逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

個人主義が蔓延して氷河期世代も連帯しないのは日本が高度に発達した不満を抑圧するシステムを備えた資本主義社会だから

定期的に盛り上がる氷河期世代に関する話題。
シロクマさんによれば個人主義の伸長が大きいとのこと。

p-shirokuma.hatenadiary.com個人主義化が進んでいくなかで、デモやストライキ一揆が社会通念にそぐわなくなっているようにもみえる。それはシラケ世代以降の思想の産物だろうか? そうかもしれない。個人主義、多様性のある生、それらは耳障りの良い言葉だが、それらをとおして実は私たちはアトム化した個人になってしまい、分断することばかり上手になってしまい、共通のイシューに関してまとまることができなくなってしまったようにもみえる。

とある増田は「そんなの別に氷河期世代の話じゃないでしょ」的な意見。

anond.hatelabo.jpそもそも、氷河期世代と言われてるのは

「大学で(主に文系の)四年制大学新卒で大企業に入ってたはずの層のうち一部が、急にそれまでの高待遇を受けられなくなった」

という、本当にそれだけの世代でしかない。

この体験に対して未だにアイディンティティを持ってるやつってお前らが思ってるよりずっとずっと少ない。

多いように感じてるのは、お前らがネットで毎日同じような連中と延々駄弁ってるから。それだけ。

まずそれを自覚しよう。

なんで連帯しないか、デモやストライキをほとんど起こさないか、出来ないような仕組みが生まれているか。
それは既に過去の哲学者が明らかにしている。

黄色いベスト運動が起きているフランスが生んだジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリの本「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」に、資本主義の仕組みやその抑制する作用について、諸々と書かれている。

資本主義社会は分裂症的負荷を与え続け、人間は鬱病になったり過労死の危険に晒されるし実際になるケースもあるが、それに対して全力で抑制も行う。

分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。
確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても、実は私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出すものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。
なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。
それはみずから極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』p70)

何が抑制しているのか?

不満を持った労働者や、氷河期世代のアラフォー、アラフィフ等を、どうやって抑えつけているのだろうか?
それは「ありとあらゆるもの」といっても過言ではない。

その辺のテレビ番組とか漫画でさえ、人間の不満を抑えるシステムとして機能している。
それは「女王の教室」というドラマで、天海祐希が演じる阿久津真矢が、ガツンと言ってたよな。

blog.esuteru.com日本という国は、
そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、
あなたたち凡人が安い給料で働き、
高い税金を払うことで成り立っているんです。
そういう特権階級の人たちが、
あなたたちに何を望んでるか知ってる?
  
今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。
世の中の仕組みや不公平なんかに気づかず、
テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、
会社に入ったら上司の言うことをおとなしく聞いて、
戦争が始まったら、
真っ先に危険なところへ行って戦ってくればいいの。

麻生太郎も「政治に関心持たず生きていける国は良い国です」と、このドラマの教師と似たようなこと言ってたよ。

b.hatena.ne.jp政治意識や政治に対する不満を希薄化する。
これもまたフランスのルイ・アルチュ―セルが、「国家のイデオロギー装置」として、その不満を抑制するシステムにどんなものがあるのかを提示してる。

マルクス主義理論」における〈国家装置〉は、政府、行政機関、軍隊、警察、裁判所、刑務所を含んでいることを想起しよう。それらは、われわれが今後、〈国家の抑圧装置〉と呼ぶであろうものを構成している。抑圧的とは、正確かつ強い意味では、物理的暴力の行使(直接または間接、合法または「非合法」の)であると極限では理解しなければならない(なぜなら、それは非物理的な抑圧の数多くのきわめて多様で、さらには隠された諸形態が存在するからである)。

では〈国家のイデオロギー諸装置〉(AIE)とは何か。
それについての最初の概観をつかむために、ここに暫定的に列挙してみる。

1/〈学校装置〉
2/〈家族装置〉
3/〈宗教装置〉
4/政治〈装置〉
5/組合〈装置〉
6/〈情報装置〉
7/〈出版-放送装置〉
8/〈文化装置〉


これが暫定的なリストであるのは、一方では網羅的ではないからであり(第12章を参照されたい)、他方では7の〈装置〉と8の〈装置〉は一体をなすことがありうるからである。私がこのようにふんぎりをつけることができないことを容認していただけるのではないかと思うのだが、というのも私の「包囲陣」は、探求に値するこの点にはまだ敷かれていないからである。

(引用元:再生産について(上) イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー) [ ルイ・アルチュセール ]p170-172)

日本は高度に資本主義が発達している。
「高度に資本主義が発達している」というのは、別にGDPが高いとか低いとかいう話ではない。
それはアルチュセールがいう「国家のイデオロギー装置=国民の不満を抑えるシステムがうまく機能しているかどうか」ということ。

例えば映画、アルチュセールが言う〈文化装置〉。
氷河期世代のアラフォー・アラフィフは、トレイン・スポッティングを観た人もいるだろうよ。

anond.hatelabo.jpさじ投げられちゃったんだろうね、俺たち。政府のおエラさんにも学者さんにもブロガーさんにも。いろいろ議論して考えたけど、こいつらを救済する妙案も資金もないわって。この前若い頃に見た「トレインスポッティング」って映画の続編がやってたから見たんだけど、若い頃にまともな職につかずドラッグばっかやってた連中が40代になっても相変わらずまともな職つけずにプラプラダラダラしてるって話だった。なんだドラッグしてないだけ俺らのほうがマシだけど、日本以外にも俺らみたいな救いようのない連中っているんだ。世界ってこういうもんなんだな。

アンダーワールドのBorn Slippyとかも流れて、何かカッコよかった。

youtu.beユアン・マクレガーのTシャツも着ている人結構、いたような気もする。

スタイリッシュだった。金が無くても。
そう。「金が無くてもカッコいい」みたいな価値観。

それは金が無いやつの欲望や自己愛を満たしてくれるルサンチマン(奴隷道徳)として機能するケースがあるが、そういう物語が大量発生しては、人間の無意識にそれを供給し、人間の不満やコンプレックスを抑圧する。

トレインスポッティングだけじゃない。
アラフォー・アラフィフ世代だと『お金がない』『やまとなでしこ』『電車男』は知ってるだろう。
「金が無くても幸せなんだよ」「オタクでも幸せになれるんですよ」的な物語が次から次に湧いてきては、それを供給し、政治のことなんて考える隙も、自分の労働条件や社会的立ち位置など考える隙も、なるべく与えないようにする。

これをドゥルーズガタリ「無意識的備給」と呼んだ。
備給とは「リビドー、欲望を、特定の対象に向けること」みたいな意味だが、それが無意識に行われる。

これはイデオロギーの問題ではない。ここには社会野に対する無意識のリビドー備給があり、それは前意識的備給と、あるいは前意識的備給の「行き先」と共存するにしても、必ずしも一致するものではない。それゆえに個人であれ、集団であれ、何らかの主体が明らかに自身の客観的状況からすれば当然対決すべき階級の利益や理想に逆に同調するとき、彼らはだまされた、大衆はだまされた、というだけでは十分な説明にならない。

それは、誤解とか錯覚といったイデオロギー的問題ではなく、欲望の問題である。そして欲望は下部構造の一部なのである。前意識的備給は、敵対しあう階級の利害に対応して行われ、あるいは行われるべきものであろう。

ところが、無意識的備給は、欲望の立場、総合の使用法にしたがって行われ、これらは個人的であれ、集団的であれ、欲望する主体の利害とは、まったく異なったものである。無意識的備給は、支配階級への全般的服従を確実にすることができる。もはや利害によってではなく、まさしく欲望によって備給されるものとしての社会野に、切断や隔離を注ぎ込むからである。


ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』第二章 精神分析と家族主義 すなわち神聖家族 第五節 消費の連接的総合)

前意識的備給も、誰しも1度はあるんじゃないのか。
会社説明会や就職説明会等に足を運んだ際、その組織の「理念」「やりがい」「ウェルビーイング」等が提示される。
それは薄々と聞いている者もいるし、真剣かつ意欲的に聞いている者もいる。
電通鬼十則とかそうだろうな。

前意識的備給によって、その組織の理念を出来る限りインストールして貰おうと、企業は躍起になる。しっかりと何が美徳か、推奨すべき行動なのかを、労働者に教え、自らそれを求めるように、モチベーションを高めてもらわなければならない。
生物としての人間の各器官に、諸々の教育・矯正・施しを授け、従順に労働する人間、「ひとつの充実身体」に変える。

原始大地機械は、流れをコード化し、器官にリビドーを備給し、身体に刻印する。大地に属する身体に刻印するというこの任務は、他の全ての任務を集約するもので、これに比べれば、循環し交換することは、全く二次的な活動である。

登録し登記する社会体の本質は、もろもろの生産力を自分に帰属させ、生産の代理者を分配するものであるかぎり、入れ墨をすること、切除すること、切りこむこと、切断すること、生贄にすること、手足を切断すること、囲むこと、秘伝を手ほどきすることである。
ニーチェは、「習俗の道徳性を、または人類の最も長い期間にわたって、人間が自分自身に対して行ってきた真の仕事、人間の前史時代のあらゆる仕事を」定義したのである。この仕事とは、身体の四肢や部分に対して、権利上の力をふるう評価のシステムを確立することであった。

罪人は単に集団的備給の秩序にしたがって、自分の器官を奪われるだけではない。食べられる人間は、牛を切り刻み分割する規則に劣らず厳密な社会的規則にもとづいて、食べられるだけではない。

それにとどまらず、十分に権利と義務を享受するひとは、自分の器官や器官の動きを集団性に結合する体制の下で、全身に刻印される(器官の私有化が始まるのは、「人間が人間を前にして恥ずかしさを感ずる」ときからでしかない)。

というのもこれは創設の行為であって、これによって人は生物学的な有機体であることをやめ、ひとつの充実身体、ひとつの大地となり、その上に諸器官が付着し、社会体のもろもろの要求に応じて吸引され、拒絶され、奇蹟を授けられる。
器官は社会体の中で剪定され、流れは社会体の上を流れなければならない。

(引用元:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第一節 登記する社会体

だが、実際に働き、実際の労働があまりにも過酷であった場合に「だまされた」という感覚を持つ可能性もある。
「こんな条件では働きたくない」「給料上げろ!」と不満を持つ人間が出てくる。
そのため前意識的備給は、それが失敗に終わるケースも多々あり、その欺瞞性に気付かれてしまう場合もある。

ヒゲダン(official髭男dism)の「115万キロのフィルム」で唄ってるような「こんな安月給じゃもうキャパオーバー!」みたいなことを言ってくる輩も出てくるかもしれない。

www.youtube.comドゥルーズガタリは「欲望は下部構造」だといった。
上部構造とか下部構造とかって話は、マルクスが生み出した概念だ。

10mtv.jp 先ほど申しました、「下部構造が上部構造を規定する」という表現について考えます。ここで下部構造とは、人間の活動や出来上がった社会の前提となるさまざまな生産の様式、つまり産業の在り方のことです。例えば、人間は自分の体を動かしてさまざまな労働をします。そこでは畑を耕す、道路をつくる、工場で働くなど、いろんなものが考えられますが、そうしたフィジカルな働き方や、それを部分として持つ生産の様式のことを「下部構造」と呼んでいます。

 それに対して「上部構造」とは、肉体に対する精神や、その精神の在り方を決めていく社会における倫理、キリスト教や仏教のような宗教、憲法民法などの法、これらの背景にある哲学的な考え方、さらには芸術や絵画や音楽などのことを指します。簡単にいえば、上部構造とは人間にとっての精神や精神的な活動、その産物のことであり、下部構造とは身体やさまざまな製品を作る活動のことです。マルクスの考えは、この肉体や産業の在り方としての下部構造が精神である上部構造を規定するというものでした。

欲望が下部構造である理由は、欲望が上記のトレインスポッティング電通鬼十則やヒゲダンの唄に対して無意識的備給が行われる際、人間がそれを求めた理由の中には「不満やストレスを抑圧したい」というのも含まれているからだ。

たとえ搾取的な労働条件の下で働いていたとしても、その労働や経済的活動を正当化するための価値観、ルサンチマン、物質的生産物やサービス等に無意識的に欲望を注ぎ、内面化し、また働き出すという点で、欲望は下部構造に貢献している。
マルクス的な定義だと、欲望は精神的なものゆえに上部構造のような気もするが、そうじゃないんだよな。

そしてドゥルーズガタリは、無意識的備給は「主体の利害とは、まったく異なったもの」とまでいった。
実際そうだろう。

安月給でこき使われても、何の不満もなく従順に働き続ける。
底辺システムエンジニアだった俺も、SES企業が発注主からどんだけ金を貰っているかも、その中から何十%中抜きして、俺に安月給を払っていたのかも、わからない状態だった。

gyakutorajiro.com大手IT企業だってそんな仕組みじゃねえのか。
実際に手を動かすシステムエンジニアよりも、金を右から左に動かす予算管理だのスケジュール管理だのマネジメントだの、専門性が希薄な仕事をやっている人間の方が金を多く手に入れてるケースがある。
一次請け、二次請け、三次請け…と担当する工程が会社毎に分割発注され、その度ごとに中抜きされ、大して手を動かしてない輩に金が流れている仕組みが蔓延している組織構造もあるんじゃねえのか。

b.hatena.ne.jpまあシステムアーキテクト的な仕事とか上流工程の場合は、発注主とか一次請けにちゃんと、専門性を備えて立派な仕事している人もいるかもだけどよ。

しかし、実際に手を動かして高い専門性やプログラミングスキルが要求される人間である場合でも、中抜きされ、安月給の酷使が行われている可能性も大いにある。
そんな働かせた方や安月給だと、そりゃ銀行のシステムにも不具合が出まくるって話よ。
そんな日々のストレスを、無意識的備給で解消して、働き続けてる。

どうでもいい管理職をやってるオッサン、働かない妖精さん、大した仕事もせず定時退社する天下り社員。
なくなっても困らない社団法人だの財団法人だのに税金が投入されるし。
宗教法人はルサンチマンを提供して資本主義の厳しい現実に霞(かすみ)をかけてくれる機関として、国家は尊重し、税金を免除する。

映画「ハゲタカ」でも、玉山鉄二が演じる劉一華が言ってただろうよ。



アカオ自動車で働く派遣労働者である守山翔(高良健吾)に。

劉:あの外人ね、アカオのファイナンシャルアドバイザー。会社のオフィスに、こっちに投資しようとか、この工場は売った方がいいとか、アドバイスする人。週に何日か会社に来て、月収300万。ボーナス1億。広尾のマンションは家賃200万、会社持ち。やってらんないよね。地獄だよ…日本は。生ぬるい地獄。

実際に手を動かして作業を行う製造ライン、開発工程に携わる人間がいないと困るにも関わらず、無くなって困らないブルシットジョブを行うオッサンや老人の方が多くの給与を得ている。

勤務医アーニャ on Twitter: "円安を労働者のせいにするのあまりにクソすぎるだろ https://t.co/wUsA1J8RQ7"

こういう指示だのマネジメントだの分析だの、別になくなっても組織も社会も何ら困らないブルシットジョブやってるオッサンが高給もらって、労働者に低賃金しか払わないから仕事に対する意欲も質も上がらないんだよ。

2022/10/23 19:20

b.hatena.ne.jp要らない課長が同じ部署に複数人もいたり、組織の規模にそぐわないのに取締役が何人もいたり、週3日ぐらいしか来ない相談役みたいなのが、現場で汗を流している労働者よりも時給がいい。

労働者はなるべく安く使える方がいいし、部品のように互換性と流動性があると便利だ。
ドゥルーズガタリはその資本主義の発展に伴う人間の部品化の伸長を、何十年も前に暴いていた。

gyakutorajiro.com工事の発注主は、社会的機械と言われている。

これとは逆に、社会的機械は人間を部品として扱う。たとえ、人間を彼らの使う機械とともに考察し、作動、伝達、動力のあらゆる段階において、彼らをひとつの制度的モデルの中に統合し内部化するとしても。こうして社会的機械は記憶を形成することになる。このような記憶なしには、人間とその(技術的)機械との共働はありえないだろう。

(引用元:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第一節 登記する社会体

社会的機械によって器官の組織化を授けられた人間は、大地機械とは違う仕事を行っている。
クーラーの効いたフローリングの部屋で座って仕事している。
身体にかかる重力や負荷は、大地機械的な労働のほうが圧倒的に大きい。

映画で高良健吾が演じる守山が言ってたように、労働者たちは人間というよりは部品として扱われる。

守山:知ってる?アカマで派遣を扱う部署って、人事部じゃないんだよ。調達部だよ。俺たち部品なんだよ文字通り。会社側は必要な人数しか派遣会社から入れない。つまり誰でもいいってことが派遣の条件。俺が誰かであっちゃいけないんだよ。

劉:派遣を解禁したのは中年の雇用を守るためだ。既得権益層は、いつだって弱者を食い物にする。誰かになるんだよ、守山。

映画に出てくるアカマ自動車という会社は「3年間働いた派遣工は、会社が直接雇用しなければならない。ところが、3ヶ月のクーリング期間をおけば、新たな派遣期間が始まる」という雇用形態で、派遣労働者を都合のいいように使っていた。
それは映画の中の話だけじゃない。

小泉&竹中なのか、誰が派遣労働を推進したのかはよくわからないが、要望した大企業とそれに応じた政府であることは間違いない。

jp.linkedin.comしかし、最大の規制緩和は、1999年の小渕内閣によってなされた改正で、この時に、派遣労働の対象が原則自由となり、禁止業務だけが定められるネガティブ・リストの形を取るようになりました。2003年に小泉内閣のもとで製造業務への労働者派遣が解禁されたとはいえ、なぜ非難されるのはもっぱら小泉内閣で、より抜本的な規制緩和に踏み切った小渕内閣ではないのでしょうか。おそらく、小渕内閣が公共事業を増やしたのに対して、小泉内閣は減らしたので、小さな政府を嫌う勢力は、小泉内閣だけを攻撃したいからでしょう。

派遣労働に関するもう一つのよくある誤解は、パソナ会長の竹中平蔵が、自社の利益のために派遣労働を推進したというレント・シーキング説です。竹中が大臣あるいは参議院議員の任にあったのは、2001年4月から2006年9月までで、パソナの特別顧問に就任したのは2007年2月、会長に就任したのは2009年8月です。そもそも、竹中は派遣労働を直接所管する厚生労働大臣には就任していないのですから、竹中が中心となって派遣労働を推進したというのはおかしな話です。

「労働者のスキル」だとかぬかしてんじゃねえって話だよな。

てめえらが人間を部品のように扱うくせに、部品にスキルだのやる気だの忠誠心だの仕事のクオリティだの求めてんじゃねえって話だ。
労働者だって馬鹿じゃない。人間として扱わず機械的な対応をするのであれば、最低限の機械的なパフォーマンスしか返さない。そりゃ当然よ。
まあしかし労働者の側も、そんな低い志では、一生低所得と不遇な生活から抜け出せないけどな。

でも大丈夫。そんな風に不満を抱いても、酷使されても、ビールがある。居酒屋に行く金がなければ、サイゼリヤに行ってデカンタワインを頼めば安く酔うことも出来るし、ファミレスが無い田舎でも、コンビニやスーパーでストロング缶を買えば仕事のストレスも忘却できる。

家に帰れば愛するパートナーがいる。家族がいる。土日も休日も一応ある。
録画していた恋愛ドラマを観る。
金曜だし、今日は野球でも観ながら1杯やるか~、もしくは寿司でも食うか~。

パートナーがいなくても、明日はコミケに行って楽しもう、推しのイベントに行こう、等々。

高度に発達した資本主義社会においては、その時々に抱いている感情や欲望に応じて「こちらはいかがですか?」と、労働者の身体や精神を癒してあげるための物質やシステムが大量に存在し、疲弊した労働者は無意識的に欲望をその対象に向ける無意識的備給を行う。

音楽もそう。例えばSHISHAMOの「明日も」という曲は、現時点で6300万回以上も再生されている。

youtu.beヒーローってなんだ?具体的には何も言ってねえ、抽象的存在。
安月給でもいいじゃないか、「月火水木金 働いた」「金曜日が終われば大丈夫」だよ。「いい曲だ~」と、SHISHAMOの曲に対して無意識的備給を行い、日々の労働の有難さに感謝し、頑張った自分を褒める。

この時、SHISHAMOの曲は自分や職場や労働を肯定するためのルサンチマン(奴隷道徳)として機能しており、ドゥルーズガタリがいう前意識的備給(特定の組織が礼賛する価値観の内面化)を担う物理的存在にもなっている。

こういうJ-POP等から何となく「こうあるべき」同一化対象が供給される。
「一生懸命、月曜日から金曜日まで働いて、土日休んで、日々頑張っていくの美徳なんですよ」という、資本主義社会に適った身体に組織化されていく。

だから不満なんていうな、野暮だと。
SHISHAMOが唄うように「痛いけど走った」「苦しいけど走った」人、努力し続ける人がカッコいいんだと。

そのため、ストライキする意志も感情も封殺される。
野球を観て楽しんで、封殺されているのはランナーだけじゃねえんだよ。
社会に対する不満や反発感情も「仕事はしんどいけど、こんな風に楽しみもあるからいいかぁ」と、労働者の無意識はその欲望を、即自的な快楽や用意されている娯楽に無意識的に向けてしまう。

社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も欲望によって生産され、欲望から出現する組織において生産される。・・・(中略)・・・ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人びとが盗みをし、また別の人びとがストライキをするということではない。そうではなくて、むしろ飢えた人びとが必ずしも盗みをしないと いうこと、搾取される人びとが必ずしもストライキをしないということである。・・・(中略)・・・
欲望的生産にねらいを定める社会的抑圧が巨大な規模で存在するという事実は、少しも私たちの原理を損なうものではない。

欲望は現実的なものを生産する、つまり欲望的生産は社会的生産と別のものではない、これが私たちの原理なのである。欲望に対して、特有な存在形態を認め、社会的生産の物質的現実に対立する精神的あるいは心理的現実という存在形態を認めることなど問題外である。

欲望機械は、こうした幻想的あるいは夢幻的機械ではないのだが、幻想的、夢幻的機械は、技術的かつ社会的機械と区別され、むしろこれらの機械を裏打ちするものとみなされている。

もろもろの幻想は、むしろ二次的な表現であり、こうした表現は、与えられた環境における欲望機械と社会的機械の同一性から派生してくるのである。だから、幻想は決して個人的なものではない。それは制度論的精神分析がいみじくも指摘した通り、あくまで集団幻想なのである。

(引用元:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 第一章 欲望機械 第四節 唯物論的精神医学

SHISHAMOの曲は、別に国家や企業のイデオロギーに貢献しようという意図で作られたわけではないだろうな。だが夢幻的機械として、国家という資本主義機械や、企業という社会的機械に貢献する労働礼賛の価値観を提供しているという点で、裏打ちしてるだろうよ。

その機械の供給ネットワーク、ストレスや不満を抱いた際に無意識的備給を行いそれを発散するシステムの供給ネットワークが、ありとあらゆる場所に網羅されている。

だから連帯なんてしない。
幻想的、夢幻的機械に無意識的備給を行い、意識が自分のコンプレックスや不満を抑制する機械、例えば集団幻想(宗教、ドラマ・映画・スポーツ・音楽等の娯楽)やルサンチマンが具現化した産物(詩集など)等に接続する時、ストライキをしよう、連帯しよう、なんて感情は抑圧される。

フランスはアルチュセールドゥルーズガタリを輩出した国だ。
だから資本主義の仕組みや搾取構造に対するリテラシーも高いのかもしれないし、上記で述べた欺瞞的抑圧システムなんて気付いてる人もいるだろうし、自分たちが不当に搾取されたら反発する。
もしくは、日本ほど不満を抑圧するシステムが発達していないというのもあるかもな。

日本はこういう資本主義論みたいな話なんてのは全く流行らない。
アルチュセールドゥルーズガタリなんかよりも、上に述べた娯楽を、無意識的備給だの抑圧だのを考えずに、普通に消費している方が断然、楽しい。
だから共産党も揶揄され、デモや労働運動をしている人に対し、奇異な目で見る風潮がある。

影響力のある芸能人だとかインフルエンサーがクールに労働運動等をすれば、もう少し広まるかもしれないが。
ユーチューバーもインスタグラマーもティックトッカーも、金のない労働者の側に立って、労働運動を推進するアイコンになんかならない。
金が集まる企業から案件もらってステマ投稿してる方が金になるし、大企業が作ったゲームの実況を配信してる方が金になる。
何かアクションを起こそうとしても、それらの映えるアイコンになる発信者も先導者も不在だ。


それはデモや労働運動にクールでカッコいい印象が永遠に与えらないことであり、裏を返せば「その行動を起こすことはカッコよくない」という、無意識的な足枷になる。
また、どのように権利獲得を行うかのロールモデルも不在のため「もういいか、我慢するかなぁ」という感じで、安月給に我慢しながらいつもの職場でいつもの仕事を行う。

だからストライキや連帯等も、ほとんど期待できない。
1日の仕事が終われば、各々が、自分のストレスを抑圧したり不満を解消するための機械に、無意識的に自分の欲望機械を接続してしまって、一時的に抱いていた志なんか雲散霧消するほどに資本主義が発達しているこの現状だ。

自己責任論は好きじゃないが、結局は、独立独歩で現状打破する方法を考えていくしかない。
もちろん、以下のような変化球で現状打破をする人もいるようだが、意外とこれは誰でも真似できる行為じゃないんだよな。

note.com基本的には、自分の人生のツケは自分で払うしかない。

 

続き:労働者の分子的無意識は資本主義社会の多様性というリゾーム状の欲望機械に接続してストレスを抑圧し連帯する意識は無力化される