逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

時間概念の脱構築と時間に存在しているイデオロギーについて

タイトルにあるように、時間にイデオロギーがあることを示したい。
「時間 イデオロギー」でググってみたが、ほとんど情報が出てこない。

もし誰か、時間とイデオロギーについて語っている先人の本等があれば教えてほしいが、自分の観測範囲だと探してもあまり見当たらなかった。

ハイデガーの「存在と時間」はしっかり読めてないが、時間とイデオロギーについて詳しい議論をしているのだろうか。

gendai.ismedia.jp
アンリ・ベルクソンは「時間と自由」で、時間についてかなり細かく思考していたようにも思える。

・空間化した時間(時計とか)は真の時間ではない。

・時間は純粋持続であり、量的に計れるものではない。本当の時間とは、測定できない刻一刻変化する質のことである。

・時間は質の違いの連続、言語を超えたところにある純粋持続である。

・過去は現在に、現在は未来に影響を及ぼし、過去・現在・未来という区分は、形而上学的な差異にすぎない。


みたいな話だ。
あと、時間についての哲学書は、ジル・ドゥルーズの「差異と反復」とかか。
科学者のアインシュタインもいる。
相対性理論については詳しくないが「時間も空間も、誰からも同じに見える唯一の尺度はない」っていう話だった気がするな。

まあ何せよ、時間とイデオロギーの結びつきについては深く語られてない。
そこで時間に含まれているイデオロギーについて、明らかにしていこうと思ってる。

まず説明するにあたって、「時間」という概念を脱構築する。
脱構築(deconstruction)という概念は、非常に定義が曖昧で、難しい言葉だ。今まで読んできた本で一番、デリダについて分かりやすかった本の説明を引用しておく。

そこで、辞書風の定義を二、三、ここでお目にかけるとしよう。最初に、一九八九年版の『オックスフォード英語辞典』(OED)から。

脱構築(仏、DE+CONSTRUCTION)
a.ある事物の構築を解体する行為。
b.哲学および文学理論。フランスの哲学者ジャック・デリダ(一九三〇生まれ)と結びついた批評〔批判〕的分析の戦略で、哲学的および文学的言語の問われないままになっている形而上学的前提や内的矛盾を暴露することに向けられている。

そしてもっと最近の、察しがつくことと思うが、辞書から取ったのではない定義。

脱構築 名詞
あなたが考えるのではないもの。不可能なものの経験。いまだに思考されるべくそのままに留まっているもの。「ものそれ自体」のうちにつねにすでにある動揺をさらに不安定化させる論理。すべての自己同一性をそれ自身であると同時にそれ自身とは異なるものにするもの。亡霊性の論理。理論的かつ実践的な寄生性ないしウイルス学。社会、政治、外交、経済、歴史的現実、その他諸々、と呼ばれるものにおいて今日起こっていること。未来そのものを開くこと。(Roylc 2000,11)

私はこれらの定義をあなたの塾考に委ねることにして、ここではただ、これらの定義のどれもが実際には複数形であることに注意を促すにとどめておこう。デリダが述べるように、脱構築と呼ばれるこの奇妙な出来事には、「一義的な定義」や「十全な記述」というものは存在しない。そして、この「一義的な定義の不在」の理由は「蒙昧主義的」なものではない。それはむしろ、彼が「新たな啓蒙」と呼ぶものに結びついている(これについてはすぐに述べる)。

これらの辞書風の定義について、ことのついでに指摘しておくなら、最初の(OEDからの)ものは、「哲学的および文学的言語」に特に焦点を当てているが、それに対して、第二の定義は脱構築はいたるところにあり、単に哲学や文学という領域に収まるものではないし、ましてやただ「言語」のうちに留まるものではないと主張している。

脱構築とは、デリダがしばしばそう言ってるように、「起こるもの」(ce qui arrive)〔到来するもの〕である。数多くの機会に、おそらく初期の驚くべき論文、「力と意味作用」(一九六三)以来、デリダは彼のエクリチュールを駆り立てるものについて、震え、「揺さぶり」、「〔不安を煽る〕動揺」として語ってきた。彼は繰り返し繰り返し、だがいつも違うように、「システム全体に広がっていく脱臼させる力を生産すること」について、「脱-沈殿化」としての脱構築について、「すべての本来固有の秩序を[紊乱する]突然の侵入の力」について、書いてきた。脱構築地震なのだ。

(「ジャック・デリダ (シリーズ現代思想ガイドブック) [ ニコラス・ロイル ]」p53-54)

紊乱って、読めねえな。
"びんらん"、乱すこと、という意味らしい。

この哲学者が後世に与えた影響は大きい。
現前/不在、知覚/想像、パロール(音声)/エクリチュール(書記)、精神/身体、内在性/外在性、自己性/他者性、自律性/他律性、男性/女性といった、今まで支配的であったといった二項対立的世界認識、これらの二項対立は「実は成り立っていないんじゃないの?」と、ジャック・デリダは嫌疑をかけ、概念の不確定性や虚偽を暴いていく。上記にあるように、概念や常識を脱臼させる力であり、地震だ。

また二項対立は、物事を体系的に把握できるといったプラスの作用もあるかもしれないが、優劣や主従関係等を生み出すといったネガティブな作用もある。
だからこの脱構築という運動は、ジェンダー論やポスト・コロニアリズム研究においても支配的価値観を問いただす運動として、利用されている実践らしいな。建築業界にまで影響を与えた。

hash-casa.com少し話が逸れたが、まず「時間」という概念に揺さぶりをかける。というか、既に揺さぶりをかけられているんだけどね。

時間を構成している"過去"、"現在"、"未来"という概念は、何のことか。

人間は当たり前のように、「夢をかなえましょう」「将来は○○になりたい」「圧倒的成長でインフルエンサーになりましょう」だの、過去・現在・未来という時間軸の中で、過去よりも現在、現在よりも未来に、成長することを強いられる。

しかしこの時間概念に結び付いた"成長"という概念の中には、資本主義のイデオロギーが含まれている。
街を少し歩けば、雑誌を少しめくれば、すぐにそういう生産物に遭遇することができる。

「過去の自分を変えましょう」「もっと綺麗になりましょう」「老後2000万円問題をどうするか」など、未来がよりよいものになるように、過去や現在に変革を強いる。

つまり資本主義においては、"あるべき未来"が先に提示され、現在や過去に従属を強いる。
人々に「降りることを許さない」ように仕向けているものの正体は資本主義が生み出すハイパーリアルでも述べたが、ハイパーリアルが、あらかじめ提供されている。
もしその従属を拒否した場合。
変革せずに日々、同じ状態に滞留し続けたら?
「あの人、何もしてねえ」「ずっと無職で生きてる」「ひきこもり」等のレッテルを貼られ、差別される。
ひきこもりの記事、最近も話題になってたな。

b.hatena.ne.jpNHKの「こもりびと」も、観てみたのよ。

www2.nhk.or.jp武田鉄矢が演じる倉田一夫が、松山ケンイチが演じる倉田雅夫に、プレッシャーを与えていた。


何がプライバシーだお前は!いいか、大人になったら働いて税金を納める。それが社会人の務めだ!

言っとくがみんなな、必死に我慢して、頑張ってんだぞ!

契約社員?大学まで出してやったのに、なんで正社員になれないんだよ。非正規なんてお前、アルバイトとおんなじじゃないか。ええ、何十社も受けてさ、一社も合格しないって、どういうわけだよ。黙ってないで何か言えよ。

結婚はできないわ、仕事は続かないわ。恥ずかしくないか。少しは俺の立場も考えろ。このままだとお前、家族の恥さらしだぞ。


北香那が演じる倉田三咲も、「30歳から10年間、ずっとあの家にいたの?」と驚くシーンがあった。
ここまでプレッシャーを与えられ、雅夫は、心情を吐露する。

本当は焦ってる。同世代はみんな働いて、結婚して、家庭を持って。なのに俺はずーっと止まったまま。毎日、夏休みの宿題が終わらないで焦ってる8月31日。

このままじゃいけないってわかってる。頭ではわかってるんだけど・・・体が動かない。最悪だよ。マジ最悪。・・・俺・・・生きてていいのかな・・・・・・こんな人間でも生きてる価値、あると思う?


一夫が言うように、40歳という時間軸においては、仕事をして結婚しなければならないという社会的圧力が存在している。
誰が決めた?それは明らかにされることはない。
「常識だから」で説明されてしまう。
その常識がまさに、資本主義のイデオロギーだ。

資本主義のイデオロギーが提示する未来は、人間を過去や現在から、変わるように強いてくる。
時間という概念に、アルチュセールがいうようなイデオロギー装置が結びついている。時計や時刻表や乗換案内等はまさに、イデオロギー装置として機能している。
アルチュセールが提唱した国家のイデオロギー装置(AIE)には、"時間的AIE"のような記載はないが。
テキストを細かく追えば、言及している箇所もあるかもしれないね。

未来は、過去や現在よりも、よりよいものにしなければならない。
そして「よりよいもの」というのは、資本主義のイデオロギーと深く結びついている。

その証拠は、いくらでも見つけることができる。
上気に述べた、倉田一夫の発言もそうだ。

資本主義イデオロギーを疑うことなく内面化して生きてきた倉田一夫と、その内面化が機能不全に陥った倉田雅夫が、対立する。

資本主義的生産にとって危険なもろもろの流れは、市場の法則よって回収され吸収されなければ革命的な潜在力に充ちており、あたかも芸術家や知識人たちがこういう危険な流れを流れさせる恐れでもあるかのように。なぜそれは一方で抑制―抑圧の巨大機械を形成し、それ自身の現実を構成するもの、つまりこの脱コード化する流れに対抗しようとするのか。その理由は、私たちがすでに見たように、資本主義がまさにあらゆる社会の極限であるという点にかかわっている。つまり資本主義は、他の社会組織体がコード化して超コード化してきた流れの脱コード化を完成するからである。

ところが、資本主義はあらゆる社会の相対的な極限であり切断であるにすぎない。なぜなら、資本主義はもろもろのコード化の代りに、きわめて厳格なひとつの公理系を採用しているからである。この公理系は、流れのエネルギーを、脱コード化した社会体としての資本の身体の上に縛られた状態に維持する。

この社会体は、他のあらゆる社会体と同じく、いやそれ以上に冷酷な社会体なのだ。

これとは逆に、分裂症はまさに絶対的な極限であり、これは、もろもろの流れを、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行させる。

だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのもののの外的極限、つまり資本主義の最も根本的な傾向の終着点であるが、資本主義は、この傾向を抑止し、この極限を拒絶し置き換えて、これを自分自身の内在的な相対的極限に代えなければ機能しえない。資本主義は拡大する規模において、この相対的極限を絶えず生産するのだ。

資本主義は、一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反する傾向をもったマルクス主義の法則は、こんなふうに解釈し直さなければならない。したがって分裂症は、資本主義の全地平のすみずみまで浸透している。しかし、この資本主義にとっての問題は、ひとつの世界的公理系の中で、分裂症の電荷とエネルギーをつなぎとめておくことである。この世界的公理系は、新たな内的極限を、脱コード化した流れの革新的な力にたえず対立させているものであるからである。

こうした体制においては、消滅したコードに代って到来してくる公理系化と脱コード化とを区別することは、たとえば二つの時期に区別するようなことは、不可能なことである。流れが資本主義によって脱コード化され、そして公理系化されるのは、同時なのである。

だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなく、逆にそれとの差異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第一〇節 資本主義の表象)

資本主義の中に存在してる働かない人間、資本主義を脱コード化しようとする流れに対抗し、資本主義は公理系化する。
"ひきこもり"というラベリングとともに「社会問題」化して取り込み、それを実践する人間を矯正すべき対象として、内在化し、相対的極限に追いやる。
相対的極限として管理下に置き、「40歳のあるべき姿」という常識、公理系に戻るように強いる。こもりびとである倉田雅夫はプレッシャーを受け続ける。

だが、それを倉田雅夫は拒否する。時間に従わない。さっき、時間という概念は揺さぶりを既にかけられていると言ったが、まさにひきこもりの現場で、時間の脱構築が起きていると言える。
だが資本主義は極限に向かうひきこもりを許さず、抑制―抑圧の巨大機械を人間の器官機械に接続する。

このドラマでは、就活もテーマになってたな。
俺が就活していたとき、誰かしらに「進化するモチベーション戦略」という本を勧められて、読んだ。


本の一説に「遊・学・働の融合」っていう言葉が出ていた。
学校で「学び」、会社で「働き」、放課後や就業後に「遊ぶ」という一元的な考えを捨て、「仕事はカネを稼ぐために自分の時間を切り売りするもの」っつう発想から脱却しろ!みたいな話。
成長するためにはそれが必要だ、大事だ、と。

その「成長」ってのが、イデオロギーだ。

ビジネス書や自己啓発本は、当たり前のように「成長」という言葉を並べ立てるが、その背後に存在している資本主義のイデオロギーについては語らない。
常識だから、当たり前の前提だから、語る必要のないものとして扱う。

「成長」という概念は「過去・現在・未来に時間が進んでいくことに合わせて、金銭の獲得能力や社会的地位を向上させること」だという前提に、全く疑問符を投げかけない。

空間化された時間、過去・現在・未来という時間概念を作り出し、人間を時計で管理する。
過去よりも現在、現在よりも未来に、資本主義のイデオロギーに則って「成長」するように仕向ける力が働いている。

ドラマに出てた倉田雅夫だって、成長してるだろう。
病床に臥す母親の介護をするという名目で、レストランの仕事を辞めて、ひきこもりになることに成功した。ひきこもりとして「成長」したよ!

なんて言われたら、違和感を感じるか?

もし感じたのであれば、それは人間が、資本主義社会の大量のシニフィアン、そのイデオロギーの影響によって無意識に「ひきこもりは悪いこと!成長なんてない!!」と、条件反射で想起させられるようになっていることに他ならない。
もちろん、イデオロギー以前に、自分が畑を耕しているのに、畑仕事を全くしない働かない八兵衛を視認して相対化し、身体を動かしていない人間に対して軽蔑の感情が湧くといった生理的嫌悪感の影響もあるとは思うが。

何にせよ、この「時間の経過とともに成長しなければならない」というイデオロギーに耐えられない人間は、それに拒否反応を示したり、抑圧したり、対抗しようとする。
今日語ったひきこもりもそうだが、まだまだある。

その対抗の流れは、永遠回帰もそうだ。ニーチェ永遠回帰を科学的な事実と述べたが、まさに起きている。
永遠回帰への意志、その円環時間の発生は、脱コード化した流れだ。
なぜこの流れが生まれたか。
それは「生産し続けるために成長せよ!」という、資本主義の直線的な時間イデオロギーに疲弊した人間が、そのイデオロギーに対抗して生み出した別のイデオロギールサンチマンだからだ。

ありとあらゆる場所で、発生している。
この前書いた、永遠回帰もそうだ。
ケツメイシの「さくら」やOfficial髭男dismの「Pretender」のように、人間はこの曲を通じて、美化された記憶を永遠回帰させている。
サイプレス上野とロベルト吉野「メリゴ feat. SKY-HI」、Jambo Lacquerの「マスヨウニ」、大橋トリオの「きっとそれでいい」も、現状肯定というルサンチマン、脱コード化、滞留によって、直線的時間の流れに抗おうとしている。今ある現状の永遠回帰を肯定する。

まだまだある。資本主義的時間のイデオロギーによる公理系化に対抗する、永遠回帰による脱コード化というルサンチマンが。

それはまた別の機会に話そう。