この記事、少し伸びたな。
gyakutorajiro.com「暮らし」や「政治と経済」に近い内容だが、「テクノロジー」カテゴリに入ってた。
まあテクノロジーといえばそうかもしれないね。
文字通り「機械」が支配してるんだから、ドゥルーズ&ガタリ的にいえば。
そしてこれは隠喩ではない。
〈それ〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〈それ〉は呼吸し、過熱し、食べる。〈それ〉は排便し、愛撫する。〈それ〉と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。連結や接続をともなう様々な機械の機械がある。〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。
こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。
(アンチ・オイディプス 合本版 資本主義と分裂症[ ジル・ドゥルーズ ])
ドゥルーズ&ガタリの哲学は、「唯物論的精神医学」と自称するように、唯物論的であり、経験論だ。
ドゥルーズとガタリは、概念によって創造された順序を順序的なものと呼んでおり、概念が一つにまとめる情動を強度的なものと呼んでいる。概念は単に点にラベルを貼ったり、点をそれぞれつなぎ合わせているのではない。優先権や順序を創造し、抽象化された知にぴたりと適合する特権のような「強度の域」を創造している。
デカルトの概念は、表象可能なものとしての世界を疑い、それに判断を下し、そこへとアプローチする、そうした行為との親近性を表明している。概念は既にそこに存在している特徴を表にまとめるのではない(序列的で外延的なものにおいてはそういうことが行われる)。
そうではなくて、概念は、アプローチの特殊な線を創造し、欲望している(それが強度的で順序的なものである)。たとえば、「私はここにいる」とか、「私は何を知りうるのか?」とか、「これが私の疑問に思うところだ」とか、「思考するとは確実なことである」とか、そういったものを創造し、欲望している。
第三に、超越性ないし思考に対する外部が、このドラマを通じて生み出される。我々は、主体も客体もなく、内側も外側もなく、ただ「経験」が存在しているのだ、と言えるかもしれない。これが内在平面、すなわち、純粋な生の流れであり、知覚者なき知覚である。
ドゥルーズは内在平面に言及している。これは仮定としておかれたフィールドであり、それを通じて内部(心や主体)と外部(世界や確実性)が引き出されることになる。主体が形成されるのは経験からである。まず知覚があって、その知覚から知覚者が形成されるのだ。この知覚者はその上で、何らかの外部や超越的世界と関係をもった「私」として自らのイメージを形成できる。
いかなる真理も超越性も、経験のためのいかなる基礎も基盤も、常に経験という一つの出来事である。我々はまず最初に主体として始まり、その上でその主体が世界を知るのではない。まず経験があり、その経験から、我々は、他から区別されたものとしての自分自身のイメージを形成する。ということは、心の主体よりも前に、ドゥルーズが「幼生の主体」と呼ぶものがある。(『差異と反復』原著一五五頁、邦訳一八六頁)。つまり、一つの自己とまだ組織化されていない知覚と予期の多様性があるのだ。外部や「超越的」世界の概念は、この内在性から生み出される。主体によって生み出されるのではなくて、受動的に実現されるのだ。
(引用元:ジル・ドゥルーズ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ クレア・コールブルック ]p148-149)
ドゥルーズはヒュームの本も出しているので、イギリス経験論等の過去の経験論にも影響を受けているだろうと思われる。
ドゥルーズ&ガタリがいうように、自分の意志や主体性や価値観等が、実は受動的に決められたものだと考えたことはないだろうか?
たとえば我々は音楽を欲望し、音楽を聴く。
実はそれさえも、人民の自我を変容する力を持つことを、ドゥルーズ&ガタリは説く。
音楽は太鼓やラッパを鳴らしながら人民や軍隊を破壊の淵への旅路に駆りあってる。これは軍旗や国旗の力能をはるかに超えている。
軍旗や国旗は絵であり、分類や結集の手段にすぎないのだ。音楽家個人は画家よりも反動的で、はるかに宗教的で、「社会性」の度合いは低いかもしれない。
しかし、音楽家が絵画の力をはるかに上まわる集団的な力をあやつることに変わりはないのだ。
「一致団結した人民の合唱とは、まったくもって強い絆である……。」
このような力は、音楽の発信と受信にかかわる物質的条件によって、好きなように説明できるかもしれない。
しかし逆に考えたほうがいいのだ。
つまり物質的条件のほうが、音楽のもつ脱領土化の力によって説明されると考えるべきなのだ。
突然変異の抽象機械から見て、絵画機械と音楽機械が同じ指標をもつとも思えない。
画家としては最も音楽家肌のクレーが認めているように、絵画は音楽に「後れ」をとっている(76)。
(76)Cf.Lucien Mussset,Introduction a la runologie,Aubier.
(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] 10 一七三〇年――強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……)
そのため、なぜ労働者が連帯やストライキを起こさないか、このような音楽機械の作用も関係していない、とは言えない。
もちろん直接的には、下記のメロンダウトさんの記事にあったように、正社員制度の解体と派遣労働法の伸長も大きい影響としてあるだろうけど。
plagmaticjam.hatenablog.comアトム化した個人はどこからきたのかというと、結論から言えば正規雇用と非正規雇用の溝からではないだろうか。
氷河期世代を論じる際、その論調の多くは「個人の努力」や「時代的な不運」などの身もふたもない話に回収されてしまいがちであるが、現実のシステムのほうがはるかに重大な問題であるように見える。
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翻って考えるに昭和期(バブル期とバブル以前)の日本でデモやストライキが起きていたのは正ー非、有期ー無期、派遣ー常勤など労働形態の多様性がまだそこまで存在していなかったからなのだろう。一億総中流と言われ労働者のほとんどが正社員であることがデフォルトだったため、労働者同士の画一性及び画一性に基づく共同性も守られていた。しかしバブルが弾け労働者全員を正社員として雇用することは不可能になると労働者はバラバラになった。それでも正社員制度は残り続けた。その正社員制度にひきずられる形で労働者同士のミクロ(個人)な差別と競争が起きてきたのがここ30年の状態だと言える。
しかしそのような労働者を搾取する非正規や派遣といった雇用制度が猛威を振るったとしても、それに耐え得るほどに、人間の不平不満やストレス、コンプレックス等を抑圧する諸機械が、ありとあらゆる場所で作動している。
一つとして音楽機械は、資本主義機械に加担する機械として重要な役目を果たしており、主要な部品であり、前回の記事で紹介したSHISHAMOの「明日も」だけではない。
川崎鷹也「魔法の絨毯」もそうだ。
gyakutorajiro.com7500万回以上再生されている理由は、それは労働者にとって耳障りのいい言葉をストレートに伝えた点がある。
それは「お金もないし 力もないし 地位も名誉もないけど 君のこと守りたいんだ」という価値観。資本主義機械が支配的現実であるにも関わらず、その暴走を抑圧する機械として作用する。
「金が無くてもいいんだ」「安月給でもいいじゃないか」と、自己肯定できる価値観として、自らの欲望機械、無意識が、無意識的備給を行いこの音楽機械に接続し、yotubeの動画再生ボタンを押し、それを耳という器官機械から大脳という器官機械へと内面化し、自己肯定感を獲得するという受動的知覚を行った労働者も中にはいるのではないだろうか。
小学校や中学校等ではスガシカオの「労働なんかしないで 光合成だけで生きたい」が流れるなんてことは、絶対にない。
www.youtube.com岡本真夜の「TOMORROW」が流れ、涙の数だけ強くなろうよそしてアスファルトに咲く花のように強くなれ勉強しろそして働けと、子どもだちに発破をかける。
エレファントカシマシの「俺たちの明日」は、「さあ頑張ろうぜ」と。
youtu.beSMAPの「がんばりましょう」は、「仕事だから とりあえず頑張りましょう」と。
www.youtube.com玉置浩二の「田園」は、「毎日何かを頑張っていりゃ 生きていくんだ」と。
www.youtube.com「頑張ること」「働くこと」「生きること」という抽象的メッセージを、人間の中の欲望機械は求め、それに接続し、内面化する。
「自分は何に頑張っているのか?」「頑張る価値のあることをやっているのか?」という客観視、自己否定が、なかなか起きない。
その時、ブコメにあった「無力化」が起きている。
個人主義が蔓延して氷河期世代も連帯しないのは日本が高度に発達した不満を抑圧するシステムを備えた資本主義社会だから - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸
- [未分類]
氷河期世代に限らず労働者階級は、脳みそはあるが何も考えず、意思を持っているようで何の意思も持たない。抑圧されているのではなく、無力化されている。世代間人口格差や政治腐敗等が無ければ実は悪い事ではない。
2022/10/28 08:16
b.hatena.ne.jp「不満があっても、働ける仕事があるのはいいことだ」「今日も頑張ろう」というルサンチマン(奴隷道徳)を内面化することで、自らの経済的搾取は忘却に向かう。
その意味で確かに、労働者の不満を無力化することは悪い事ではないが、その「悪い事ではない」の主語に相当するのは「企業の利益にとって」だ。
労働者を雇用する企業にとって、労働者を安い賃金で使えることができ、企業や資本家の経済的合理性にとっては「悪い事ではない」と言えるだろう。
まさにドゥルーズ&ガタリが言うように、音楽機械が「宗教的」であり、資本主義機械がスムーズに機能するための「物質的条件」として必要が求められる理由だ。
もちろん、音楽だけではない。
「全てフィクションだ」と言った人がいた。その「全て」とは、ドゥルーズ&ガタリ的にいえば「機械」のことだ。
b.hatena.ne.jp山本直樹 on Twitter: "現実とは「人が生きて暮らして死ぬ」ことだ。それ以外は全てフィクションだ。 小説、漫画、映画、演劇、物語、ゲーム、スポーツ、思想、国家、会社、宗教、学校、お金、そして言語。全てはフィクションだ。
これは正しいといえば正しい。「推し」なども音楽機械として、「日の丸」も愛国心や民族主義等のイデオロギーを内包した絵画機械や抽象機械として、欲望機械の接続対象となり得る。
blog.tinect.jpツイ主である山本直樹さんという人における「フィクション」とは、人間という欲望機械が向かう先にある夢幻的機械だったり社会的機械だったり抽象機械だ。
抽象機械もしくは欲望機械とは、ニーチェ的に言えばルサンチマン(奴隷道徳)であり、ジャック・ラカンやスラヴォイ・ジジェク的に言えば"$◇a" [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の幻想のことだ。ツイ主における"フィクション"を内面化し、安定的な自我を維持する。
音楽の事例をいくつか挙げたが、映画もそうだ。
「ALWAYSの三丁目の夕日」や「男はつらいよ」といった人情物語が、なぜ人から愛されるか。それは「現実の砂漠にあるオアシス」のような機械であり、映画機械は、その資本主義の過酷な現実を隠蔽する帳として機能する場合がある。
寅さんについては以前述べた。
gyakutorajiro.com他にも様々な機械がある。はてぶ等でよく見るのはエッセイ等の「文学機械」であり、例えば俺の様な独身は、ついこのような記事を見かけるとポチっと押して読んでしまう。
media.lifull.comなぜこの記事に対して、自らの欲望機械が作動し、無意識的備給を行って文学機械に接続した(読もうとした)のは明らかだ。
それはこのような「結婚しなくちゃ幸せになれない、なんてない。」「結婚することがすべてじゃない」というルサンチマン(奴隷道徳、特定の価値観)を内面化することで、自分が独身であるというコンプレックスを抑圧することができるからだ。
しかし実は、支配的価値観は変わらない。
社会やメディアが「多様性の尊重」「ダイバーシティ」等を声高に喧伝するのは、「そのルサンチマン(幻想)によって、実際は支配しているという現実を隠蔽するため」だ。
多数派的な「事実」が存在するのだが、それは万人の少数派への生成変化と対立するペルソナの分析的な事実なのだ。それゆえわれわれは、等質的、定常的システムとしての多数派、下位システムとしての少数派、そして潜在的な、創造された、創造的な少数派とを区別しなければならない。たとえ新しい定数を作り出すにしても、問題は決して多数派に到達することではない。
多数派への生成変化は存在しない。多数派は決して生成変化ではないのだ。少数派への生成変化だけがある。女性たちは、数がいくらであれ、状態あるいは部分集合として定義可能な少数派である。しかし彼女らは、生成変化を可能にすることによってのみ創造することができるのであり、その生成変化の所有権などもっていない。彼女たちは生成変化の中に入っていかなければならないのであって、女性になることは、男も女も含んだ人間全体にかかわっているのだ。
(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] 4 一九二三年十一月二〇日 ――言語学の公準 Ⅳ 言語は主要な、あるいはスタンダードな言語という条件においてしか、科学的に研究されないだろう)
ドゥルーズは「思考とは生成変化である」と、「存在」とは生の流れにおける単なる安定的な契機であり、その哲学を展開したんだが、まあそれは本題ではないので割愛。
ここでドゥルーズ&ガタリが言うように、多様性がどうこう言っても「多数派」的な事実は存在する。
経済的合理性から、支配的権力を備えている自民党は、杉田水脈議員の発言にもあるように、異性愛を結局のところ尊重し続けている事実がある。
gyakutorajiro.com杉田水脈議員だけでく、鈴木エイト氏の調査にもあるように、ジェンダーフリーに関連する運動や生成変化に、自民党議員が反発する。
news.tv-asahi.co.jpまた、ルッキズムがなくならない事実も横たわっている。
gyakutorajiro.comドゥルーズ&ガタリは、別に男性優位主義者とかではない。
このように、マイノリティが尊重される多様性が進んでいるといっても、相変わらず異性愛が尊重されるし、ルッキズムが無くならいことは、経済的合理性から明らかだ。それが資本主義機械の性質でもある。
多様性とはすなわち、不満やコンプレックス抑制する機会の増大であり、生成変化であり、リゾーム化した資本主義社会における抑制機械の総量と種類の増大であり、自己肯定感を維持するための機会を増やすシステムだ。
ドゥルーズ&ガタリは、このリゾーム(階層や中心がない秩序)が跋扈する社会を予見していた。
われわれは、こうしたすべての地理的配分によって、同時に悪しき道に乗り入れてもいるのだ。袋小路なら、それもいいだろう。リゾームもまた固有の専制主義、固有の序列制、それらのもっと厳しい形を持っていることを示さねばならないのか。
その通り、なぜなら二元論などないからだ。こことあそこという存在論的二元論などはなく、善と悪という価値観的二元論もなく、アメリカ的混合ないし綜合もないからだ。リゾームには樹木状組織の結節点があり、根にはリゾーム状の発芽がある。
そればかりかリゾーム固有の内在性と水路網をそなえた専制的形成体(フォルマシオン)もあるのだ。樹木の超越的システムには、空中根や地下茎という、無政府的歪形(デフォルマシオン)がある。重要なのは、樹木-根とリゾーム-水路とが二つのモデルとして対立するのではないということだ―― 一方はたとえ固有の逃走を産み出そうと、超越的なモデルおよび複写として働く。他方はたとえ固有の序列制を形成しても、また一個の専制的水路をもたらしても、モデルを覆して地図を素描する内在的過程として働く。
問題は地上の一定の場所ではないし、歴史上の一定の瞬間でもなく、まして精神の一定のカテゴリーではない。問題はたえず高く伸び、深く潜ることをやめないモデルであり、そしてたえず伸長し、中断してはまた再生することをやめない過程なのである。
(引用元:千のプラトー 資本主義と分裂症 [ ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ ] 1 序 ――リゾーム)
リゾームとは多様性であり、自尊心や自己肯定感の獲得機会や現実の認識形態を増やす機械として機能する。
支配的イデオロギーとして機能している異性愛やルッキズム等の専制的形成体(フォルマシオン)から逃走して生まれた空中根や地下茎、無政府的歪形(デフォルマシオン)が、LGBTQ等のジェンダーダイバーシティーやルッキズム批判であり、その価値観も伸長している。
現代はツイッターやユーチューブ、SNS等のプラットフォームの増長によって、支配階級が用いるパノプティコン(一望監視装置)的システム、全体主義的な価値観を浸透させるイデオロギー的機械が弱体化した。
同時に、双方向的に価値観を浸透させる新たなリゾーム(技術機械)、権力に対してこちらからも監視して物申す電脳パノプティコンが発展した。
「セクハラ」「就職氷河期」「社畜」「ブラック企業」「パワハラ」といった強度的なもの、企業で行われた様々な経験がネガティブな概念や価値観として、力を持つプラットフォームで浸透した。
音楽機械等によるルサンチマンの供給により、一方では不満を抑圧したり無力化していたが、一方ではこれら概念の生成によって自らが経済的に搾取されているという現実を思い知らされる機会が、技術機械の伸長によって増えることになった。
そしてSNS等からの情報、機械に接続したことで自分が経済的に搾取されていることを把握した労働者は、「労働意欲を下げる」という行動を行ったりもする。
個人主義が蔓延して氷河期世代も連帯しないのは日本が高度に発達した不満を抑圧するシステムを備えた資本主義社会だから - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸
デモもストもやらない、暴動も起こさない日本人が徹底的に搾取されつくした結果として「労働意欲を極限まで下げる」という境地に達したのは笑うしかない。支配階級からしたら一番厄介なエンドだぞこれ。
2022/10/27 14:35
www.megamouth.infoまだ闘ってる生き残り管理職氷河期おじさんに言わせれば、怠惰は敗北者に残された最後の報復手段なんだってさ、ひどくない?
その他の対抗手段も功を奏し、企業は賃上げやセクハラ・パワハラ相談窓口を設けたり、ストレスチェックを行ったり、週休3日制やリモートワークの導入など、労働者に寄り添う制度を設計したりする企業もある。
www.tyoshiki.com待遇を良くする工場もある。
b.hatena.ne.jpとはいえ一方で、やはり非正規を「安く使える駒」としか見ておらず、給料は上がらず搾取構造を続ける企業もある。
b.hatena.ne.jpむしろこちらの方が多く、多数派かもしれない。
労働意欲は下がっていく。
別の職場でも稼ぐことができる優秀な人間は、転職する。
b.hatena.ne.jp結局は前の記事と同じ結論だ。
個人は、多種多様なリゾームに覆われたこの社会という有機体、諸機械に、自分の不満、欲望機械を接続することで、ストレスを抑圧したり無力化し、自分の搾取状態や隷属的状態から目を背ける。
現実から目を背けた方が幸せであったり、自尊心を維持し続けることも可能になるケースが多々ある。
個々人のその時々の状況に合った奴隷道徳等を供給する機械に接続し、それを内面化することで、アトム化した個人として、まるで自分の実存を得て何者かになれたかのような矜持を、一時的には獲得することが出来る。
また「アトム化した個人」というのは、ドゥルーズ&ガタリ的に言えば、少し語弊がある。アトムではなくて、人間は他人という欲望機械、企業等の社会的機械、SNS等の技術機械、音楽機械や文学機械等の影響を被るゆえに「アトムにまで分割されることはない」とも言える。
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/112299.pdf
個体(individual)とは、本来それ以上分割できないものである。分割すると、その本性が維持できなくなるものであり、モナドのような基本実体に典型的である。
近世に発明された基本的人権は、主体としての個体を前提にしている。人間は個体である限り、たとえどんな障害を抱えていようとも、それとして権利が保護されなければならないということである。
しかし他方、モダン以降の思想は、個体のような実体がそのままで維持できる代物ではないことを暴き続けてもきた。それはアトムという原子/元素が、それ以上「分割できないもの」の意であったのに素粒子物理学の展開とともに、原子の非実体性、複合性が明らかにされてきたことと軌を一にもしている。
氷河期世代が連帯しないのは、アトムを隠喩として用いるのであれば、アトム化した個人が増えたといっても確かに間違いではない。
敢えて隠喩を使わず言うのであれば「個人の分子的無意識が、資本主義機械が用意している多種多様な諸機械に接続してしまうがゆえに、いとも簡単に不満や怒りが抑圧され無力化される」と言える。
「分子的」とは、ドゥルーズ&ガタリが暴いた人間の無意識であり、ミクロの様相を指す。
シュレーバー控訴院長は、自分の身体に、何千もの小人たちを密着させる。物理学には二つの方向があって、ひとつはモル的な方向であり、巨大数や群衆的現象に向かい、もう一つは分子的な方向であり、逆にもろもろの特異性に、距離をへだて、あるいは次元を異にするそれらの相互作用や結合に没頭するといえる。
パラノイア人は、前者の方向を選んだのである。すなわち彼はマクロ物理学を実行しているのだ。ところが逆に、分裂者は別の方向に行くのである。これはミクロ物理学、もはや統計学の法則には従わないものとして分子の方向であるといってもいい。
すなわち波動と微粒子、流れと部分対象の領域であり、それは、もはや巨大数にかかわる領域ではない。。大集合の展望の代りに、無限小の逃走線が現れる。だから、こうした二つの次元を、集合的と個体的として対立させることは、おそらく誤りであろう。一方でミクロの無意識は、独自な型の配列であるとしても、やはり、もろもろの配列、接続、相互作用を表す。他方で、このミクロの無意識には、個体化された人称の形態は属さない。この無意識は、もろもろの部分対象と流れしか知らないからである。むしろ、こうした人称は、逆に、モル的な無意識あるいマクロの無意識の統計学的な分配の法則に属している。
(アンチ・オイディプス 合本版 資本主義と分裂症[ ジル・ドゥルーズ ] 第四章 分裂分析への序章 第二節 分子的無意識)
ドゥルーズ&ガタリは、資本主義の分裂症的性質と、社会的機械による人間の部品化、人間の無意識が分子的にミクロ化し、個体化された人称(私は○○…等の主体的な意志)に還元しきれない非人称的な無意識の欲望機械が、リゾーム化された社会に対して無意識的備給(欲望を無意識的に向ける行為)や前意識的備給(特定の価値観の強い内面化を経て欲望を無意識的に向ける行為)を行うことを明らかにした。
この現実の前提に立つと、連帯やストライキが起きないのは「どうしようもない」としか言えない。
分裂分析の主張は単純である。欲望は機械であり、諸機械の総合であり、機械状アレンジメントであり、つまり欲望機械なのである。欲望は生産の秩序に属し、あらゆる生産は欲望的生産であり社会的生産でもある。
だから、私たちは、精神分析がこの生産の秩序を粉砕したこと、この秩序を表象の中に逆もどりさせたことを非難しているのだ。無意識的表象という観念は、精神分析の勇気を示すものどころではなく、始めから精神分析の破綻そしてこれが放棄したものを示している。
つまり、もはや生産するのではなく、信じることに甘んずる無意識といったものを提起している……。無意識はオイディプスを信じ、去勢を信じ、法を信じている……。おそらく精神分析家こそ、信仰とは厳密にいえば無意識の行為ではないと最初に言うのである。何かを信ずるのは、常に前意識なのである。
(アンチ・オイディプス 合本版 資本主義と分裂症[ ジル・ドゥルーズ ] 第四章 分裂分析への序章 第三節 精神分析と資本主義)
結局は独立独歩で何とかしなければならない。
欲望する諸機械は多様性にあふれているし、労働運動を行っている一つの機械に皆が接続してくれるとは限らない。そしてその機械は、その他の音楽機械や絵画機械等の抽象機械に比べ、カッコ悪く、オンボロな機械に見える。
マトリックスで青いカプセルと赤いカプセルを選ぶときのようなもんだ。
自分が何かしら搾取されている現実(赤いカプセル)を見つめて新しい生き方を模索するか、自分の都合のいい価値観(青いカプセル)を摂取し続けて忍従し続ける生き方を選ぶしかないだろうよ。
別に後者の生き方を否定するわけではない。例えば「信教の自由」として宗教を信仰している人を尊重するように、その方が幸せな場合も多々あるだろうし。