逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

ニーチェの永遠回帰が求める回帰対象は現実の介入によって変質する

イルカの「なごり雪」は、言わずと知れた名曲だよな。



いきものがかりの水野が、この曲の魅力を語っていた。
news.radiko.jp

水野:ふと彼女の横顔を見たときに、自分が知っている彼女ではなくなっていた。今まで、長い時間を共に過ごしてきたはずだけど、彼女とは違う人生を生きているんだと、主人公は悟るわけです。自分とは違う夢を見ている、違う道を進んでいる。しかも、「彼女にとって進むべき道なんだ。彼女の幸せにとって、これが正しい道なんだ」ということを悟っていて、そこに何もすることができない、ぼう然としている自分がいる。さまざまな全ての感情が歌詞の最後の2行の中に詰め込まれていて、聴き手がいくらでも想像を膨らませることができて、いろいろな物語がうまれていきます。

そう、そうだよな。悟ってんだよ、主人公は。
何もすることはできない。
君が去った ホームに残り」「落ちてはとける 雪を見ていた」ってとこがも~う、悲しすぎる!

ただ、現実を受容してるよな。
「振られた」っていう現実はそこにあるんだけど、彼女の幸せを願って、お互い別々の道を歩んでいくのも、いいのかな…みたいな、諦念に近い納得。
サブサイトの何かに共感したときに自分のコンプレックスを無意識に抑圧して現実を直視しない欺瞞行為が行われているの記事でも説明したが、なごり雪の主人公および、この曲に共感して癒された人は、ルサンチマンの実践者よ。
過去に戻って彼女との思い出に浸って、自己憐憫する。

中西保志の「最後の雨」のように、彼女との未来を描き、彼女との未来と価値の創造を試みる。それができないなら、彼女を壊して誰にも奪われないものにするというディオニソス的な実践は、なごり雪にはない。
ツァラトゥストラは、「そうであった」を「わたしはそう欲した」に創り変える力への意志があり、欲したものが永遠に戻ってくることを望む。

・・・もし一度あったことをもう一度欲したことがあるなら、そして「おまえはわたしの気にいる、幸福よ!利那よ!瞬間よ!」と言ったことがあるなら、それはすべてがもう一度戻ってくることを望んだのだ!
・・・すべてのことが改めておこり、すべてが永遠に、すべてが鎖でつながれ、すべてが糸で結ばれ、すべてが愛でつながれている、そのような世界をきみたちは愛したことになるのだ。
・・・きみたち永遠の者たちよ、そうした世界を永遠につねに愛せよ。そして苦痛に対してもこう言うがよい、過ぎ去れ、しかしまた戻ってこい、と。なぜならすべての快楽はーー永遠を欲するからである!(『ツァラトゥストラ』第四部「酔歌」) 

ケツメイシの桜に出てくる主人公と、それに共感する人も、ルサンチマンの実践者だ。

過去と折り合いをつける。
桜舞い散る季節になれば「彼女と過ごした思い出、よかったなぁ」と、過去を美化し、現状を肯定する。

ただ、ルサンチマンの実践であると同時に、ニーチェにおける超人、ツァラトゥストゥラのように、永遠を欲しているのかもしれない。彼女との思い出が回帰するように、せめて脳内世界でだけでも体験できるように、何度もこの曲を聴く。
official髭男dismの「Pretender」もそうだ。

本当は君を欲しているにも関わらず、「君の運命の人は僕じゃない」「辛いけど否めない」という諦念によって、現在に折り合いをつける。
「君は綺麗だ」という記憶の美化、君が綺麗だということで、君と過ごした過去は綺麗な思い出となり、現在の生きていく糧となっていくのだろうか。

だが結果として、君を手に入れることはできなかった。自分が恋愛におけるルーザーであることを直視しない。
それを直視すると、自尊心が傷つく可能性がある。
彼女を手に入れられなかった原因、彼女に寄り添う気遣いが足りなかったか、金や地位等のステータスが足りなかったのか、審美的な側面でライバルに劣っているのか、自分の行動力が足りなかったか等、原因についての回顧が行われているようには見受けられない。
過去の失恋・失敗体験の美化と自己愛の保持に終始する。

ただ、これはルサンチマンではあるが、ニーチェのいう超人概念における永遠回帰の実践のようにも見える。過去の記憶の召喚によって、音楽による過去の思い出の反芻の促進によって、失われた過去が永遠に回帰するように仕向けている。

また、過去ではなく未来からの回帰もあり得る。

それは現実的な未来ではなくて、あくまで内的な予測に過ぎないから、現実ではない。あくまで「こうなっているだろう」という自我の領域における出来事だ。


(引用元:闇金ウシジマくん(1)[ 真鍋昌平 ]


俺様がおめーくれーの年齢の時は、もっと高い地位にいる」という未来予想図、自我で形成された「わたしがそう欲した」幸福のイメージが、日々の生活を通じて回帰するだろうと信じ続ける。回帰するために努力を続ける。
だが、その未来予想図が現実のレベルに回帰するかというと、回帰しない場合がある。


(引用元:賭博黙示録カイジ 7 [ 福本伸行 ]

成功のイメージ、未来予想図、「本当のオレ」「本当の私」かいつかやってくると信じ続けるが、現実にその幸福が回帰しない可能性がある。
そのまま老い、齢を重ねるごとに絶望が地層のように自意識に積み重なっていき、自己嫌悪のミルフィーユによって圧迫され死に絶える。

誰しも日々、希望を持って生きているだろうし、ニーチェが否定するルサンチマンを抱いた人間になり下がったりはしていない。本当の自分を求め続ける運動を続け、幸せな未来予想図が永遠に自分に回帰するように努力を続けるような、ツァラトゥストゥラの実践を行っている人もたくさんいるだろう。
「そうであった」を「わたしはそう欲した」に創り変える力への意志を持って行動している。


浜田省吾の「MONEY」の主人公の未来予想図は、純白のメルセデス、プール付きのマンションに、最高の女とベットでドン・ペリニヨンだ。
しかしブラウン管の中から、それを現実に、自らの身体に、生活に、回帰させることはできるのか?
パラサイト 半地下の家族」で、長男のキム・ギウ(チェ・ウシク)があの豪邸を購入し、半地下から出れなくなっている父親を救い出す未来を、現実に回帰させることはできるのか?
できない可能性が高いだろうよ。

永遠回帰を望むが、実際にはそれは果たせない夢として終わるのがほとんどだ。

だから人間はルサンチマンを抱いて、自尊心が引き裂かれないようにする。不満が生じればルサンチマンによって一時的に解消し、自分を正当化する価値観やイデオロギーを内面化し、現状に満足して力への意志を諦めてしまう。ニーチェがいう「末人」のようになってしまう人間も出てくる。

また、上記に挙げた失恋ソングはいずれも、自らの未来予想図から回帰させてない。当初は、ケツメイシの「さくら」やヒゲダンの「Pretender」も、永遠回帰を望んでいるという力への意志があるかと思ったが、よくよく考えたら、結局は過去の記憶からの回帰であり、本当に求めていた未来の回帰対象(彼女が隣にいてほしい未来)が変質してしまっている。
変質した回帰対象を閉ざされた自意識で反復して満足しているという点で、やはりルサンチマンの実践だ。
ハマショーの「MONEY」はツァラトゥストゥラだろうけど。

過去の思い出を回帰させ、美化し、感傷に浸る。求めていた未来からの回帰ではない。本当は、失恋をせずに、愛する対象を手に入れる未来を回帰させたかったのではないか?
それができないから、人生のハイライトであった幸せな時間、君と過ごした時間を、何度も反復し、回帰させる。

つまり永遠回帰の対象は、現実の仕打ちによって、変質させられる。

これはほぼ、無意識に行われるルサンチマンの実践だ。
ニーチェが、ルサンチマン永遠回帰の関係をどう語ったかは知らない。
永遠回帰によって超人になれるみたいな話は書いてた気がするけど。

これは「美化された記憶の永遠回帰」として、ルサンチマンの呼吸の一つに加えておこう。
ニーチェ自身も、このルサンチマンの実践を行っていたからな。

ニーチェはルー・ザロメとのイタリア旅行にて、二人きりで長い散歩をした時のことを、ルーへの手紙の中で「私の生涯で最も恍惚とした夢を持った時間だった」と語っているように、過去の記憶を、回帰させ、幸福感に浸っている。それは一時的なものなのか、永遠に続くのかは判らないが、前者である気がする。
また、手紙を出した後に、ツァラトゥストゥラの執筆に精を出したらしいから、ルサンチマンではあるけれど、ネガティブな作用をもたらすわけではなく、ルサンチマンが人間の活動に能動性を与えている。

また失恋ソングの中には、上記に挙げたものと性質が異なるものもある。
みきなつみの「こんなやつに振られるとか」だ。



この曲の場合は、過去の思い出の回帰による記憶の美化、とは言い難い。
かなり厳しい現実を反芻しているからな。

最後の「君ってクズだ」という、愛する対象の否定が行われている。これを、過去の払拭と前に進むための契機にしているような印象を受ける。

だからこの曲の場合は、先に紹介した無意識に行われているルサンチマンの実践ではなくて、もっと素敵な彼氏との幸せな日々が、永遠に回帰するような未来を希求しているような余白があるという点で、ツァラトゥストゥラに近い気がするな。