昨日は、女性店員に接近するオッサンやジジイの心理学をする予定だったが。
まず、そのオッサンやジジイが子どもの時、「かめはめ波」を例に、ジル・ドゥルーズの「差異と反復」を頼りに、必殺技をどのようにして認識するかを分析した。
なぜなら、子どもにとっての「かめはめ波」は、必殺技であり。
オッサンやジジイにとっての、欲望の対象である女性を獲得する手段としての「女性店員への接近」もまた、必殺技だからだ。
そのため、まず一般的な「かめはめ波」等の必殺技を出すプロセスについて分析した後、オッサンやジジイの必殺技の分析に入ることにする。
昨日の話だと、まず子どもは、ドラゴンボールを視聴した際、悟空などが行う身体の動作から、縮約(差異の抜きとり)を行う。
縮約の際に観照(抜きとられた差異および差異に付随する特徴などの把握)も行われ、その繰り返し、その反復が融合することを「受動的総合」といい、それによって「かめはめ波」の一連の動作、「かめはめ派」というセリー(秩序)を子どもは理解する。
自我はこれら一連の反復によって形成されていき、自我は「縮約による受動的総合の世界」であり、常に変容するものであると。
このようにドゥルーズは、人間を説明する際に、プラトンの「イデア」、カントによる「理論理性」「実践理性」、ヘーゲルによる「絶対精神」等の形而上的概念には、言及はするものの、それへの依拠を避ける。
ドゥルーズに近い立場にいる同時代の哲学者、ドゥルーズの哲学的研究の主題の一つともなっているミシェル・フーコー(1928-84)は、西洋思想の伝統からの脱出を試み、この伝統を「超越性への従属」として描き出した(『知の考古学』)。
超越性(これは超越論的なものとは全く異なるものだ)とは、超越するものないし外側に横たわっているもののことだ。フーコーによれば、我々の思考と制度は、常に何らかの「外部性」に寄りかかっていた。たとえば、我々が知っている、明らかにしている、解釈していると感じている何か、そして、我々に一つの基礎を与えている何かのことだ。
フーコーはここから「知の倫理」が結論されると論じた。
この倫理にもとづいて我々は、外界についての様々な事実を手に入れることができれば、何をするべきか分かると考える。フーコーに関する書物でも、哲学に関する初期の仕事でも、精神分析学者であるガタリとの最後の共著でも、ドゥルーズは超越を超える道筋を示した。
「知の倫理」において我々は何らかの究極的な真理に服従しているわけだが、そのような「知の倫理」としての超越性とは対照的に、ドゥルーズは彼自身の哲学を、運命愛〔amor fati〕の倫理として、すなわち存在するものへの愛として(そして、存在するものを超え、その外側に位置し、それを超越するような何らかの真理や正当化や基礎の探求ではないものとして)自らの哲学を描写している(『意味の論理学』149頁〔原著175頁、邦訳188頁〕)。
(引用元:ジル・ドゥルーズ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ クレア・コールブルック ]p143)
料理研究家の土井善晴が言ってることと、ドゥルーズの哲学は、近いものがあるかもね。
①#超覚寺
— 林鶯山 憶西院 超覺寺 (@chokakuji) March 19, 2022
②#広島県 #広島市 #中区八丁堀
③2022年3月20日掲示
④どこもかしこも
仏さまの守備範囲🙏#仏教#南無阿弥陀仏#親鸞聖人#浄土真宗#真宗大谷派#伝道掲示板#お寺の掲示板#お彼岸#土井善晴 師 pic.twitter.com/7mEd9cRi6K料理でも何でも新しいことをやろうとしたら。
今、自分がイデオロギーの中にいることを自覚しないと。
何か新しいこと、まだ誰もしていないことをしようと思ったら、秩序の外に出ないといけないでしょう。
つまり「とらわれない」ということですけど、外に出ると、もっと大きな秩序の中にいることがわかるんです。
そのようなドゥルーズゆえ、人間存在、いわゆる「主体」や「自我」を分析する際も、超越性に捉われないように、超越性を否定しつつ、その本質に近付こうとする。
その上で、ドゥルーズは人間を分析する際に「時間」を導入した。
意識の流れ、時間の経過に伴う影響を、人間は免れることができないからな。
大別すると、ドゥルーズは3つの時間を提示している。
・受動的総合という時間の第一の総合(抜きとられた差異が現在に集約する時間の土台)
・記憶という時間の第二の総合(現在と過ぎ去った時間を調整する時間の根拠)
・人間を支配する時間の第三の総合
それぞれ、説明していこう。
今日は引用が多いので、あらかじめ引用する本と、その箇所を提示しておく。
ジル・ドゥルーズ「差異と反復」における「第二章 それ自身へ向かう反復」だ。
受動的総合という時間の第一の総合(抜きとられた差異が現在に集約する時間の土台)
「時間の第一の総合」については、先日も説明した。
「対象から差異を抜き取る縮約と観照、および縮約の反復、反復の融合による受動的総合」のことだ。
ヒュームは、互いに独立した同じ諸事例あるいは似ている諸事例は、想像力の中で融合される、と説明している。この場合、想像力はひとつの縮約の能力として、言わば感光版として定義される。
想像力は、新しいものが現れてきても、以前のものを保持している。想像力は、諸事例や、諸要素や、もろもろの振動や、いくつもの均質な瞬間を縮約し、それらを融合して、或る種の重みをもった内的な質的印象をつくるのである。〈A〉が現れると、わたしたちは、縮約されたすべての〈AB〉の質的印象に応じた力で、Bを期待するのである。こうした縮約は、絶対に、記憶ではないし、また知性の働きではない。つまりこの縮約は、反省ではないのだ。
この縮約は、厳密に言えば、時間の総合を形成するものである。瞬間の継起は、時間をつくりあげはしない。それどころか、時間を壊してしまう。瞬間の継起は、時間が生まれようとしてはつねに流産してしまう点を示しているだけである。時間は、瞬間の反復に関わる根源的総合のうちでしか、構成されない。
根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間を累積的に縮約していくのである。
根源的総合は、生きられた〔体験された〕現在を、あるいは生ける現在を構成する。そして時間が展開されるのは、まさにその現在においてである。
過去も未来も、まさしくその現在に属している。
すなわち、過去は、先行する諸瞬間がそうした縮約のなかで把持されるかぎりにおいて、現在に属し、未来は、期待がその同じ縮約のなかで先取りを遂行するがゆえに、現在に属しているのである。
現在というのは、時間ではなくて、諸瞬間の差異を抜きとる縮約が累積して構成された根源的総合なのだと。
過去と未来は、現在から派生しているとドゥルーズは述べる。
「か~め~は~め~」という〈A〉が現れると、その後に「波~」という叫びが来る〈B〉を期待する。
ここで疑問なのは、「かめはめ波を知らない子どもは、〈B〉の『波~』を期待できるのか?それはかめはめ波についての記憶がなければ想起しないのでは?」という疑問が湧く。
「かめはめ波を知らない」という個別的な状態から。
「かめはめ波を知っている」という一般的な状態に進むプロセスにおいて、生ける現在はどのように変容していくのか。
ドゥルーズは、縮約および縮約の反復、反復の融合である受動的総合に、個別的状態から一般的状態への変容を見出す。
こうした現在は、過去から未来へ進むために、おのれ自身から抜け出る必要はない。したがって生ける現在は、おのれが時間において構成する過去から未来へ、それゆえにまさしく、個別的なものから、一般的なものに進むのである。
換言すれば、生ける現在が縮約のなかに包み込んでいるもろもろの個別的なものから、その同じ現在がおのれの期待という場のなかで展開する一般的なものへ進むのである(精神のなかに産み出された差異〔変化、新しいもの〕は、未来に関する生ける規則を形成するかぎりにおいて、一般性そのものである)。
こうした総合は、どこから見ても、受動的総合と名付けるほかはないもののである。
「かめはめ波」を見たことがない子どもも、現在における縮約、縮約の反復、時間の第一の総合である受動的総合を経ることで、規則を形成し、一般的に認知されているかめはめ波へと、進めるだろうか?
その問いに対する答えは、ドゥルーズの「時間の第二の総合」も把握することで、見出せる可能性がある。
記憶という時間の第二の総合
「時間の第二の総合」に関する分析において、ドゥルーズは「記憶とは何か?」について語っている。
しかし「時間の第二の総合」の箇所を読むと、前半では「時間の第一の総合」の説明がされている。
時間の第二の総合――純粋過去
時間の第一の総合は、根源的なものであるにもかかわらず、時間内部的なものである。この第一の総合は、時間を現在として、だが過ぎ去る現在として構成する。
時間が現在の外に出るということではない。むしろ、互いに少しずつ折り重なり合った跳躍を通じて、現在が絶えず動くということである。
そこに、現在というもののパラドックスがある。
すなわち時間を構成するのではあるが、しかしこの構成された時間のなかで過ぎ去る、という事態である。わたしたちは、つぎのような必然的な帰結を忌避してはならない――時間の第一の総合がそのなかで遂行されるような或る別の時間がなければならないということ。
時間の第一の総合は、必然的に、第二の総合を指し示すということである。
なるほど、時間の第二の総合は、第一の総合と表裏一体だと。
わたしたちは、縮約の有限性を強調したいからこそ、そうした帰結を指摘したのであって、なぜ現在が過ぎ去るのか、何が現在に時間と同じ広がりをもたせないのか、ということまで指摘したわけではまったくないのである。
第一の総合は、習慣に関するものであるが、それは確かに、時間の土台である。
しかしわたしたちは、土台(ファンダシオン)と根拠(フォンドマン)を区別しなければならない。
土台とは、土地に関することであり、何らかのものが、どのようにしてこの土地の上で打ち立てられ、この土地を占領し所有するのかを示している。
しかし根拠は、むしろ天からやって来るのであり、頂上からもろもろの土台に降りて来て、或る不動産登記証書によって土地と占有者を比べ合わせるのである。
習慣は時間の土台であり、過ぎ去る現在によって占領された動く土地である。
過ぎ去るということ、それはまさに現在の要求である。
現在を過ぎ去らせ、現在と習慣を調整するものは、時間の根拠として規定されなければならない。
時間の第一の総合は、時間の土台であり、第二の総合は、時間の根拠だと。
時間の根拠とは、まさしく〔本来的な〕《記憶》である。派生的な能動的総合であるかぎりでの〔普通の意味での派生的な〕記憶は、習慣の上で成立する、ということはすでに見たところである。
ここで注意しないといけないのは、ドゥルーズは「〔本来的な〕《記憶》」と、「〔普通の意味での派生的な〕記憶」を、区別していることだろうな。
「〔普通の意味での派生的な〕記憶」ってのは、対象のことを意識的に思い出すことだろう。
それをドゥルーズを能動的総合と呼んでいる。
このPVがわかりやすい。
曲に入る前に、BARで飲んでいるMONKEY MAJIKの2人は、岡崎体育との記憶を「思い出すなぁ、あの夜のこと」「人生最高の夜だったぜ」と、能動的総合によって呼び起こしてる。
では〔本来的な〕《記憶》とは何だろうか。
それはPVにおいてまさに、MONKEY MAJIKの2人と岡崎体育が、「踊って歌って演奏している瞬間」(3分45秒~)に、習慣の上に構築される縮約(差異の発生)と、その縮約の反復(差異の累積)がもたらす受動的総合のことだ。
つまり「時間の第一の総合」である縮約も、「時間の第二の総合」である記憶も、受動的総合なのだという話。
事実、一切は、〔習慣という〕土台の上で成立しているのである。しかし、記憶を構成するものは、土台によって与えられるわけではない。記憶が習慣の〈うえに〉打ち立てられるまさにその契機において、その記憶は、習慣とは異なる別の受動的総合に〈よって〉打ち立てられるのでなければならない。
だから習慣という受動的総合は、それ自体、〔本来的な〕記憶に属するいっそう深い受動的総合を指し示しているのである。
縮約の累積とその反復によって記憶を構成するのは「時間の第二の総合」ではあるが、第二の総合に至る前に、諸瞬間の縮約が存在しているという点で、「時間の第一の総合」も、〔本来的な〕記憶に属していると言える。
《ハビトゥス〔習性〕》、さらにムネモシュネ〔記憶の女神〕すなわち天(ウラノス)と地(ガイア)の婚姻。
《習慣》(アピデュード)とは、時間の根源的な〔第一の〕総合であって、これが過ぎ去る現在の生を構成するものである。
《記憶》(メモワール)とは、時間の根拠的な〔第二の〕総合であって、これが過去の存在を構成するもの(現在を過ぎ去らせるもの)である。
訳注に「ムネモシュネは、ウラノスとガイアから生まれた娘(ギリシア神話)。」とあった。
つまり、習慣と記憶はウラノスとガイアのように表裏一体であるということ。
そして、ウラノスとガイアが生んだムネモシュネのように、人間の習性や自我は、習慣と記憶が反復によって無意識下で融合すること(受動的総合)によって生まれる産物だと、ドゥルーズは言いたいんだろうな。
ここで、最初の疑問に戻るか。
「かめはめ波」を、子どもはどのように再現するのか?前知識なしでも再現できるのか?という話。
習慣という時間の土台、「時間の第一の総合」が先行しているがゆえに、それが時間の根拠である記憶になる地点、「時間の第二の総合」にまで至る時間の流れにおいて、第一の受動的総合の段階で、「波~」が次に来る未来を、予見できるだろうか。
例えば、レイザーラモンRGのネタ「あるある言いたい」において、初めてこのネタを見た時、「なかなか、あるある言わないよな」という、このネタのパターンは別に、把握してなかっただろう。
しかし「あるある言いたい」という〈A〉が現れると、その次に「あるあるが来る」という〈B〉は、決して、レイザーラモンRGについての、記憶や知識によって導きされたわけではない。
「あるあるが言われる」という未来を期待したのは、「あるある言いたい」というネタにおける現在の要求があったからであり、それはレイザーラモンRGに関する記憶や知識を根拠にしているわけではない。
確かに根源的には、日本語の知識を備えていないと、初見で「あるあるが来る」という期待はできなかったかもしれない。
ドゥルーズが「時間の第一の総合」において、縮約は記憶や知性の働きではないと言ったのは、「対象に関する記憶や知性」についてのことだろう。
例えば日本語、ドゥルーズが用いるフランス語等、言語を全く知らない人間を想定した話としては展開されていない。
あくまで、根源的総合によって差異を抜きとり、累積される際に「その差異を認識できる」という前提の上に立った話だろうな。
それゆえ、たとえドラゴンボールを見たことがない子ども、「かめはめ波」を知らない子どもにおいても。
諸瞬間の差異を抜きとる縮約、その縮約の反復によって累積していく根源的総合(受動的総合)によって現在を構成すれば、差異の堆積物という現在から、過去や未来を想像することはできるし、「かめはめ」の次に「波~」が来ることも、予知できるかもしれない。
ただ、というかこの問い自体、「できるか」「できないか」には還元できないような不可能性も、あるかもしれない。
大体、どうやって「かめはめ」という情報だけを、子どもに与えるんだって話だ。
そんで、「波~」って言うか言わないかなんて、検証できるだろうか?
必ず「かめはめ波」という一つのセリー(秩序)が、子どもに伝わり、「かめはめ」だけを伝えるのは、困難極まりない。
それゆえ、不毛な問いだったかもしれない。
そんな感じで、今日も子どもの必殺技、「かめはめ波」の話というか。
ドゥルーズの主体論・時間論みたいな話になったな。
「女性店員への接近」という必殺技の方の話はあまり進まなかったが、まあいいだろう。
「時間の第三の総合」の話も、今度だな。