逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「ルッキズム批判」はルサンチマンであり弱者男性や弱者女性はその価値観に寄り添い自己愛を保つ

こんな記事が話題になってたよね。

anond.hatelabo.jpだけども。「若く美しい異性」に熱を上げてキャーキャー持ち上げる事って、きり子さんが白雪姫で痛烈に批判した「ルッキズム」であり「エイジズム」なんじゃないか?ともまた思った。

もし百鬼丸が特に見目麗しくも無い中年の親父でもこのきり子さんが変わらずどろろの事が好きで作品愛から二次創作をバンバン描いていたならともかく、そうじゃないでしょう?

だってよ。
確かにそうだよ。不毛なんだよな。

media.lifull.com ──では、自分が価値観を共有しているコミュニティーの中に「理想体形」のようなものがあった場合、それを目指すことは否定しなくてもいいのでしょうか?

 磯野:問題は「理想体形」そのものの存在ではなく、その体形への欲望に見境がつかなくなってしまうことだと思うんです。その過激さ、過剰さに乗ってしまわないように注意することが、いちばん大事なのではないでしょうか。

「問題は「理想体形」そのものの存在ではない」って言ってるけど、違うだろうよ。
人類学者の磯野真穂氏の意見は、この対談ではそこまで詳しく汲み取れないけれど。

理想体型の存在が、ルッキズムを生んでいる


のではないだろうか。
ジャン・ボードリヤールは、現実よりも先行する現実として「ハイパーリアル」を提唱した。
映画「マトリックス」で、ボードリヤールの「シミュラークルとシミュレーション」が出てくるシーンがあったのも。


仮想現実、いわば「抗うことが出来ない現実」のようなものが、あらかじめ用意されている。

gyakutorajiro.com"ひきこもり"は、支配的なイデオロギーによって"社会問題"という概念の中に押し込まれ、それに該当する人間を、その差別的なまなざしを隠蔽しながら差別している現実がある。
つまり、概念や言語で構築されたフィクションのコンテンツが、現実に先行している。
ジャン・ボードリヤールはこれを「ハイパーリアル」と呼んだ。

美意識に関してもそうだ。
「カッコイイ」「かわいい」「イケメン」「不細工」「ブス」等の判断は、脳で行っている。

 芸術家にとっては、ここで意図しているような間接的な意味においてさえ、芸術家と神経科学者を同等と見なすことは、意外なことであろう。なぜなら、芸術家の多くが当然のことながら脳については何も知らず、人は大脳皮質ではなく目でものを見ているという広く浸透している誤った信念を抱いているからである。
 ところが、彼らの言葉そして美術について書いている人々の言葉は、実際には、この誤った信念をしっかりと裏切っている。見る器官や視覚脳の役割についての彼らの見解が誤っていようとも、彼らの書いていることを見れば、現代の神経心理学者が単に理解するにとどまらず、非常に共感するような形で美術の機能を定義していることがすぐにわかるのである。
 画家のマティスは「物事の見かけの存在を作るこの瞬間の連続の下で、物事は絶えず修正され、変わり続けているが、その根底に、より真実に近く、本質に近い特徴を探すことができる。画家は現実により持続的な解釈を与えるためにその特徴を捉えるのである」と述べている。
 これこそ、まさに脳が絶えず行っていることなのである。脳は脳に届く絶えず変化し続ける情報の中から最も基本的なものを捉え、連続的な視覚像から物体および状況の本質的特徴を取り出しているのである。
(『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』p39)

コカ・コーラ体形の若い女性を知覚すると、瞬時に「いい女だ」と判別し、性欲を喚起するように。

suzuka8hours.lrnc.cc

(引用元:闇金ウシジマくん(19)[ 真鍋昌平 ]

BTSのパフォーマンスを観ると、うっとりと見惚れるように。

どうしても抗えない、理性で抑えきれない動物的な衝動が人間に備わっている。
「備わっている」というと先天的に存在しているかのような誤解を生むかもしれないが、それは後天的に形成される部分も大きいだろう。

www.atpress.ne.jp【7位:ジャマイカ

ジャマイカの成人女性の約70%が過体重です。
お尻や下半身が特にふくよかであることが重要とされており、女性の体型は医学的に適切なサイズの約2倍が理想的だとされています。
さらに、もっと体重を増やしたいと望む女性を対象とした、ピル市場も急成長しています。

生まれ育った国や文化の影響を被り、「美しい」「カッコイイ」とされる情報の刷り込み、反復によって個々人の「美意識」が形成される。

その美意識は、まるで自転車の運転や水泳のように、一度覚えたら意識的な行動を行わなくても実行できるような、無意識的水準で行われる判断基準となる。


いわば動物的な反射行動、判断なんだよな。
だからこそ、人間は取り繕おうとする。

「人を見た目で判断するのはよくない」「野暮である」というルサンチマン(奴隷道徳)を作り出した。

それを生み出したのは、誰だろうか。
最初に「ルッキズム」という概念を打ち出したのは?
そしてその価値観に共感した人々。
それらの人々は、多少の差異はあるにせよ、抱いていた。
自分の容姿に関するコンプレックスを。
もっと背が欲しい、くびれが欲しい、痩せたい、モテたい・・・自分の容姿を完全に愛せる人というのはなかなかいないだろう。

メディアはこぞって、理想の俳優やモデルのような容姿になるようにと、イメージモデルを出演させ、「こういう容姿がいいんですよ」と、集団的美意識の形成に加担すると同時に、容姿を向上させためにあれを買え、このサービスを利用しろと、金を使わせるように仕向け続ける。

gyakutorajiro.com水戸線に乗っていると、ローラの車内広告があった。
肌は、わたしを幸せにすることができる。」というキャッチコピーとともに。
こんな感じの広告だ。

images.app.goo.glローラのようになりましょう、ローラを同一化対象にしましょうと。
無言の圧力を何度も何度も受け続ける。

ローラという未来からの爆弾、あらかじめ用意されていたハイパーリアルを受け取った女性は、ローラを目指すように仕向けられる。
もちろん、薄々なれるわけはないとはわかってるけど、まあ近付けるんじゃないかなと。

この資本主義の発展にとって、容姿主義は都合がいい。

カウンターの価値観として「見た目なんていいんだよ」「ありのままでいいんだよ」というルサンチマン(奴隷道徳)が生まれる。
しかしこの価値観は、決してマジョリティになることはない。

それは、異性愛が支配的な価値観としてこの資本主義社会を支配しているのと同じ理由だ。
つまり「なぜルッキズムがなくならないか?」の理由は、これだ。

ルッキズムを否定すると、金にならないから。

これに尽きる。
この資本主義社会においては「ルッキズム万歳!」ってわけだ。
弱者女性論を語った時と同じ結論だけどな。

gyakutorajiro.com弱者女性論は、金にならないから。

ルッキズムがなくなると、金にならない。
ダイエット、美顔、エステ、薄毛対策、美容院・・・「容姿を整える」というのは、ビジネスであり、金儲けの機会でもある。

それを批判し、「ありのままで容姿でいい」というようなルサンチマンを浸透させ、それによって金儲けの機会、経済活動の機会を減少させるのは、資本主義社会が許したりはしない。

だから結局、ルッキズムは支配的イデオロギーとして機能し続ける。
先日の「ネトウヨ達の怒りの矛先がColabo代表の仁藤夢乃氏に向かう理由は女性に対するドス黒い恨みの感情が転移しているから」の記事でも話したが、LGBT等のジェンダーダイバーシティの価値観が尊重される社会になることを、自民党は望んでいないことを語った。

news.tv-asahi.co.jp自民党 ジェンダーフリー教育実態調査PT 安倍晋三 座長)
「いわゆる行き過ぎたジェンダーフリーの人たちがやっていること、性差そのものをなくしていく。これは明らかに間違いである。」

それも同じ理由だ。

LGBTは、生産性がない。(by 杉田水脈

だからな。
資本主義社会の発展には人口増・子作りが必要であるがゆえに、これが残酷な現実だ。

ジェンダーも、ルッキズムも、「金になるか、ならないか」によって、マジョリティとなる支配的イデオロギーが決まる。
残酷な資本主義のテーゼだよ、ほんと。

言っておくが自分はレイシスト(差別主義者)ではない。
むしろ逆、マイノリティーだ。
独身の弱者男性として肩身の狭い思いをしているからこそ、そのような真実を逆に突き付けられている。
真実というとおこがましいかもしれないが、より現実的な事実を語っているに過ぎない。

マイノリティの価値観として"ルッキズム"という概念、ルサンチマンが生まれた。
それはモテない女性、弱者女性が「草食系男子」という概念、ルサンチマンを生み出したのと似ている。

リリー:「草食系男子」なんてマスコミが作り出した架空の生き物だよね。 
あれは、女性が男性から言い寄られなかった時の為の言い訳なんだよ。 
女が「この人、私には手を出さないわ。草食系なんだわ」てね。 
その女に魅力がなかっただけの話で、振られた理由にしているんだよ。 
男の人も草食系でいるほうがもてるだろうって。 
本当は自分に魅力がなくて男性が傾かなかったのに言い訳として言葉作って利用しているだけ。 
最近の女性誌とか見てると、草食系とかアラフォーとか 
自分たちの努力の欠如を言葉をつくって相手のせいにしようとするよね。 
女性は現実から逃げるところがある。 
40代をアラフォーと言ったり、“40代のおばさん”でいいじゃないか。 
そのことに自信を持てばいい。 

みうら:あいつら怖いものに名前をつけて柔らかい表現にして 
自分たちが傷つかないよう言葉つくってんのね(笑) 

昔、ラジオでリリーフランキーみうらじゅんが言っていたように、単なる言い訳なんだよな。
選ばれない男たちが自虐的に「非モテ」「弱者男性」という概念を生み出したように、女性も「草食系男子」や「アラフォー」などを使う。

それとどこが違うよ、「ルッキズム」も!

冷徹な現実を受け入れないがゆえに「温かさ」を求める。
ニーチェはそれを痛烈に批判した。

見よ!わたしはお前たちに終末の人間を示そう。
「愛とは何か?創造とは何か?憧れとは何か?星とは何か?」――終末の人間はそう問うて、まばたきする。
そのとき、地は小さくなっていて、その上を、一切を小さくする終末の人間たちがはね歩く。
その種族は、地蚤(じのみ)のように根絶しがたい。終末の人間たちはもっとも永く生きるのである。
「われわれは幸福を案出した。」――終末の人間たちはそう言って、まばたきする。
彼らは、生きるのにつらい地方から立ち去る、彼らには温味(ぬくみ)が必要だからである。
ひとはなお隣人を愛し、隣人に身をこすりつける。
ひとには温味が必要だからである。

(引用元:フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき」)

目を背けるんじゃないよって話だ。
ルッキズムが支配的イデオロギーとして世界を覆っている現実を。
その価値観が絶対的力を持つのは、資本主義との親和性の高さゆえだという事実を。

容姿を磨けないならせめて、金とか実績とか社会的地位だとか、何か別のもの磨いて自分の価値を証明するしかねえんだよ。

しかしそれは酷な話でもある。

それが出来ないがゆえに、資本主義社会は支配的価値観で人間達を首輪で繋ぐ一方で、同時に、ダイバーシティや多様性やルッキズム反対といったルサンチマン(マイノリティの価値観)を作り出し、ルーザーや弱者たちを慰めたり騙したりしている。

それは何十年も前にドゥルーズガタリが言っていることでもある。

分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。
確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても、実は私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出すものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。
なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。
それはみずから極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』p70)

ルッキズム反対を声高に叫び続け、容姿主義を否定するのは、ただの現実逃避だ。
ルサンチマンを信仰し続けていいのか?

SMAPの「世界に一つだけの花」だって、素晴らしい歌詞だが、メンバーは解散しただろうが。
それは個々人の欲望、稲垣吾郎香取慎吾や草彅剛はマネージャーの飯島三智への恩義を優先したのだろうか。
木村拓哉工藤静香ジャニーズ事務所等に配慮したのだろうか。
中居正広はよくわからない。

草彅剛は「裸で何が悪い!」と欲望を解放した。
世界に一つだけの花」等の唄で儲けた金、印税によって東京都内の一等地に、常人が真似できないオンリーワンの自宅を建設中だ。

コブクロだって、綺麗事ばかり述べ連ねた歌詞が個人的には嫌いだったが、二人とも不倫をして性欲を満たしていただろうよ。

www.j-cast.comより動物的、自分の気持ちや欲望に正直に行動した。
「何よりも尊い 二つの光を」「共に歩き 共に探し 共に笑い 共に誓い」「何気ない瞬間を 今日からはかけがえのない瞬間に」と唄う一方で、第三者と不倫だ。

それを、日々に満足できない者たち、ルーザーたちは、「ルッキズム」「ナンバーワンになれなくてもいい もともと特別なオンリーワン」といった誰かが生み出した概念や言葉というルサンチマンによって糾弾する。

ch.nicovideo.jpほんとうのリア充はリアルを充実させる必要がない。

ここまでをまとめると、ネットで色々更新する人って「満たされていない」人が多いよねってこと。 ネットの中で満たされようとするよね、ってこと。 みんながみんなじゃないけれど、20〜30%ぐらいはそうなんじゃないかなーと思う。 更新頻度が高ければ高いほど、依存傾向にはあると思う。

満たされない者たちは、自分を磨くことに精を出さず、ルサンチマンを垂れ流して他人を責め続ける。


一方、草彅剛やコブクロのように、マネーという支配的価値観、性欲という動物的で支配的な衝動によって、己の欲望を満たす力のある者たち。

もちろん、カウンターの価値観は確かに、必要ではあるし、誰かを批判したり諫めようとする言論活動は時には必要ではある。
だけどそれに依存して、現実の支配的価値観から目を背け、逃避し続けることは、カルト宗教を信仰するメンタリティと大して変わらないのではないだろうか。