逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「右肩上がり手書き文字」のエモさの正体はルサンチマンでありジジェクがいう空想的構築物でありドゥルーズ&ガタリがいう欲望機械である

こんな記事があったよな。

b.hatena.ne.jpなるほど、右肩上がり手書き文字はエモい、という印象があるんだね。
だが「エモい」という抽象化で真実を誤魔化してはいけない。
先に結論を言っておこう。
「エモい」だとか「エモさ」ってのは、日常生活での嫉妬・怒り・恨み・辛みの抑圧から生まれたルサンチマンだってことだ。

以下、それを証明する。
この右肩上がり手書き文字は、多くの現場で見受けられるよな。



映画のポスターだけでなく、町にもある。

公明党のポスター、政治に興味を持ってもらうために「Japan innovation」という、ローマ字の右肩上がり手書き文字を駆使したのか。

なぜ、このような文字をエモく感じるか?
“深み”、“親しみやすさ”、“共感”、“上昇志向”的なポジティブな印象、という説明だけでは不十分よ。

その背後に何があるか、その謎は、スラヴォイ・ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」と、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリの「アンチ・オイディプス」でも説明されている。

既に「母親になって後悔してる」女性の精神構造についてジジェクのラカン理論で解説の記事で、人間の無意識やイメージが、物質から受ける意味作用によって形成されることを示した。
同様に、このフォントが「エモい」とう感情を抱く以前に、人間は「エモくない」フォントに遭遇している。
資本主義社会において多くの人間は、企業や組織で、サラリーマンとして働いている。
そこで遭遇する会社のロゴは、どんなフォントか思い出してほしい。
おそらく、ゴシック体や明朝体だろうな。

この政治ポスターは明朝体だ。
明朝体もゴシック体同様、あらゆる場所に現れる。「蔦屋書店」だとかも、荘厳で上品な雰囲気を醸し出すために、明朝体っぽいのを使ってるだろうよ。

毎年、ブラック企業大賞というものが発表されている。最近はどうなっただろうか。

blackcorpaward.blogspot.comたぶん、このサイトで紹介されているブラック企業の中に、右肩上がり手書き文字のロゴを使った企業なんて一つもないだろうよ。
なぜなら、企業や団体は、キッチリとして誠実なイメージを出すために、文字の躍動感があまりない明朝体やゴシック体のロゴを使っているからだ。


さて、人間誰しも、そのようなロゴを掲げた企業や職場に、勤めに行っているだろう。
その職場で、仕事を通じてストレスを感じたことが無い人は、いないだろうよ。

code-g.jpそのようなストレスを職場で受けた人は、その会社のロゴ、フォントに、どういうイメージを抱くだろうか?
もちろん、ネガティブなイメージだろう。
もしくは、どうでもいい無関心の感情、無機質なイメージが、日々、職場に訪れる回数に応じて無意識に刷り込まれていく。

そんな日常生活を送っている最中、「右肩上がり手書き文字」フォント、今泉力哉監督の映画ポスターを見る。

ここで「エモい」と感じる。
それは、自分の日常にあまり触れることがない脱日常感が存在するからよ。

もし毎日、「株式会社 愛がなんだ」という企業に勤めていて、「前にも言ったよね?」「まだ終わってないの?」「ノルマ達成できてないじゃん」みたいな叱責、パワハラやセクハラを日々、受けてたら、どうよ?
そんで、その会社のロゴがポスターと同様に、右肩上がり手書き文字のフォントだと、どうよ?

全く「エモい」という感情は抱かねえだろ?

だって会社のロゴという、日常生活の大部分を占める支配的シニフィアンから、「また今日も詰められるなぁ」というシニフィエを日々、受け続けているんだから、逆に右肩上がり手書き文字のフォントを見ると「うわぁ」ってなるだろうよ。

つまり映画ポスターの「右肩上がり手書き文字」は、会社のゴシック体や明朝体のロゴが発する「もっと売上を立てろ」という資本主義イデオロギーに疲弊した人間の抑圧の日々から生まれたルサンチマンであり、フロイト的にいえば防衛機制よ。

 ジジェクがいうところの空想的構築物でもある。

だが、もし幻想が、「やっている」という現実そのものの中にあるとしたら、この公式はまったく違ったふうに読めるだろう。「彼らは、自分たちがその活動においてある幻想に従っているということを知っている。それでも彼らはそれをやっている」。たとえば彼らは、自分たちの自由の理念が搾取の特定の形態を隠蔽していることを知っているが、それでも依然としてこの自由の理念に従いつづける、というふうに。

・・・[中略]・・・

 イデオロギーに関してもまったく同じである。イデオロギーは、われわれが耐えがたい現実(リアリティ)から逃避するためにつくりあげる夢のような幻想などではない。イデオロギーは、その根底的な次元において、われわれの「現実」(リアリティ)そのものを支えるための、空想的構築物である。イデオロギーは、われわれの現実(リアル)の社会的諸関係を構造化し、それによって、ある堪えがたい、現実(リアル)の、あってはならない核(エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフによって「アンタゴニズム(antagonism)」、すなわちけっして象徴化されない外傷的な社会的分離、として概念化されたもの)を覆い隠す「幻覚」なのである。

・・・[中略]・・・

われわれはいわゆる「反ユダヤ的偏見」から自分を解放し、ありのままのユダヤ人をみることを学ばなければならない、と言うだけではじゅうぶんではない。そんなことでは、かならずやそうしたいわゆる偏見の犠牲になってしまう。イデオロギー的な「ユダヤ人」像にはわれわれの無意識的欲望が反映しているのだということ、すなわち、われわれは自分の欲望の行き詰まりを打開するためにその像をつくりあげたのだということ、を直視しなければならないのである。
スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」いかにしてマルクスは症候を発明したか)

会社という人間と人間がせめぎ合う空間、嫉妬・怒り・恨み・辛みといった感情が発生する現場に疲弊した人間が、それを抑圧するためにルサンチマンが生まれ、それが具現化した空想的構築物だ。

ジジェクがいう「あってはならない核」の正体は、サラリーマンとして企業に金銭を計上する貢献を行い食い扶持を稼ぎ続ける毎日、資本主義の現実だ。
企業は給与を払わないといけないが、同時に、剰余価値を収奪している事実も隠蔽されないといけない。その「あってはならない核」を、資本主義は全力で隠蔽する。労働を美徳とするありとあらゆる表象、会社説明会にいけば、まるで楽しいお祭りごとのような雰囲気を醸し出している。

辛くて抑圧的な日々、この現実を、右肩上がりのフォントという空想的構築物の生産によって、過去を遡及的に変えたんだ。
このファントを作ってくれ人に、ありがとうと言ってやりてえな、ほんとに。

また、この右肩上がり手書きフォントは、空想的構築物であると同時に、ジジェクがいう症候だ。

 もし――ラカンがいうように――症候において、抑圧された内容が過去ではなく未来から回帰してくるのだとしたら、転移――無意識の現実(リアリティ)の実現――はわれわれを過去にではなく未来に移動させなければならない。だとしたら「過去への旅」とは、このシニフィアンそれ自体の徹底的で精巧な遡及的作業のことに他ならないのではあるまいか。この作業とはすなわち、われわれはシニフィアンの領域において、またその領域においてのみ、過去を変化させ完遂させることができるのだ、という事実をいわば幻覚的に演じてみせることである。
 
過去は、シニフィアン共時的な網の中に取り込まれ、その中に入っていったときに、はじめて存在する。つまり、歴史的過去の織物=構造の中で象徴化されたときに存在する。だからこそ、われわれはつねに「過去を書き換えて」いるのである。つまり、一つ一つの要素を新しい織物=構造の中に取り込むことによって、それらの要素一つ一つに、それぞれの象徴的重みを遡及的にあたえているのである。この作業が、それらが「どのようなものであったことになる」のかを決定するのだ。
 
オックスフォードの哲学者マイケル・ダメットの論文集「真理という謎」の中に、たいへん興味深い論文が二編ある。「結果はその原因に先立ち得るか」と「過去を変えるか」である。この二つの謎に対するラカン的な答えは「イエス」だ。
なぜなら、「抑圧されたものの回帰」である症候はまさにそうした原因(症候の隠された核、その意味)に先行する結果であり、症候に取り組むことによって、われわれはまさに「過去を変えて」いるのだ。われわれは過去の象徴的現実、すなわち長い間忘れ去られていた外傷的な出来事を生み出しているのだから。

スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」症候からサントムへ)

人間が潰れないように、この資本主義社会を維持するために。
ゴシック体、明朝体、資本主義の生活で生まれるひずみを抑圧し、隠蔽しなければならない。

無意識に欲する。
精神にプレッシャーを与えるゴシック体、明朝体の空間から解放してくれるものを、欲望する。
そこで、生まれたんだ。
「右肩上がり手書きフォント」という、現実の職場での労働、資本主義の日常生活にはあまり見受けらない、意味作用をもたらすであろうシニフィアンが。
それを、「エモい」「エモさ」というシニフィエを与えて、資本主義の中に取り込む。

ゴシック体、明朝体の構成物である職場という空間の中で、抑圧された感情が回帰し、会社を無断欠勤したい、辞めたい、上司に反抗したい、といった症候が立ち現れそうになる。
その症候に、「右肩上がり手書きフォントの映画ポスター」という別のシニフィアンを取り込む。
「ああ、今日も会社で叱責されたけど、帰りに今泉力哉の映画を観に行く楽しみがあるから我慢しよう」と、「会社や上司への不満」という症候が変質する。

症候の残虐性(怒りで我忘れて会社の備品を破壊したり、パワハラ等を行ってしまう等)を、遡及的に希薄にすることができる。

この文化、右肩上がり手書きフォントによって自らの過去、人生に象徴的重みを与え、「この世界は多様性があって、いいもんだなぁ」と無意識に感じ、平穏な日々を続けることができる。

手書きフォントはこのように、資本主義社会で生きる個々人に癒しの作用をもたらすだけでなく、個々人の人生の過去を書き換えて症候が発症しないように抑制するイデオロギー装置として、機能している。

資本主義のこの抑制作用については、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリの「アンチ・オイディプス」でも言及されている。

分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。
確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても、実は私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出すものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。
なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。
それはみずから極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』p70)

「分裂者における意味の横滑りという現象」ってのは、連合弛緩のことかな。
この一節は、ジジェクの精神分析によるとイライラの原因は無意識に抑圧していた未来の痕跡が回帰したからでも引用した。

上記のゴシック体や明朝体と、手書きフォントのせめぎ合いにも示されるように、資本主義はこの生産と抑制を絶えず行っている。人間は資本主義が生み出すシニフィアンと、それがもたらすシニフィエの負荷を絶えず与え続けられる。

もちろん別に、資本主義を実践する国家と結託して、労働者の不満を抑制したり希薄にするために、右肩上がり手書きフォントが生産されたわけじゃない。
ドゥルーズガタリによると、国家は欲望の産物だ。
欲望は人間の産物であるがゆえ、ある人間の欲望が国家に意図せず寄与する事態は、あり得るだろうな。

国家はもはや、煉瓦上に維持されたもろもろの領土性を超コード化することでは満足しない。それは、貨幣や商品や私有財産の脱コード化した流れのためにコードを構成し発明しなければならない。

国家は、もはや、それ自身で、ひとつの、あるいは、複数の支配階級を形成するのではない。国家そのものが、独立的になった支配階級によって形成され、こうした支配階級は、彼らの権力、彼らの矛盾、被支配階級との闘争、妥協に役立つように、国家に委嘱するのだ。

国家は、もはや、もろもろの断片を統治する超越的な法ではない。それは、どうにかして、ひとつの全体を設計し、この全体に自分の内在的な法を与えなければならない。

もはや国家は、もろもろのシニフィエを整序する純粋なシニフィアンではない。それは、いまやシニフィエの背後に現われ、むしろ自分が意味するものに依存する。

もはや国家は、超コード化するひとつの統一体を生みだすのではない。国家自身が、脱コード化したもろもろの流れの場の中に生み出される。

国家は、機械として、もはや社会システムを規定するのではない。それはむしろ社会システムによって規定され、自分自身の機能の働きにおいて、このシステムに組み込まれる。
要するに国家は、あいかわらず人為的であるが、具体的になり、「具体化に向かい」、同時に支配的な力に従属する。技術的機械に対しても同じような進展が存在することを指摘することができた。

つまり技術的機械は、もはや抽象的統一体ではなく、または分離した部分集合を支配する知的なシステムではなく、具体的な物理システムとして働く諸力の場に従属する関係となるのだ。

ところがまさに、技術的あるいは社会的機械における具体化へのこの傾向は、ここでは欲望の運動そのものではないか。私たちはあいかわらず恐るべきパラドックスに逆戻りする。国家とは欲望であり、専制君主の頭から臣下たちの心へと、そして知的な法則から物理的システムの全体へと移行する欲望そのものである。物理的システムは、知的法則を免れて自由になるのだ。また国家の欲望という、この最も幻想的な抑制機械はやはり欲望なのだ。国家は欲望する主体であり、また欲望の対象である。

欲望とは、起源的な〈原国家〉を新しい状態の中に再び注入し、この〈原国家〉をできるだけ新しいシステムに内在化させ、あるいは内面化させる働きのことである。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』第三章 未開人、野蛮人、文明人(承前) 第八節〈原国家〉)

大量のシニフィアン、機械に依存する、新しいシステムの中に生きてる。
北斗の拳ケンシロウの決め台詞は「お前はもう死んでいる」だが、この資本主義に生を受けた人間は同様に「お前はもうシニフィアンの影響を受けている」と言える。

学歴・職歴・収入という人間を区別する機械、支配的シニフィアンがある一方で、それに対抗する機械、シニフィアンまで発生している。

note.com人間の無意識を分裂させ、一神教や危険思想が生まれないように仕向ける。
多様性という抑制機械を駆動させ、資本主義はそれを取り込んで内面化することで、自らを維持し続けてる。

つまり「右肩上がり手書きフォント」という技術的機械、抑制機械は、ルサンチマンが具現化した空想的構築物であり、それがたもたらすシニフィエは抑制機械として、その背後にある企業や団体およびそれらが組織化された国家に貢献している。

「愛がなんだ」というポスターのフォントは、ゴシック体や明朝体によって抑圧された日々を過ごす人間の欲望が生み出した物質だ。そのシニフィアンの影響を受けた人間がこの映画を観るために、映画館を訪れる。映画という欲望機械に人間が接続する時、日々接続している社会的機械を切断し、一時的な解放をもたらすだろうな。

だけど映画が終わるとまた、働くために社会的機械に接続しなければならない。
身体という欲望機械を満足させるために。