前回、藤井風の唄とサイババの思想の共通点を探った。
gyakutorajiro.com「Lonely Rhapsody」は、孤独は幻想であり、自分自身を愛することの重要性を。
「青春病」や「何なんw」は、外の世界にある欲望の対象への執着からの解放を。
「Grace」は、欲望に囚われた私自身を切り離して、内なる私に出会おうとする意志がある。
そしてそれらの特徴はサイババの思想や言葉と共通していることを示した。
補足すれば、人類愛や平等主義のような思想だ。
ところで、この聖なる紐は、地方によってはバラモン(僧侶)階級の者だけが受けることができるとされている。その場合、ガヤトリ―・マントラは彼らのみのためのマントラとされた。それに対し、サイババは次のように語る。
『ガヤトリー・マントラは、マントラの中でも最も神聖なマントラである。そして、だれもがこれを唱える資格を有する』
これは、サイババが常々語る次の言葉を思い出させる。
『カーストは一つ、それは人類というカーストだ』また、伝統や風習によっては、女性は、この神聖なマントラを唱えるにふさわしくないという考え方もあったという。サイババはそれをも明快に否定し去る。
『もちろん女性も、ガヤトリー・マントラを唱えてよいのだ。ガヤトリーとは、母の姿、すなわち女神のことなのだから、なぜ女性がこれを唱えて悪いことがあろうか。
女性はガヤトリー・マントラを唱えるにふさわしくないとしたのは、男性の狭量にすぎない。自分自身の母親を想いだすのを妨げる権利が、一体誰にあるだろうか。それは、単純に言って意味がない。
だから、このマントラは、男子にも女子にも教えてよいのだ。ただし、教える前には両親の許可を得て、同意のもとに行うようにしなさい』
インドでは、人は一生のうちに四回、誕生日を持つと言われる。第一の誕生日は、肉体がこの世に生まれた日である。
第二は、聖なる紐を授けられ、正式にヴェーダの流れに身をおいた日。
第三は、聖典を正しくマスターした日。
第四は、神認識を果たした日、である。
サイババは、このマントラを学生たちに教え、『今日、わたしがこのガヤトリー・マントラをあなた方に授けることは、第二の誕生を授けることである。』
と言っている。それは、聖なる紐の儀式をするしないに関係がない。
『聖なる紐の儀式を行わなければ、ガヤトリー・マントラを与えてはならないという信仰もある。子供は、生まれたときにはシュードラ、つまり汚れた者と考えられている。聖なる紐の儀式と、ガヤトリー・マントラを教わることで、彼は第二の生に生まれ変わったとされる。こうして彼は、ヴェーダを学ぶ生活に入ることを許されるのだ。
この学習を通じて、彼はヴェーダに記述されているブラフマ・タットヴァの概念を学ぶ。その知的理解を基にして、彼はブラフマン(創造主)の真実の直感的な理解、直接的な経験を深めるのだ。単に、聖なる紐を身につけることが、バラモンの資格を与えるということではない』
(「真実のサイババ / 青山 圭秀 / 三五館」」p176-178)
また「Lonely Rhapsody」「青春病」「Grace」だけでなく。
「きらり」も同じく、サイババ思想との共鳴、サイババへのリスペクトがある。
www.youtube.comこの曲は、藤井風の唄で一番、再生回数が多いのではないだろうか。
2022年の紅白歌合戦では「死ぬのがいいわ」を唄っていたが、2021年は「きらり」だった。
一見すると、サイババ要素は希薄な気もするが。
ただ、他の人の歌詞考察を読んだり。
media.framu.world歌詞を聞くと、青春病やGrace同様、「何もかも捨ててくよ」とあるように。
「執着からの解放」は、藤井風の楽曲の通奏低音にもなってる印象がある。
また新しい日々や拙い過去、全ての時間軸が等しく「きらり」とするというのは、どこかニーチェの永遠回帰の思想も彷彿とさせる。
ニーチェは「苦痛や困難も回帰するとしたらお前は耐えられるか?」と問うたように、永遠回帰は全てが「きらり」とするような理想郷のようなものではなく、その点でニーチェの永遠回帰とは異なる気もするが。
ただ「きらり」に時間概念を突破したい欲望、もしくは、時間への執着から解放されようとしている意思は、見受けられる。
人間は直線的時間に支配されているように。
「きらり」のように、時間概念が直線的な過去・未来・現在から、均質的な瞬間(きらり)になったり、時間概念から解放される世界への欲望が存在するのは、以前も語った。
gyakutorajiro.comそしてこの「時間概念からの解放」を実現したのが。
藤井風が信仰の対象としているとされるサイババだ。
サイババにはテレポーテーション能力、物質化能力があった。
サティア・サイババが物質化現象によって物を作り出すときは、くるくるっと手を回すというイメージであるが、必ずしもそのアクションだけとは限らない。ほかのパターンでも行われる場合がある。
そのインタビューのときには、余り手を回さずに物質化をされる場合が多かった。これは、わざわざ物質化現象を間近で良くわかるように見せて下さったのであろう。
インドの学生が私たちといっしょにインタビューに招かれていた。彼はライトつきボールペンを物質化によりプレゼントされた。これが、私たちのインタビューの中では一番大きな物であった。
そのとき、サティア・サイババは右手を少し上に掲げ、指は何かを握っているかのように親指と残りの四本の指を丸い輪のような形にされた。次の瞬間、なにやら細長くネズミ色っぽい「もや」のようなものが彼の指で形作られた丸い輪の中にたちこめたのだ。次に、その「もや」がギューと凝縮したかと思うと、そこにはライトつきボールペンが現れていた。長さは二〇センチメートルくらい直径ニセンチメートル弱くらいで、外はステンレスの様な材質でできている。
サティア・サイババがスイッチを入れると、そのボールペンの先にある豆電球が光り始めた。彼はおもしろがられた様子で、茶目っ気たっぷりに微笑みながらそれを分解してみせた。すると、中から単三の乾電池が二本出て来るではないか。しかも、電池にはアメリカの有名メーカーの名前が書いてあり、市販品のそれとまったく同じものだ。よく見ると「MADE IN USA」と、小さく刻印されている、。まさに、市販されているものとまったく同じように、細かい細工が施されていたのだ。
(「奇蹟をこえて サティア・サイババとバラ・サイババ、ふたりのサイバ / 安部 賢司 / エスダブルオウ」p64-65)
時間概念を突破し、ボールペンをA地点からB地点に瞬間移動させたのか。
それとも、全くの「無」の状態から有機物を創造したのかは、わからない。
しかもこの能力は、証言者が複数いる。
全く別の著者、別の著作で、サイババのテレポーテーションや物質化現象についての記述がある。
距離と原始の変化
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奇妙な電話がかかってきてからわずかの間に、彼女はサイババについてかなりのことを知るようになった。名誉博士号を授与されたのはちょうどそんな折りだった。あの電話の声はなんと博士になることを予言していたのだ、あの声はほかにも何か予言しているのだろうか?と彼女は思った。サイババにできないことなどなにもないように思えた。しかし、ほんとうに来てもらいたいなら、サイババはその合図をきちんと送ってきてくれるに違いない。いやそれだけでなく、困難な障害も取り除いてしまうはずだ。
ウィルマは指輪がとても好きで、いつも指に数個つけていた。この指輪のなかには安物のガラスでできたネイビーブルーの石つきの指輪があった。この指輪はいつもはめていたのでひっかき傷だらけになっていたが、里子がクリスマスのプレゼントに贈ってくれたものだったからとりわけ大事にしていたのである。
彼女は家事をしているときには指輪をすべてはずしてハンドバッグの内ポケットに入れておくことにしていた。こうすれば慌てて出掛けても、ころあいを見て指にはめることができるからである。
ある日の午後、ウィルマは友人といっしょに身障者介護をテーマにした映画を見に行った。ところが、あの傷だらけのネイビーブルーの石の指輪が見つからないのだ。ハンドバッグに入れ忘れたのか、それとも知らないうちにハンドバッグから落としてしまったのだろうか。
彼女はその日一日のことをあれこれ思い出しながら、ぼんやり正面のスクリーンに目を向けていた。するとそのときである。脇においてあったハンドバッグから色のついた火花が上のほうに飛び散っているのが視界の隅に入った。同時に奇妙な風が映画館のなかを吹き抜けたように感じ、頭のなかで「お前は合図を欲しがっている」という声がはっきり聞こえたのだ。
バッグをつかんで、中に手を入れ、そっと探ってみると、なくなったはずの指輪が指に触れていた。指輪はひどく熱くなっていて、場内の薄明りのなかでまばゆいほどの輝きを放っていた。それを見た友人は驚いて「まあ!いったいどこでそれを手に入れたの」と驚いて叫び声を上げた。
(「サイババ・愛の化身 その奇跡と教えを知るために (心霊科学名著シリーズ) [ ハワード・マーフェット ]」p60~63)
そうしてまた待つこと一時間以上、急に甘いインド音楽がかかり、女性セクションの遠い向こうに、オレンジをまとったアフロヘア―のサイババがただ一人、ゆっくりとマンデールに歩いてくるのが見えた。その時、ため息とも歓声ともつかないざわめきが四〇〇〇人の弟子たちの間で起こり、全員がババに合唱した。そのとき、僕は自分の中の時間が止ったように感じサイババの周りにだけは違った時間が流れているように感じた。ババは信者たちからの手紙を受け取り、時には話しかけ、だんだんとこちらに向かってきた。それは、やはりうねりのような、ものすごいエネルギーの波だった。こういうのに感じやすい飛びたがりの僕は、すでにババの魔法の影響を受けて恍惚となっていた。僕はただこのエネルギーのシャワーだけを浴びにここへ来たのだから、手紙を渡そうとも指輪が欲しいとも思わなかった。そして、突然僕の目の前で、ババ得意のビブーティ(聖なる灰)の物質化の奇跡をやってのけた。今までテレビなどで見てトリックではないと確信していても、実際目の前でやられると、驚くほかはない。彼の右手が下を向き、クルックルッと二~三回まわる時、その手のまわりだけ宇宙がゆがんだような気がした。それは、まるで春のかげろうが彼の手のまわりだけでゆらいだようだった。そうしてばらまかれた聖なる灰。それは、僕のすわっているとこまで届いてはこなかったが、僕を祝福するには十分だった。これでやっとサイババに会ったのだという実感が湧いてきた。
(アガスティアの葉の秘密 精神世界とインドの旅 [ パンタ笛吹、真弓香 ]p119)
複数の目撃者、証言があるという点では、サイババの起こした奇跡は、かなり信憑性が高いかもしれない。
また、このようなテレポーテーションもしくは物質を造り出す能力は、サティヤ・サイババに限った能力ではなく。
サイババが「自分はシルディ・サイ・ババの生まれ変わりで、神の化身である」と、シルディのサイババへの敬愛を表明したように、シルディにも備わっていたとされる。
シルディのサイババの"人となり"を示す逸話は数多い。
あるとき、金持ちの家から大量のものを盗んだ盗賊たちが、警察で、「イスラム教徒からもらった」と証言した。それによって、嫌疑はサイババにかけられた。警察は、常々、彼をうさんくさい坊主だと思っていたのである。以下は、そのときの警察とサイババの問答の様子である。
「父親の名は何か」(インドでは、家系的なものの全ては父親から来るとされる)
「ババです」
ババとは、"父"という意味である。つまり、「父の名は父です」と、彼は言ったことになる。
「宗教は何か」
「神の宗教です」
「どこから来たのか」
「アートマン(真我)から」
「カーストは何か」
「神のカーストです」一事が万事、こんな調子だったという。だが、おそらくこれは、奇をてらったものでもなんでもなく、単純、率直なサイババの受け答えだったに違いない。そして、シルディのサイババの本性は、さらに次のように表現される。
「行者よ。おまえはこの品物を、盗賊にやったのか」
「はい」
「では、それをどこから持ってきたのか」
「一切のものがそこから発生するところから」
「だれが、これらをおまえに与えたのか」
「わたし自身が(わたしに与えました)」もちろんサイババは、金持ちの家からこれらの品物を持ってきていたりはしない(だろうと私は想像する)。そうだとすれば、この答えは、一切のものは神から生まれ、神自身が与えるのだ、という意味にとれる。実際、サイババは、警察に対してさらにこう語ったとされる。
「わたしは一切を与える者である。何人も、わたしの許可なしには、何ものも得ることはできない」
これは本質を衝いた、と言うよりも、本質のみを語った言葉である。人は誰もが、ものごとの本質のみに生きたいと思うが、さまざまなしがらみや束縛によりそれができない。しかし、啓発を得た聖者というのは、おそらくこうして生き、なおかつ他からの攻撃にひるむことがない。
この受け答えの内容そのものは、現在のサティア・サイババをも彷彿とさせる。彼は、さまざまな品物を物質化する際、どこから持って来るのか問われることがある。それに対し、
「サイババ・デパートから」
と答えたり、
「神の意思により、創りだすのだ」
と答えたりしてる。
(「真実のサイババ / 青山 圭秀 / 三五館」」p92-94)
「きらり」のPVを見ればわかるように、藤井風はバイクでテレポーテーションを行ってる。
砂漠のような場所から、高速道路に。(3分10秒~15秒)
時間や重力等の自然法則を無視している。
「物理学における時間」というウィキによると、重力が強いほど時間は遅くなるそうだ。
ja.wikipedia.orgつまり、重力場が強ければ強いほど(従って、加速が大きくなるほど)、ゆっくりと時間が流れる。時間の遅れの予測は、粒子加速実験と宇宙線の証拠によって確認される。重力による時間の遅れは、太陽のような巨大な物体の近くで重力赤方偏移とシャピロ遅延の現象を引き起こす。GPSは、この効果を考慮して信号を調整する必要がある。
どこでもドアのように全く関係ないA地点からB地点に移動できるということは、重力から解放されている存在であるということだ。
つまり「きらり」は、サイババの思想だけでなく、サイババが行った超能力への憧憬、重力および時間からの解放も、PVを観ると伺えるのではないだろうか。
もちろん、こういった重力への抵抗、無重力への欲望は、藤井風の曲だけじゃない。
前にも紹介したように、ありとあらゆる曲に存在する。
gyakutorajiro.comスタジオジブリの「風の谷のナウシカ」だってそうだ。
www.youtube.com雲間から光が射せば、身体ごと宙に浮かぶ…。
人間は幻想の世界に、重力からの解放を求めた。
擬似的に重力から解放される描写が多いのが、スタジオジブリ作品の魅力の1つでもある。
裏を返せば、それは人間が重力に支配されていることでもある。
弱い者や虐げられるものはより、重力に支配される。
それはかつてフランスの哲学者、シモーヌ・ヴェイユが洞察していたように。
たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。
ものごとは重力にあい応じて起こってくるものだと、いつも予期していなければならぬ。超自然的なものの介入がないかぎりは。
ふたつの力が宇宙に君臨している、――光と重力と。
重力―― 一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に働く重力の作用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるものは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときには、これが(偶然に)一致することがあるが、多くの場合一致しない。
ひとりの人間が、ほかのもうひとりの人間を多少とも必要としている様子を見せはじめると、このもうひとりの方がさっと遠ざかるのはなぜか。重力のため。
『リア王』(1)、重力の悲劇。「低さ」と名づけられているものはすべて、重力による現象だ。何より、「低さ」という語がそれをよく示している。
(1)シモーヌ・ヴェイユは、晩年のロンドン滞在中、シェイクスピアの『リア王』を見て、深い省察をしている(『ロンドン論集とさいごの手紙』所収、一九四三年八月四日付の手紙参照)。
(「重力と恩寵 [ シモーヌ・ヴェイユ ]」)
現実は甘くない。
藤井風の曲やスタジオジブリ作品のように、重力から解放されると心も穏やかになるだろうよ。
ホタルのように、きらりと光り宙を漂うことができたら、もっと楽しいかもしれない。
だが人間には、そのような生き方をすることは出来ない。
「火垂るの墓」もそれを描いてる。
空から重力に従って降ってくるのは、ホタルの光ではなく、B29の焼夷弾だった。
現実は今日も、日銭を稼いで、腹を満たすために。
宙空にただようことはなく、大地に足をつけ、電車や車に乗って会社や仕事現場に向かう。
頭を下げ、土下座をし、時と場合によっては靴を舐めることもあるかもしれない。
よっしゃ ほんなら 手始めに ワシの靴 舐めてもらおか
同じ苦痛を堪え忍ぶのにも、低い動機からそうするよりも、高い動機からそうする方がはるかにむずかしいということが真実ならば(一個の卵を手に入れるためとあらば、午前一時から八時までじっと動かず立ったままでいられた人たちも、ひとりの人命を救うためとなれば、なかなかそんなことはできなかったであろう)、さまざまな点からみて、おそらく低い徳の方が高い徳よりも、種々の困苦、誘惑、不幸の試練によく堪えることだろう。ナポレオンの兵士たちのこと。だから、兵士たちの士気を保ち、また昂揚するためには、残酷な行いもやってみなければならなかった。気力の衰えたときに、このことを忘れないこと。
これは、一般に低いものの方に力がかかるという法則の、ひとつの特殊例である。重力は、いわばその象徴だ。
食料を手に入れるための行列。同じひとつの行いでも、動機が高いときよりも、動機が低いときの方が、ずっとやりやすい。低い動機には、高い動機よりも多くのエネルギーが含まれている。問題はここだ。低い動機に属しているエネルギーを、どうやって高い動機に移しかえるか。
(「重力と恩寵 [ シモーヌ・ヴェイユ ]」)
生活のため、低い動機で生きざるを得ない人達が大勢いる。
金のために、徳を失い、残酷な行為に走る者もいる。
シモーヌ・ヴェイユが思索したように、その「重力への従属」が、人間が「生きる」ということでもあるんだよ。
それをわかってんのかー!?
と、藤井風と宮崎駿に言いたいね。