いつも通りニュースをチェックしていると、こんな話題があった。
anond.hatelabo.jp喪女はいつも透明化される、読んでみると、弱者男性の女性版、いわゆる弱者女性の悲哀がつらつらと書かれていた。
そして増田は疑問に思った。
意中の男性に相手にされない女性、勇気を出して告白しても迷惑がられたり笑われたりして苦しむ女性の存在を一切想定していないのはどうしてなんだろう。
これについての回答、実はある。
人間のルサンチマンと無意識を研究している俺は、その答えを提示できる。
赤いカプセルを飲む勇気があるなら、その理由を示そう。
その理由は、これだ。
弱者女性論は、金にならないから。
これに尽きる。
以下、その理由を説明していこう。
既に弱者男性論は金になるという話は、ソフィスト達の「結婚できないのはあなただけじゃない」という奴隷道徳($◇a)の供給と内面化によって自らの自尊心や存在意義を保つの記事で、その可能性を示した。
ではなぜ、弱者とされる女性に寄り添う言論が生まれないのか、その理由はどうしてなのか。
それは、女性の場合は強大すぎるんだ。
「(異性愛の)恋愛をしろ」イデオロギーの強さは、男性よりも圧倒的に強い。
それについても既に「フェミニズム離れを考える暇がないほど強大な女性らしさを無意識に押し付けるイデオロギーの存在について」という記事で語った。
gyakutorajiro.com男性の場合は、恋愛以外の実存のロールモデルがある。
金、仕事、社会的地位、それらの力でのし上がる物語やロールモデルが生産されている。
逆に女性はどうだ。もちろん、あるにはあるが。
しかし、「女性らしさ」を押し付けるイデオロギーは強大だ。
例えば、フェミニストが好みそうな「キャリアのある強い女性の表象」として、古いが安野モヨコの「働きマン」等があるとしよう。
「働きマン」の主人公は確かに、男に媚びず芯のある強い女性として描かれているようではある。
しかし重要なのは、その主人公が日本のルッキズム的な価値観に則ると「美人に描かれている」ということだ。
ドラマの主演も菅野美穂だった。
「君に届け」(きみとど)とかもそうだ。
主人公の黒沼爽子は陰キャ女子、いわゆる喪女、一見すると、弱者女性に寄り添っているかのように見える。
しかし陰キャ女子の爽子はこれだ。
真ん中の黒髪の女の子が爽子だ。
その顔面の造形をよく見てほしい。
決して、醜女でも圧倒的醜女でもない。
実写化された際、爽子は多部未華子であり、恋物語を繰り広げる風早翔太は、三浦春馬だった。
こんな風に、喪女に寄り添うカルチャーであるかのようで、ルッキズム的には全く寄り添っていない現実が横たわっている。
男性の場合は、古谷実の漫画など、一部イケてない喪男の実存を描くような作品はある。
弱者男性が自己実現するルサンチマンが具現化したコンテンツもある。
だが、女性の場合は圧倒的に少ない。
異性愛の恋愛以外で自己実現する物語、ロールモデルの総量は、女性は圧倒的に少ない。
試しに数えてみたらわかる。電子コミックのサイトにアクセスし、少女漫画のメインテーマの総量が、圧倒的に異性愛の恋愛であり、主人公は美少女ないし美少女ではないが醜女ではなく描かれている。
強い女性を描くコンテンツ、「セーラームーン」や「プリキュア」もそうだ。
男性に媚びていないようで、「美少女戦士」セーラームーンである。
男性を魅惑する造形美を備えている。
なぜ醜女戦士セーラームーンが存在しないか?
考えてみてほしい。
それが、女性が「こうあるべき女性」を押し付けられ、内面化する力によって抑圧されている現実を示している。
プリキュアに至っても、その造形は可愛らしく魅惑的で、最初の「二人はプリキュア」に備わっていた暴力性や男性らしさは、シリーズを重ねるごと置き換わっていき、結局は「かわいい女性」が魔法などを使うようになってしまった。
レズビアンカルチャーにおいてもそうだ。
秋葉原駅のデジタルサイネージで、百合ラブスレイブ(鈴音れな)という漫画の広告を見かけた。
異性愛主義へのカウンターカルチャーにおいてさえ、美少女がその主人公となり、本当の喪女や弱者女性が活躍するコンテンツが存在しない。
もちろん、中にはあると思うし、あるのであれば教えてほしいが、多くの女性の意識を変えるほど強大な力を有した生産物は見当たらないだろう。
ロールモデルの強さは、そのまま、資本を生産するパワーとイコールだ。
女性文化を生む生産者でさえ、身体を女性として組織化され、異性愛の恋愛を実践する物語を生み出すように組織化される。
そのカウンターとして、フェミニストやLGBTQのカルチャーというロールモデルが生まれる。しかし、LGBTQのようなマイノリティーのカルチャーを描く場合も、美少女だったり醜女には振り切らず、男性からも愛される余地が残るようになっている。
もうお判りだろう。
増田が疑問として指摘するように、性的マイノリティーとしてではなく、性的マジョリティである異性愛者における言説において、パートナーを得られず苦しむ弱者女性の言説が不在である理由が。
それは、それぐらいまでに女性の意識や身体は「異性愛をしろ」というイデオロギーによる領土化(特定の価値観の浸透)の影響を被っているからだ。漫画やアニメやドラマや映画等の架空のロールモデルだけでなく、脱毛、化粧、体操、ダイエット、衣服など、女性らしい身体を強制する言説もある。
たまごっちは、結婚せずに放置すると、そのまま年老いて死ぬ。定期的に餌をやるだけでなく、結婚して子どもを産まないと生き続けられず、液晶画面に墓場と悲しい演出が流れる。異性愛恋愛イデオロギーの強制は、子どもが遊ぶゲームにさえ及んでいる。
どうしようもない喪女は、推し活やホスト遊びなど、弱者男性におけるオタ活や風俗のような、消費活動による慰めに走る。
美醜、生まれ、育ち、運命、それらはすべて才能の一部だ
市原悦子主演のテレビドラマを観た。スワローバンクの話である。主婦が若い男を買うというやつだ。スワロー役は金田賢一だった。市原悦子が、いかにもという感じで、最後まで観てしまった。
市原悦子の夫役はレオナルド熊だ。夫婦は爪に火を灯すような苦労の末、小さなスーパーを経営している。だが、苦労を共にしてきた夫は小金ができたことで、台湾やフィリピンに出かけては女漁りをしている。
市原悦子は、金田賢一に金を貢ぐ。売れっ子の金田賢一を確保するために、三十万円を店からくすねて、スワローバンクの正会員となる。金田賢一は、大会社の専務夫人に就職の世話を頼んで、警察に売られる。上流社会の力がスキャンダルを拒み、弱者である売春夫を叩き潰す、そういう図式である。
警察が踏み込んだ時、ホテルの一室には市原悦子もいた。市原悦子は、夫や家族や社会から断罪される。だが彼女は屈せずに、金田賢一のアパートを訪ね、冷たくされた末に、彼を刺すのである。
「愛してるって言ったじゃない」
と、市原悦子は金田賢一を責める。
「それは単なる仕事だ」
と、金田賢一は答えて刺されるのだ。とにかく市原悦子がすごかった。説得力のある演技だった。
(引用元:すべての男は消耗品である (集英社文庫) [ 村上龍 ])
整形をして、男性のマジョリティの言説やルッキズムに叶う身体を再編成しようとまでする。
(引用元:名探偵コナン(5)[ 青山剛昌 ]カラオケボックス殺人事件)
誰も「弱者女性がルッキズム等で虐げられる現実」を声高に主張しないし、「ルッキズム等で苦しめられた弱者女性が活躍する物語」が生まれない。
なぜなら、主張しても、ロールモデルを生産しても、誰もその中身に金を払わないからだ。
もしその主張に共感し、同一化した場合、どうなるだろうか。
まさにその同一化によって、異性愛者の女性は、男性に愛される存在としての自己実現を喪失するからだ。
その恐怖から、女性自身からさえ、弱者女性の言説は発生せず、生産されない。
同一化する女性もいない。
カネを払わない。
男性の場合は、弱者男性論等のルサンチマン(奴隷道徳)への同一化による慰めに金を払う。そのルサンチマンを信仰することで現実のストレスを希薄化できる。弱者男性の言説やロールモデルを生産して金儲けを図る男性もいる。
女性は希薄化できない。田嶋陽子の言説や、江口のりこ主演の「ソロ活女子のススメ」等、一部マイノリティの喪女に寄り添うコンテンツ等もあるが、先に述べたように、女性はその同一化によって異性愛の恋愛イデオロギーの要請に従えない人間となることを恐怖し、カウンターを生産しようとしても、男性が好む造形の余地を主人公に残してしまう。
男性的要請を完全には放棄しきれないほど、女性の身体が無意識的に組織化されている。弱者女性の言説やロールモデルを生産する女性の不在だ。
「恋愛すべし」や、ローラのように美しくなりなさい等、異性愛イデオロギーの強さ、異性愛ロールモデルの総量が男性よりも圧倒的に多いため、反比例する形で、異性愛において虐げられる弱者女性の言説も少ないんだ。
だがこれはある意味で契機だ。
増田のあなたが、喪女、弱者女性の実存を提示するんだ。
女性に異性愛恋愛主義を押し付けるこの腐れきった現実を変質するような生き様や価値観を、生産してみてはどうだろうか。
(続き:弱者男性論が盛り上がる理由について)