逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

女性に優しくされたオッサンやジジイが勘違いする理由についてドゥルーズの能動的総合の概念で解説

木梨憲武の曲に「GG STAND UP!! feat. 松本孝弘」というのがある。

オッサン、ジジイが出ている。
ファッションデザイナーの菊池武夫TAKEO KIKUCHI)も、デコトラの前で手を組んでいる。

そんで、若い女性と楽しくダンスに興じる。
若くなさそうな女性もいるが、画面内に女性が映る場合に大部分を占めている女性は、若い女性である。

現実には、こんな事態は皆無だろう。
まだ、木梨憲武菊池武夫のように、何かを成し遂げてお金を持ってたり、諸々の能力が高いイケおじとかならいける可能性もあるが。
それでも難しい場合もある。

大抵、オッサンやジジイが若い子を手に入れようとしても、失敗に終わることが多い。
大学教授だとしても無理だ。

anond.hatelabo.jpあなたに愛想よく振る舞うのは、丁度あなたが上司とか目上の人に礼儀正しくするのと全く同じでそれ以上でもそれ以下でもないです。
その優しさは人と人との関係上の優しさであって、あなたのことを異性として求めているからではありません。

自分の都合の良いように解釈しないでください。

社交辞令と愛を履き違えないでください。

間違えても勘違いして告白とかしないでください。

あなたは恋愛の土俵に立ったら、一気にただの激キモ勘違い老人に降格です。絶縁です。

今まで縋り付くことのできていた最低限の優しさすら享受できなくなりますよ。

相手の年齢と自分の年齢を逆にして考えてみてください。

男とか女とか関係ないです。

そんな歳上の異性に性的な目で見られて、あなたは嬉しいですか?

news.yahoo.co.jp「若い子ではなければいける」、10歳ぐらい年下ならいけるだろうと思い、50代の女性店員に歩み寄っても、このように粘着するとネットで叩かれてしまう。

b.hatena.ne.jp大抵はうまくいかないのに、なぜオッサンやジジイ達は、若い女性や年下の女性を手に入れようとするのか。

それは上の記事にあるように「社交辞令と愛を履き違える」というところが、ポイントだ。

「お店」や「大学のゼミ内」等の閉ざされた空間では、一つのコードが機能する。
それは「他人に配慮しよう」「優しくしよう」というものだ。

お店の場合、優しくすれば商品を買ってくれるかもしれない。
実際、ルピシアで起きた事件もそうだ。
札幌市にある発寒イオンのルピシア店内で、若い女性店員に執着する無職の59歳男性が店内で刃物を振り回して暴れ、逮捕されるという事件が起きた。

www.youtube.com刃物男】北海道札幌市西区イオンモール札幌発寒のルピシアで包丁を持った黒ずくめの男が暴れる事件 - YouTube

事件を起こす前からルピシアに足を運んでいた。おそらく最初、ルピシアの有名な神接客のように、優しく接してくれたのだろう。

59歳男性、若い女性からの優しい声掛け。
それはまるで、槇原敬之の「どうしようもない僕に天使が降りてきた」感覚だったかもしれない。

天使が降りてきたら、どうすんだ。
その天使との幸せな時間を、何度も反復したい。
あわよくば恋人にしたい。

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引用元:カフェでよくかかっているJーPOPのボサノヴァカバーを歌う女の一生
【渋谷直角】青年マンガSPA!コミックス

だって、相手も優しくしてくれたんだから、可能性はあるだろう?と考える。
ここである程度、自分を客観視できる人なら「店員だからサービスの一部だろう」と把握できる。
しかしそれが判らない。

gyakutorajiro.comオッサンは日常生活で女性への接近行動を行うがうまくいかない。
失敗の記憶は堆積し、なおも接近を行う反復活動にてある事実を見出す。
それは店員と客という関係性であれば必ず返答をしてくれること。
ドゥルーズは人間のこの無意識的な差異の掬い上げを縮約と呼び、縮約による学習を受動的総合と呼んだ

この分析は少し足りない部分があるので、訂正しとくか。
「ある事実を見出す。」というのは、無意識的に行われている可能性がある。

以前、ドゥルーズの記憶論について話をした。
ドゥルーズは記憶を時間と共に論じている。

gyakutorajiro.com・時間の第一の総合・・・諸瞬間を縮約(差異を抜き取る)し、それを反復し、累積する受動的総合を行う時間の土台)。習慣という。
・時間の第二の総合・・・第一の総合と同時に、縮約と反復による受動的総合によって構成されていく純粋過去。記憶という。

「時間の第三の総合」によって、記憶は順序化され、「時系列」という直線的時間になる。

gyakutorajiro.comおそらく「勘違い」は、「時間の第二の総合」と「時間の第三の総合」の間で生じている。
時間の第二の総合から、オッサンの中の「記憶」が形成される過程、もしくは形成されてからそれを「思い出す」段階で、「勘違い」が生まれている。
記憶を「思い出す」際、オッサンの自意識はどのようになっているのか。

ドゥルーズは時間の第二の総合によって形成された純粋過去を「古い現在」とも呼ぶ。

《記憶》、純粋過去、そして諸現在の表象=再現前化

一見したところ、過去というものは、二つの現在によって、すなわち、過去がかつては現在であったという場合の〔古い〕現在と、過去が現在から見ればいまや過去になるという場合の〔アクチュアルな〕現在とによって、挟みつけられているように思われる。だが過去というものは、古い現在そのものであるのではなく、古い現在がそこでねらわれる当のエレメントなのである。したがって、個別的であるのは、いまや、ねらわれるもの、つまり「存在した」ものであり、それに反して、過去それ自身が、つまり「存在していた」ということが、本性上一般的なものである。

一般的な意味での過去は、それぞれの古い現在が個別的にかつ個別的なものとしてそこでねらわれる当のエレメントなのである。

フッサールの術語を用いるなら、過去把持(レテンツイオン)と再生(レプロドウクツイオン)を区別しなければならないのである。(13)

(13)フッサール『内的時間意識の現象学』(立松弘孝訳、みすず書房)第二章十二節、十五節などを参照。


(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

「ねらわれるもの」というエレメントはまさしく、オッサンにとって「優しくされた店員との思い出」だ。
そしてこの「古い現在」は、「アクチャルな現在」の影響を被る。

先ほどわたしたちが習慣の過去把持と呼んだものは、継起的な諸瞬間が或る一定の持続のアクチュアルな現在〔現前〕のなかで縮約されている状態のことであった。アクチュアルな現在に本性上属している直接的な過去を、つまり個別性をそれらの瞬間が形成していたのである。

期待によって未来へと開かれている現在それ自体について言うなら、その現在が、一般的なものを構成していたのである。

「縮約されている状態のことであった」というのは、時間の第一の総合、縮約(差異の抜き取り)が行われる生ける現在だ。
しかし純粋過去に対して「思い出す」という行為が行われる際、なぜか、現在が追いやられる。

ところが、記憶の再生という視点からは、反対に(諸現前の媒介としての)過去こそが、一般的なものになっており、(アクチュアルな現在であろうと古い現在であろうといずれにせよ)現在が、個別的なものになっているのである。

一般的な意味での過去は、古い現在のひとつひとつがそこで対象化されうる当のエレメントであり、しかもその古い現在はそのエレメントにおいて保存されているのであって、そのかぎりにおいて、古い現在というものは、アクチュアルな現在の中で「表象=再現前化」されているのである。

誰しもあるだろう。
「昔は楽しかったな」と、過去を振り返る時、現在は「つまらないもの」と個別化する。
そして、全てを思い出さない。
再生されるのは部分的な「エレメント」だ。

そのような表象=再現前化つまり再生の諸限界は、事実、〔観念〕連合という名称のもとでよく知られている〈類似〉と〈接近(14)〉という可変的な関係によって規定される。というのも、古い現在は、表象=再現前化される以上、アクチュアルな現在に類似しているからであり、また、そうした古い現在は、互いにきわめて異なったもろもろの持続の現在〔現前〕のなかへと遊離してゆくのだが、それらの現在は、部分的には互いに同時的であり、したがって互いに接近し合っており、結局のところアクチュアルな現在に接近しているからである。連合主義の偉大な点は、人為的なしるし(シーニュ)〔記号〕の理論全体を、そのような〔類似と接近という〕連合関係のなかに打ち立てたところにある。

(14)ヒューム『人性論』(大槻春彦訳、岩波文庫)(一)、三九頁参照。


(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

「連合主義」ってのはよく知らないがイギリス経験論を元にして発展してきた心理学で、実験心理学に繋がっていったとか。

kotobank.jpこの連合の概念は,18世紀のイギリスの経験論哲学者によって組織的に論じられるが,それ以前にホッブズHobbes,T.(1651)は人が経験するある心像から他の心像への推移は,以前に経験した感覚上の同様な推移に基づくと連合主義の思想の萌芽を述べている。連合主義の思想的背景であるイギリス経験論哲学を確立し,心理学上の連合主義の基礎を築いたのがロックLocke,J.(1690)である。彼は,生得観念innate ideaを否定し,すべての観念は生まれてから得たものであるとした。彼は,人間がもっている知識はすべて感覚sensationと反省reflectionよりなる経験に基づくとし,それらによって人間の心の中にさまざまな観念ideaが生じるとした。しかし連合自体については1700年に例外的な観念の結合に関連して述べているにすぎない。

「結合原理」と言う方もいるようだ。

『差異と反復』における第三の時間への導入
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/625/625pdf/kimura.pdf
結合原理とは、ドゥルーズの言う「連合主義」を指す。ドゥルーズは、ベルクソンもまたヒュームと同じくこの原理に行き当たり、ヒュームの分析を取り戻している点を賛えている。DR,p.98.

今日の本題ではないので先に進むか。

アクチュアルな現在は人それぞれ千差万別ゆえ、記憶を再生する人間によって「古い現在」(過去)は変わる可能性がある。

1つの出来事に対して、例えばルピシアで接客した店員にとってのアクチュアルな現在は「店員として働いている」という現実であるがゆえに、オッサンが来ても「一人の客として接した」という記憶として再生される。
古い現在も店員として働いているゆえ、過去の出来事を再生する際、「店員として」再生されるという現在との類似性が生じる。

しかしオッサンの場合「ものすごく優しく接してくれた、仲良くなれるのでは?」と、再生される。それは「古い現在」において、他のお店の店員よりも優しい接客を受けたからだ。
アクチュアルな現在において、他の店員との出来事よりも、ルピシアでの出来事が際立つ。記憶が再生される際、店員の立場としてではなく「客として」再生されるアクチュアルな現在の影響を被る。

ところで、古い現在がアクチュアルな現在のなかで表象=再現前化されるときには、かならず、アクチュアルな現在それ自身が、その表象=再現前化のなかで表象=再現前化されるのである。

たんに何ものかを表象=再現前化するだけでなく、おのれ自身の表象=再現前性(ルプレザンタテイヴイテ)をも表象=再現前化することが、本質的に表象=再現前化に属する機能なのである。

したがって、古い現在とアクチュアルな現在が、継起的な二つの瞬間として時間の直線の上に存在しているのではなく、アクチュアルな現在が、必然的にひとつの次元を余分に含んでいて、その次元を通じて古い現在を表象=再(ル)=現前化し、かつその次元においておのれ自身をも表象=再現前化するのである。

純粋過去も、それを再生する際、アクチュアルな現在の影響を受ける。
つまり「あの店員さんともう1度話したい、お付き合い」したいという、アクチュアルな現在の欲望の影響を、過去を再生するときに被るということよ。

それが「間違えても勘違いして告白とかしないでください。」等の誤解につながる。

個々人によってアクチュアルな現在は異なるので、過去の出来事を再生する、思い出すとき、差異が生じる。

アクチュアルな現在は、思い出(スヴニール)の未来的な対象として扱われるのではなく、かえって、古い現在の思い出を形成するのと同時におのれを反省するものとして扱われるのである。したがって、能動的総合においては、対照的ではないにしても相関的な二つのアスペクトがある。

すなわち、再生と反省、想起(ルメモラシオン)と再認、記憶(メモワール)と知性。

しばしば指摘されたことだが、反省は、再生と比べて、より多くのものを含んでいる。ただし、この〈より多くもの〉というのは、あらゆる現在が古い現在を表象=再現前化すると同時におのれをアクチュアルな現在として反省する次元としての、ひとつの補足的な次元にすぎないのである。「あらゆる意識状態は、その意識状態に含まれる思い出の内容よりも、余分にひとつの次元を必要としている。」
そのようなわけで、表象=再現前化の原理を、古い現在の再生とアクチュアルな現在の反省という二重のアスペクトをもつものとして、〔派生的な〕記憶の能動的総合と呼ぶことができる。


(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

ここにおける「反省」「再認」「知性」というのは、アクチュアルな現在のことで、それらが古い現在を「再生」「想起」「記憶」する際に影響を及ぼす。
それがドゥルーズがいう能動的総合の二つの側面のことだろう。

もし店員さんは心の中では普通の接客をしていただけなのに、オッサンにとっては「笑顔で喜んでいた」という「反省」がされていた場合、「再生」する際にも美化された出来事になる。

店員さんを「想起」する際、優しく接してくれていた場合は「いい店員さんだった」と、「再認」する。もし無愛想な接客をされていたら、その店員さんのことを好意的に再認することはないし、そもそも再認さえしないかもしれない。

嫌がっているかどうか、客と店員という関係性ゆえに優しくされたという客観的な「知性」があれば、美化されたものではなく、通常のやり取りとして「記憶」されたはず。
しかしそれを「もしかしたら付き合えるかもしれない」という勘違いとして記憶する。
それはポジティブでプラスに作用する側面もあるかもしれないが、人に迷惑をかけてしまう事態に繋がる場合もあるだろう。

こうした記憶の能動的総合は、〔第一の〕習慣の受動的総合が〔あらかじめ〕あらゆる可能な一般的な意味での現在を構成するがゆえに、その習慣の受動的総合のうえに打ち立てられるのである。

しかし、能動的総合と受動的総合は深く異なっている。いまや非対称が、諸次元の恒常的な増大のなかに、諸次元の無数な増殖のなかに滞留するのだ。

習慣の受動的総合は、時間を、諸瞬間の縮約として、現在という条件のもとで構成していたが、しかし記憶の能動的総合は、時間を、諸現在自身の入れ子〔嵌入〕として構成する。そこで問題はまさに〈何を条件にしているか〉ということになる。

(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

能動的総合によって記憶を再生する際、オッサンは「時間の第一の総合」による習慣の影響を被る。
店員さんは「一人の客」として接客したのに、オッサンは「特別に優しくしてくれた」というように、1つの出来事に関する記憶は、再生の際に差異化され、非対称となる。

古い現在が嵌入(かんにゅう)される際の入れ子、アクチュアルな現在は、個々人で差異がある。
それゆえ、過去の記憶は決して同じようには再生されない。

まあ「出来事や思い出に対しての印象は人それぞれ違う」っていう、当たり前の話なんだけど。
それをドゥルーズは、様々な概念を用いてより詳細に紐解いているようにも思えるな。

まとめると、女性店員に近寄ってしまうようなオッサンやジジイが勘違いするのは、「あの店員さんともう1度話したい、お付き合い」したいという、アクチュアルな現在の欲望の影響を、過去を再生するときに被るということよ。

いやこれはさっきも言ったな。

現在という時間の第一の総合の際に、おのれの現状に関する反省や対象への認識や知性という現在の影響を受けながら、縮約(差異の抜き取り)という受動的総合が起きる。

時間の第二の総合にて記憶が構成される受動的総合の際、第一の総合の影響を受ける。

それゆえ記憶を呼び起こす能動的総合の際も、第一と第二の時間の総合の影響を被り、過去の出来事の記憶は恣意的に再生される。

勘違いをするオッサンやジジイにおいては、アクチュアルな現在において、「そんなの単なる店員としてのサービスだろ」と、客観的な意見を述べる対象や、情報等が無いのかもしれない。

表象=再現前化が行われる能動的総合において、「反省を促す対象が不在」であるアクチュアルな現在の影響を受け、それゆえ自分を服従させるのは自分のリビドー、エロスだけか、もしくはそれが大部分を占めるようになる。

それによって「利己的」「自分勝手」と言われてしまう行動が、促されてしまうような気もするな。