逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

東浩紀氏の郵便的脱構築の未達やミヤネ屋(2022年7月19日放送)に出ていた野村修也氏から「他者の欲望の影響」を垣間見た

朝6時。かつてサラリーマンをしていた時、この時間に起きて、会社に行くための身支度をする。
人間の理想的な睡眠時間は7時間らしいが、前日の11時に眠気が来るとは限らないので、4~5時間しか睡眠を確保できない日もあった。

まだ疲労が残る寝ぼけ眼をこすりながら、顔を洗い、スーツに着替え、7時前までにバス停に向かう。
調子がいい時は、何の疑問もなくバス停に向かうことができた。

しかし何日かに一度は「会社行きたくないな」という働きたくない念慮に襲われ、そして1ヶ月に一度ぐらいだろうか。


(引用元:闇金ウシジマくん(11)[ 真鍋昌平 ]

「ギギギ・・・会社……行きたくねェーなァ…」

このように実際、玄関で少し足が止まる瞬間がある。
まるで「これは俺の意志なのか?」と、意識的に問うてるわけではないんだけど、無意識的な働きたくない欲望が、自分の足を止めた。

その間隔が、どんどん短くなってきて、自分は会社を辞めた。

そもそも「俺の欲望なのか」という話だ。
このサイトで何度も話題にしているジャック・ラカンが「欲望とは他者の欲望である」と言うように、会社に行くことは、本当に俺の欲望なのかと。

他者の欲望じゃねえかって。

リーダーは、俺が会社に来ることを欲望する。
俺が行かないと管理不行き届きとして、現場のプロパーが不安になるだろうし、派遣元会社も不安になるだろう。

派遣元会社は、俺が派遣先に出社することを欲望する。
俺が出社することで、1人月数十万で契約している派遣先企業から、何十%かを中抜きし、金銭という利益を得ることができるため、俺が出社してほしい欲望を持っている。

では俺は欲望していたか。ITエンジニアになろうという欲望はあったが、日に日に薄れてきたような気もする。

gyakutorajiro.comその「ITエンジニアになろう」という欲望も、実社会で「役に立つ」「カッコいい」という大量の物理的表象による刷り込み、「ITが出来ると社会の役に立つ」等のイデオロギーを内面化し、自分の意識がITエンジニアに向かうように組織化されたがゆえに、その欲望を抱いたのであって、タブラ・ラサ(白紙の状態)に近い状態まで自分を遡っていくと、欲望の原因は自分自身ではなく他者、ラカンでいう象徴界(現実社会)の影響を多分に受けて構成された欲望だ。

それをこんな風にテキスト化しなくても、皆、無意識に思うことがある。
「自分は本当にこれを求めていたのか?」と。
オールドルーキーの第1話で、交通誘導員の仕事をしながら「俺、何やってるんだ・・・」と呟く綾野剛のように。

gyakutorajiro.com時にはそのような自我分裂のような感覚を抱く時が誰しもあるはず。
ドゥルーズガタリなら、この身体が自分ではない誰かに組織化された、奪われたような感覚は「器官なき身体」と呼ぶだろう。
その話は前にした。

gyakutorajiro.comラカンドゥルーズガタリは自分の好みなので、何度も話題にしているが。

たまには別の哲学者、ジャック・デリダで話をしてみるか。

なんだっけ、デリダの本は一時期読んでいた気がするが、忘れているので、おさらいだ。
姉妹サイトで、デリダの話してたな。

iine-y.com確かそれまでの西洋哲学は、あんまよく知らないけどパロール優勢だったんだ。
よくよく考えてみると、エクリチュールの優位性は、随所に見受けられるよな。
数学、Excelの表、ダイヤグラム(図式)、絵画、彫刻、Webサイト、プログラミング言語で構築されたシステム、これらも、パロールよりもエクリチュール(書かれた言語)の領野に属しているだろうし。
刑事ドラマで出てくるダイイング・メッセージとかな。エクリチュールは真実を示す物的証拠になる。
DNA(デオキシリボ核酸:deoxyribonucleic acid)もそうかもしれない。四つの塩基のアレンジメント(組み合わせ/配列)から出来ているというし。

Dr.ハインリッヒという芸人が、「パロール」という哲学的概念を出してたから、パロールエクリチュールの違い、エクリチュールの優位性について述べたんだ。


日本人だとデリダ研究と言えば東浩紀が有名だ。
この人の主著である「存在論的、郵便的」は読もうと思ったけど、まだ読めていないので、調べた。

amaikahlua.hatenablog.com幾何学の唯一性は歴史の唯一性と純粋性によって保証されている。しかしデリダは、「非コミュニケーションと誤解は文化と言語の地平そのものではないだろうか」と提起する。たとえ幾何学の定理でも、文書によって伝えられるものならば、その伝達は必然的に純粋なものではありえない。エクリチュールは発信者の支配から逃れ、メッセージは歪められうるからだ。エクリチュールおよびコミュニケーションの失敗可能性という前期デリダのテーマは、歴史の単数性を批判し、歴史の複数性を思考するためのものとして捉え直すことができる。

エクリチュールは伝達の失敗可能性、伝達不可能性がある。
そうだ、デリダの「エクリチュールと差異」とかは、そういう話だった気がする。

ひとつの 「テクスト」というのは、これ以後もはやエクリチュールの仕上げられた集合体、一冊の本やその余白のうちに何らかの内容を封じ込めたものではない。そうではなくて示差的〔差異的〕なネットワーク、それ自身とは別の何かを際限なく、それ自身とは別の何かに、他の示差的な痕跡に際限なく言及する、さまざまな痕跡からなる織物なのである。かくしてテクストは、それへと付与された一切の限界をはるかに超過する (無差別な均質性のうちに、それら〔限界〕を沈めたり、溺れさせたりするのではなく、むしろそれらをより複雑にし、その線と線を刻み付ける身振りとを分割し多重化させる) - すべての限界を、エクリチュールとの対立のうちにおかれているありとあらゆるものを(発話、生命、世界、現実、歴史、そして、その他の言及のすべての領域――身体や精神、意識や無意識、政治、経済、その他諸々)。(1986a:127-8)

(「ジャック・デリダ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ ニコラス・ロイル ]」p128)

「1986a」ってのは、このテクストを指す。

tetsugaku.tripod.comParages, Galilée, 1986.(「境界を生きる」の英語からの部分訳、大橋洋一訳、『ユリイカ』、1986年4月号。「ジャンルの掟」野崎次郎訳、W.J.T.ミッチェル編『物語について』平凡社、1987年。「Pas」)
はじめてのまとまったブランショ論。数少ないブランショ論のなかでも(?)トップレベル。

ブランショは「モーリス・ブランショ」らしい。

「白日の狂気」を読みたいが、アマゾンで6000円のプレミアム価格だったな。定価の3倍。高いよ。文庫になってくれないか。

www.asahipress.comあらゆるブランショの作品と同様、このテクストもまた、人間の存在の閉塞の寓話であり、死の苦悶が限りなく続く人間存在の絞〇である。<白日の狂気>――昼=理性の狂気とは、白日の光として欲望された狂気と、それを求める眼を傷つける白目の光の無限の反復である。ギリシアからヨーロッパへと到来した光それ自体の錯乱の物語り。「『白日の狂気』についての試論」「詩人のまなざし」(レヴィナス)、「われらの密かな同伴者」(ブランショ)併録。

話が逸れそうなので戻すと、デリダが言う「それへと付与された一切の限界をはるかに超過する」という箇所は、デリダの概念である「散種」(dissemination、意味が一義的に解釈、決定できない拡散状態にいる)を思い出す。


また、意味が決定できないがゆえに、精神分析では"現実界"等の「超越論的シニフィアンシニフィエなきシニフィアン」が用いられてる。

kagurakanon.netまず「形而上学的思考」によれば、全てのシニフィアンはそれぞれ対応するシニフィエに回付され、こうしたシニフィアンの循環運動は最終的には「超越論的シニフィエ」によって担保される事になります。エトムント・フッサール現象学バートランド・ラッセルの記述理論、アンナ・フロイトの自我心理学などは、こうした形而上学的思考の典型例とされます。

けれども数々の精神分析の症例が示すように、もちろん世の中はそんなにうまく出来ていない。真理、理想、正義、希望。こうした言語を超えた「過剰な何か」に奇妙なほどに魅入られてしまうのが人という生き物です。

これに対して「否定神学的思考」によれば、シニフィアンの循環運動は不完全であり、最終的には「超越論的シニフィアンシニフィエなきシニフィアン」によって担保されることになります。こうしたシニフィアンの循環運動の不可能性として「現実界」を想定するラカン精神分析否定神学的思考の典型例と言えるでしょう。

すなわち、ラカンがいう「手紙は常に宛先に届く」とは「全てのシニフィアンは常に唯一のシニフィエなきシニフィアンへ回付される」という事です。

そうなんだ。デリダラカンの"現実界"などの概念を、超越論的シニフィアンとして否定したのか。

このブログの著者はかがみ(@kagurakanon)さんという方だが。

twitter.comこの方によると、「オブジェクトレベルでシステムを解体したと見せかけて、メタレベルで再びシステムの全体性が回帰することになります。」とのことだ。

確かに"現実界"というエクリチュールも、結局はクラインの壺のように「現実以上の何か」を意味するシニフィエとして、ジジェクにも映画を語る時に利用されているしな。
そのジジェクの映画論を引用した記事、前に書いてた。

gyakutorajiro.comその超越論的シニフィアンを疑義にかけるデリダ脱構築を「郵便的脱構築」として、前期デリダ脱構築を「ゲーデル脱構築」として、その違いを明らかにした東浩紀は評価されたらしい。

gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp下記の記事を読むと、二つの脱構築の違いがよくわかる。

kagurakanon.sakura.ne.jpこれに対して否定神学的システムにおいては、シニフィアンの循環運動の完全性を不可能にする「穴」を発見する。しかしこの「穴」は「シニフィエなきシニフィアン」という超越論的シニフィアンで名指され、全てのシニフィアンの運動はこの超越論的シニフィアンに回収される。ここでオブジェクトレベルとメタレベルは短絡される。この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となる。

こうした否定神学システムを整備したのがハイデガー存在論であり、これをより洗練させたのがラカン精神分析ということになる。すなわち、ラカンがいう「手紙は常に宛先に届く」とは「全てのシニフィアンは常に唯一のシニフィエなきシニフィアンへ回付される」という事である。

否定神学システムは形而上学システムでは説明できない世界の「限界」や「過剰」を巧妙に説明してくれる。しかし同時に否定神学システムは世界の「限界」や「過剰」を単数的な超越性へと回収してしまう。ここに複数的な超越性の「可能性の束=幽霊」を導入するのがデリダの郵便空間システムである。

すなわちデリダのいう「手紙は宛先に届かないかもしれない」とは「全てのシニフィアンは想定外のシニフィアンに誤配されるかもしれない」ということである。手紙は宛先に届かない〈かもしれない〉。仮にそれが正しい宛先に届いた時だって、別の宛先に届いた〈かもしれない〉。こうした「可能性の束=幽霊」が常に郵便空間には内在しているのである。

その東浩紀が最近、炎上していた。

amamako.hateblo.jp三浦瑠璃、石戸諭とともに福島瑞穂の発言を歪曲し、自民党統一教会との関係性を語るのを止めるような態度を示したそうだ。

live.nicovideo.jpこのニュースを見聞きした際、俺は「なんだ、立派な知識人の人じゃなかったのかい」「自民党というステークホルダーのために、学者の本分である真実への探求心を放棄したのか?」と、失望していた。「東浩紀」という記号は散種した。

ジャック・デリダの意志はどこへいった、受け継いでねえのかと。超越論的シニフィエを疑義にかける存在論脱構築を乗り越えた郵便的脱構築によって、自民党などあらゆる一義的な存在、あらゆる超越論的シニフィアンから逃れ続ける可能性の幽霊を展開するのが、東浩紀の魅力じゃなかったのかい?

いや、むしろ郵便的脱構築を行っているのか?
山上容疑者ははっきりと動機を述べているのに、「統一教会自民党の関係」を、郵便的脱構築によって、有耶無耶に、意味の決定を遅延させる。

だけどそんなのは郵便的脱構築ではないはずだ。郵便的脱構築への意志があるのであれば、三浦瑠璃が言う「容疑者の妄想に加担してはいけない」にある"妄想"という、超越論的シニフィエによって事件が回収される事態も脱構築しないといけない。
あらゆる超越論的シニフィアンを疑義にかけてない。
やはり東浩紀は郵便的脱構築を行えていないようだ。

翻って、昨日だよ。
ミヤネ屋で、野村修也が出ていた。
野村修也は、俺にとってはいつもの感じではなかった。

有田芳生「旧統一教会関係者が議員事務所でロビー活動しているのを目撃した」
野村修也「ロビー運動は色々な団体で行っている。弁護士会だって!」

俺が抱いていた、弁護士ではあるが、時事問題を語る時は、弁護士でも検察官でもなく、裁判官のような中立性と事実のみに即して意見を語る理知的な印象が失われていた。
「どうしたんだ?」と、東浩紀の時と、同じような印象を抱いた。
実際、他の人のツイートを調べてみると、やはりそうだ。

「精神鑑定」とかいう極端なワードを出すような人だったのか。

コロナ渦でサラリーマンをしている際、リモートワーク中に仕事をサボる際の肴が、ミヤネ屋の放送だった。
その際、野村修也の言動のキレ、それは、何の違和感もなかった。

右や左といった政治性に偏ることなく、事実に即して忠実に問題を語る理知的な印象があった。
かたや、昨日の7月19日の放送はどうだ。

明らかに、何かへの配慮が伺える。そして俺は初めて、野村修也のプロフィールを調べた。

ja.wikipedia.orgすると、腑に落ちた。
民主党政権の下でも、2011年には、行政刷新会議における独立行政法人改革のWGに参加」とあるが、自民党政権時代での仕事の方が圧倒的に多い。

まあそれは、実際に2010年代は第2次安倍内閣~第4次安倍内閣が長く続いたから、当たり前といえばそうなんだけど。

つまりステークホルダーへ配慮した、自民党からの仕事に勤しんでいた過去、もしくはこれから仕事をいただく可能性が高い自民党側のポジションに根差した意見になっている。まさにポジショントークだ。
ステークホルダーの欲望の転移に侵されることなく、裁判官のような中立的ポジションとして語ることこそが、学者や知識人のあるべき矜持ではないのだろうか。

三浦瑠璃は明らかにいつもそうだから、違和感はなかったけど。
東浩紀は違和感があった。
野村修也は、もっとだ。
そんな人だったのかと。

学者や知識人は、ステークホルダーイデオロギーに捉われず、政治的中立性や事実に基づいて議論を重なる理知的な存在ではないんだと、改めて思い知らされた。非常にがっかりした出来事だった。

それは最初の話に戻る。
まるで朝、上司や家族やステークホルダーや世間といった、他者の欲望によって会社に向かうサラリーマンのようだ。

そんな野村修也を見て「他者の欲望の影響」を、垣間見たんだが。

「自分ではなく他人が自分の言動や身体を支配しているような感覚」も、思い出した。

長くなったからその感覚については、また次に話すかな。