逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

爆笑問題の太田光の発言「白か黒かで語れる問題じゃない」というのは道徳的相対主義という無責任なルサンチマンである

2022年10月2日のサンデージャポン
それを観ているとき、俺は「はぁ?何言ってんの!」と思って、思わずツイッターに感情をぶつけた。

何人かいいねしてくれた。
だから俺の意見もあながち、偏ってはいないと思いたい。

この太田光杉村太蔵の考え方を、いわゆる「相対主義」という。
相対主義とは何か。
それは岡田斗司夫のこの動画がわかりやすい。

9分過ぎ~の箇所で、岡田斗司夫は言っている。

相対主義は近代文明社会の産物ではなく、ギリシャ時代に既にあった

と。そうなんだよ。昔からある旧態依然とした考え方なんだよ。
しかし「それはあなたの考え方ね、尊重します、信じます」ってのは、発展性が無い。

漫画「ライアーゲーム」でも、詐欺師の秋山深一が、神崎直に言ってただろう。

alu.jp意見の尊重、信じることによる思考停止。
相対主義はこの特徴を備えている。

もちろん、岡田斗司夫youtube動画とライアーゲームの例えだけでは、さすがに相対主義について物足りないな。
遠回りになるがもう少し、相対主義について話をするか。

まず、一言に「相対主義」といっても、扱うテーマだとか語る内容によって、定義が変わってくる。

www.math.tohoku.ac.jp相対主義の可能性』は、認識的相対主義のパートと道徳的相対主義のパートに分かれています。真善美の分類に基いて、相対主義を次の3種類に分類することがあります: 認識的相対主義 (真偽に関わる相対主義)、道徳的相対主義 (もしくは倫理的相対主義、善悪に関わる相対主義)、審美的相対主義 (美醜に関わる相対主義)。

とあるように、様々だ。
以下、簡単に説明しておくか。

認識的相対主義

文字通り、認識に関する話だ。
まずニーチェ、道徳に関しては相対主義ではないが、認識に関しては相対主義的立場を取ってる。
しかし、この知恵袋の質問は誤解だ。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp決して太田光のような相対主義的な判断放棄ではなく、「間違ってもいいから真理を捉えようとせよ!」という、力への意志を備えている。

その理由は以下だ。

ニーチェ「真理への意志」と呼ぶものは、「純粋な」あるいは利害関心とは無縁の知識を求めることではない。それは生を拡大し変容させるような世界の見方を創り出そうとする衝動のうちに、もっとも激しく現れ出るものである。

したがって思考が目指す目的は、利害関心とは無縁な真理の理念ではなく、個々人の潜在力が実現し、その願望が満足され、その創造的な直観が充分に表現されるような生のありかたを捉えることのできるパースペクティヴを創り出すことである。

ニーチェは、このようなパースペクティヴが特定の関心によって動機づけられ、創造的な生の解釈であるかぎり、「誤った判断」を創り出すことになる、と喜々とした調子で認めている。しかしニーチェ「不断なる世界の捏造」と呼ぶものは、真理を成り立たせるためには避けられないものである。なぜならそれは人間に自分たちの経験についての「真理」を確立することを可能とするような「論理という虚構」を供給するからである。

もしわれわれが世界に無理矢理当てはめている「時間」や「空間」あるいは「同一性」などの概念上の虚構がなければ、生は思考不可能になってしまうだろ。このような虚偽のパースペクティヴを動員することによって、「思考」は「意味」や「経験」について考えることができるのである。(p80-81)

・・・
なお、本書の訳にあたって訳者注では充分に解明できなかった点について、ここで補足しておきたい。ひとつは「パースペクティヴ」あるいは「パースペクティヴィズム」という用語に関してである。従来の翻訳では、「パースペクティヴ」は「遠近法」、「パースペクティヴィズム」は「遠近法主義」とされてきたが、本書では、両方ともカタカナで表記した。パースペクティヴは世界についてのただ一つの普遍的な見方があるのではない、ということを強調するためにニーチェが用いている用語であるので、一つ、または二つの消尽点を前提とする「遠近法」と訳してしまうのは適切ではないと考えたためである。(p323)

フリードリヒ・ニーチェ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ リー・スピンクス ]

ニーチェがいうパースペクティヴは、科学にも当てはまる。
相対的な環境において、実験し、概念を動員し、普遍的な現象を捉えようとする意志がある。

daigakudenki.com音源や観測者が動くと、観測者の聞く音の高さは変化します。この現象はドップラー効果(Doppler effect)と呼ばれます。

例えば、救急車が自分に近づいてくるとき、サイレンの音は高く聞こえ、逆に救急車が遠ざかるときは、その音は低く聞こえます。

www.kahaku.go.jp特殊相対性理論では運動する物体の時間は進みかたが遅くなります。その割合は、物体の速さの光の速さに対する比の2乗を1から引いて、またその平方根をとったものになります。
 たとえば、光の速さの90%、秒速27万kmで飛んでいるロケットを考えてみましょう。すると、0.9の2乗が0.81ですから、1から0.81を引くと0.19になります。その平方根は約0.44。つまり、ロケットの外側の時計が1秒進むあいだに、ロケットの中の時計は0.44秒しか進まないことになるのです。ロケットのスピードがもっと速く、光の速さにより近づくと、時計の遅れはもっと大きくなります。これが、光の速さに近づくと時間が遅れる、ということなのです。

だからニーチェは、相対主義的な部分はあるにせよ、「真理は存在しない」「立場によって物事の捉え方は異なる」といったニヒリスティックな態度で責任を放棄しているわけではないので、一般的な相対主義とは一線を画する。
次だな。

岡田斗司夫が動画で語っていたプロタゴラスは、あんまり詳しくないが、相対主義者だろうな。

プラトンは「イデア」という概念を語っているという点で絶対主義者的だ。

gyakutorajiro.comイデア的な自我について。
ドゥルーズは「時間の第二の総合」に自我が二分化される、イデア的な自我が行動に投射されるといった。

まあ例えば、おでんを食べる時。
ダシに浸ってるときは、何の具材が入ってるかわからない時がある。
コンニャクを取ろうとしたら、ハンペンだった。
第一の総合、縮約(差異の抜き取り)によってコンニャクを認識し、その記憶を頼りに「皿に盛る」という第二の総合。
この「皿に盛る」が、イデア的な自我だ。

もし、ハンペンだった場合、それは欲しくないので、自我は「皿に盛る」のではなく「鍋に戻す」という行動を投射しなければらない。
それは望んでいることではないので、イデア的な自我ではない。

この解釈が合ってるかは知らない。
ハムレット」か「オイディプス」読んだ方がいいかもね。

デカルトの方法的懐疑、ヘーゲル弁証法で絶対知を追求するという点で絶対主義的だな。

カントはどうだろうなぁ。詳しくないが一見、相対主義的なように思える。
しかしこの動画の8分過ぎでも説明しているように。

www.youtube.com人それぞれ異なるア・プリオリなカテゴリー(純粋理性)によって対象が構成される、という点で相対主義的だが。
「純粋理性」等の絶対的な概念を設けてしまっている。
ここがブラックボックスになってるから、ドゥルーズジジェクは、それを批判する。

gyakutorajiro.com昨日の話だと、まず子どもは、ドラゴンボールを視聴した際、悟空などが行う身体の動作から、縮約(差異の抜きとり)を行う。

縮約の際に観照(抜きとられた差異および差異に付随する特徴などの把握)も行われ、その繰り返し、その反復が融合することを「受動的総合」といい、それによって「かめはめ波」の一連の動作、「かめはめ派」というセリー(秩序)を子どもは理解する。

自我はこれら一連の反復によって形成されていき、自我は「縮約による受動的総合の世界」であり、常に変容するものであると。

このようにドゥルーズは、人間を説明する際に、プラトンの「イデア」、カントによる「理論理性」「実践理性」、ヘーゲルによる「絶対精神」等の形而上的概念には、言及はするものの、それへの依拠を避ける。

ドゥルーズは、ざっくり言うとオリジナルのようなものは存在せず、ただシミュラクル(見せかけ)の差異の抜き取りとその反復で、人間の自我や認識が形成されていくことを説いている。
いわゆる経験論で、自身の哲学を「超越論的経験論」としているため、相対主義や絶対主義等の議論に当てはめるべきではなさそうでもある。

gyakutorajiro.comジジェクは、カントの思想の背後に、その前提にしている価値観について述べている。

もちろん、啓蒙主義のいちばんの錯覚は、われわれは社会的慣習という外的な「機械」から単純な距離を保つことができ、それによってわれわれの内的な反省の空間を、慣習の外在性によって汚されないままにしておくことができる、という考え方であるといえよう。

だが、この批判はカントにはあてはまらない。というのもカントは、定言的命法を肯定するにあたって、内的な道徳律それ自体が外傷的で真理も意味もないことだということを考慮に入れている。カントのいう定言的命法とはまさしく、真であることなしに必然的で無条件の権威をもった法に他ならない。

それは――カント自身の言葉によれば――一種の「先験的事実」、あたえられた事実であって、それが真理か否かは理論的に証明することができない。だが、われわれの道徳的行為がなにがしかの意味をもつためには、その無条件の価値を前提としなければならないのだ。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」症候からサントムへ)

カントは「先験的事実」として、法を疑ったりしなかったんだろうか。
法は真理か否かの証明はできないがゆえに、内的な道徳律として、それを前提としなければならないというわけか。

認識的相対主義でこんなに長くなった。
もういいだろう。
「審美的相対主義」「歴史的相対主義」は詳しくないし割愛。

道徳的相対主義

俺が問題にしているのは、太田光の道徳的相対主義的な意見よ。


太田光サンデージャポンで言った相対主義的発言、「白か黒かでは語れない」は、「俺は俺、お前はお前」とほぼ同義だ。
他者を尊重しているようで、何の問題の解決にもならねえ。

このような道徳的な相対主義がなぜ恐ろしいか。それは「善悪すらも相対化して卑劣行為すら相対的に考えられて正当化され得る」「善悪の境界線が曖昧になる可能性があるから」よ。

デーブスペクターはそれについて「否!」と否定した。
白か黒かで判断できる問題だと。

その通りよ。デーブスペクターが正しいか正しくないかはさておいて、白か黒を決めることは、それは誰かを傷つける可能性はあるが、しかし、誰かを救うことになる。

責任が伴う行為だ。

刑事裁判は法律に則り白か黒かを決めるだろうよ。冤罪リスクはあるものの、それによって、被害者の苦しみを少しでも救済するための責任のある行為だ。

逆にどうだ。白か黒かを決めない、曖昧模糊とした、相対主義的な意見は。
何も発展性が無い、前に進まない。
「ありのままでいいんだなぁ」的な、よくあるルサンチマン

ニーチェが語る宗教、ルサンチマン(奴隷道徳)も、相対主義の産物だ。
いわゆる絶対的、とまでは言わないまでも、例えば令和の現代においては資本主義社会が支配的イデオロギーとして機能している。
これは紛れもない残酷な現実であり、当サイトで散々、その根拠を語ってきた。

異性愛が猛威を振るうのも資本主義社会の発展のためだし。

gyakutorajiro.comやはり根底、大きな原因には、掲示板による心情の吐露にあるように、モテないコンプレックス、非モテコンプレックス、リビドーの未達があると思われる。

先述したように、彼の携帯日記には、カップルや恋愛に関する記述が多かった。

それはこの資本主義国家では「(異性愛の)恋愛をすること」を、大量のイデオロギー装置で称揚しているからだ。

ルッキズムが力を振るうのも、資本主義社会の発展、GDP向上と親和性がいいからだ。

gyakutorajiro.comにも関わらず、その現実を直視しない。受け入れない。
わかる、わかるよ。俺も辛い。受け入れるのが。
宗教にはまりたくなる気持ちもわかる。五次元に次元上昇(アセンション)したいとかいうスピリチュアルな話も。
ある意味、宗教の妄信は資本主義が生んだ病だよ。

もちろん、資本主義以前にも宗教は猛威を振るっていたし、その理由は前回バタイユの本の紹介と共に少し語ったけど。

gyakutorajiro.com

何にせよ、

資本主義は、ルサンチマンによって、資本主義であることを必死に隠蔽している

ということ。
これは俺の妄想ではなくて、事実だ。

ドゥルーズガタリが既に述べている。

分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。
確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても、実は私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出すものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。
なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。
それはみずから極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』p70)

ここばっか引用して飽きたな。
たまには別のところを引用しよう。

それぞれの型の社会的機械はある種の表象を生みだし、この表象の諸要素は社会体の表層において組織される。すなわち、流れのコード化に対応する未開の大地機械においては〈含意 - 接続〉のシステム、超コード化に対応する野蛮な専制君主機械においては〈従属 - 離接〉のシステム、流れの脱コード化に対応する文明の資本主義機械においては〈調整 - 連接〉のシステム。脱領土化、公理系、再領土化は、現代の社会体における欲望表象の表層の三要素である。


ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』第三章 未開人、野蛮人、文明人 第一〇節 資本主義の表象)

脱領土化、公理系、再領土化については、この記事で語ったから割愛。

gyakutorajiro.com例えば独裁主義国家、ヒトラー毛沢東スターリンが支配したような専制君主機械の社会においては、民衆を従属させねばならなかった。
異を唱える者は弾圧し、粛清し、社会から離接せねばならかった。

しかし資本主義機械は、そんなことをやらない。
〈調整-連接〉のシステムによって、システムを延命する。

調整に利用するのが、ルサンチマンであり、次から次へとルサンチマンの産物を連接していく。

技術的社会的機械と欲望機械との間の差異は、まず大きさあるいは適応の問題であると考えてもいいだろう。欲望機械は、小さい機械なのである。それはアイディア製品の問題などではない。現代のテクノロジーの傾向は、熱力学にかえて情報理論を重要視するが、この傾向は、理論上、機械の大きさの縮小をともなう。やはりきわめて快活な文章において、イヴァン・イリイチは、次のようなことを指揮している。

大きな機械は、資本主義的あるいは専制君主的な型の生産関係を含んでおり、こうした生産関係は、消費者や使用人の状態におとしめられた人びとの隷属、搾取、無力をもたらすのである。生産手段の集団的所有は、こうした事態を何も変えないし、ただスターリン専制君主的組織を養うだけである。したがってイリイチは、「共生社会」、つまり欲望的、非オイディプス的社会において、各人が生産手段を利用する権利をこれに対立させている。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』補遺 欲望機械のための総括とプログラム)

小さい機械である欲望機械、個々人が信仰するルサンチマンによって、大きな資本主義機械によってもたらされる隷属、搾取、無力から解放されようとする。

例えば小さい機械として、SMAPの「世界に一つだけの花」や、アナと雪の女王の「Let It Go~ありのままで~」等を消費、礼賛することで、資本主義がもたらす隷属、搾取、無力感からの一時的な忘却や逃避行動を行う。

youtu.be

youtu.be「みんながみんな、素晴らしい」という相対主義ルサンチマンの礼賛。
しかし同時に、岡本真夜の「TOMORROW」も流れる。

youtu.be「強く生きろ」と、命令する。


学校で掃除用具入れの中に閉じ込められ、鍵を閉められた後、クラスの皆で押し倒されるいじめに遭遇しても。涙を流しても。
アスファルトに咲く花のように強くなれ。我慢しろ。
涙の数だけ強くなるんだ。我慢して勉強しろ。
我慢して資本主義社会を発展させる力になれ、と。
資本主義経済という、絶対主義的価値観と親和性が高い音楽だ。

このように学校で流れる音楽には、岡本真夜のtomorrow的な資本主義を発展させるために都合がいい絶対主義的な国家のイデオロギーと、その苦しみやひずみを抑圧する相対主義的なイデオロギールサンチマン)が混在して存在している。

まさに「調整」だ。極端を発生させない。
格差はあるし、格差をつけるシステムであるにも関わらず、それを同時に隠蔽する。
よく出来たシステムだよほんと。

映画「マトリックス」とか「マトリックス リローデッド」で、エージェント・スミスとかアーキテクトがそんなこと言ってたな。

cruel.org映画『マトリックス』に、エージェント・スミスマトリックスの由来をモーフィアスくんに説明する場面があったのをご記憶だろうか。捕まって自白剤を射たれ、ボコボコにされて椅子に縛られたモーフィアスくんに、かれは言う。人間は、不幸が必要なのだ、と。最初のマトリックスは、人が完全に幸せになるような、だれも苦しまない場所として構築されたが、そこは崩壊してしまったという。ソフトウェアの一種であるエージェント・スミスは、それが人間そのものの特性なのだ、と主張する。種としてのヒトは、不幸や苦しみや惨めさをもとに現実というものを定義づける自分を位置づけているからだ。完全な世界、完全な幸福に出会ったとたん、人間の未熟な脳は、それを夢だと思って、そこから目覚めようとしてしまうのだ、と。

after-tonight.hatenablog.comアーキテクト:私が最初に設計したマトリックスは実に完璧そのものだった。芸術作品と呼ぶにふさわしく、完全無欠で、至高だった。輝かしい勝利とは決定的な敗北に等しいことに他ならなかったのだが。その滅びゆく運命の必然性が今の私にとって明白なのは、全ての人間が持つ不完全性が原因だとわかったからで、だから私は君たちの歴史に基づき、君たちの性質の多岐にわたる複雑怪奇さをより正確に反映させて再設計したのだ。――しかしながら私はまた、失敗に悩まされることになった。やがて私は、答えから私を遠ざけている理由を理解するようになってきていて、それにはより知性の劣る、もしくは完璧を追求する度合いが低いとでも言うべき知性が必要だったからだとわかったのだ。したがって、答えは他の、ある直観プログラムによってもたらされることになった。当初は人間の精神のある側面を調べるために作られたものだ。私がマトリックスの父であるならば、「彼女」は、間違いなく母であるだろう。

ネオ:預言者(オラクル)のことだ。

スミスがいう「不幸、苦しみ、惨めさ」や、アーキテクトがいう「完璧を追求する度合いが低い知性=預言者(オラクル)」が、現代社会におけるルサンチマンだ。

黒と白を混ぜてグレーにする。
「不幸、苦しみ、惨めさ」があるのが人生さ、いいじゃないか。
知性や合理性だけが評価されるべきじゃない、多様性万歳!
白と黒で構築される、無機的で無慈悲で残酷な世界には至り切らない。
ある意味、それが日本の強さかもしれない。
まあ今は別に強くねえか。

北朝鮮平壌やベネエズラのカラカスには、このような資本主義者社会に寄与するルサンチマン文化はあるだろうか。
資本主義社会と言えるか、そもそも。
猛威を振るっているのは専制君主機械か、資本主義機械ではなく。
行ったことないからわからないが。


志村坂上の「丸福」でチャーハンを食べているとき、テレビが流れており、爆笑問題が漫才をしていた。
ちょうど「お笑いの日2022」が流れていた。

www.tbs.co.jp俺はバクモンの漫才は大好きだが。
よくよく考えると、爆笑問題の漫才も「強者を揶揄する」という点で、非常にルサンチマン的かもな。

もちろん別に、爆笑問題だけじゃない。ウーマンラッシュアワーの村本もそうだし。

ありとあらゆるところに、ルサンチマンがある。
ルサンチマンは決して、心理的な状態だとか感情だとかを指すわけではない。
以前、俺はこんなことを言った。

gyakutorajiro.comしかし、ルサンチマンには「強者に打ち勝つために弱者が生み出した奴隷道徳」とともに、「嫉妬・怒り・恨み・辛みを乗り越えるための心理的機制」という性質もある。そのため、不快な記憶が永遠回帰する状況に陥っている場合、他者の存在によってそれを慰めてもらたいと欲する。

この定義は言葉足らずだった。

ルサンチマンは、アルチュセールがいう国家のイデオロギー装置であり、ドゥルーズガタリがいう資本主義機械を調整し、ありとあらゆる資本主義の分裂症的負荷を抑えるために連接する欲望機械だ。

先に紹介したSMAPやアナ雪の唄のように、精神的なものだけにとどまらず、物質的なものとして存在する場合も多々ある。

なんか思想が強すぎるな、今日の話は。
何はともあれ、結論だ。

太田光ルサンチマン相対主義)によって、ルサンチマン(あらゆる宗教)を、正当化している

ということだ。
もはやその時じゃねえだろうが。
2022年10月9日のサンデージャポンで、小川さゆりさんの悲痛な動画を紹介してただろうが。

youtu.be必死でバラエティ系のyoutubeにも出て、被害者が生まれないように尽力している。

youtu.be実際に被害者がいる。
これは現実の被害で、「白か黒かではない」的な形而上的価値観ではなく、物理的現実だ。

その意味が、太田光、わからねーのかよ!?
あんなに面白い漫才を作れるのに、わからない?んなわけあるか!

白か黒かで語れない?
現実に被害がある、被害者がいる。だったら「それは間違いだ」と、黒く塗りつぶせよ!

www.youtube.comジョジョ空条承太郎も言ってただろうが。

「悪」とはてめー自身のためだけに弱者を利用しふみつけるやつのことだ!!


(画像引用元:ジョジョの奇妙な冒険 第3部 モノクロ版 1[ 荒木飛呂彦 ]

人の不安や孤独につけ込み大金を巻き上げるやつらたち。
宗教なのに、経済力を調べるやつらたち。


そんな奴等にノーが言えない、自分自身の善悪の判断基準が無い、判断もできずに「白か黒かで語れない」と棚上げ、責任放棄。

そんなやつに報道番組やる資格、テレビで時事問題を語る資格は、あるのかい!?