逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

ジル・ドゥルーズ「差異と反復」における縮約と受動的総合によって子どもは「かめはめ波」を学習する

定期的に情報が入ってくるね、若い女性店員に接近するキモいオッサン、ウザいジジイ。

b.hatena.ne.jp孤独なソロである俺も、いずれこうなってしまうのだろうか。
ならないように気を付けたいが、オッサンがこういう行動を取ってしまうのにも理由がある。
それは「客と店員」という関係性だ。

オッサンは日常生活で女性への接近行動を行うがうまくいかない。
失敗の記憶は堆積し、なおも接近を行う反復活動にてある事実を見出す。
それは店員と客という関係性であれば必ず返答をしてくれること。
ドゥルーズは人間のこの無意識的な差異の掬い上げを縮約と呼び、縮約による学習を受動的総合と呼んだ

このつぶやきで説明したように、オッサンは学習したんだ。
「店員ならば、無下に扱われない」という事実を把握した。

ジル・ドゥルーズは、その把握を「受動的総合」と呼んだ。

このオッサンの悟り(女性店員ならば相手にしてくれる)に至るまでの心理プロセスは、ジル・ドゥルーズの概念を用いると、かなり詳細に辿ることができる。

というわけでドゥルーズ的オッサンの心理学によって、その内面に迫っていこう。

まず、ドゥルーズの哲学は、自らの思想を「超越論的経験論」というように、抽象的観念等に依拠することなく、物理的経験に重きを置く。
単純に言えば経験論、唯物論だな。

以下のデカルトに関する一節は、ドゥルーズ哲学の特徴をよく示してる。

主体がどのように「超越性の平面」として構築されるのかを説明するために、ドゥルーズは、哲学概念形成の一例としてコギトの形成を説明している。

コギトはラテン語で「私は考える」を意味する。デカルトは、我々は何を疑おうとも、少なくとも思考していることには間違いないのだから、思考こそは究極の基礎の役割を果たしうると論じていた。このことは、経験というものが存在しているということ、それら経験が、思考する者に対して与えられているということを前提している。

そこでは、「私が考える」が経験の群れの中で単なる一つの効果に過ぎないという可能性は考えられていない。

最初にドゥルーズが指摘するのは、コギトのような概念は常に一つの問題への応答であるということである。それ故彼は常に、概念というものは究極的な基礎ではありえないのだと言っていたのだ。

概念は、生の能動的な流れの一部として起こる。例えばコギトの概念は、「私は何を確実に知ることができるのか?」という問題への応答として形成されたものである。そしてドゥルーズが論じるところによれば、この問題は、いくつかの関係を配置している。

「私は何を知りうるか?」という問いで事を始める際、私は既に、自分がこれから知ろうとしている世界から、「私」を差異化してしまっている。

私が世界と関係している仕方は知識や判断と同類のものにすぎないということ、世界は表象されるべく存在している様々な可能的事実の集合としてあるのだということ、疑いを抱く「私」は世界を超えて、世界に対して置かれており、経験を行うありうべき自己を表象しているということ、私は以上のことすべてを前提してしまっているのである。

(引用元:ジル・ドゥルーズ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ クレア・コールブルック ]p147)

本題に入るか。
まず、1枚の絵がある。

完全に一人だと思ってたから
…全力で練習できるかなと思って…
(画像引用元:銀魂 モノクロ版 20 [ 空知英秋 ]

これは漫画「銀魂」20巻で、主人公の銀さん(坂田銀時)が無人島にて「誰もいないだろう」と判断し、かめはめ波の練習をしている際、他の人に見つかり、羞恥心を覚えるシーンだ。

人間はドラゴンボールサイヤ人のように、かめはめ波を出すことはできない。
しかし、子どもの時はどうだっただろうか。

「か・め・は・め・波~!」など、出るわけないのに、やったことがある経験はあるだろう。
セーラームーン「ムーンティアラ~アクション!」でもいい。

つまり子どもはまだ、現実と虚構の境界や認識把握が未分化のため、テレビや漫画で流れていた必殺技などを、実際にやってみようと試みる。
最近だと、探偵ナイトスクープの「スパイダーマンになりたい4歳児」のように、スパイダーマンに同一化しようと奮闘するし。

tsubuchan.blog.jp幼児や小学生だけでなく「中二病」もある。
BUMP OF CHICKENの「乗車権」という曲を聴いて陶酔したり。

PSYREN-サイレン-」という漫画にある「暴王の月」(メルゼル・ドア)に憧れたりな。

www.tirashinouraomote.comBLEACHとか漫画に出てくる「詠唱」がカッコよくて、真似してみようとしたりね。

anond.hatelabo.jpこのような必殺技や特殊能力は、平凡な日常を一新してくれるような魅惑があり、欲望の対象となるゆえ、誰もが一度は実現を試みる。

そう、この話をしたのは、わけがある。

それは女性店員に絡むという行為も、オッサンやジジイにとっての「必殺技だから」なんだよ。

まず、その必殺技について説明する前に、遠回りだが子どもが「かめはめ波」を出す過程について説明するか。

オッサンやジジイも昔は子どもだった。
ヒーローに憧れて必殺技の1つや2つ、出そうとしたこともあるだろうよ。

まず、この必殺技を出そうとする行為の前段階、必殺技等の、目の前の対象を認識して差異を掬い上げる人間の無意識的な営みを、ジル・ドゥルーズは「縮約」(contraction)と呼んだ。

習慣は、反復から、何か新しいもの、すなわち(最初は一般性として定立される)差異を抜き取る。習慣は、その本質においてcontraction[コントラクテすること]である。習慣をつける(コントラクテ)という〔慣用的な〕言葉遣いがなされたり、ハビトゥス〔習性〕を構成しうる目的語とだけ 「contracter」(コントラクテ)という動詞が用いられたりする場合に、そうしたことがよく示されている。

だが、心臓は、拡張するときはもとより、収縮する(コントラクテ)ときにも、習慣をもっていない(あるいは習慣ではない)、という反論があるだろう。けれども、そのような反論があるのは、まったく異なった二つの種類のコントラクシオン(contraction)を混同しているからである。

まず、コントラクシオン〔収縮〕は、二つの作用的な諸要素の一方、すなわち、<チックタック・・・>というタイプのセリーにおける対立した二つの拍子の一方〔チック〕を指しており、他方の要素〔タック〕は、弛緩あるいは拡張になっている。しかしさらに、コントラクシオン〔縮約〕は、或る観照的な心における継起的なもろもろ<チックタック>の融合をも指している。

そのような融合が受動的総合なのであって、これは、生きるというわたしたちの習慣を、すなわち、「それ」が続いてゆくというわたしたちの期待を、あるいは、二つの要素の一方が他方に続いて生じるというわたしたちの期待を構成し、そのようにして、わたしたちの事例の永続を保障するものである。

したがって、わたしたちが習慣とはコントラクシオンであると語るとき、わたしたちが言わんとしているのは、反復の要素を形成するためにひとつの瞬間的作用〔弛緩〕と組み合わせになるもうひとつの主観的作用〔収縮〕のことではなく、観照する精神におけるそのような反復の融合のことなのである。

(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

セリーってのは、このサイトの説明が詳しいな。

sets.cocolog-nifty.com【セリー】sériesはフランス語で「級数」「系列」「シリーズ」の意。世界をある連続的な順序をもつ対象として捉えたときの系列のことである。
ここでもやはり「同一性」や「類似」を根拠としないのだから、無根拠に適当にでたらめに「そこに何らかのセリー(系列)がある」としてみることだけしか(論理的には)できないはずではないか。時間の系列、空間的な系列、色彩の見え方の系列、聞こえの系列、言語的な意味の系列、私という意識体の経験の系列、そのようなちゃんと意味づけられるもだけでなく、何の意味もない出鱈目な系列まで含めて、あらゆるセリーをすべてセリーとして生じさせることになりそうだ。ただし、我々は現実に生きてある主体なのだから、生物としての習慣(ハビトゥス)によって受動的に世界との関わり合いの仕方に幾ばくかの形式が現実的に生じてしまう、という側面もある。だから実際、現実世界ではそれによって、その「差異」と「セリー」は何でもありというわけではなく、ある程度拘束された世界の捉え方を強いられることになるであろう。それによって世界を順序づけたり形式づけたりされ、「差異」はそのセリーの内部で意味をもつことができるようになる、ということになる。

判りやすく言えば、セリーは「現象や出来事がもたらす差異が、縮約とその反復によって融合し、特定の性質を持つグループとして区切ることができる秩序」みたいな意味だ。
ガラケーを使っていた時によく言われてた「パケット」(packet)も、大きなデータの塊を、ある秩序(容量など)に基づいて区切るという点で、意味としては近い気もする。

「チック」「タック」単体では、何を意味するかわからない場合もあるが、「チックタック」と聞くと「時計のセリーだな」と把握することができる。

また、ドゥルーズは縮約を説明する際、時計の音を例に出しているが、「収縮」とは違うと述べている。

収縮は、二つの拍子、「チック」「タック」の一方であり。
縮約は、その両方であり、「チックタック」だと。

そして縮約には「観照する精神」があると述べている。

快感とは、〔おのれをイマージュで〕満たす一つの観照によってもたらされる感動であり、この観照それ自身のうちに、弛緩と縮約(コントラクシオン)の事例が縮約され(コントラクテ)ている限りにおいて、ひとつの原則[原理]である。

受動的総合という至福が存在するのだ。
わたしたちは、自分自身とはまったく別のものを観照するにせよ、とにかく観照を遂行することで快感を覚え(自己満足)、そしてこの快感ゆえにこそわたしたちはみな、ナルシスなのである。

観照の対象から引き出す快感のゆえにわたしたちはナルシスであるにせよ、わたしたちが観照するその対象からすれば、わたしたちはつねにアクタイオンなのである。

観照すること、それは抜き取ることである。おのれを自己自身のイマージュで満たすために、まずはじめに観照しなければならないのは、つねに自己とは別のもの、すなわち、水、ディアナ、あるいは森である。

(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

ディアナってのは、「ディアーナの水浴」のことらしい。

recrits.hatenablog.com観照は抜きとること、「対象の差異および差異に付随する魅力などを縮約によって把握する」みたいな感じだ。


いわゆる物理的な時計が出す「チック」「タック」という音の差異から、人間は無意識的に縮約(差異の把握)を行う。
それは物質、物質がもたらす現象や出来事が先行して存在し、そこから人間がイメージや、現象の法則や秩序(セリー)を見出していると。
決して、デカルト的なコギト(私)という、主体的な自我が先行してあるわけではないという話にもつながるな。

「チック」「タック」という収縮、現象から、縮約によって差異を抜きとり、縮約の反復によって「このチックタックという音は一定の時間間隔で響き続けるだろう」という受動的総合を行う。

ドゥルーズはこのように、観照を行う人間は縮約を行っており、その人間の自我を「縮約による受動的総合の世界」とした。

自我はみな、幼生の主体であり、もろもろの受動的総合の世界は、一定の規定さるべき条件のもとで、自我のシステムを、ただし崩潰した自我のシステムを構成しているのである。

秘めやかな観照がどこかで打ち立てられるや、あるいは反復から、またたく間にひとつの差異[何か新しいもの]を抜き取りうる縮約機械がどこかで作動するや、自我というものが存在するのである。

自我は、様々な変容をもっているのではなく、それ自体がひとつの変容なのである。この変容(モディフィカシオン)という言葉は、まさしく抜き取られた差異を指示している。結局のところ、ひとは、おのれがもつものであるにすぎず、この場合に存在が形成されるのは、あるいは受動的な自我があるのは、まさに<もつ>ということによってである。

どのような縮約も、推定であり要求である。言い換えるなら、どのような縮約も、おのれが縮約するものに基づいて、期待あるいは権利を表明するのであって、おのれの対象がおのれから逃げるやすぐに壊れてしまうのである。

(引用元:差異と反復 [ ジル・ドゥルーズ ] 第二章 それ自身へ向かう反復)

差異を抜き取る縮約と、その縮約の反復、反復の融合によって、自我が形成される。「変容」という言葉を使うのは、ドゥルーズは常に自我は一定ではないと考えているからだろうな。

確かに、昨日の自分の自我と、今日の自分の自我は、何か大きな出来事、すなわち差異の発生、抜きとられた差異の反復によって、変化しているかもしれないし。

「昨日から今日」というセリーではなくて、「10秒間」のセリーにおいても、その10秒間でタンスの角に足をぶつけた場合、「何でここにタンスがあるんだよ!」と、さっきまで安定していた自我だったのに。
タンスとの衝突という縮約、痛覚刺激の発生と縮約、その縮約の性質を捉える観照、およびそれら一連の縮約(抜きとられた差異)の反復によって、「タンスに足をぶつけた」という、タンスを憎む怒りの感情が受動的に発生し、自我を変容させている。

ドゥルーズのこの経験論は、1つの物質や現象や出来事から、それを認識する人間との関係性と内面を、理性や精神といった抽象的な観念や概念を前提にしてしまうことを回避し、かなり緻密に迫ろうとしている。

この人間の無意識的作用の分析は、フロイトラカンとは異なった真実味があるだろうよ。

必殺技の例に戻ろう。

かめはめ波を出す時、子どもは悟空の動きを真似する。

・おにぎりを握るように両手を合わせる
・腰を回すとともに肘を後方に持っていく
・「か~め~は~め~」と叫ぶ
・「波~」という叫びとともに、手と手首の境目(手根骨)を合わせたまま両手を広げ、前方に突き出す

このように必殺技、一連の動作の記憶は「両手を合わせる」「腰を回す」「肘を後方に」「両手を前に出す」「叫ぶ」というセリー(動作)で構成されており、それらの対象から差異を抜き取る縮約と観照、および縮約の反復、反復の融合という受動的総合によって、子どもは「かめはめ波」の存在を把握する。

さて、では実際に「かめはめ波」の存在を把握した子どもが、実際にかめはめ波を自分で出すときは、どのような意識のプロセスを経て行っているのか。

そしてオッサンにとっての「かめはめ波」、性的対象を得るための必殺技「女性店員への声掛け」については、また別の機会で話すか。