどちらかといえば苦手で、鈴鹿は最後の希望も実現はあまりにも厳しかった。どれだけ落選しても、目立ちたいという情念は強まるばかりだった。テレビ番組のエキストラや素人企画にも送り、少しでも自分が画面に映った場面を録画して、テープがすり切れるほど眺めるのが好きだった。

鈴鹿イチローは、本当はジャニーズ等のアイドルになるであろう未来の痕跡を無意識に持っていたが、加藤鷹に書き換えた。
ウシジマくんに出てくるバイトくんのように、マンガ家になるであろう想像界の痕跡は、精一杯働けたらいいかな、という存在に書き換えられた。

過去に描いた夢、想像界の痕跡を、象徴界に統合しようとしたが、出来なかったがゆえに、過去を変えた。
フロイト的にいえば合理化という防衛機制だろうな。
何度も何度も、妥協という形で人間は、過去を書き換えている。
「意味がない」というのは、その書き換えに対する皮肉なのかもしれない。

自分が無意識に求めていた想像的な理想が手に入らないことを把握し、イライラする。このイライラは、自己同一性の瓦解、分裂症という症候の表出よ。

分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。
確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても、実は私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出すものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。
なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。
それはみずから極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。
(引用元:ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』p70)

極限に向かうと同時に、極限を拒絶する。二律背反的な状態だが、あり得るだろう。
症候を抑止する際、どういう行動を取っている。

金が欲しく求めている、極限に向かおうと望んでいるのだが。
川崎鷹也「魔法の絨毯」のようにお金が無くても君を守りたいんだ的な歌に共感したり。ちびまる子ちゃんのヒロシのように「どうでもいいじゃねえか」とった植木等の楽観的諦念のようなものに共感したりと。
ルサンチマンが物質的に具現化したイデオロギーを、意識的にも無意識的にも信仰し、何度も内面化する。

極限に向かおうとしたり、それを抑止したり。
人間の精神は忙しいよな、ほんとに。

イライラの原因が何となくわかったような気がする。
それを解消したり抑制するためのルサンチマン、の呼吸を体系化しているつもりだが。
解消するためのポジティブな行動も「でもこれはルサンチマンだよなぁ」と思うと、解放される感じがしないな。

かといって、やる気を鼓舞するような、力への意志を体現するツァラトゥストラのような人間になるための話は、あまり必要ないだろう。
ツァラトゥストラのような強者、成功者や勝ち組の讃美歌なんて、本屋のビジネス書のコーナーに行けば、いくらでもあるだろうからな。

負け犬の美学、敗れたもの、敗れそうなものへのマインドフルネスのようなルサンチマンが、やっぱり大事だ。

なんだけど、イライラの原因を追究しすぎたせいで、気分が沈んだ。
帰りに食べた餃子も、あまり味がせず、美味しくなかったな。