逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「男はつらいよ」の寅さんに共感する背後にルサンチマンがある

おととい、今日と、ブログのアクセスが普段の4~5倍ぐらいある。
「弱者女性論が盛り上がらない理由について」という記事にアクセスが集中している。

gyakutorajiro.comツイッターで共有してくれた人がいるってのもある、感謝。

15ブクマも越えてくれた。
バズる、というほどではないだろうけどね。

さて、今日ははてなブログ今週のお題「わたしのドメイン」をテーマにしようかな。
ドメイン、インターネット上の住所のことってことで、その話題を書くか。

このドメイン、「https://gyakutorajiro.com/」は、「男はつらいよ」の寅さんにすらなれない、世にいう弱者男性としての生き様、ルーザーとしての生き様を、このドメインに込めたのよ。

自分語りになるが、なぜ逆寅次郎は、寅さんよりも生き辛さを抱えているのか?
それは、寅さんと独身という点は同じだが、寅さんと違ってロマンスも起きず、家と職場の往復や似たような仕事の繰り返しという機械運動を繰り返し、自分が食う分だけの仕事をしているからだ。

「いやそんなことはない。仕事を通じて、社会に役立つものや感動させているものを生み出しています!」という、どこかしこから供給されてきたに社会人としてのこうあるべき道徳を、忠実に内面化し、その価値観を自分のレゾンデートル(存在意義)を補強するために自己暗示によって内面化、従順な身体を組織化して満員電車に乗って仕事に明け暮れた20代もあった。

しかし今は、サラリーマンをやめて寅さんみたいな、テキ屋ではないが、自営業をしている。
フーテンだ。自営業だからといって、儲かっているわけではない。
自分が食う分だけの仕事しか出来ていない。
自尊心が瓦解してタナトスが立ち現れる前に、自分を肯定してくれる伴侶を獲得するための婚活をしようにも、その費用がないぐらいの低所得の有様。

「じゃあがんばって、また会社で頑張りなさい!」といっても、もう無理だ。
20代は出版社で頑張れてたが、会社の経営悪化や人間関係のストレスもあった。
IT人材不足の原因について元底辺ITエンジニアが考えてみたらこの国のITエンジニアの中間層は没落する結論に行き着いたでも語ったが、IT業界にたった3年いただけで、俺はもうクタクタになってしまった。

そして寅さんになる。
福山雅治主演の「そして父になる」は、礼賛される。
父親になるということ、資本主義的イデオロギーの要請の実現に対して、その行為を神聖化するメディアやコンテンツがありとあらゆる現場に散乱している。

逆に「そして無職になる」「そして寅さんになる」といった、無職や風来坊になる物語は、その主人公が神聖化されることはないのか?

否!

そんなことはないだろう。
寅さんも神聖化されている。

男はつらいよ」で寅さんは、車寅次郎を演じる渥美清は、今も愛されている。無職や風来坊でも愛される。

風来坊といえば、風来のシレンを思い出す。
実はこの、日本の雇用形態は、風来のシレンと類似性がある。
風来のシレンは、たしかどんなに頑張っても、ダンジョンから出たらレベル1とかになってた。
そう、リセットされる。
その感覚を俺は、味わった。
出版社からIT業界にキャリアチェンジする際、年収300万に落ちた。
姉妹サイトのこの記事でも語ったが、「キャリアの分散」によって、風来のシレントルネコの大冒険RPGシステムのように、レベル1になってしまったんだ。
30過ぎたオッサンに片足突っ込んでいる男が、新卒の若僧と同じ給与水準になっちまったんだ。
出版社の編集マンから、ITエンジニアにキャリアチェンジして、大失敗だ。
「転生したら学生に毛が生えた新卒の若僧と同じ給与水準だった」という、まったく面白くもなさそうな屈辱の日々の出来上がりだ。
なろう系小説のようなチート能力も、爽快感も、何もない。
それが現実。

また、風来坊といえば、名古屋の風来坊の手羽先もおいしい。
山ちゃんよりも上品な味付けなんだよ。
山ちゃんは山ちゃんで、あの化学調味料なのか天然系なのか知らねえが、魔法のスパイスがガツーン!って感じで、あの傍若無人なワイルドな感じが好きだけどな。ルード(荒々しい)な感じだ。
逆に風来坊は、ハーモニー(調和)って感じ。ちょっとシャレオツこいてる、いいちこのCMみたいなイメージ。

話が脱線したので元に戻す。

こんな記事があった。

anond.hatelabo.jp男はつらいよ」が嫌いだと。ああそうかい。

まあわからなくもない。
どこがいいんだと。

メロンが食えない些末な事柄で激昂し、テキ屋として放浪し、トラブルを生み出し続ける。
なんでこんな男を、多くの人が愛し、同一化対象になり得るのか。
その答えとして、ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」で、こんな一節がある。

われわれがごくふつうに抱いている同一化の観念は、モデル、理想、イメージ・メイカーを模倣するというものである。たとえば、よく(たいていは「成熟」した視点から下を見下ろしたような言い方で)、若者は人気ある英雄、ポップ・シンガー、映画スター、スポーツマン等々に同一化する、と言われたりする。この一般的な観念は二重に誤解を招く。第一に、われわれが誰かに同一化するときにその根拠となる特徴は、ふつう隠されている。それはかならずしも魅力的な特徴とはかぎらないのだ。

このパラドックスがわからないと、深刻な政治的誤算を生むことにもなりかねない。一九八六年のオーストリアの大統領選を例にとろう。その中心にいたのはワルトハイムという問題の人物である。左翼陣営はワルトハイムはその偉大な政治家というイメージで有権者を惹きつけるだろうという予想から出発して、次のようなことを大衆に証明することを彼らのキャンペーンの柱とした。すなわち、ワルトハイムは疑わしい(おそらくは戦争犯罪に絡んだ)過去の持ち主であるばかりか、自分の過去を直視しようとせず、そのことに関する重要な問いから逃げてまわる人物だ、要するに、ワルトハイムの基本的特徴は外傷的過去を「洗い直」そうとしない(「徹底捜査」にかけない)ことだ、と。

左翼陣営が見落としていたのは、中道派有権者の大多数はまさにその特徴に同一化したのだということである。戦後のオーストリアは、まさにその存在からして、ナチと関係したというみずからの外傷的な過去を「洗い直す」ことへの拒否の上に成立していたのである。だから、ワルトハイムがみずからの過去との対決を避けていることを証明することは、有権者の多数の同一化の特徴そのもの強調していたのである。

ここから学ぶべき理論的教訓は、他者の失敗とか弱さとか罪悪感といったものもまた同一化の特徴たりうるということだ。したがって、われわれは失敗を指摘することによって、はからずも同一化を強化してしまうのである。とくに右翼イデオロギーは、同一化の特徴として、弱さとか罪悪感を大衆に提供することに長けている。その痕跡はヒトラーにさえ見られる。ヒトラーが大衆の前に姿を見せると、大衆はやり場のない怒りのヒステリックな爆発とでも言うべきものに同一化した。つまり、大衆はこのヒステリックなアクティング・アウトの中に自分自身を「認め」たのである。

(引用元:「イデオロギーの崇高な対象 [ スラヴォイ・ジジェク ]」 汝何を欲するか)

2020年にこんな記事があった。
なぜ安部支持は揺らがないか。

gendai.ismedia.jpこの記事にあるように、安倍晋三が裏で何やってようが、不祥事を起こしていようがどうだろうが、関係ない。
政治家は時折、上記記事で紹介されているように、「かわいいおじさん」となって若者や小市民と同じ土俵に降り、同じ文化を消費しているように振る舞い、親近感を湧かせて同一化対象になってもらうように接近する。
接近された人間は愛着が湧いてしまって、マニフェストの中身だとか、過去に不祥事はないかとか、調べたりしない。

もちろん「若者は~」といって説教垂れる気もないし、若者の中にも、高い政治意識や情報処理によって、自分や社会に有益なステークホルダーを真剣に考える人もいるだろうけど。
重要な判断要素が抜け落ちた、無意識的な情報処理が行われる場合も多々ある。

不祥事やスキャンダルといった外傷的な部分を隠蔽するための、政治と関係ない同一化要素を目立つようにし、アピールする手法。手品のトリックみたいなものだろうか。

また、ジジェクが言うように、弱さも同一化の要素になり得るだろう。
ここに垣間見れるのは、ルサンチマンだ。

フーテンの寅さんを生産することで、そのロマンスを描くことで「無職でもすばらしい恋ができるんだ!」といった、反資本主義的なルサンチマンを生産する。

現実には、無職で甲斐性無しの寅さんのような人間を尊敬して寄り添ってくれる人は、女性も男性も、滅多にいない。
にも関わらず、「男はつらいよ」においては、舎弟としてテキ屋業務をいつも手伝ってくれる登という男が傍におり、「無職でも尊敬してくれる人はいる!」といった承認欲望を満たすルサンチマンを生産する。


柴又、昭和の下町のような人情空間への同一化。「よぉ寅ちゃん!」と声をかけてくれる。でも現実はどうだ?令和のコンクリートジャングルで、誰にも声をかけられずに家路につく。

家に帰れば、さくら(倍賞千恵子)のような可愛い妹がいるか?実際どうだ。妹はいるかもしれない。だが、さくらのように気遣ってくれるだろうか、もしフーテンの渡世人で、定職についていない場合、妹はお兄ちゃんを話題にせず、存在しないように振る舞うのではないだろうか。

いや決して、寅さんを否定しているわけではない。逆寅次郎というハンドルネームやドメインも、寅さんにインスパイアされたわけだしな。
寅さん語録、たくましいフーテン、現代でいうフリーランスや、独身男性に、力を与えてくれる言葉もあるかもしれない。

寅さんの口上、トラブルを起こして罵り合う姿が、面白かったりする。
しかし上記に述べたように、ルサンチマンではある。
そんなこと言うと、寅さんファンに怒られるかもしれないけどね。

でも寅さんだけじゃない。

資本主義社会であるにもかかわらず、もっと素晴らしい別の価値観があるように見せかけ、人々のコンプレックスが爆発しないように抑制をかける。
ドゥルーズガタリが語るように、マネー資本主義による不調和が起きようとする際、寅さんのようなルサンチマンが具現化した生産物が抑制に向かう。

分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。
確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても、実は私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出すものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。
なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。
それはみずから極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』p70)

2000年代に流行った「電車男」もそうだろうよ。
「オタクでもアキバ系だとしてもすばらしい恋ができるんだ!」といったルサンチマンの生産物によって、資本主義が生みだす分裂症的気質を抑制し、資本主義を維持しようと、労働者たちが継続的に資本を再生産するよう、資本主義は機能する。

「年をとっても長澤まさみのような若い娘と恋愛できるんだ!」と思わせてくれる「二十歳の恋人」、「ブスでも鈴木おさむのようなアッパークラスの男を手に入れることができるんだ!」と思わせてくれる「ブスの瞳に恋してる」、「オッサンでも小松奈々みたいなブルベ女子高生が好きになってくれるかも!」と錯覚させてるかのような「恋は雨上がりのように」等、資本主義の残酷さ、ルッキズムの残酷さ、資本主義のあってはならない外傷的な部分が表出しないよう、全力で生産し、抑制する。

昔、友達の結婚式でGreeenの曲を聴いた。

ただ泣いて笑って 過ごす日々に 隣に立って いれることで~♪(愛唄)


その曲は、「全面的な肯定」に満ち満ちていた。
現実に存在する、カネという資本主義的要素を含んだ性愛関係を無視し、まるで「恋愛には資本主義は関係ない」かのように見せかける。

Greeenを聞いて、プロレタリアート達は、自らの経済的コンプレックスから解き放たれ、安堵する。
二つの生産物、生理的快楽を満たす物質的生産物と、それがもたらす不調を抑止するための観念的防衛機制装置(ルサンチマン)の生産によって、資本主義は再生産と維持を続ける。

この見せかけ、映画「マトリックス」において、ジャン・ボードリヤールの「シミュラークルとシミュレーション」の本が登場するシーンがある。

マトリックスにおいて、上記に挙げた「男はつらいよ」や「Greeenの曲」の世界観は、まるで「資本主義は存在しない」かのようなルサンチマンや見せかけ(シミュラークル)によって、人間の意識や自我を組織化する作用、マトリックスで人間をプラグに繋ぎ、都合のいい見せかけの現実で日々を過ごすように仕向ける人間へのコード化がある。

しかしそのシミュラークルが機能しない場合もある。
かつて高樹沙耶は、無償労働を求めた。

www.j-cast.com高樹沙耶のブログが炎上したのは、「見せかけ」が機能不全に陥ったからかもしれない。
マトリックスが機能しなかった。

ルサンチマンというマトリックスが、ネットワークになって資本主義社会を網羅している。寅さんは好きだが、当サイトはルサンチマンや無意識の存在を暴き出したり、逆にルサンチマンをマインドフルネスに活用するというコンセプトなので、まあこういう結論になっても仕方ない。

増田ももし、この記事を読んでくれたらわかっただろう。

寅さんは弱いからこそ、無職でロマンスがなくて性格もよくない男たちは、より一層と同一化することができ、フロイトがいう「夢は願望充足である」を具現化しているということを。