逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

藤井風「Lonely Rhapsody」「青春病」「Grace」におけるサイババの思想との共通点の考察から人間が「私」を切り離すのが困難な存在であることを知る

藤井風の音楽をよく聴いている。
俺は彼が紅白に出る前から、メジャーデビューする前から聴いていた。
惹きつけられていた。
「何なんw」は、50回は聴いただろう。

www.youtube.comと、こういったマウンティング、「インディーズの頃から応援してました」みたいな古参マウンティング、俺は嫌いだけどね。

てめーはただの消費者だろうが!

ってね。
一喝してやりたくなる。
既に一喝してたわ、過去の自分でもあるからな。

サブカルクソヤローがなぜむかつくのか-あるいはオタクとニャル子とディスタンクシオン - 技術教師ブログ

ヴィレバンにいる私の感性どや、美術館にいる一般的な娯楽に染まってない私どや、ってね。昔の自分はまさにサブカルクソ野郎。何も生み出せない、ただの消費者のくせにね。卓越性が手に入ってると勘違いしてたな。

2022/11/30 00:45

b.hatena.ne.jp

gyakutorajiro.comにも関わらず、文化的な闘争による自己の差別化(ディスタンクシオン)、消費活動でマウントを取ろうとする輩が多い。
「普通の人でいいのに!」の主人公の田中未日子(みこ)は、村上春樹だのノア・バームバックの映画だのお笑いだ下北だ奥渋だ神保町の古本だインディーズバンドだと、消費によってしか自己実現できない女性だ。
特に社会に影響を与えるようなものを生み出したわけじゃない。
コンシューマーであってクリエイターではないんだよね。
趣味を極めて、みうらじゅんや「マツコの知らない世界」の出演者みたいな、クリエイティブな存在にまでも至れてない。

カイジ利根川も言ってるだろうよ。

懸命に働いたわけでもない…………何も築かず……何も耐えず……何も乗り越えず……ただダラダラと過ごし… やったことと言えばほんの十数分の余興… なめるなっ…!

(引用元:賭博黙示録カイジ 7 [ 福本伸行 ]

と。クリエイターとして何かを築くことができないから、コンシューマーとして何かを消費するだけしか出来ない。

コンテンツを貪る、ただの消費活動で自分が崇高な存在になれるなんて甘いぜ。

togetter.com2016年に、既にその現実を突き付けた別の人もいたり。

anond.hatelabo.jpにも関わらず、そのチンケな消費活動によって自分を差異化し、ハリボテのディスクタンクシオンで自分が優位になった気になり、他人にマウンティングする哀れな人間。

そんなので風民(藤井風ファンを"かぜたみ"と呼ぶ)と言えるのか?
藤井風のソングに、人を罵倒したり、人にマウンティングするようなメッセージ性は、あるのか?
ないだろうよ。

HELP EVER HURT NEVER(常に助け決して傷つけない)、彼のアルバムのタイトルが、それを示してる。

note.comそう、だから「古参だ~」だの、「私の方が愛してる」等、無益な争いはやめよう。

「Artist on the Rise」という動画で、「I feel so blessed.」と。
自分の音楽を聴いてくれた人、祝福されたことを感謝する藤井風がいた。

www.youtube.comちなみにこの「bless」という言葉、ブラックミュージックのゴスペルでよく聴く。

Guy Robin Feat. Anthony MoriahのBless You Brother。

www.youtube.comThe Collective vs PeytonのPromised Land。

www.youtube.com「My Brother and Sisters~♪」「All Needs Love~♪」と、愛の讃歌だ。
これらのトラックは厳密なゴスペルではなくゴスペルハウスだが。

藤井風はブラックミュージックも敬愛しているように。
ゴスペル音楽における愛を強調すること、愛を重要視する考えは、藤井風の「死ぬのがいいわ」にも見受けられる。

www.youtube.com

takahiroarai.meそしてそれは、サイババの思想にもある。
アガスティアの葉の秘密」という、1995年に出された本がある。
こちらの著者の真弓香氏が、サイババの言葉を思い出し自省するシーン。

 タクシーがマドラスの街をぬけるころには雨も小降りになり、ヴァイティスワランゴヴィルまでこのまま無事いけそうである。と、思ってる矢先に車の調子が悪くなった。ファン・ベルトが切れたという。今日中にアガスティアの葉の疑いを白か黒かはっきりさせたいと思っていた私は、おもわず、いらいらとして、「長距離にでるのに、車の整備もしてこなかったの」ときつい棘のある言いかたで叱る。彼は黙って、車を治している。
 とっさにサイババの言葉(ドクターサミエル著『ザ・ホーリー・マン・アンド・ザ・サイキアトリスト』)
 Start the day with love,(一日を愛で始めなさい)
 fill the day with love,(一日を愛で満たしなさい)
 end the day with love,(一日を愛で終わらせなさい)
 this is the way to God(これが神の道である)
 を思いだし、反省する。この若い、タクシー・ドライバーはかぼそい体の、心の優しい青年である。私をマダムとよんで、丁寧な態度で接し、どんな行為も誠意にあふれている。その彼に怒鳴るのはよくない。自己嫌悪。

アガスティアの葉の秘密 精神世界とインドの旅 [ パンタ笛吹、真弓香 ]p182-183)

素晴らしい、サイババの言葉によって、他人に厳しく傲慢な態度を取ることを避けることができた。


そしてこの本には、「自分を愛すること」の重要性も記載されている。

 最後の日は、今日はもう泣かないだろう、大丈夫と思ったが、結局、サイババがゲートから現れて、そこに立っている姿を見たとき、今まで以上の感激が襲ってきて、涙がドーとでてきた。
 このときのサイババは私の心に彫刻のようにしっかりと刻みこまれ、翌日、マドラスのホテルに着いてから蘇ってきた。心理学者ドクター・サミエルが書いた本(『スピリット・アンド・ザ・マインド』)のなかで、サイババの言葉に触れたとき、サイババの姿とが重なった。

 See in Me yourself……,(私の中にあなた自身を見いだしなさい)
 for I see Myself in all of you……(なぜなら、私はあなた方すべてのなかに私を見いだすのだから
 You are My life,My breath,My soul……(あなたは私の命であり、息吹であり、魂である)
 You are all My forms.……(あなたは私のすべての姿である)
 When I love you,I love Myself……(私があなた方を愛するときは、私自身を愛するのであり)
 When you love yourself,you love Me……,(あなた方が自分自身を愛するときは、すなわち私を愛するのである)
 I separated Myself from Myself so that I may be Myself……(私は自分を自分自身から切り離し、それ故に、私は私自身でありえる)
 I separated Myself from Myself and became all of this so that I may be Myself.……(私は自分を自分自身から切り離し、そしてこのようになり、それ故に、私自身でありえる)

 かなりいい加減な人生をおくってきた私の中にもサイババが投影されるという愛の言葉に、涙があとからあとから涸れる(かれる)ことがないくらいでてきた。私の心にはそんな辛いことが蓄積されていたのだろうか。すべての悲しいことが封印されて、奥にしまいこんであったのだろうか。強がりを言って、傷つけられた心は見向きもされず、手当てもされないまま放置され、慢性化していたのだろうか。

 私は今まで、人を真剣に愛したことなど一度もないような気がする。恋愛は数多くしたが、愛などと呼べるものからは程遠い。昨日まで、愛してると確信しても、今日の裏切りで、すぐ憎しみに変わった。一生変わらない愛などが存在するとは思えない。人間は自分がかけているメガネでしか、世の中をみることができないから、したがって、私を一生愛してくれる人がこの世の中にいるということを信じたくてもそれは、無理な話である。そのことを信じるには、まず私が人を愛することを知らなければいけないが、それ以前にまず、自分を愛することを知らなければいけないのである。自分を愛することは簡単そうで、とても、とても、とてもむつかしいことだと喘いでいる私の心をサイババは知っていたに違いない。


アガスティアの葉の秘密 精神世界とインドの旅 [ パンタ笛吹、真弓香 ]p132-133)

自分を愛することができないと、人を愛すこともできない。
ではどうすれば自分を愛せるか?

藤井風は「Lonely Rhapsody」という曲で、その答えを出しているような気もする。

www.youtube.com孤独なんて幻想、気にしなきゃいい。
孤独なんてのは幻想だ、みんな同じだと。
つまり自分がそこに在る、それだけの、ありのままの存在を肯定すること。
その大切さを歌っているようだ。

藤井風のロンリーラプソディには「溶けてゆく」という歌詞が出てくる。
サイババも、あらゆる物は根源的には液体である、と述べている。

6|自然科学への見識
 地質学の知識

サイババ あらゆる物は、その根源において液体である。
――スワミが言っておられるのは、この世界のことですか。
サイババ そうだ。すべての物は液化している。温度はない。
――熱はないんですか、スワミ。
サイババ そのとおり。すべては液体なのだ。水のようにね。金、鉄、銀、宝石、みんな液体だ。次は固体だ。そして木々だ。
――木、ですか、スワミ。私たちのまわりに見られるような?
サイババ そう、木だ。それから人間の存在と動物。その究極の中核には、神が宿る。それがすべてを支えている。一番目は液体、化学。それから固体、物理学。そして木、植物学。その次に人間、生命の頂点。だが中核ですべてを支えているのは、神だ。神がなくて、なにが化学、物理学、植物学だ?このように大学でのすべての教科はあるものだ。学生たちは全体像を理解するだろう。ヒスロップ『我がババと私』一九七ページ)

「検証・サイババの「奇蹟」 / デイル バイヤーステイン, Dale Beyerstein / かもがわ出版」p75)

すなわち、根源的には人間は液体だ、みんな同じだという。
サイババ思想との共通点が、藤井風のロンリーラプソディの世界観にも見受けられる。

だから差はない、と。

しかし現実では、そんなことはあり得ない。
この資本主義社会に生まれた人間においては、人は容姿や学歴や年収等といった物理的、物質的条件によって差別される。

独身である人間、一人で生活している人間を「孤独」という概念の檻に閉じ込める。

オレの人生がもし…平均的というか…
ごくまともに推移していたならば…
今頃は…

(画像引用元:最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

 

今野さんあなたは今まで人から好かれたことがありますか?
たとえば一番身近にいるご家族はどうですか?

おそらく誰からも好かれていないでしょう 
あなた自身もそれはわかっているから遂にひらきなおって人に好かれる努力をしなかった……

これから年をとってゆくと孤独になるのがいちばんの敵です
人に好かれる努力をしないと本当に孤立した老後を迎え淋しいまま人生を終えることになりますよ

(画像引用元:部長 島耕作(12)[ 弘兼憲史 ]

その「孤独」という概念の檻が必要なのは、資本主義における経済的合理性に相応しくないからだ。
結婚して、子どもを産み、労働力を生産してくれた方が国家のGDP向上には都合がいいからな。

だから結婚もせず、孤独に過ごし、子孫繁栄できない者を「終わってる」と、罵倒する者もいる。

はい。30にもなって子どももろくに産めない非モテの皆さんこんにちは。
あのね、我々のミッションというのは子孫繁栄なんですよ。
子どもを産んで、しっかり育てるということが、我々人類に課されたミッションなわけですね。
我々の脳味噌というのは、子孫を反映するために、プログラムされています。
かわいい彼女を作って、子どもを作って、育てていくと。
そのために俺らは「モテたい」という欲求があるし、ね、カッコよくなりたいといった欲求があったりするわけですよね。
そういう脳の、元々プログラムされていることに従えずにですね、いつまで経ってもAVでオ○ニーしているようなね、非モテがね、最近多すぎるんですよね。
だから日本、少子化になってるし、国力が弱くなってるわけでね。
で、国力が弱くなることによってどんどんどんどん、景気が悪化していって、自分らの首を絞めてるわけだよね。
お前らが、モテるための活動をしないことによってどんどん、国は弱くなっていく、景気は悪くなっていって、結局お前らの給料が下がる。
ね、そういう悪循環になってるわけね。
自分の身を守るためにも、お前らモテろ。
モテるための努力をしろ。
さっさと子どもを産め。
俺らはね子ども10人作る予定だけれども、そのぐらいの気概を持ってね、どんどんどんどん、我々のミッションである子孫繁栄をね、しっかりやっていけ。
お前30にもなって子ども産めないってね、お前、終わってるぞ。
子どもを育てていくだけの経済力もなければ、彼女を作ることもできない。そんな状態で30歳を迎えたそこのお前、終わってるから。
マジ、死ぬかモテるか、どっちか選べ。
そのレべルだからな、よろしく

だから「孤独」は、現実に存在する。
この「概念の檻」によって社会不適合者として、惨めなレッテルを貼られることから逃れるために、人は追われるように勉強や仕事や婚活や子作り等に精を出す。


また、このロンリーラプソディにある「溶けてゆく」という描写は、以前、当サイトで語った「人間という固体としての意志を放棄して流体に向かうルサンチマンとしての一面もある。

gyakutorajiro.comそして流体は、固体と違って弾性がなく、力を加えられたらすぐに変形する。つまり外圧を受け容れるということであり、抵抗する意志がない存在とも言える。


資本主義社会に生きる人間、重力に支配されている人間は、常に固体として主体性を持ち、意志を持って勉強や仕事をして生きることを要求される。
それがしんどくなる。

現実の艱難辛苦から逃れるために、人間は重力から逃れ、固体としての生命から液体に戻りたいという欲望を備え持つ。

宇多田ヒカルFlavor Of Lifeで、ダイアモンドよりもやわらかくてあたたかな未来を望んだように。

www.youtube.com生命としての固体、ダイヤモンドのようなマネー等のあらゆる固体に交換できる物質的存在から、液体へとなろうとする。
その回帰願望は、フロイト的にはタナトス(自己破壊衝動)と呼ぶかもしれない。

エヴァンゲリオンの旧劇場版で「THANATOS -IF I CAN'T BE YOURS-」が流れたように。
人類補完計画により人類が液体化して一つになろうとしたように。

www.youtube.comしかしそれを全てルサンチマンとしてしまうのは、神や知覚できないものの存在を否定する、唯物論的な価値基準に囚われ過ぎているともいえる。

一方、藤井風やサイババには、このような多くの人間が囚われている唯物論的な解釈や価値観を、乗り越えているか。
もしくは、違った価値観によって生きているような雰囲気も漂う。

皆、液体だった。
すなわち「みんな同じ」なんだと。平等なんだと。

サイババ「for I see Myself in all of you……(なぜなら、私はあなた方すべてのなかに私を見いだすのだから)」と、語るように。

 聖アウグスティヌスは現在の人間でも気づいていない真実を突きとめ次のように述べる。
「奇跡は自然とは矛盾しない。矛盾しているのは現在人間がもっている自然法則にたいしてのみである」
 あなたが(クリシュナ、ブッタ、キリストなどの起こした)昔の奇跡を認めるかどうかは別にして、約五十年もの間、まだ生きている人がサイババの奇跡を実際に目にしてきた。これは否定することのできない事実であり、多くの国のたくさんの知識人や信頼できる男女が目撃し、体験し、証人となってきた。
 ちなみに、私が昔の奇跡を信じ、自然と呼ぶこの素晴らしい、常時変化してやまない現象を新たな目で見るようになったきっかけは、サイババの奇跡を体験し、これが否定できない事実であることを自ら確認したことにある。こうして、私は「奇跡の時代」が過去のものではないことを理解した。奇跡の時代は現在であり、過去であり、未来でもあるのだ。
 奇跡を自分に引きつけて見れば、奇跡が現実にあることを理解し、受け入れる助けにもなるかもしれない。わたしたちと奇跡との間には密接な関連があるからだ。ババのもつ奇跡の力、英知、純粋な愛を目撃し、体験するとき、わたしたちと彼の間に大きな違いがあるのに気づかれるかもしれない。そして実際ここには「無知」と呼ばれる隔たりがあるのだ。サイババは何度も自分とわたしたちは一体であり、同一のものであり、最高の神の分身である、と話し続けてきた。しかし、人間は相変わらずこの無知という広大な湾を渡ることができずにいる。この広い水域を横切る船を見つけ、湾のはるか向こう岸に光が見えるようになれば、人間は自分にとって大切なものに気づき、永遠の自由を手に入れられるだろう。

(「サイババ・愛の化身 その奇跡と教えを知るために (心霊科学名著シリーズ) [ ハワード・マーフェット ]」p11-12)

そうなのか、証人が多くいると。
サイババの奇蹟、映像が残ってるなら観たいな。

藤井風がロンリーラプソディで「みんな一人でみんな一つ」と唄うように。
これはジョン・レノンの「イマジン」のメッセージ、世界はひとつになるんだ、というメッセージとも似ている。

ameblo.jpすなわち藤井風も、サイババも、ジョン・レノンも、博愛主義的な考えの持ち主だ。

その根拠は、藤井風のPVを何本か観ればわかるが、色々な人種の人が登場し、楽しそうにふれあっているということや。
サイババが、ヒンドゥー教イスラム教の懸け橋になったことだ。

 過去何世紀にもわたって大きな二つの宗教が隣合せに生きてきたが、その歴史は相互不信と敵意、断続的な抗争の連続であった。そのふたつの宗教とはヒンドゥー教イスラム教である。両者を互いに寛容と理解に基づいて結びつけようとした者はごくわずかしかいない。その小数のなかから思い浮かぶ名前は、カビールマハトマ・ガンジーそしてサイババである。

 基本的に、ふたつの宗教はおなじ真理を教えている。つまり『神』はひとつであるということだ。その姿、名前、思い浮かぶ属性がなんであれ、ひとつなのである。ではふたつの宗教の主な相違点はどこにあるのだろう。ヒンドゥー教では神は自らをどのような形にすることもできると考えている。この宗教では、どのような姿の神を選んでも正しく神を崇めることができる。いっぽうイスラム教では神には姿などないといい、偶像を禁止している。

 ある姿を神と見ることを認めると、大勢の人間が偏在する神を勝手に自分で選んだ姿に限定し、ほかの姿をした神をいっさい否定してしまうことになりがちになる、とイスラムが考えていることは間違いない。こうなると、たえず危険につきまとわれることになるのは必至で、事実、組織化された宗教には世界中どれを見ても、多くの悲しい流血の歴史が存在する。

 しかし物事の核心を探る人間は、ふたつの宗教が互いの観点を尊重しあえるようになる点がたくさんあることに気づくだろう。この問題に尽力した一人に十五世紀の聖詩人カビールがいる。カビール自身はヒンドゥー教徒でありながら、多くのイスラム教信者を獲得した。実際、彼はイスラムの教えを深く理解し、イスラム神秘主義的宗派スーフィ教のグルの長にまでなった。スーフィ教徒はカビールの詩が霊性を向上するものとしてサダーナでも最も重要なものと考えた。彼の詩はスーフィ教の神髄でもあり、ヒンドゥー教の神髄でもある『神の愛』を暗示している。

 シルディで暮らしていたころ、サイババはよくカビールについて語り、彼の詩を詠み、自分は聖なる詩人の生まれ変わりであるとも言っている。ヒンドゥー教徒の両親のもとに生まれたシルディ・サイババには若いころ、ふたりの霊性の指導者がいた。ひとりはイスラム教の苦行僧であり、もうひとりは信仰の篤いヒンドゥー教徒であった。


(「サイババ・愛の化身 その奇跡と教えを知るために (心霊科学名著シリーズ) [ ハワード・マーフェット ]」p185-186)

シルディ・サイババ
サティヤ・サイババじゃないな。
しかし、サティヤ・サイ・ババも、シルディ・サイ・ババを敬愛していた。

www.choeisha.comサイババは本名をサティヤ・ナーラーヤナ・ラージュといい、1926 年11月23日に南インドにあるプッタパルティという村に生まれました。
サティヤは幼少の頃から優れた霊感を持っており、村の間では「グル(導師)」や「ブラフマグニャーニ(神を知るもの)」と呼ばれていたそうです。

そして14歳になると「自分はシルディ・サイ・ババの生まれ変わりで、神の化身である」と宣言しました。
サイ・ババとは「聖なる父」を意味し、その「サティヤ・サイババ」の名は世界各地に広まっていきました。
信奉者が数百万にまで膨らむと、サティヤの講話をつづった本が何カ国語にも翻訳され、「サティヤ・サイババ」の存在はさらに世界中に知られるようになったのです。

そのため、思想としては近しいはずだ。
サティヤ・サイ・ババも、文献から人種や宗派で人を差別するような存在ではなく、博愛主義的な思想を持っていたと想像できる。

もちろん、そういった博愛主義は、真心ブラザーズの「拝啓、ジョン・レノン」にもあるように。

www.youtube.com藤井風もサイババジョン・レノンも、平和主義や理想主義が強すぎて「現実見てない人」になるかもしれない。


が、藤井風の唄の中には決して、理想主義に終始しないものもある。
「青春病」という曲だ。

www.youtube.com青春はどどめ色(土留色)だと。
綺麗なブルーなんかじゃない。

この曲を聴くと過酷な現実を無視しているわけでもなさそうでもある。
単なる愛の讃歌ではない、残酷な現実のリアルを突き付けるような曲もある。
いつまで青春に溺れてる?
青春にサヨナラしろってかい…いい年こいてあだち充とか読んでちゃダメかよ…。

藤井風の曲には、青春病以外にも。
諦念(もうええわ)や、死(死ぬのがいいわ)、儚さ(いつの日か粉になって散るだけ)等、退廃的なワードが並ぶ。
それもサイババに繋がっている。

先のサイババの言葉に「I separated Myself from Myself so that I may be Myself……(私は自分を自分自身から切り離し、それ故に、私は私自身でありえる)」というのがある。
結局、多くの人間は、囚われてしまっている。
資本主義社会に生きているがゆえに、物質主義的な、マネー資本主義的な価値観に染まってる。
だからこそ、藤井風はそれを「もうええわ」と。
物質的快楽と結びついた青春と「サヨナラ」して、切り離せと。
「肥溜めへと、ダイブ~♪」(何なんw)してる場合かと。

科学技術が発達した現在においては、唯物論的な考えが優勢となる。
哲学の歴史においても、科学の発展やマルクス主義の影響もあるだろう、ニーチェドゥルーズデリダといった形而上的価値観やロゴス中心主義から脱出しようとする思想の方がリアリティを帯びてくる。

サイババの本を書いた安部賢司という人でさえ、科学的で唯物論的な考えこそが真実だとする考えを抱いていた。

 高校時代、私は放課後よく友人と議論を戦わせたものだった。「人類はなぜ存在しなければならないのか」という議題が選ばれることが多かった。そのころ、生物というのは単に蛋白質の集合体にすぎず、単なる自然現象の一部だ、また意識というものは高度に組織化された脳の物理的反応によって発生するものだと考えていた。だから、人類を含め全ての生物は、存在そのものに何ら意味はない、あるいは意味を見いだそうとする議論が非論理的な行為だ、という見解だった。いや、そのような見解を自分の心に植え付けようと努力していたのかもしれない。
 
 このような唯物論に基づいた考え方を徹底させようとしていたため、自分の純粋な恋心まで否定してしまうことになる。
 
 そんなある日、中学時代の初恋の相手であったk子とふたたび逢うことになった。今から考えれば二度とあのような純粋な気持ちには戻れないだろうと思えるくらいの純愛の相手であった。私は進学校に進んだが、両親のいない彼女は大学に行くことは難しいため商業高校に進んだ。違う高校で別れ分かれになってしまっていた私にとって、それは夢のようであった。約束の日が近づくにつれ、高ぶる感情を押さえきれなくなってくる。しかし、その当時の私は「感情は脳の反応にすぎず意味のないことだ」と決めていたため、理性でむりやり感情を捨てた。心から待ちわびた約束の日に、感情を無意味なものとして振る舞う私があった。結果は目に見えていた。しかし、私は感情を捨て去る方向こそ人類の進化だと考えていたのだ。その後、私は彼女にラブレターを書いた。しかし、彼女の何を愛しているのか悩んだ。いろいろ自己追及していった結果「彼女は結局は原子核と電子の集合体なのだから、私は原子核や電子を愛しているのか」という結論になってしまうような内容となってしまった。すなわちその当時は、ただ物質のみが真の存在であるという唯物論に基づいた考え方を徹底しようとしていたため、深く追求すればするほど本質を見失っていくのであった。

(「奇蹟をこえて サティア・サイババとバラ・サイババ、ふたりのサイバ / 安部 賢司 / エスダブルオウ」p89-91)

こういった唯物論や、資本主義、マネー中心主義に人間が捉われてしまうのは、金は快楽(脳や身体の反応)と互換性があるからだろう。
金があれば、快適な衣食住や、性的快楽を手に入れることができるのは、現実としてある。
つまり資本主義は、生物学的な欲求や生理的な快楽(ドーパミン等の脳内化学物質)とも密接に結びついている。
マルクス的に言えば資本主義は、下部構造(身体、快楽、労働)と結びつく価値観であるがゆえに、そこから逃れるのは容易な事ではない。
それは藤井風が青春病で唄っている「切れど切れど纏わりつく泥の渦」のように、永遠にまとわりつく。

だがその現実も、サイババは見透かしていたのかもしれない。
だから「I separated Myself from Myself so that I may be Myself……(私は自分を自分自身から切り離し、それ故に、私は私自身でありえる)」という言葉を残した。
「欲望の対象に執着している」とも述べた。

 
 ところが、いざ瞑想なり祈りなりを始めようと思うと、途端に、われわれは別のことを考え始めてしまう。座った途端、いつ瞑想が終わるのかを考えている。その次にする仕事のことを考える。あるいは、この忙しい世の中で、そもそもこんなことをしていてよいのだろうかと考える。
 なぜ、日常容易にできる集中が、瞑想をはじめとする霊性修行に生かされないのだろうか。
 
 『それは、心が外に向いていて、欲望の対象に執着しているからだ』
 とサイババは答えている。つまり、心は外側の対象へ集中するのは容易だが、終着を離れ内側へ向かうのは簡単ではないのである。
 『だが、心は内側に集中するよう訓練できるし、ハートは、神への愛を育むことができる。どのようにして?サーダナ(霊性修行)によってだ』
 
 最高の霊性修行とは、日常の行為の全てを神への礼拝として捧げることだという。そしてそれこそが、真の瞑想の状態に他ならない。ただし、そこに至る訓練の段階として、われわれはいわゆる普通にいう瞑想の実験を行なうのである。

(「真実のサイババ / 青山 圭秀 / 三五館」」p194)

人間は自らの身体から湧き上がる欲求や、社会生活を送る上で形成されていく欲望に囚われる。
社会の評価によって自らを相対化し、優越感や劣等感を覚える。
そのような営みに囚われるからこそ「私を私自身から切り離し、私は私自身でありえる」と、サイババは問うたのではないだろうか。

このサイババの言葉を受けたような曲が、藤井風にある。
それは「Grace」という曲だ。

www.youtube.com「助けて神様 私の中にいるなら」と唄うように。サイババ同様に心を、欲望を喚起する外の世界ではなく、内側に向けようとしている。


みずさわさんという人も考察しているように、外の世界に触れることで形成されてしまった煩悩、外の世界にある欲望を満たそうとする「私」だったが、それがうちの世界の「あたし」に出会う。

note.com暗闇にいた「私」は、「あたし」に会ったことで自由になり、神の恩寵のもとですべてを愛するようになる。

暗闇にいる私は、切り離されていない自分、外的な社会、外の世界によって自縄自縛となっている「私」だ。
そこから「あたし」に出会うことで、そこから逃れないか?と。

それは自分自身を愛するための讃歌であり、自分を自己肯定に導く契機だ。
だから藤井風の曲には、サイババ同様、資本主義社会で傷ついて疲弊した「私」を癒すパワーがあり、唯物論者に近い思想を持つ自分もつい、聴いてしまうのかもしれないね。


白魔法、と言われると、そんな気もする。

article.me藤井風自ら「この曲は誰しもの中に存在しているハイヤーセルフを探そうとする歌」と解説している。神や天使やヒーローのようなハイヤーセルフが一人一人の内に存在しているということ、それはエゴや利己心や嫉妬と無縁で愛に満ちた存在であるということ、曲の中で自分と自分のハイヤーセルフが対話しているということを語っていた。

いや、しかしこのハイヤーセルフの存在有無については、共感できない。
これについては一旦保留としておこう。

 

続き

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