逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

なぜアイドルグループは恋愛禁止なのかについてをジョルジュ・バタイユ「宗教の理論」で紐解く

前回、熱愛スキャンダルによって事物の秩序に堕落した神(アイドル)を否定し、破壊する行為によって、ファンが自らの内奥性を取り戻すことができるという話をした。

gyakutorajiro.com内奥性とは、ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」に出てくる言葉であり、端的に言うと、事物の秩序(現実社会)に服従する人間が、その秩序からの解放や忘却のために信仰する「希望」や「生き甲斐」といった観念的対象であり、現実に存在するアイドル等の外的な物理的対象でもある。

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

信仰していた神、および神を象徴する物質(アイドルのプロマイド、うちわ、その他グッズ等)を破壊するという行為は、宗教や宗教めいたドルヲタ活動ではなく、事物の秩序に戻ることでもある。

恋愛・性欲に溺れ、アイドルが神ではなく事物(人間)に堕ちるという罪は、お相手の男性、すなわち事物(人間)という悪によってもたらされた。

悪による第一の形態の媒介作用は、いつでも可能なものであった。もし私の眼前で悪の現実的な力が私の友を殺すとなれば、激しい暴力性は内奥性をその最も活発な形で導入することになる。
暴力を被ったという事実によって私がそうなる開かれた状態の中で、また死者の内奥性が苦痛に充ちて啓示される中で、私は残酷な行為を非難し、断罪する善の神に同意しているのである。
だから私は罪がもたらした神聖な無秩序のうちで、壊された秩序を修復するような暴力性に訴えかけようとする。しかしながら私に神々しい内奥性を開示したのは、実のところ復讐ではなく、罪のほうなのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p106)

ファンが自分が集めたグッズを破壊するという暴力性によって、ドルヲタ活動とは別の内奥性を手に入れたのは、バタイユ的な解釈に基づくと罪(スキャンダル)であると。

確かに「裏切ったな・・・」という復讐心よりもまず、神がその神聖さを失う罪が、先行して存在する。
しかし復讐は履行されることなく、罪は閉じられ不問となる。

そして復讐は、罪がそうである非理性的な暴力性の延長になることはありえないが、まさにその範囲に応じて、罪が開いたものをすぐに閉じてしまうだろう。なぜなら神的な感情を与える復讐とは、暴力の奔騰への情熱や嗜好が命じるような復讐だけだからである。合法的な秩序を修復するということは、本質的に言えば俗なる現実に服従しているのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p106)

前回の記事で言うところの、グッズの破壊や闇夜の徘徊がそうだ。逮捕されるので、現実に罪を犯した神に対して復讐が行われることは滅多にない。合法的な秩序の修復に留まる。

また、バタイユによれば、ファンの中にある暴力性(善の神)は、神にもたらされた暴力性(スキャンダル)よりも神々しくはないと。

つまりその善の神とは、暴力性によって暴力性を排除する神性なのである(そしてその神は、排除される暴力ほどには神々しくない。すなわちその神性が生じるために必須の媒介作用であり、そのように排除される暴力に較べると、神的な度合は低いのである)。

だからその神が神的であるのは、それが善と理性に対立する範囲や程度にまさしく応じて、その限りにおいてのみそうなのである。それでもしその神が純粋に理性的なモラル性を体現しているとするならば、その神に残っている神性とは、ただ神としての名称と、外部から破壊されるものではないものが持つ持続に適した傾向とに由来する神性だけに過ぎないのである。

(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p107)

確かに「アイドルが恋愛禁止の暗黙ルールを破った場合、糾弾せねばならない」等の善の神は、どこか独善的で、共感を得にくい場合があるだろう。
その点で神々しくはないとも言える。

むしろ、神にもたらされた暴力性、恋愛禁止という見えない呪縛を被っている状態において、もたらされてしまった魅惑的な恋愛という感情の高ぶりの方が、神々しいとも言える。
神にとっては、恋愛禁止よりも、恋愛の快楽が勝った。それは恋愛禁止という価値観に対立するため、神性は喪失したかもしれない。

神にも葛藤はあった。信者たちが納得しないと。
神が恋愛という罪を犯してしまった。
恋愛とは、事物の秩序にいる人間が行っている通俗的な営みであり、別に神聖なものではない。

信者(ファン)から糾弾される。
別の神は悩む。どうすればいいのかと。

www.sponichi.co.jp「アイドルとして皆さんから頂いた愛や信用を裏切ることが起きてしまい、本当に申し訳ありませんでした。そして、今まで曖昧になっていた『恋愛禁止』というルールについて改めて考え直す時代が来たのだと思います」

外野から神を糾弾する暴力性がもたらされる。

媒介作用の第二の形態においては、暴力性は外部から神(ディヴィニテ)へとやって来る。神自身がその暴力を被るのである。復讐の神を位置づける場合と同じように、内奥次元が回帰するためには罪が必須のものとして求められる。

もしそこに事物たちの秩序に服した人間と、モラルに関わる神しかいなかったとしたら、その両者の間には深い交流はありえないであろう。事物たちの秩序のうちに包括された人間は、その秩序を解除し、かつ同時に保全することは、そうしたいと願ってもできないだろう。そういう秩序が一つの破壊行為によって解除されるためには、悪の暴力性が介入しなければならない。だが、ここでは捧げられる犠牲は、それ自身神なのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p107-108)

バタイユが言うように、神の国(アイドルグループ)が、その内奥次元を取り戻すには、罪(スキャンダル)を犯した神を裁く、暴力性を伴う罰が必要になってくる。

その与えられる罰とは、神の国からの追放であり、いわゆる「卒業」だ。

nlab.itmedia.co.jpAKB48岡田奈々さんが11月23日にTwitterを更新。岡田さんは一部で俳優の猪野広樹さんとの熱愛が報道されており、けじめとしてAKB48を卒業すると発表しました。

ファン達が抱いている感情、ファンが抱くモラル(善の神)によって、アイドルという神は断罪された。

神(アイドル)は、神の国(アイドルグループ)に残るという選択を取ることはできた。
しかしその選択を行わない。
それはある意味で、神自身が、内奥性を取り戻すために必要な犠牲ではある。

供犠に捧げられる神は、それが死に至るときに、現実秩序を転倒する力の奔騰という至高な真実を受け入れる、だが、この神は、それ自身の内部で、もはやこの現実秩序に服従せず、奉仕することもないのである。つまりこの神はこうして、事物たちがそれ自身現実秩序に服従しているのと同じようには、その秩序に隷従することを止めるのである。

このようなやり方で、その神は至高な善を、そして至高な理性を、事物たちの世界の保存という原則、またその操作という原則を超えた地点まで高め、引き上げる。というかむしろ、こうした知的理解による諸形態から、ちょうどかつて超越性の運動がそれから作り出したものを作り出すのである。すなわち存在の非可知的な彼岸を、つまりその神がそこに内奥性をすえるところの、あの知的理解を超えた彼岸を作り出すのである。

(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p109-110)

岡田奈々は、現実秩序(アイドルグループへの残留)に隷従することなく、現実秩序への奉仕を止め、非可知的な彼岸へと向かうことで、内奥性を獲得する。

その方が確かに、選択として正しいかもしれない。
上記の記事では「1番最悪の答え」とあるが、実はそうじゃない。

神がその内奥性を取り戻すためには、ファンが抱く善の神の裁き(恋愛禁止等)という現実秩序への従属から逃れることこそが、自らをもう1度、神としての存在に高めるために必要だ。
バタイユが「内奥次元が回帰するためには罪が必須のものとして求められる」と言うように、岡田奈々は卒業という楽園追放の罪を背負うからこそ、内奥性を取り戻せる可能性が生まれる。

しかしこの選択は、神自身に、自らの内奥性を信じる力がないと出来ない。
峯岸みなみ指原莉乃は、スキャンダルの時点では、自信がなかった。
だから「坊主になる」という罰を自身に課したり、望まない移籍や活動拠点の変更を受け入れても、罪を拒絶し、神の国に残った。

岡田奈々は自信があるということだ。
他の活動でも、人を魅了する内奥性を発揮できると。

もしくは、内奥性を発揮できなくても、事物の秩序で生きていくマネー等の生活の糧が潤沢にあると。

だから「卒業」という選択は、合理的とも言える。
内奥性を取り戻すためには「AKB48に残る」という、支配的な現実秩序から逃れなければならない。

しかしそもそもなぜ、アイドルグループには恋愛禁止という暗黙のルールめいたものがあるのだろうか。
アイドルにおけるこの性質は、バタイユがいう内奥性とも言える。

news.yahoo.co.jp AKB48ファンのコア層は、疑似恋愛的な(あるいはキャバクラ的な)要素を軸とする中高年男性だ。売上を考えると、DH社はその層を決して手放せない。シングルCD売上はコロナ前と比べて3分の1になったが、それでも40万枚程度も売れる。ここで「恋愛」を解禁すれば、コア層の中高年男性を見放すことになる。それは、経営的にリスキーだ。

と述べている人がいるように、疑似恋愛的な要素があるからと。
ただ「古いジェンダー観」とあるが、ジェンダーの問題ではなく、何をそのグループのコアに成り得る価値、内奥性とするかの問題だ。
そのため、向井地美音が主張するように、恋愛禁止のルールを考え直してもいいし、放棄してもいい。

ただし、その場合は「可愛いのに特定の相手との恋愛に溺れることなく、ファンに尽くしてくれる」というAKB48およびAKB48グループが持っているその内奥性を放棄し、記事で言及されているRed VelvetやTWICE等のように、音楽性やライブパフォーマンスやダンスパフォーマンス等、別の内奥性が要請される。
疑似恋愛を愉しめるという内奥性を放棄することは、別の神、別グループと同じ土俵、類似した内奥性で勝負する可能性が大きくなるため、パイを奪い合うことになるし、
不利になる可能性も出てくる。

そのため運営側は、建前としては「恋愛禁止のルールは無い」と人権を尊重し、恋愛禁止を人権問題として糾弾されないように振る舞うが。
現実として、恋愛スキャンダルによってファンが没入していた供犠や祝祭に含まれている疑似恋愛的な魅力等の内奥性を喪失するがゆえに、本音としては、恋愛はしてほしくないと考える。


統一教会でも、自由恋愛を禁止する教義がある。

news.ntv.co.jpこのように、アイドルグループや宗教団体には、明文化の有無に関わらず、恋愛を禁止する内奥性が求められるケースがある。
「事物の秩序で生きる人間達は、大抵、恋愛をしてしまうので、恋愛をしないことこそがすばらしい」という内奥性は、錯誤的で、非人道的に感じる人も多い。

しかし求める。
誰が求めているかというと、それは事物の秩序にいる人間であり、ファンだ。
つまり「事物の秩序の側が、それ(恋愛禁止など)を内奥性として要請している」と、バタイユは語る。

事実、内奥次元が現実世界を服従させることがあるとしても、それはまったく皮相なやり方でそうするにしか過ぎないのである。モラルが至高性として君臨する体制の下では、内奥性の回帰を保証すると自負するあらゆる操作は、実は現実世界が要請するような操作である。

つまり回帰の条件として設定される広範囲にわたった諸々の禁制は、本質的に見て、事物たちの世界を無秩序な混乱から保全しようとする狙いを持っているのである。

それで最終的には、救済を求める人間は、事物の秩序というこの生産的な秩序を、内奥次元がそうであるような破壊的な消尽に服従させるよりもずっとはるかに、事物の秩序の諸原則を、内奥次元の内部へと導入してしまったのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p111-112)

事物たちの世界を、無秩序な混乱から保全したい。
その欲望はすなわち、ルサンチマンだとも言える。

モテない男女、弱者男性や弱者女性達が、事物の秩序において自らの欲望を充足させることが出来ず、嫉妬・怒り・恨み・辛みの感情に駆られる。
その現実を否認するため、抑圧するために、生み出したんだ。
事物の秩序において「恋愛禁止」という倒錯的な原則を。

その原則、恋愛禁止という十字架を、恋愛がいつでも可能と思われる恋愛強者、容姿のいい男女の内奥性として設置し、ドルヲタ活動や推し活によって内奥性を持つ存在が創り出す内奥次元へと回帰することで、自らの直視し難い現実、例えば恋愛ができない現実、恋愛弱者であるという現実等を、隠蔽する。

「恋愛が出来ないのは自分だけじゃないんだよ」というルサンチマン(奴隷道徳)が充満した世界に安住する。

恋愛禁止の内奥性を備えたアイドルが創り出す祝祭空間に没入することで、事物の秩序という自分の人生の失敗から逃れようとする。

神が存在する内奥性の世界、すなわち内奥次元に回帰している時は幸福であり、自らの人生における諸々の不満の噴出を抑えることができる。
哀しいが、宗教や推し活が生み出している内奥性は、根本を辿ると、そのような現実秩序から発生しているという話だ。

現実から目を背けていいのか?
現実に襲い掛かる無秩序な混乱を受け入れず、ルサンチマン服従し、事物の秩序から逃れ続けて、満足か?

等と、宗教を信仰している方や推し活を頑張っている人に言ってしまうと、大抵嫌われる。

でも、そこに没入しすぎて事物の秩序から離れてしまう人がいたら、警告しなければならない。
神的な世界や祝祭空間にも、マネー等の事物の秩序の手は及んでいる。
自分が信仰している信仰の対象が、神聖化していた世界が、実は、自分が生きている世界と地続きの、事物の秩序であるという現実。

恋愛禁止の世界なんか、ないんだよ。
魅力的な相手がいれば寄り添う、その事物の秩序こそが現実であり、真実だ。

「アイドルグループは恋愛禁止」というのは、現実の秩序から生まれたルサンチマンであり、その内奥性は金儲け等に寄与するという点で神聖化されるが、その神性さは現実の秩序が要請しているという点で、何ら神性な教義でも価値観でもないんだよ。