以前「音楽を聴く」という人間の文化の背後に潜む、時間から逃走しようとするルサンチマンを暴いたつもりだが。
gyakutorajiro.comこれは妄想ではなくて、ファクトだ。
直線的時間の圧力による疲弊からの永遠回帰の欲望、その欲望を満たすために、多くの音楽で直線的時間軸を破壊し、円環時間を作り出そうとする。
最近聴いたこの曲、宇宙ネコ子「Night Crusing Love」もそうだな。
www.youtube.com「夜から夜 無限のループ」という永遠回帰の世界、「Night Cruise Love 夏の夢の中」という、現実ではなく夢の世界、もしくは夢の世界のような現実を求めてる。
そして音楽にはまだまだ、ルサンチマンが潜んでいる。
直線的時間と同じく、人間が逃走したいと無意識に欲望し、それは音楽として形になっているものがある。
前回は「時間」だったがもう1つ、人間が逃走しようとしている対象がある。
それは「重力」だ。
つまり、
重力に逆らいたいルサンチマン
を、人間は抱いているし、数多の音楽にその要素は含まれてる。
これは妄想ではなく真実として確実に存在する。「反重力欲望」とも言っていい。
毎朝、決められた時間に起きて、満員電車に乗る。
パーソナルスペースが皆無の空間で、見ず知らずの他人の圧力を受け続ける。
座ることは困難であり、足腰に重力の負担がのしかかる。
また、線路内の立ち入りや人身事故等によるトラブルによって、電車が急停車する場合がある。その場合はより、慣性の力によってより身体に負担を被る。
ドゥルーズ&ガタリ的に言えばまさに、現代人の器官は器官機械として、電車という技術機械に接続させられている。
ホワイトカラーだけじゃない。
肉体労働はより、重力がのしかかる。
工事現場等では、重い土嚢や資材等を何個も運ぶ。
引っ越しの作業では、大量の段ボール箱を、何個も運搬せねばならない。
重力に荷物の重みが加わり、仕事している最中は常に重力に支配されている。
正しい姿勢で、注意して運ばないと、腰を痛めるリスクもある。
交通誘導員、イベントスタッフ、アパレルや飲食業など、何時間もずっと、立ち仕事をしなければならない。
休憩中の1時間程度は座ることが出来るかもしれないが、常に重力の負担を被る。
このように人間はありとあらゆる場所で重力の負担を、特に働いているときはより一層、その負荷を受け続ける。
ガンツのZガンのようなものを、気付かないうちに撃たれている。
逆に、既得権益で悠々自適な生活をしているBorn with a silver spoonや、FIRE等を達成してセミリタイアをした人間は、ハワイのビーチで寝そべったり、シンガポールのマリーナベイサンズで泳いだりと、重力の負担が少ない生活をしている。
しかし一般的な多くの人は、重力と共に働くことを強いられている。
それはピラミッドや古墳を建設していた太古の昔からだ。
だから生み出した。
「重力に逆らうルサンチマン」を、人間は意識的にも無意識的にも、作り出すことになったんだ。
これは重力に支配された人間の営みの必然的帰結だった。
以下、具体的に重力から逃れようとするルサンチマンの事例を紹介していこう。
(1)無重力空間に向かうルサンチマン
これは前回、紹介した「時間概念が異なる空間に向かうルサンチマン」と同じだ。
スペイシーな音楽は、直線的時間から逃走するために生まれた側面がある。
資本主義は直線的速度が求められる。
命を削り、短時間で最大の売り上げを計上する至上命題を多くの企業は課す。
重力と同様の加速度に支配され、身体にGという負荷がかかっても、加速することを求められる。ウシジマくんに出てくるサラリーマンくんの小堀は、ノルマ達成のため、自分の身体にかかるGや周囲に及ぼす危険が高まっても、アクセルを踏んでGを上げてしまう。
ちなみにGとは、このサイトの説明がわかりやすい。
www.logi-q.com1Gとはいったいどのようなものかというと、「私たちが地球からうけている重力と同じだけの加速度がかかっている」と考えていいでしょう。それに対して、0Gは加速度が全くかかっていない状態です。
資本主義社会に生きる人間は、自動車や満員電車に乗ってわざわざ加速度を上げ、水平の方向に速く移動しようとする。
直線的時間の要求に応じるために。
資本主義社会の人間は直線的時間の奴隷であるがゆえに、直線的時間効率を最大化するための機械は価値があるものとして礼賛され利用される。
ちょっと意味合いが違うかもだが、これも1つの加速主義と言える。
本来の意味は、重力どうこうではなく、amaikahluaさんのこの記事にあるように、資本主義や技術革新の加速だろうけど。
amaikahlua.hatenablog.comその反動で、人間は疲弊し、0Gを求めるようになる。
直線的時間および重力に支配されてない地球の大地から離れた、宇宙を求める。
スペイシーな音楽を聴くことで、重力の無い空間に意識を向かわせ、現実の重力から逃れようと必死だ。
たくさんの、重力から逃れようとするスペイシーな音楽がある。
前回、紹介したサカナクションの「セントレイ」や、アルファの「宇宙ハワイ」、福耳の「星のかけらを探しに行こう」、yaknokamiの「気球に乗って」だけじゃない。
古いがBUMP OF CHICKENの「天体観測」もそうだ。
www.youtube.com望遠鏡を覗き込んだ。星のようになりたいと、重力に支配された人間はそれを求め続けてそれを音楽にまでした。
少し話が逸れるが音楽だけじゃない。すみっコぐらしの星空さんぽシリーズもだ。
www.san-x.co.jpすみっこぐらしはその造形、フォルムももちろん、人間の無意識的欲望を喚起しているが、その世界観として星空散歩を加え、「重力に抵抗したい人間の欲望」を利用した。
音楽に話を戻すと、greeenの「光」もだな。
www.youtube.com果てしなく飛べるはず 空の向こうまで
と唄っているが、実際には飛べないんだ。
飯を食うためには大地に足をつけて、重力に支配されながら汗を流さないといけない。交通誘導員のように。
飛べないんだが、重力に抗いたい欲望から、このような唄が生まれる。
というか説教でもある。
「翼をください」にもあるような。
www.youtube.comこの大空に 翼を広げ 飛んでいきたいよ
この唄は、学校などの教育の現場でよく流されているが、これは無重力になりたい欲望というよりは、「重力に抗って生きなさい」という資本主義社会の要求でもある。
ひきこもりやニート等、Gが身体にかからない生活ではなく。
走り回って、身体を動かし、汗水垂らして働き、税金を納め続けることを美徳とする価値観と非常に相性がいい。
だからGReeeeNの「光」や、赤い鳥の「翼をください」等は、無重力空間に向かいたいルサンチマンが具現化した生産物とは少し違う。
ルサンチマンではなく、「重力に逆らって汗をかけ」というイデオロギー的歌謡曲だった。
なので、無重力空間に向かうルサンチマンの性質を持つ音楽に戻ると。
星街すいせいという、売れているVtuberの曲があるらしい。
www.youtube.com「Stellar Stellar」が大勢の人間になぜ響いたか?
それはまさに、これこそが「人間の弱った精神を慰撫するルサンチマン(奴隷道徳)だから」だ。
星だから、ずっとずっと
という歌詞だが、人間は星なんかじゃない。人間は人間だ。
しかし人間は他の生物とちがって、ルサンチマンを作り出す。
星になることで重力から解放され、人間としての責任を放棄する意識を一時的に獲得しようとする。
星のように大きい存在でもなく、惑星からの引力に抵抗することも基本的にはできない人間。
か弱い存在だからこそ、「歌詞」という宗教めいた文字の羅列にそれに「音」を加え、リアリティを高める必要があった。
まさに音楽とはルサンチマンであるということ、「No music No life」はルサンチマンであるということが、この段階でも既に言い切れるのではないだろうか?
ジャンクフジヤマの「星屑のパイプライン」とかもそうだ。
nico.msスペース☆ダンディ、宇宙をサーフボードのようなもので波乗りするシーンが印象的だ。エウレカセブンとかでもやってたかな。
とにかく重力に逆らいたい。
それは、自分が重力に支配されていることの裏返しだ。
youtu.be大塚愛のロケットスニーカー。
地球からステップ踏んで 軽くして浮いている ああ地球っこ
ってね。
浮いてねーんだな、これが。
重力に押しつぶされながら生きている。
だからこそ、ロケットスニーカーを欲する。重力から解放されたい。
いや、この曲は無重力空間に向かいたいルサンチマン歌謡曲ではなく、重力に抗って頑張れというイデオロギー的歌謡曲の側面もあるか。
(2)水中に漂い重力を希薄化させるルサンチマン
これは音楽だけでなく、映画のポスター等にも見受けられる。シェイプオブウォーターとかな。ポスターは素晴らしいが、本編はつまらない映画だった。
あと「いずれすべては海の中に」という本の装丁もそうだ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp人間は重力に支配されているがゆえに、このように水中に漂うような描写を知覚すると、反射的にその対象に好意的な評価をしたり、そこに描かれているシチュエーションを欲望する。常に重力に支配されているゆえ、重力から逃れたい欲望を無意識的に抱いているので、このような表象物に惹かれる。
mixiの「海から空を見る人。」というコミュニティがある。
mixi.jp1万人以上が参加しており、まあ今は稼働しているのか怪しいが…。
これが存在する理由とは?なぜ海から空を見たいのか?
それは、仕事や勉強等で、ガミガミガミガミ、重力とともに精神的プレッシャーを受け続ける大地から逃走したいからだ。
静かで、太陽が水面に乱反射して光り輝く光景により恍惚状態に至る陶酔モードによって日常を忘却したいからであり、まさに現実から逃走しようとする人間のルサンチマンが具現化した文化が「海から空を見る」だ。
音楽はどうだろう。
ミスチル(Mr.children)の「深海」のジャケットもそうだ。
ユーミンの深海の街。
www.youtube.com弧を描く 繰り返す 飛沫を奏でる 何ひとつ阻むものはない
と。重力に阻まれない深海に漂いたい。
いや水中にも重力はあるし、むしろ水中の方が重力は大きいって話はあるが。
水圧は四方八方から、あらゆる方向から受ける。
media.qikeru.meそのため水中では漂流することができる。大地とは違う。
中島愛のサブマリーン、「心にはサブマリーン」というように、水中に身を委ねたいという欲望が存在している。
www.youtube.com水中は静かだ。
日々、労働を強いられている大地とは大違いだ。
「水中、それは苦しい」というバンドがいるが、苦しいのは実は水中じゃない。
この重力に溢れた「大地」が苦しいがゆえに、水中を欲したんだよ。
バンドに聞いたわけじゃないから知らないけどよ。
この曲もそうだ。
www.youtube.com「水の中で息は出来ないの」と否定的なことを言っているようで、その前に「あの頃の私たちは輝いてた」というフレーズ。
だから、水の中のように呼吸ができないぐらいに愛に溢れていたということ、すなわち、水の中ではない地上においては、規則正しい呼吸で輝きの無い日々を過ごさなくてはならないということだ。
水の中を礼賛している。
星野源の「不思議」もそうだ。
www.youtube.com「君と出会った この水の中で」というように、重力が希薄化され、雑音が遠のく水中を、二人の愛を育む相応しい空間として神聖化する。
大地で愛を育むのは難しい。
仕事に忙殺され、家庭のことも疎かになることもあるだろう。
だからこそ、人間は「水中神聖視」というルサンチマン(奴隷道徳)を生み出したし、これからも作り続ける。
(3)人間という固体としての意志を放棄して流体に向かうルサンチマン
引用元:http://www.g-munu.t.u-tokyo.ac.jp/mio/note/dmm/renzokutai-1.pdf
固体:外力が無ければ一定の形を保っている.
液体・気体:自分自身が固有の形を持っているわけではなく,容器に入れればその容器を隙間無く満たす.
液体や気体は,極めて小さな力によって大きな変形が生じることを意味しており,流体と呼ばれる。
固体の場合は,外力を加えると変形するが,変形が小さい時は,力を加えるのを止めると変形がなくなり,元に戻る.このような性質を弾性という
そう、液体や気体が流体だと。
人間は流体じゃないんだが、例えばターミネーター2のシュワちゃんのように溶鉱炉に入ってしまうと、溶けて液体になったり気体になることもあるだろう。
そして流体は、固体と違って弾性がなく、力を加えられたらすぐに変形する。つまり外圧を受け容れるということであり、抵抗する意志がない存在とも言える。
資本主義社会に生きる人間、重力に支配されている人間は、常に固体として主体性を持ち、意志を持って勉強や仕事をして生きることを要求される。
それがしんどくなる。
だから流体になることが、救済であり、魂のルフランだった。
エヴァンゲリオンの旧劇場版はまさに、人類補完計画によって人間は固体から流体になっていった。重力の支配から解放された。
音楽にも、そのような固体から流体になりたい人間の欲望が顕在化した楽曲がたくさんある。
www.youtube.com冨田ラボ feat.坂本真綾の「荒川小景」、いい曲だよな。
荒川の土手だろうか、ゆるやかな川べりの光景が歌詞で綴られているが。
「緩やかに 流れてゆく」というように、川の水のように緩やかに漂う存在になりたい欲望が垣間見れる。
そう考えると美空ひばりの「川の流れのように」もそうかもしれないな。
www.youtube.com
去年、個人的に一番聴いた邦楽、Kroiの「熱海」という曲がある。
www.youtube.comこの曲に惹かれた。
やはり自分も固体として生きることに疲弊しているからかもしれない。
「熱海」で唄われている「ゆるり ゆらぐ この水際」のような流体的な存在となり重力から解放されたい、熱海のように昭和の時間が残っているような場所で直線的時間の圧力から解放されたい欲望を、「熱海」という音楽で満たしていた。
固体であるがゆえの疲弊、艱難辛苦から逃れるため、これからも人間は音楽などの文化を通して、擬似的に流体になろうとし続ける。
(4)跳躍により重力に抵抗しようとするルサンチマン
岡村靖幸の名曲、「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」。
www.youtube.com「青春って 1 2 3 ジャンプ 暴れまくってる情熱」と。
そしてミラクルジャンプ。
www.youtube.comこれもルサンチマンだ。
一見すると、ポジティブな楽曲で、ルサンチマンとは無縁のように思うだろう。
だがルサンチマンに成り得る。なぜか。
それは「現実ではジャンプすることができないがゆえに、音楽という空想の世界にそれを委託しているから」だ。
グッドモーニングアメリカの「イチ、ニッ、サンでジャンプ」もだ。
www.youtube.comジャンプできるか?
実際に仕事中に、ジャンプしているサラリーマンがどこにいるよ!?
ああ哀しい哉、重力に支配された人間は、所かまわずジャンプすることが出来ない。
「わたくし、柴又商事、営業第2部の逆寅次郎と申します(と頭を下げた後、ジャンプ!)」してみろよ。
ジャンプした瞬間、「お帰りください」と、応接室ではなくエレベーターホールに案内されるのが関の山よ。帰り道で上司に叱責されて、総務に報告されて仕事を失う可能性も出てくる。
電車の中で、ジャンプし続けたらどうなるよ?
ワンマン運転ではない場合は駅員が来るだろうよ。次の駅で急停車し、鉄道警ら隊に尋問され、電車遅延等の損害買収請求をされる可能性だってあり得る。
こんな風に重力に支配された人間は、ジャンプする機会を失った。
だからせめて、音楽の世界の中だけではジャンプしよう。
それでダンスミュージックが生まれた。かもしれない。
また舞踏や民族舞踊、それも、重力へ抵抗したい欲望が反映した可能性がある。
被支配階級は支配者によって拘束的にドレスコードを押し付けられた。スーツを着ろ、礼儀正しくふるまえ、金髪禁止ピアス禁止、仕事中にジャンプするな…などなど。ジャンプを制限された人間は、「ジャンプする」というルサンチマンで抵抗したんだ。
ここで疑問に思うだろう。
いや、それはルサンチマンじゃねえだろ?
だってジャンプしている、実際に重力に抗い、あくせくしてる。行動に移してる。
奴隷道徳じゃないよ。
否!
奴隷道徳だよ。なぜか。
それは「そのジャンプに継続性がなく、一時的で、ケースバイケースに縛られてるから」よ。
結局は重力に縛られている。ドリカムのジェットは、真に重力に抵抗しているわけではない。
www.youtube.com
頭の中JET 心の中JET
心の中、すなわち、己の意識下にある願望に過ぎない。
ミキティ(藤本美貴)のロマンチック浮かれモードで狂喜乱舞するヲタ達のジャンプは、一時的狂喜乱舞に過ぎない。
www.youtube.comそれに永続性はもちろん、任意の時間に実行できる融通性すらなく、束縛が生じている。
コミケが終われば重力にあふれた競争の世界に戻され、そこの熾烈な争いによって病むこともあるだろう。
ニーチェが、ツァラトゥストゥラが求めている重力抵抗というのは、そういう観念的なものでも、時限的なものでもねえんだよ。
わたしはまた、つねに待たねばならぬ者たちをも、呪われた者と呼ぶ、――彼らは、わたしの趣味に反する。税取り、小商人、王、そのほか、国と店の番人たちは、すべてこれである。
まことに、わたしも待つことを学んだ、立ち、歩み、走り、跳ね、よじ、踊ることを。
しかし、わたしの教えはこうだ、いつの日か飛ぶことを学ぼうと欲する者は、まず立ち、歩み、走り、よじ、踊ることを学ばねばならぬ。――飛んで飛翔に達することはできぬ!
(引用元:フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」)
待たねばならないもの、重力に逆らわず、怠惰に横になり、0Gに留まる人間、0Gを求めようとする人間。負荷を恐れてる。
音楽という、主に脳内でリフレインさせる行動に留まっている限り、それはルサンチマンだ。ツァラトゥストラは実際に、踊った。
それでも飛翔にまで至ること出来ないが。
ツァラトゥストラは、飛翔を求め続けた。
そしてこんなことまで行ったようだ。
わたしは、縄梯子(なわばしご)によってあまたの窓によじ登ることを学んだ。素早い足で、高いマストによじ登った。認識の高いマストの上に坐ることは、わたしには、少なからぬ至福と思われた。――
――高いマストの上で、小さな焔のように、ちらちらするのは、少なからぬ至福と思われた。なるほど、小さな光ではある。それでも、漂流する船人と難船者たちにとっては、大きな慰めなのだ!――
わたしは、さまざまな道とやり方によって、わたしの真理にいたった。わたしの目のがわたしの遠みにさまよう、この高みに、わたしは、一本の梯子によっていたったのではない。
そして、わたしが道のことを問うたのは、いつも、いやいやしたにすぎない、――それはいつも、わたしの趣味に反したのだ!むしろわたしは、道そのものに問い、道そのものを試みることを好んだ。
わたしの歩みは、すべて一つの試みと問いであった。――そしてまことに、かかる問いに対しては、ひとはまた、答えることを学ばねばならぬ!しかし、これが――わたしの趣味だ。
――良い趣味でも、悪い趣味でもなく、ただわたしの趣味なのだ。それをわたしは、もはや恥じも隠しもしない。「これは――わたしの道だ、――お前の道はどこにあるか?」とわたしは、かつてわたしに道のことを問うた者たちに答えた。すなわち、道なるものは――存在しないのだ!(14)
ツァラトゥストラはかく語った。
(14)わたしの歩んだ、また歩む道は存在するが、一般に誰でもの歩む、歩むべき道というものは存在しない。
こんなこと出来るだろうか。船のマストに登る、並大抵の度胸ではできないだろう。
もちろんこれは比喩的な意味もある。
重力に逆らい、マストを登り、自分の道を作るということ。
その行動力と実践こそが、力への意志であり、単に音楽聞いて踊ったりノリに乗ったりして自分を慰めている限り、それは仮初の重力抵抗であり、例えるならカニカマで満足して、本物のタラバカニを、花咲ガニを、タカアシガニを取りにいこうと奮闘しないラストマン(末人)と言えよう。
蟹を取るために水中に潜るのではなく、地上の日々に嫌気がさして現実逃避したいから水中に潜ってんだよ。ああ情けない。
重力に逆らい、マストに登り、銛を白鯨に向かって突き刺してこそ人生だろーが!
なんてね。
そんな偉そうなこと言える生き方、自分もしてないんだけど。