夏が近い。
ラジオからこんな音楽が流れてきた。
ああ、これはいい、真心ブラザーズの名曲だよな、ほんと。
俺みたいな30代後半~40代にとって、夏のアンセムだろうよ。
音のアレンジとドラマチックな展開のカッコよさ、夏の儚い一瞬を切り取ったような世界観、すばらしい。
響くサラウンドの波 時が溶けてゆく真夏の夜♪
そうさ~僕ら今~はしゃぎすぎてる 夏の子供さ♪
ってね。
異性愛恋愛の実存のロールモデルとして、誰もがサマーヌードの世界に憧れる。
サマーヌード的な夏を味わたい。
同一化対象として、サマーヌードは男女問わず、憧れだ。
山P主演でドラマにもなったからね。
しかし昨日取り上げた喪女の方においては、どうだろうか。
anond.hatelabo.jpまあ俺もそうだが、このサマーヌードの世界には同一化できず、サマーヌード的な波の音やカモメが鳴く声も、反町隆史や竹野内豊のようなビーチボーイズと接することなく、無音の一人きりの部屋で秒針を嚙む音を聴きながら素麺を食べる夏を過ごすのが関の山だろうか。
と言うと失礼だったかもしれないので、お詫びにもう1つ、謎に答えよう。
常に女性側が告白「される」側だという前提で進んでいるのは、フェミニストも自称弱者男性も何故か同じなんだよね…。
これは仕方ないことなんだ。
その「前提」の原因を教える、それは、
求愛行動の方向性
にある。
生物学だとか動物行動学だとか文化人類学の本だとかを何冊か読めばいい。
この前、当サイトで書いたこの記事でもいい。
gyakutorajiro.comアマミホシゾラフグの求愛行動を紹介してる。
オスからメスへという求愛行動の方向性が関わっている。
ほとんどの生物で、遺伝子レベルで刻まれているんだ。
オス→メスという求愛行動の方向性が。
organicindiatoday.com繁殖期が始まると、雄鶏はオーバードライブになり、交尾が彼の職業となり、執着するようになります。
www.3030.co.jpそもそも、コケコッコーと大きな声で鳴くことは、オスのみが行うメスへの求愛行動であり、早朝の静かな時間に鳴くことで、メスに声が届きやすくなり、アピールもしやすくなると考えられています。
このオス→メスという方向性は、遺伝子レベル、生物学的レベルで起きていることゆえ、人間においても抗うのが難しい。
それゆえ、その動物たちの遺伝子の残滓や共通項が残っている場合、人間が生み出す文化においても、「オス→メス」という求愛行動の方向性は大きな力を持つ。
進化生物学における「ランディ・ソーンヒルによるレイプの適応戦略説」というものもあるように、オラウータンやチンパンジーではレイプが行われている。
https://web.archive.org/web/20070616050231/http://anthro.zool.kyoto-u.ac.jp/evo_anth/symp0507/kuze.html【レイプするサル――オランウータンの性行動と繁殖戦略 久世 濃子(東京工業大学)】
人間社会においてはあってはならない行為ではあるもののの、医学による流産や社会的倫理が醸成されていない時代においては、DNAを継承するための最適戦略(Evolutionally Stable Strategy)になりうる可能性もあっただろう。
よって生物学的次元で行われている求愛の方向性が、人間の文化においてもそのまま反映され、「告白は男性から女性に行うもの」というイデオロギーが生まれる。
このイデオロギーこそが、弱者男性論が先行して出現した原因だ。
弱者男性論が生まれる以前まで、時代をさかのぼろう。
90年代カルチャーへの嫌悪感を示している人がいた。
anond.hatelabo.jp90年代後半、ではないが1990年付近のバブル期のモテ文化は、ヒエラルキーがあったようだ。
数年前にテレビで放送していた「マツコ・デラックスが紐解く日本のモテ現代史」を観ると、「バブル期における男女のモテカースト」として、このようなカーストがあったらしい。
・空間プロデューサー・・・エムザ有明(ディファ有明)を手掛けた山本コテツ、港区芝浦のタンゴや港区西麻布のレッドシューズを手掛けウォーターフロントブームの仕掛け人である松井雅美など。
・ヤンエグ・・・ヤングエグゼグティブ(青年実業家)。
・商社マン・・・英語混じりの会話と、アメックスのプラチナカードで下位を圧倒
・アッシー・・・女子の送迎を行うことで快楽を得る。
・メッシー・・・女子に食事を御馳走することが喜び。
・公務員・・・現在は大人気だが当時は底辺、安定=カッコ悪い。
・キャリアウーマン・・・勝気なルックスと舌鋒の鋭さが不人気。
・おやじギャル・・・休日を競馬・ゴルフ、アフターファイブを居酒屋などで過ごすおやじのような女性。
ヤンエグは当時の漫画に出てきたのを見かけた記憶があるが、空間プロデューサーはそんなにすごかったのか?
番組を面白おかしくするための茶番めいた部分も含まれているかもしれない。事実と虚飾の混合物?
でもPOPEYE等の雑誌カルチャーにおいて、異性愛の恋愛を煽るコンテンツ、男性から女性へのデート必勝法的なコンテンツが大量に存在していたのは事実だ。
このカーストだけではなく、見えないカーストのようなものは今もあるし、その結果ひずみが生じる。
上記の「当事者としては90年代後半の青春時代はクソ」という意見があるように、オスからメスへという、支配的な求愛行動の方向性によって、女性は「選ぶ側」としての地位や立場が固定化し、「選ばれない男性」が大量発生する。
この「選ばれない男性の大量発生」こそが、モテない男性であり、女性から選ばれない男性の嫉妬・怒り・恨み・辛みが肥大化し、潜勢力を持つ。
その潜勢力は顕在化し、ルサンチマンが具現化した文化となる。
大江千里の格好悪いふられ方、だけではない。
90年代の、男性のルサンチマンが具現化した、モテない男性の実存を提示するルネッサンスについては詳しくないが。
2000年代には、非モテ男性のルサンチマンが具現化した産物、例えば「電車男」や「ナポレオン・ダイナマイト」(バス男)、革命的非モテ同盟のクリスマス粉砕渋谷デモ等が、男性主導で行われていた。
メロコア青春パンクでは、「GOING STEADY」の「童貞ソー・ヤング」が流行った。
www.youtube.com「求愛する側」「選ばれる側」として男性は組織化されているがゆえに、「モテない」文化は、女性ではなく男性が生み出すものとなってしまった。
それが、今も続いている話だ。
ブラックサンダーのラップバトル、「非リア充」の男性が出てくる。
女性は「選ぶ側」としてしか登場しない。
男性の方は華開いた。
「非モテ」「リア充・非リア充」の文化を経て、性の喜びおじさんを嘲笑する文化、KKO(キモくて金の無いおっさん)の言説の生産等。
そして「弱者男性論」も、それらの流れの中にある亜流の1つだ。
川の流れを上流に辿っていけば、「告白は男性から女性へと行うもの」という強大な支配的イデオロギーがあり、さらに上流に向かえば、動物や生物の求愛行動において圧倒的に雄から雌、雄→雌という方向性が存在している事実に行き当たる。
弱者女性論が男性論よりも圧倒的に弱いのは、先述のような求愛行動の方向性、および、先日話した女性の異性愛の恋愛イデオロギーの強制力の圧倒的強さおよび喪女への同一化による異性愛恋愛における実存の喪失への恐怖によって、ヘテロ女性においては非モテ・ルネッサンスが起きないんだ。
なんかあったな。ヘテロ喪女の物語、「恋なんて贅沢が私に落ちてくるのだろうか」だったか。
小説の方はありかもしれないが、実写版は佐々木希を主演にしてしまった時点で、これは電車男級のモテないヘテロ喪女のためのルネッサンスになる力は失ってしまっただろう。いや、仮に佐々木希でなくても、電車男みたいにはならないかもな。
「猪又進と8人の喪女〜私の初めてもらってください〜」も怪しい。
だから今後も、「選ばれる側」である女性は、女性らしく振る舞うように組織化するイデオロギーの強制を受け続け、ヘテロの弱者女性や喪女カルチャーが、ヘテロ男性の悲哀や文化、弱者男性の話題よりも勢いを得るのは非常に難しい。
こういう「男性に愛されるための文化」が依然として強く、支配的イデオロギーとして機能し続ける。
mdpr.jpまあだからこそ、ヘテロ喪女の強い文化が生まれたら、面白いんだろうけどね。
KOEIが、ヘテロ喪女のための「喪女無双」みたいなゲーム作って、自分を振った男性や強者女性、読者モデルやインフルエンサーやインスタグラマーやティックトッカー、港区女子やインテリフェミニストや子ども自慢ママやマウント女子、およびブサメンやKKOではなくその他全てのイケメンおよびフツメンからの愛されモテ子全員を滅多斬りにしていくみたいな(笑)