逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

他人の欲望が転移して自分の言動や身体が他人に操られる傀儡人形になる感覚のデリダ的解釈

昨日の話の続きを。

gyakutorajiro.com「野村修也」について、自分は「理知的」「中立的」という印象を持っていた。
東浩紀」もだ。
この方がかつて提唱したネットによる直接民主制は、例えば部分的に「投票」のみに導入された場合でも。
もちろんネットリテラシー等によって語ることができない人の声が漏れる可能性はあるものの、どうしても仕事や事情で外に行けない方に参加を促す効果、投票の敷居を下げる効果、周囲の同調圧力の影響を受けにくい効果等があり、共感していたんだが。

www.j-cast.com彼らから受ける印象の変化、「理知的」「中立的」という意味作用が変わる。
7月10日のニコニコ動画参院選2022の開票特番で、福島瑞穂氏はあくまで、「もしも仮に統一教会の影響が大きいのであれば」と、仮定の話を述べていた。
しかし東浩紀氏は「とんでもない話だ」「統一教会はテロとは関係がない」と、声を荒げて非難した。

三浦瑠璃氏は、「現時点では何の証拠もない状況なんですね。」「我々としては慎重を期したい」と、一見すると妥当な考えを言っているように思える。
が、実は「可能性の話でも許さない」という、強権的な姿勢を感じる。

あくまで福島瑞穂氏は仮定の話をしていた。仮定の話、問題提起も許さないのだろうか。
三浦瑠璃氏は、福島瑞穂氏が出る前、志位和夫氏とのやり取りの中でも、安部元首相の事件について「個人的な思い込みが動機ではないかという風な報道がされていて」「こういう異常な人というのは時に生まれてしまうから警備を強くするしかないんでしょうか」、またネットの記事等にある「容疑者の妄想に加担してはいけない」というように、事件の犯人を「異常者」として結論を急ぎ、「異常者⇔正常者」という二項対立を作ってしまい、事件の中身が曖昧化してしまうような意見を述べている。

この、二項対立が生まれる権力関係にメスを入れることができるがゆえに、ジャック・デリダの思想は多くの人々に影響を与えた。


福島瑞穂氏による仮定の話、それはデリダ的に言えば「代補」だ。
代補はフランス語で"シュプレマン"(supplementaire)と言うらしい。
デリダ自身は“概念”ではなく“操作子”と言っている。
福島瑞穂氏の仮定の意見は、「操作子」として、この事件の議論を発展させる作用があったはずだ。

この「代補」された意見を、特に東浩紀氏が最も否定的に捉えているように見受けられた。「確かにネットでもそういう意見はある。まだ足りない情報もあるから、慎重を期したい」等の意見で、話を終えて、次の山本太郎氏とのやり取りに移れば、今回のように炎上にまで発展するまではなかった気もする。

しかし「とんでもない話だ」という言葉で福島瑞穂氏の意見を、福島瑞穂氏との映像が途切れた段階で否定しまうと、議論の発展性がない。

三浦瑠璃氏や石戸諭氏ではなく、むしろ東浩紀氏こそが、デリダ研究で第一線を駆け抜けてきたからこそ、事件が二項対立化する事態に流れてしまわないように、二項対立で語られてしまう事件を脱構築する役割を果たすべきではないだろうか。
ジャック・デリダの意志を敬愛しているのであれば。
なのに、一番興奮して福島瑞穂氏の意見を否定しているようだった。
参ったね、ほんとに。

デリダによれば、言語的記号(非言語的な身振りなども)は、それが指示するものと、完全に一致することは決してないと。
だから実際、「野村修也」「東浩紀」という記号は、構造的にはじめから不完全なものだったんだ。

勝手に俺は「理知的」「中立的」という印象を持っていたが、必ずしもそうはならない。意味が変容した。

このように理解されると、代補性(シュプレマンタリエ)とは、まさしく“差延”であり、差延する活動であって、その活動は、現前性(プレザンス)に亀裂を入れるとともに遅らせ、それを同時に根源的な分割と遅延に従わせるのである。差延(ディフェランス)は、差延する[differer]という動詞が、遅延としての作用と、差異の能動的な働きとしての用法とに分離する以前において、考えられるべきものである。

(引用元:声と現象 (ちくま学芸文庫) [ ジャック・デリダ ]

個々人が勝手に「理知的」「中立的」という印象を抱いていたとしても、ある契機や出来事によって、その存在に差延が起きる。

つまり、7月19日のミヤネ屋、ニコニコ動画参院選2022の福島瑞穂氏によって、「野村修也」「東浩紀」という記号に差延が起きた。
デリダ「代補性(シュプレマンタリエ)とは、まさしく“差延”」というように、ミヤネ屋によって、福島瑞穂氏によって、「野村修也」「東浩紀」の意味決定が、遅延し、差異化した。

本質性を持たないというのが代補の奇妙な本質である。それは、つねに、生起していなかったのだろう。さらに言えば、字義通り、それは場所をもっていなかったのだろう。それは、ここといまにおいて決して現前することはない。言ってみれば、それがそうであるところのもの、代補ではないかのようなのだ。・・・無以下でありながら、その効果から判断するなら、無以上である。代補は現前でも不在でもない。いかなる存在論もその作用を思考することはできない。

(引用元:根源の彼方に グラマトロジーについて 下 / ジャック・デリダ

7月19日のミヤネ屋の「代補」により、「野村修也」が差延した。
ミヤネ屋は情報番組であり、ワイドショーとして観ていた。
別に、人間が持つ政治的立場を観るために視聴しているわけじゃない。その意味では、代補ではないかのようだった。
しかしなぜか、想像していなかった「野村修也」の印象が変わる、無以上の作用があった。

ニコニコ動画参院選2022の福島瑞穂氏の「代補」により、「東浩紀」が差延した。
福島瑞穂氏の意見は、7月10日の段階で確かに仮定の話であり、"事実"という本質性を持っていなかったかもしれない。無以下であり、無以上であったかもしれない。
しかし彼の印象を変える作用があった。

この事実、あらゆる言語的、非言語的記号が定義上不完全で、欠落を抱えていることを示している。

もしかすると、今後のミヤネ屋の放送による代補、また東浩紀氏の話、それらの「追加あるいは補填」によって、「野村修也」「東浩紀」は差延し、また「理知的」「中立的」という意味を、自分にもたらすことはあるかもしれないが。

俺が知っている「野村修也」ではなかった。「東浩紀」ではなかった。
「野村修也」も「東浩紀」が差延した感覚を覚えたのも、やはりステークホルダー達による代補があったからだろうか。
野村修也氏はwikipediaの経歴を見ると、そう仮定してしまうような推論も出来るが、東浩紀氏は判らない。
だが、今回の代穂によって、脱構築という出来事が起きた。
「野村修也」「東浩紀」は、今回の安部元首相の事件に関わる代補によって、俺の中では確実に脱構築された。

まあ「脱構築された」(「野村修也」「東浩紀」がもたらしていた意味が脱臼して変容が起こった)って、カッコつけて言ってるけど、単に「印象が変わった」とも言える。

さて、長々と話したが、もっと一般的な話に進みたい。
「他人の欲望が転移して、自分の言動や身体が他人に操られる傀儡人形になる感覚」や、「自分ではなく他人が、自分の言動や身体を支配しているような感覚」。

これは「代補性を備えた差延の効果」ではないだろうか。
他者という記号、嫌な上司であれば、その余剰が自意識に代補される。
それは感情の生起にまで影響を及ぼすかもしれない。

例えば「仕事、がんばるぞー!」「家族の為にがんばるぞー!」という意識や志を持っていた。
にも関わらず、「嫌な上司」等の代補によって、そのポジティブな感情は、

「仕事がんばらないとな」
「仕事、家族のためにもやらないとな」
「仕事、なんでやらないといけないんだろう」
「仕事、やりたくないな」
「会社、行きたくないな」

と、代補によって感情が差延していく。
家族や会社の上司といった他人の欲望が、自分に転移し、傀儡人形になっている自覚が芽生えてくる。

そして、会社へ向かう足取りが重くなったり、月曜を憂鬱に感じてしまったり、家族を顧みず仕事を辞めることもあるだろう。
「漂流家族 竹下家」というドキュメントにおいて、竹下家の父親が、仕事を辞める。
養わなければならない子どもがいる。
しかしどうしても職場での仕事、他者という代補によって、感情が差延し、辞めたくなったのだろう。

このように欲望や感情が差延し続けるということは、安定的な自我や自己同一性も保てないということだ。

あるひとつのアイデンティティが与えられたり、受け取られたり、あるいは到達されることなど決してない。ただ、同一化[アイデンティフケーション]の幻想の終わりなき、そして際限なきプロセスが持続するだけなのである。

(引用元:「たった一つの、私のものではない言葉—他者の単一言語使用」ジャック・デリダ

上司に文句言うか。
そういえばデリダには"幽霊"という概念もあった。
"非現前からの差異"みたいな意味だったような。

kagurakanon.netこうしたシニフィアンの循環運動の決定不可能性をデリダは「幽霊」といいます。この点「現実界」は単数ですが「幽霊」は複数です。コミュニケーションの様々な失敗や揺らぎ。ここから様々な「幽霊たちの声」が出現する。このようなコミュニケーションに内在するメカニズムを東氏は「誤配」といいます。

大体合ってるか。
会社を辞める時、こう言うべきだっただろうか。

「あなたという存在、それが現前しない非現前の時も記号として、私という存在に代補を行う幽霊となっているのです。それによって私の感情は差延し、会社に行きたくなくなり、辞めたくなりました」

ってね。
「何言ってんだこいつ・・・大丈夫か」と思われるのがオチかもしれないがな。

とにかく、誰しもあるはずだ。
玄関で足が止まった時、鏡を見た際に「あなたは誰だ?」という感覚。
本当の自分じゃない。

環ROYの「YES」という曲みたいに。

鏡の中の「君」は、自分ではない。
「なぜか自分ではなくて 君であることにある日気が付いた」。

しかし「すがたかたちは何もかも違うけど」「そこにいたのは僕だった」と、何かの契機で、気付くんだ。

君というのは、他者や他者の記号、代補によって差延した自分。
いわゆる汚染された自分だ。

それは自分ではない、「君」になる。
「自分」はいつのまにか消えていた。

「はじめましてそしてさようなら」と言うように、どこかにいってしまったんだよ。

コラージュアートのように、パッチワークのように、大量のシニフィアンが無意識に供給される資本主義社会の大量のシニフィアン。次から次へと湧いてくる同一化対象、その影響によって形成される欲望は、自分の欲望なのか、自分の感情なのか。
そしてもはや自分はもう消えていて「君」(他者)になっているのではないだろうか。

他者および他者の記号による過剰な代補により、人間の自己同一性は差延し、自分が行っていると思われている言動や身体運動も、非現前の幽霊によって動かされている傀儡人形ではないのだろうか。

「印象が変わった」という前提がそもそも誤りで、他人も自分もそもそも常に安定なんかしてないんだろうな。