逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

ドゥルーズ「時間の第三の総合」における直線的時間の支配による抑圧によって人間は永遠回帰を希求する

昨日はドゥルーズによる、人間の無意識で行われている作用について語った。

gyakutorajiro.com
・時間の第一の総合・・・諸瞬間を縮約(差異を抜き取る)し、それを反復し、累積する受動的総合を行う時間の土台)。習慣という。

・時間の第二の総合・・・第一の総合と同時に、縮約と反復による受動的総合によって構成されていく純粋過去。記憶という。


哲学ではなくて脳科学の場合は、新しい記憶は海馬に、古い記憶は大脳皮質にためられていくらしい。

www.scj.go.jp日本学術会議のサイトだった。
わかりやすくていいじゃないの。任命拒否問題とかあったよな。

「記憶を正確に保存する神経細胞の仕組みを解明」というレポート。

www.jst.go.jpラット脳の海馬の神経細胞に、緑色蛍光たんぱく質GFP)を融合させて、分子の挙動を追跡したみたいな。

ドゥルーズの「時間の第一の総合」と「時間の第二の総合」は、脳科学との関連はどうだろうか。

例えば視覚刺激の場合は、「視床」を経由する。

www.nips.ac.jp

眼の「網膜」で見た情報は、「視床」を経由して、「視覚野」に送られ、ここで初めて「見ている」として意識されます。(生理学研究所吉田正俊先生 画)

(画像引用元:目から入ってくる溢れるような視覚情報を くっきりさせて脳に伝える仕組みの一端を解明 - 生理学研究所

視床は「間脳」という部位にあり、その役割は「全身の感覚、視覚、聴覚などの感覚入力知覚刺激情報を認識し、大脳皮質、大脳基底核に伝達。 」することらしい。

www.akira3132.info別のサイト(脳科学から見た統合失調症)では視床はからだの隅々から大脳に至る知覚神経の中継点にあり、ここである種の情報の調整がおこなわれていると考えられています。」と説明があった。

www.smilenavigator.jpそして記憶については、海馬と大脳基底核が大きくかかわっている。
「陳述的記憶」は海馬、「手続き記憶」は大脳基底核が担当しているとのこと。

www.scj.go.jp何にせよ、視床・海馬・大脳基底核は、脳科学の分類では視床(間脳)、海馬(大脳辺縁系)、大脳基底核という分類がされてはいるが。

その3つは全て大脳の内側、近接して存在している。

視床で視覚刺激を処理する、それは縮約(差異の抜き取り)とも言い換えられる。
海馬や大脳基底核で記憶を処理する、それは反復(記憶の形成)といっても違和感はない。

「時間の第一の総合」と「時間の第二の総合」が、どちらも無意識で行われる受動的総合だというのは、非常に信憑性が高いように思える。

まとめの話が長くなったが、では「時間の第三の総合」とは何か。
それも、ジル・ドゥルーズ「差異と反復」に記載されている。


「時間の第三の総合」を捉えるため、引用が多くなるので、あらかじめこの本の引用箇所を提示しておく。
その箇所は「第二章 それ自身へ向かう反復」だ。

ドゥルーズは語る。

時間の空虚な形式あるいは第三の総合とは、何を意味するのだろうか。デンマークの王子〔ハムレット〕は、「時間はその蝶番から外れてしまった」と語る。(26)

もしかすると、デンマークの哲学者〔キルケゴール〕も同じことを言うのではないだろうか。
そして彼はオイディプス的であるがゆえに、ハムレット的であるのではないだろうか。(27)

蝶番、カルドー cardo(28)とは、時間によって測定される周期的な運動が通過するまさに機軸的(カルディナル)な点に、その時間が従属しているということを、保証するものである(その時間は、宇宙にも魂にも同様に必要な時間、すなわち運動の数(29)である)。

反対に、おのれの蝶番から外れてしまった時間は、発狂した時間を意味している。発狂した時間とは、神が時間に与えた曲率の外に出て、おのれの単純すぎる循環的な形態から自由になり、おのれの内容をつくってくれたもろもろの出来事から解放され、おのれとの運動を覆えしてしまうような、そうした時間であって要するに、おのれを空虚で純粋な形式として発見する時間なのである。

事物は(円環という単純すぎる形態に即して)時間のなかで繰り広げられるのだが、それに反して時間は、それ自身が繰り広げられる(すなわち、円環であることを公然とやめるのである)


(26)シェイクスピアハムレット』(市河・松浦訳、岩波文庫)47頁、「世の中は調子はずれだ The time is out of joint」を指す。
(27)オイディプスハムレットの関係づけについては、フロイト精神分析学入門』(懸田克躬 訳、『精神分析学入門』所収 411-412頁参照)
(28)「カルドー cardo」とは、「蝶番」、「軸」、「主要な点」などを意味するラテン語。「カルディナル cardinal」というフランス語の形容詞は、そのラテン語に由来しており、基数の「基」とか、東西南北の方位点における「方位の」という意味をもつ。したがって、このフランス語を「機軸的な」と訳した。
(29)「運動の数」とは、アリストテレス以来の時間の定義。アリストテレス『自然学』219b以下を参照。

「曲率」って理系っぽい言葉が出てきたけど、自分はよくわからない。
理系情報が満載のこのブログの話によれば。

miwotukusi.hatenablog.jp「曲がり具合」みたいな意味だろうか。


人間は原初的には、円環の時間に生きていた。
しかし、その円環から「発狂した時間」に推移する。

「時間の第一の総合」「時間の第二の総合」の段階で人間が行っている縮約、縮約の反復、反復の融合による受動的総合の運動、その円環に、終わりが来る。

それが「時間の第三の総合」。
まさに「順序」化されるということは、時間が円環でなく、直線的になるという話だ。

時間は、機軸的(カルディナル)なものであることをやめて、順序的(オルディナル)なものに、つまり、純粋な順序としての時間へと生成するのである。

ヘルダーリンは、時間は「韻を踏む」のをやめる、なぜなら、時間は、〔詩の〕始まりと終わりがもはや一致しなくなるような「中間休止」の前半部と後半部に、おのれを不等に配分するからであると語っていた(30)。

わたしたちは、時間の順序を、以上のような中間休止に応じた不等なものの純粋に形式的な配分として定義することができる。そうなれば、〔詩の〕長かったり短かったりする過去〔前半部〕と、その過去に反比例する未来〔後半部〕が区別されるわけだが、ただし、その場合、そのような未来と過去は、時間の経験的あるいは動的な規定ではなくなって、時間の静的な総合としてのア・プリオリな順序に由来する形式的かつ固定的な特徴になる。

その場合、時間はもはや運動に従属していないがゆえに、そうした総合は必然的に静的なものである。もっとも根本的な変化の形式〔順序〕があるわけだが、この変化の形式は変化しないのである。

《私》の亀裂を構成するものは、まさに、中間休止であり、またその中間休止によって〈これを最後に〉順序づけられる〈前〉と〈後〉である(中間休止は、まさしく亀裂が誕生する点なのである)。

(30)ヘルダーリンオイディプスへの注解』(手塚富雄訳、『ヘルダーリン全集4』所収、河出書房新社)48頁。

中間休止によって、循環する円環の時間から、静的な直線の時間へと、《私》である人間は亀裂させられる。

中間休止は、第三の総合ではなく、第二の総合にて発生しているらしい。

記憶が、機軸的な円環から、順序的なものに移行する状態だ。

脳科学でいうと、 海馬は記憶を仕分けしているらしいゆえ、海馬に留まっている状態ともいえるかもしれない。

yumenavi.info海馬は神経細胞の結合をつくる役割を果たしていると言われ、短期記憶から長期記憶へと情報をつなげる中期記憶を担う器官です。日常的な出来事や学習して覚えたことは、いったんこの海馬にファイリングされ整理整頓してから、大脳皮質という部分へ保存されていきます。つまり記憶を仕分ける司令塔なのです。

「時間は中間休止の前半部と後半部に、おのれを不等に配分する」というのは、まさに海馬が行っている「仕分け」機能と同じ気もするな。

第二の時間は、中間休止それ自体を指し示すものであり、したがってその時間は、変身であり、自我の二分化であり、行動のイマージュへのイデア的な自我の投射である(そのような時間は、ハムレットの航海(34)によって、あるいはオイディプスの尋問(35)の結果によって示されている。主人公は行動を起すことが「可能」に〈なる〉ということだ)。

イデア的な自我」とは、何だろうか。
イデア」って言葉は、哲学の本を読むとよく出てくるよな。

まあこれは「理想」だとか「本質」みたいな意味だろうよ。

10mtv.jp より良い在り方というのはつまり、善です。人や犬、三角形は、それぞれ中身が全部違います。そのため、人間のイデア、犬のイデア、三角形のイデアはそれぞれの内容が皆違うはずです。
 皆違うのですが、実はこれら全ては同じものを目指しています。これは善のイデアです。イデアは全ての生き物や図形、全てにとってのより良くあろうとする際の目標になる。善のイデアはその全ての理想になると考えられるわけです。

呪術廻戦の「廻廻奇譚(かいかいきたん)」にも、その言葉は出てくる。


五常を解いて 五常を解いて 不確かな声を紡ぐイデア」ってね。
この「五常を解いて」について、分析してる若者がいた。

www.youtube.com五常とは「儒教で説く5つの徳目。仁・義・礼・智・信」のことで、それを解くということは、「人として正しい判断をすること」だと。

でもその解釈は、正しいのか?
イデアは目に見えない、だから呪霊と特徴が類似してる。
だから「五常を解いて」というのは、そういう形而上的道徳を吹き飛ばして、現世に残した欲望や怨恨のみが残った本質(呪霊)が、不確かな声として跳梁跋扈してるっていう話じゃねえのか。
呪術廻戦まだ読んでないから、知らんけど。

話が逸れたな。

イデア的な自我について。
ドゥルーズは「時間の第二の総合」に自我が二分化される、イデア的な自我が行動に投射されるといった。

まあ例えば、おでんを食べる時。
ダシに浸ってるときは、何の具材が入ってるかわからない時がある。
コンニャクを取ろうとしたら、ハンペンだった。
第一の総合、縮約(差異の抜き取り)によってコンニャクを認識し、その記憶を頼りに「皿に盛る」という第二の総合。
この「皿に盛る」が、イデア的な自我だ。

もし、ハンペンだった場合、それは欲しくないので、自我は「皿に盛る」のではなく「鍋に戻す」という行動を投射しなければらない。
それは望んでいることではないので、イデア的な自我ではない。

この解釈が合ってるかは知らない。
ハムレット」か「オイディプス」読んだ方がいいかもね。

第二の総合から第三の総合にて、時間が直線的で静的な順序となる可能性がある。
そして第三の総合で、未来を見出す。

未来を発見する第三の時間に関してはつぎのように言えよう。すなわち、その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているとうことであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである。

自我が等しくなってしまった当のもの〔出来事、行動〕は、即自的には不等なものである。そのようなわけで、時間の順序によってひび割れた《私》と、時間のセリーに従って分割された《自我》は、互いに対応し、共通の結末を見いだす――名もなく、家族もなく、資格もなければ、自我も《私》もない人間のうちに、秘密の所持者にしてすでに超人たる「平民」(36)を、すなわち、そのバラバラになった肢体が崇高なイマージュの重力に引き付けられてそのまわりを回るような超人を見いだすのである。

(36)ピエール・バランシュ Pierre Ballancheの言葉。本書、第二章「永遠回帰における反復という観点からする、悲劇的なものと喜劇的なもの、歴史、信仰」参照。

「時間の第三の総合」によって遂に人間は、自我は分裂し、支配的な時間の順序によって分割され、自由を奪われる。

排除された自我はどうなるか。

しかし秘密の一貫性は、そのような自我に背を向ける。再度、秘密の一貫性に引き付けられる。
それが、ニーチェがいう永遠回帰だ。

永遠回帰は、その秘境的な真理性において、セリーたる第三の時間にしか関わらず、また関わりえないのだ。永遠回帰の規定は、ひたすらそのようなところにある。それゆえに、永遠回帰は、文字通り、未来への信仰、未来における信仰と言われるのである。

永遠回帰は、新しいものにしか、すなわち、欠如〔過去〕を条件として、しかも変身〔の作用者、現在〕を介して産み出されるものにしか関与しない。
しかし永遠回帰は、条件も作用者も還帰させることはない。
反対に、永遠回帰は、その遠心的な力のすべてによって、それらを追放し、それらを否認する。
永遠回帰は、所産を自律的なものにし、作品を独立させる。
永遠回帰は、過剰による反復であって、これは、そのような欠如もそのような〈等しく――なる〉ということもまったく存続させないのだ。

永遠回帰は未来における信仰、まさにそうだ。
ニーチェ永遠回帰が求める回帰対象は現実の介入によって変質する」でも話した。

gyakutorajiro.com闇金ウシジマくんのバイトくんに出てくる池田。


(引用元:闇金ウシジマくん(1)[ 真鍋昌平 ]

「俺様がおめーくれーの年齢の時は、もっと高い地位にいる」という未来予想図、自我で形成された「わたしがそう欲した」幸福のイメージが、日々の生活を通じて回帰するだろうと信じ続ける。
「漫画家になれない」という欠如はあり得ないし、等しく現在であり続けること、バイトをし続けることを、拒否する自我を持つ。肯定的なものを回帰させたいと欲する。

永遠回帰は、それ自身新しいものであり、まさに新しさの全体である。永遠回帰はそれだけで、セリーたる第三の時間であい、未来であるかぎりの未来である。クロソウスキーの言うように、永遠回帰とは、私自身の一貫性も、私自身の同一性も、自我の、世界の、神の同一性も、すべて排除することによってはじめて定立される秘密の一貫性である。

永遠回帰が還帰させるものは、〈平民〉、すなわち〈名もなき人〉である。永遠回帰は、おのれの円環のなかで、死んだ神とひび割れた自我を招き寄せる。永遠回帰は、太陽を還帰させはしない。なぜなら、永遠回帰は、太陽の炸裂を前提にしているからだ。

永遠回帰は、星雲にしか関与せず、星雲と混じり合っており、星雲のためにしか運動しないのである。

この箇所はかなり詩的だね。
太陽ってのは、ア・プリオリな直線的時間のことだろうか。
ア・プリオリな直線的時間を炸裂させて、星雲を還帰させる。

そう、星雲を望んでいるんだ。
人間は、時間の経過を、今日の到来を通告する、太陽を炸裂させたいと思っている。

しかしまさに、時間の順序、純粋で空虚な形式としての時間は、そのような円環を壊してしまったのだ。

ところで、この時間がそのような円環を壊したのは、ほかでもない、単純性が少なく、はるかに秘密性が高く、はるかに捩れ(よじれ)ていて、もっと星雲のように混沌としたあの円環のためであり、永遠に偏心的な円環のためであり、セリーとしての第三の時間のなかでそれだけが再形成される当の差異の脱中心化された円環のためである。

私たちの星雲が破壊されてしまった。
「星雲のように混沌としたあの円環」ではなく、空虚な形式としての時間、月曜日から金曜日という支配的な直線的時間のループを繰り返すあの円環に、人間を追い込んだ。

前にその時間についての話もしたね。

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順序としての時間が《同じ》ものの円環を打ち砕き、時間をセリーに変えるのは、セリーの終りに《他》なるものの円環を再形成するためでしかない。

順序の「これを最後に(40)」が現にあるのは、ただひたすら秘境的な最後の円環〔永遠回帰〕の「その都度」のためである。

形式としての時間が現にあるのは、ただひたすら、永遠回帰における非定型なものの啓示のためである。極限的な形式性が現にあるのは、ただひたすら、過度に非定形なもの(ヘルダーリンにおける無形なものUnformliche)のためである。

こうして、根拠は無底(サン・フォン)に向って、すなわち、それ自身において回転し、そして〈将-来〉しか還帰させない普遍的な脱根拠化に向かって、越えられてしまったのである。

(40)「これを最後に une fois pour toutes」については、クロソウスキー『かくも不吉な欲望』、前掲、25頁参照(「一度かぎり une fois pour toutes」)。

「形式的な時間」を打ち砕き、支配的な直線的な時間を打ち砕き、自らが望むべきことがその都度回帰する永遠回帰、非定形なものへの欲望は、「脱根拠化」された啓示となって立ち現れる。

永遠回帰は、そのすべての力(ビュイサンス)において肯定されるとき、〈土台-根拠〉のいかなる創設も赦しはせず、反対に、本源的なものと派生的なものとのあいだに、つまり〈もの〉〔本物〕と見せかけ(シミュラクル)とのあいだに差異を置くような審廷(しんてい)としてのあらゆる根拠を、破壊し、呑み込んでしまうからである。

永遠回帰は、わたしたちを、普遍的な脱根拠化に直面させるのだ。「脱根拠化」(エフオンドマン)という言葉によって理解しなければならないのは、まさに永遠回帰を構成する媒介されていない基底(フォン)の自由であり、他のあらゆる基底の背後に控える或るひとつの基底の発見であり、無底(サン・フォン)と根拠づけられていないもの(ノン・フォンデ)との関係であり、非定型なものおよび最高の形相にかんする直接的な反省である。

してみると、洞窟の外に出たままになってはいず、むしろ彼方にある別の洞窟を、つまりおのれの姿を隠すべき洞窟を必ずや見いだすはずの永遠回帰の思索者は、当然のことながら、存在するすべのものの最高の形相をみずから背負っていると語ることができるのであって、それはちょうどかの詩人〔ランボー〕が、「人間性を、もろもろの動物そのものを背負って」いるのと同様な事態なのである。

脱根拠化とは、ドゥルーズの造語らしい。
訳注に「脱根拠化」(エフオンドマン effondement)とは、「根拠」(フォンドマン fondement)と、「崩壊」(エフオンドルマン effondrement)との合成語、とあった。

永遠回帰は、時間の土台となる「時間の第一の総合」も、時間の根拠となる「時間の第二の総合」も、時間がセリー(秩序)となった「時間の第三の総合」も、拒否する。

自由な時間。あらゆる土台や根拠に依存せず、自らの、非定形なものを作る力への意志によって、生まれる時間こそが、永遠回帰だ。

永遠回帰「同一性への回帰ではなく、差異化する力」だと、ドゥルーズはこの本の別の箇所でも語っているように。

gyakutorajiro.com人間は永遠回帰によって、形式的な時間、いわゆる直線的な時間を、脱根拠化したいと考えている。

人間は、ア・プリオリな順序に由来する、形式的かつ固定的な時間に支配されている。
いわゆる資本主義イデオロギー的な時間、直線的時間に従わない人間をひきこもりとして抑圧する時間も、そうだ。

gyakutorajiro.com自分の意志や状態に関係なく、あらかじめ(ア・プリオリ)に存在する静的な時間への従属。

自我に亀裂が発生する。

ニートやひきこもり、鬱や発達障害と、社会からラベリングされてしまう人々は、直線的な時間への従属に対して、抗っている。
私自身の時間で、私自身のスタイルで生きるという、新たな時間、永遠回帰を生み出そうとしている。

しかし資本主義はそれを許さない。
ミスチルが「tomorrow never knows」で唄っているようように、孤独なレースは続く。

直線的なレースコースに人間を従属させる。
「明日」を神聖化し、「太陽」を神聖化する。

子どもの頃、学校では何が流されていただろうか。
「定番!みんなが知ってる合唱曲」を見てみよう。

www.joysound.comAKB48の「365日の紙飛行機」では、「思い通りにならない日は 明日 頑張ろう」と、明日という直線的時間を礼賛する。

岡本真夜の「tomorrow」も、「涙の数だけ強くなれるよ」「明日は来るよ 君のために」と、明日という直線的時間を礼賛する。

いきものがかりの「YELL」も、「僕ら 初めて 明日へと 駆ける」と、明日という直線的時間を礼賛する。

一覧にはないが、SMAPの「夜空ノムコウ」も、「夜空のむこうには もう明日が 待っている」と、明日という直線的時間を礼賛する。

エレファントカシマシの「四月の風」も、「明日もがんばろう」と、明日という直線的時間を礼賛する。

明日、だけじゃない。
今日もそうだ。

WANIMA「旅たちの前に」において、「まだ頑張れよ ただ踏ん張れよ ヒントが無い今日も」というように、このPVにサラリーマンが出ているように、今日を踏ん張るサラリーマンは礼賛される。

そしてこの明日や今日のイデオロギー、直線的時間のイデオロギーの支配による抑圧によって、人間は遂に生み出した。

永遠回帰というルサンチマン(奴隷道徳)を。

ニーチェはそんなこと言ってないというか。
ルサンチマンに従属せずに力への意志を備えた超人になれと。

また別の記事で、永遠回帰というルサンチマンについて話そう。