逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

フロイトやトリスタン・ツァラが示したあらゆる恋愛が転移性恋愛であるという可能性

なんか離婚に関する話題で、興味深い日記があったな。

anond.hatelabo.jp・言葉によく「お」を付けること。例えば、お手洗い、お気をつけて、お箸、お皿、など。妻はトイレ、気をつけて、などと言う。言われて初めて気づいたが。

・食事の時、箸で口まで運ぶ時に手を添えたり、食事中に会話をする時に手で口を隠す動作が男のくせに女子力が高く、受け入れられない。交際中もそうだったが、外でだけだと思っていたらしい。

・関西人なのに関西弁を喋らない。

妻の「受け入れられない点」が、何か細かいなという印象があった。
「しょうもない」と言えばそうなんだけど。

離婚すべきかと相談する妻にどう対応しよう

そんな些末な理由で「離婚すべきか」と相手に問う人とは離婚すべきだろうなあ、と思いました

2022/11/14 05:20

b.hatena.ne.jp

離婚すべきかと相談する妻にどう対応しよう

理由として挙げられたのが、くそくだらんどうでもいい話ばっかなんだが、それが許せないのは、言語化できてない根っこの問題があるからじゃないのかなーという気はする。

2022/11/14 07:55

b.hatena.ne.jp

しかしそれは建前であり、真実を覆うための幻想であり、夫のことが嫌いな理由は無意識的、生理的次元にあるというコメントもあったな。

離婚すべきかと相談する妻にどう対応しよう

なんとなくだが松島尚美さんの顔が浮かんだ。キラキラアフロでの鶴瓶師匠と絶妙に噛み合わない感じとか。まあ、でも言いたいことが言えてるのいいことじゃないでしょうか。

2022/11/14 10:37

b.hatena.ne.jp

離婚すべきかと相談する妻にどう対応しよう

ただ単に増田が嫌いなのでは。言葉にならない生理的なレベルで。妻本人もそれに気がついてないから細かいどうでもいいことが目について理由付けしてるんだと思う。

2022/11/14 14:56

b.hatena.ne.jp

離婚すべきかと相談する妻にどう対応しよう

そんな細かいことが理由じゃなくて、妻にとっては、生理的にキモいところがあるってことなんだよ。 他の部分で補えないぐらいに。 そんなことも分からないとか、結婚何年目だ?

2022/11/14 08:36

b.hatena.ne.jp

離婚したいという現実を隠蔽するための要求だという話も。

離婚すべきかと相談する妻にどう対応しよう

大変失礼だけど、奥さんに有責事由があり、離婚を望んでるから、誤魔化すためにこんな話してる可能性は?(意地悪な話でごめんよ

2022/11/14 10:42

b.hatena.ne.jp

これは前回、当サイトで話をした、落合陽一やホリエモンがアベガーを嫌悪する理由に似ている。

gyakutorajiro.comアベガーがいない世界という要求は実現できないがゆえに、アベガーには山上容疑者を凶行に至らせた責任があるという$◇a [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の幻想を作り出す。

この記事で紹介したケースと同様に、夫に「別れたい」という要求をしたいが、それが自分勝手で自己本位であるという現実を隠蔽するために、言葉遣いなどのおよそ離婚事由として法的にも客観的にも共感を得られない幻想、$◇a [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]を作り出す。

続編もあった。

anond.hatelabo.jp妻は精神面が不調だったと。
「精神面の不調」というのは、幻想のリミッターが外れてきていることを示す。
ラカン的にいえば、象徴界から現実界へと移行している。

gyakutorajiro.com現実界」ってのは、ジャック・ラカンが提唱した精神分析の概念で、このサイトでは何回も出している。
判りやすくいうと「現実にある、現実以上の出来事や脅威」みたいな感じだ。

秋葉原カップルだらけ。意味わからん。」と加藤が思ったのは、「秋葉原はオタクのための街」という認識があったからだ。
それは加藤における現実の認識だ。

しかし実際の現実は、違った。秋葉原は、アローンのオタク達が集う街なんかじゃない。「現実」には亀裂が入り、現実界が姿を現す。
これがまさに"リアル"なんだと。

上司からのパワハラ、夫との結婚生活、"リアル"が襲ってきて、対処しきれない状態になってくる。
象徴界にいる「本当の夫」は違った。

妻は「外でだけだと思っていたらしい。」と言っているように、もっとワイルドで、包み込んでくれる男だと思ってたのではないだろか。

「妻本人もそれに気がついてない」というコメントがあったが、それもあるのではないだろうか。
自分は夫のことが好きなのだろうか?と。

本当は、村上春樹だのトルーマン・カポーティだのを読むような小賢しい男とか好きじゃないみたいな。

gyakutorajiro.comワンフーの図鑑では、全てのハルキストを敵に回すかのように、村上春樹好きを「文学者気取りのナルシスト」と馬鹿にする。

私は新宿鮫とかを読んでいるというか、主人公の鮫島、そういう男が好きなの!

Z李みたいな、権力を持つ上級国民にも立ち向かっていけるような漢。

www.youtube.com狂犬・加藤浩次のように、加藤の乱を起こして巨大企業に立ち向かう漢。

news.livedoor.comそういう男の中の男、"漢"を求めている。

デートの時も、ワインの蘊蓄を語るような気取った男とか嫌。
ちょうど本日11月17日、11月の第3木曜日だからボージョレ・ヌーヴォ2022の解禁日ってことで、それを買ってきて「うーん、今年は香りが少し弱いな」といった品評をするような男ではなく。

関西弁を喋りながら、下町のナポレオンや大五郎を常日頃飲んでいるような男を求めていた。


河内のオッサンのような男を。

www.youtube.comおいわれ、男っちゅうもんわな
酒の一升も飲んじゃってさ
競馬もやっちゃってさ
その為にさ 思いっきり働くんじゃわれ!
てやんでえ べらぼうめやけ

まあそれは勝手な想像だけどよ。
実際どうだよ。

村上春樹とかカポーティの作品に出てくるキャラとか、勝手なイメージだが。
箸で口まで運ぶ時に手を添えたり、食事中に会話をする時に手で口を隠す動作とか、してそうだろ。

逆に、新宿鮫の鮫島とかZ李とか加藤浩次とか、やってねえだろ。
手に口を添えるフェミニンな仕草はよ。

それが許されるのは、全盛期のいしだ壱成とか、栗原類とか、りゅうちぇるみたいな。最近だと板垣李光人みたいな、中性的なオーラがある美形の男性なら許されるかもしれないが。

竹内力とか本宮泰風、温水洋一や角野卓三や國村隼がやってたらどうだ。
まあ國村隼は上品そうな役柄もいけるか。
ユースケサンタマリアはどうだ。ギリいけるか。
でも違うだろ。
もっとワイルドだし、手なんて添えてないぞ。

今すぐ家の中にある村上春樹を捨て、大沢在昌新宿鮫にするべきよ。
そんで酒も焼酎にして、狩猟免許も取った方がいい。
ゲームとかは「スプラトゥーン」とかじゃなくて「龍が如く」に変えるべきだ。

妻に手料理を振るまえよ。
豚の丸焼き、ウサギの丸焼き、ワイルドな料理がいい。
こういうお肉モリモリの料理とか。

妻:「ムシャムシャ…(がりっ)痛い!なんか…鉛みたいなのが入ってるんだけど…」
夫:「ああ、俺、基本的に肉はスーパーとかじゃなくて、猟銃か散弾銃で直に仕留めて仕入れてるからね。たまに貫通しなかった弾丸とか
残ってるから」
って言ったらどうだ?
ワイルドすぎて妻は惚れ直すんじゃねえの。

なんちゃって。話が逸れたな。

妻は本当に夫を愛していたのか。
そもそも、誰を愛していたのだろうか。

いわゆる妻の「理想と現実のギャップ」はあった。
ラカン的に言えば「象徴界への現実界の闖入」が。

自分以外の誰かが、自分を操っているような感覚を、覚えたことはないだろうか?


ラカン「人間の欲望とは他者の欲望である」と述べたように、例えば結婚相手を年収や顔といった物理的スペックで決めてしまうケースはあると思うが。
そのスペックというのが、あらかじめ用意されていた象徴的構築物であり、それは無意識的かつ受動的に内面化されてしまっている。
前もそんな話をしたな。

gyakutorajiro.comコラージュアートのように、パッチワークのように、大量のシニフィアンが無意識に供給される資本主義社会の大量のシニフィアン。次から次へと湧いてくる同一化対象、その影響によって形成される欲望は、自分の欲望なのか、自分の感情なのか。
そしてもはや自分はもう消えていて「君」(他者)になっているのではないだろうか。

他者および他者の記号による過剰な代補により、人間の自己同一性は差延し、自分が行っていると思われている言動や身体運動も、非現前の幽霊によって動かされている傀儡人形ではないのだろうか。

その話の続きになるが、「転移」という精神分析の用語がある。
転移については、斉藤環氏がわかりやすいエピソードを紹介してくれている。

www.cokes.jp 僕がはじめて「転移とはこういうことか」と理解した経験について話そう。まだ駆け出しの、研修医時代のことだ。僕は外来で、その日はじめてやって来た中年の女性患者と面接していた。彼女は夫との関係がうまくいかないことに悩んで、うつ状態や不眠が続いていた。彼女の訴えは淡々としており、どちらかといえばその話しぶりは、自分の至らなさを責めるようなトーンだった。ところが、彼女の夫の振る舞いを聞けば聞くほど、これが実にひどいんだね。肉体的な暴力こそ振るわないものの、外泊して帰ってこなかったり、家に金を入れなかったり、パチンコでたくさん借金を抱え込んだり。で、僕はもちろん彼女に対して、まず現実的な対応策を勧めたくなった。つまり「まずこの旦那をなんとかしろ」と言わずにはおれなくなった。なぜなら、彼女はあまりにもそのことに無自覚に思えたから。
 
 でも、ちょっと考えてみよう。なるほど、いま目の前で話している彼女は、夫のひどさに十分気付いていないのかもしれない。でも、本当にそうだろうか。僕の言葉は、もちろん僕の口から話しているんだけれども、彼女の言葉を聞いたら、かなりの人がそういうアドヴァイスをしたくなったのじゃないだろうか。そう考えると、僕の言葉は僕自身のものというよりも、彼女に語らされていると考えるべきじゃないだろうか。しかし、彼女自身が問題のありかに気付いていないようにもみえる。だとしたら、正確には僕と彼女との関係性において、無意識に何かが伝達され、それが僕の口から語られたと考える方が正確なんじゃないだろうか。つまりこれが、自ら語っているつもりで、象徴界によって語らされているということなのではないか。

 初診の患者だし、まだ転移性恋愛なんて生ずるほど治療関係も深まっていなかったから、むしろラカン的な意味での転移がこんなふうに起こるという「感じ」くらいは持ってもらえたんじゃないかと思う。ポイントはふたつ。複数の対人関係があって、その関係性の中で、能動的と思われていた行為が、ほんとうは受動的なものだったことに気付くこと。この瞬間に、転移が起こっていると言うことができるんだね。

斉藤環氏は、能動的にどう対応するかを相談者に語ったのではなく。
外泊や借金をする夫に対する現実的な対応、いわゆる社会という象徴界のネットワークに存在する客観的意見が、斉藤環氏に転移しているし。
目の前にいる夫との関係に悩み苦しむ妻の欲望も転移し、妻を否定するような意見が言えなくなる可能性もある。

そして「転移性恋愛なんて生ずるほど治療関係も深まっていなかった」と言っている。

悩みを相談する、そして共感をしたり、一緒に解決に導くことで「転移性恋愛」が起きるという話がある。
この「転移性恋愛」というのは、別に患者と治療者という、精神疾患治療などの臨床の現場に限定して起きているというわけではなくて。
あらゆる恋愛において、起きている可能性がある。

実際、フロイトのテクストから「あらゆる恋愛が転移性恋愛である」という可能性を示唆をしている論文があった。



伊藤琢麻氏という方の、「シュルレアリスム期のツァラにおける「転移」の問題」という論文だ。

「転移性恋愛についての見解」で興味深い点は、精神分析の中にあらわれる恋愛は「転移」であり、つまり抵抗であるということを認めつつ、同時にその恋愛が本物であることを認めている点である。フロイトが述べるように、「転移性恋愛に抵抗が関与していることは疑いを容れない(8)」のだが、しかしその「愛は抵抗が作り出したものではない(9)」のである。また、「恋着が昔あった特徴の新版から成っており、幼児期になされた反応を反復していることはたしかである(10)」のだが、それは通常の恋着の本質でもあると述べられる。これらの同質性ゆえ、「転移」に由来する恋愛が通常の恋愛と変わらないものであるフロイトはみなすことになり、それが「本物」の恋として成立しうるのだと彼は結論付ける。

(8) フロイト「転移性恋愛についての見解」道籏泰三訳、『フロイト全集13』所収、岩波書店、2010年、321頁。
(9) 同書、321頁。
(10) 同書、321頁。

https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2018/03/Vol63_ITO-Takuma_0211-0223.pdf

引用元:早稲田大学文学学術院 「シュルレアリスム期のツァラにおける「転移」の問題」伊藤琢麻

フロイトによれば、恋着が昔あった特徴の新版から成っていると。
これは多くの人に当てはまっているだろうよ。
マクドナルドでイケメンの話をしている若い女性もそうだ。
その話は前にしたけどね。

gyakutorajiro.comだけどもう1つある。フェミニズム離れの最も大きな原因だと思われる理由がある。

それは「最初から関心が無い、もしくは、ほとんど興味がない。」だ。

マクドナルドとかに行って、ちょっと女性の会話を小耳に聞いてみればわかる。

町中探して、女性の権利だとかフェミニズムの話だとかをしている女性を探す方が大変よ。

その国や地域の文化的基準、ルッキズム的基準があるし、その基準に近い男女に好意が抱かれる。

さて、これら三者の「転移」解釈をめぐる共通点をまとめておこう。まず、「転移」は分析家患者の関係性をめぐってあらわれる現象であるということだ。次いで、この現象によって、患者が分析家に影響を与えることが可能になるということである。言い換えると、ある関係性において、一方から他方へと何かを移動する力を「転移」は新たに生み出すということである。最後に、「転移」によって新たに生み出される移動の力は、元々のシステムを他のシステムへと変形させる可能性を孕んでいるということである。

たとえばフロイトにとって、患者が分析家に影響を与える転移性恋愛は、力動精神医学的なシステムを揺るがし治療を妨げる危険があった。ユングの「相互影響」の主張や、ランクの「情緒的体験」の実施は、医学というシステムの外側に出るものではないにしろ、従来のものとは異なる新たな治療システムとなった。つまり、力動精神医学的なシステムによって捉えられるはずだった患者と分析家の関係性は、「転移」を経由することで、他のシステムに基づく関係性によっても解釈可能になるのである。したがって「転移」とは、元々のシステムと手を切ることを前提とし、その中断からはじまることで何かを語らせ得る現象なのである。

https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2018/03/Vol63_ITO-Takuma_0211-0223.pdf

引用元:早稲田大学文学学術院 「シュルレアリスム期のツァラにおける「転移」の問題」伊藤琢麻

ツァラによると「転移」は「病人」だけに見られるのではなく、「あらゆる個人や限定的なものの中に潜在的な形で存在する」のだと。

そして転移は隠喩であると。

隠喩は何となくわかるよな。
先に述べた新宿鮫の例で言うと「ワイルドになりたいなら新宿鮫を読め!」みたいな。
ちょっと違うか。

まあ直喩みたいに造形的特徴を捉えるものではなく、2つの事物の類似性を抽出して、その共通点を示す感じだ。

chu.benesse.co.jp暗喩(あんゆ)〔=隠喩(いんゆ)とも言います〕とは,たとえの形式をはっきり示さずにたとえる方法です。たとえられるもの(A)とたとえるもの(B)との関係が極めて密接で,「のよう」などの語を省略し,「AはBだ」とする表現方法です。

例「強烈な印象を心のカメラに焼き付ける」
⇒「強烈な印象」を,まるで「カメラ」に記録するかのように「心」に記録すると言っています。
*「心」(A)を「カメラ」(B)にたとえて,強調しています。

心はカメラと類似性がある。「物事を記録する」という共通点が心にもカメラにもあるからな。
この論文でも、隠喩における類似関係の必要性について言及している。

隠喩というレトリックは、言葉のある項と他の項が類似関係にあるということを条件とする。古くはアリストテレスが『詩学』および『弁論術』で隠喩と類似の関わりを述べているし、私たちの時代により近いところではポール・リクールが、まさにアリストテレスを引きつつ『生きた隠喩』の中でその特性について説明をしている。

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引用元:早稲田大学文学学術院 「シュルレアリスム期のツァラにおける「転移」の問題」伊藤琢麻

「-初心者のための記号論-」というサイトでも、隠喩が豊富な事例とともに紹介されているな。

visual-memory.co.uk隠喩は広く普及しているので、‘包括的(umbrella)’用語して使われ(これも、もう一つの隠喩であるが!)、狭義の使い方では技術的に区別できる他の言葉のあや(例えば、換喩)を含む。直喩(similes)は、隠喩の一形式と見ることができ、比較という比喩の状態が、‘~のように’('as','like')という言葉の使用を介して、明白になる。このように‘人生は、チョコレートの箱のようなものだ(life is like a box of chocolates)’(ホレスト ガンプForrest Gump,1994)。多くの場合、我々は、自分が隠喩を使っていることにまったく気が付かないし、しかもある研究では、英語を話す人々は1週間に平均3000個の新規な隠喩を作り出している、ことを見出されている(Pollio et al. 1977)。G・レイコフとM・ジョンソンは‘隠喩の真髄は、ある事物を、もう一つの事物に関する用語で理解し、経験することにある’と主張している(Lakoff & Johnson 1980, 5)。記号論の用語を使えば次のようになる。隠喩は、異なる記号内容を指す記号表現として作用する記号内容を含む。辞書的な用語では、隠喩は、‘比喩的な’第2の主題(または負荷体('vehicle'))で表される‘字義的な’第1の主題(または‘趣意(tenor)’)で構成される (Richards 1932)。例えば、‘経験は良い学校である、しかし代償は高い(Experiennce is good school, but the fees are high)’(Heinrich Heine)。この場合、経験という第1の主題は学校という第2の主題を用いて表現されている。隠喩はもっとよく定義されているモデルを用いて、抽象的なことを表現することに特色がある。

では換喩とは何だろうか。

また、ロマン・ヤコブソンは「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」(1956年)の中で、隠喩と換喩の両極に関して分析しており、彼はそこで両者を次のように説明している。「一つの話題から他の話題へと相似性によってか、隣接性によってか、いずれかによって進行する。隠喩的方法が第一の場合に、換喩的方法が第二の場合に、最も適当な呼び名であろう(26)」。このように、ヤコブソンは「一つの話題から他の話題へ」と移行する際の性質的差異をもって隠喩と換喩を分類している。既に確認したように、これは「転移」の性質と重なる部分があるだろう。


(26)ロマーン・ヤコブソン「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」川本茂雄他訳、『一般言語学』所収、みすず書房、1993年(1973年初版)、39頁。

https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2018/03/Vol63_ITO-Takuma_0211-0223.pdf

引用元:早稲田大学文学学術院 「シュルレアリスム期のツァラにおける「転移」の問題」伊藤琢麻

と論文に書いてある。
隠喩が相似性、換喩が隣接性だと。

「初心者のための記号論:レトリック」という記事に、わかりやすい説明がある。

 隠喩が表面上の無関係性を基本にしているのに対して、換喩(metonymy)は一つの記号内容をそれに直接関係するか、またはなんらかの方法でそれと密接に関連するもう一つの記号内容の代わりに使用することを含む機能である。換喩は、記号内容間の種々の指標的関連に基づいており、その顕著なものが、原因に対する結果の代入である。これまで見たもっとも良い定義は、次のようなものである。‘換喩は、結びつきによる全体の喚起である。それは、物や関係に対して、ある属性、連想(suggested sense)、または密接に関連したあるものを使用することから成り立つ、たとえば原因に対して結果を用いる...つまり隣接の関係に帰せられるものである’ (Wilden 1987, 198)。それは、付属物(adjuncts、一緒に見出されるもの)や機能上の関連に基づくもの、と見ることができる。これらの形式の多くは、抽象的な指示物を著しく強固なものとするが、何人かの研究者は反対方向の代入(例えば、結果に対して原因)もこれに含めている。部分/全体の関係は、時には換喩の特殊なものまたは別の比喩として区分される。それについては、少し後で触れる。換喩は、次のような代入を含む。

原因に対して結果(‘怒るな’に対して‘そんなにカッカするな(Don't get hot under the collar)’);
人(または関連する団体)に対して物体(君主国に対して‘王冠’、劇場に対して‘ステージ’そしてジャーナリストに対して‘プレス:press、印刷機’);
外見に対して材料(‘クレジットカード’に対して‘プラスチック’、‘弾丸’に対して‘鉛’);
事象に対して場所(‘チェルノブイリ原子力発電に対する態度を変えた’);
人物に対して場所(英国の首相に対して‘10番街’);
団体に対して場所(‘ホワイトホール(英国政府)はなにも発言していない’);
人々に対して団体、機関(‘政府は、退かない’)。
 G・レイコフとM・ジョンソンは、次のようなものを含む幾つかのタイプの換喩にも言及している。

製品に対して生産者(‘彼女はピカソを持っている’);
使用者に対して物体(‘ハムサンドイッチ(を買った人)が、勘定書を待っている');
管理される人に対して管理者(‘ニクソンハノイを爆撃した')。
 彼らは、次のように主張している。(隠喩と同様に)特定の種類の換喩的代入は、我々の考え、態度や行動に影響を及ぼすが、それは概念のある側面を強調しまたその換喩と合わない別の側面を抑圧するためである:

ピカソのことを考えるとき、単に美術作品それ自体だけを思い浮かべるわけではない。我々はその美術家に関連したこと、つまり美術に対する彼の考え、彼の技術、美術史における彼の役割などでそれを考える。我々はピカソの作品、それがティーンエイジャーの時のスケッチであっても、ピカソと関連していることから、尊敬の念で接する。同様に、ウエイトレスが、‘あのハムサンドイッチが勘定書を待っています'と言う時も、彼女のその人への関心は、その人自体にある訳でなく、顧客としてだけであり、その文章から人間に関する言葉が消えてしまう。ニクソンは自分で爆弾をハノイに落とした訳でないが、管理される人に対しての管理者という換喩により、‘ニクソンハノイを爆撃した'と言うだけでなく、爆撃を行っているニクソンを思い浮かべ、それに対して彼に責任があると考える。これは換喩的関連の持つ性質により可能となるが...、その果たす役割は何に焦点をあてるかによる。(Lakoff & Johnson 1980, 39)

なるほどね。
よくニュースでクレムリン(ロシア大統領府)というのが出てくるが、クレムリンは建造物であって、無機物だ。
しかしそこで実際の政治が行われているゆえに、建造物で政府を換喩している。

隠喩は、二つの事物は無関係であるが「類似性」があるがゆえに、喩えられる。
換喩は、二つの事物は無関係でない「隣接性」があるがゆえに、喩えられる。

例えばドコモショップで起きた連絡メモ事件。

bunshun.jp「親が支払いしている」という事象と、「クソ野郎」という人物の状態が、結びついている。
これは換喩だ。
まあどちらも「親のすねかじり」「親に経済的に依存している」という類似性から、隠喩とも言えなくはないが。
しかし「クソ野郎」という言葉だけでは、「親のすねかじり」「親に経済的に依存している」という意味を抽出することは難しい。
それゆえに換喩という方が正しい。

もしくは「提喩」かもしれない。
「提喩」は「換喩」の一部という話もあるが、提喩はAとBの関係性において「抽象化」が発生している。

literarytheory.blog95.fc2.comしかし、佐藤信夫の区分に従えば、「帆」で「船」を表す例は、現実世界における全体と部分の関係にあるので、現実世界の隣接関係にもとづく換喩に属することになります。つまり、従来提喩とされた①と②の〈全体⇔部分〉の比喩は、換喩の一種ということになります。

では、③と④の〈類⇔種〉の関係はどうでしょうか。

たとえば、③「パン」(種)で「食物」(類)一般を表す例を考えてみると、これは明らかに現実世界内における隣接関係ではありません。「食物」は「類」、すなわち抽象概念であり、それゆえ人間の頭の中にしか存在しないものです。ですから、厳密に言えば私たちは「食物」を食べることはできません。④「花」(類)で「桜」(種)を表す例も同様です。「桜」は「花」という類に属する、つまり「花」は「桜」を意味的に含むのであって、現実世界の桜に隣接して「花」一般が存在することはありえません。「食物」と同様、「花」一般も現実界においては見ることも触ることも匂いをかぐこともできません。

つまり、「パン」で「食物」を表す例も、「花」で「桜」を表す例も、現実世界内の隣接関係ではなく、意味的な包含関係にもとづく比喩である。それゆえ、佐藤の定義によれば、〈類⇔種〉の比喩は提喩ということになります。

もう一度確認すると、換喩は現実世界における隣接関係による比喩であり、他方、提喩は意味関係における包含関係による比喩ということになります。

つまり「親が支払いしている」というのが具体的事象であり、そこから「クソ野郎」という抽象的性質が導かれるので提喩だ。

隠喩は類似性
換喩は隣接性・近接性
提喩は抽象化

と、覚えておくと区別しやすいかもな。
換喩についてはこの論文でも詳しく研究されてそうだ。

https://yamanashi.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1414&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

メトニミー再考 - 山梨大学学術リポジトリ

さて、転移の話に戻るか。

と思ったら、論文にまた難しい用語があるな。
エレナ・ガルツォヴァによればアンドレ・ブルトンが連辞的で、トリスタン・ツァラが範列的だと。

「連辞」とは「主語+動詞+形容詞」のような結合規則のことで、「範例」とは一定の特徴を共通項に代替可能になる記号の関係性のことだ。

https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2018/03/Vol63_ITO-Takuma_0211-0223.pdf

引用元:早稲田大学文学学術院 「シュルレアリスム期のツァラにおける「転移」の問題」伊藤琢麻

ツァラは範列的であり、隠喩を使用し、その隠喩の作用は「進展と増加によって繰り返され、元のシステムを変形させ続ける」と。

なるほど、それで隠喩や換喩が、転移につながるってことか。
論文に書いてある。

システムの「不変」の犠牲者こそが、ツァラの解釈による「神経症」患者なのだ。彼らは、あらゆるものが固定的で不動のものであるとみなす信仰に苛まれているのである。「転移」や隠喩のように、一方から他のものへと何かを移動させてしまう現象をツァラは肯定し、かつこの「隠喩的な永続交換」によって、いつか彼らに合致するシステムが生れてくることを待ち望み、「神経症」患者を「治癒」しようと試みたのである。

https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2018/03/Vol63_ITO-Takuma_0211-0223.pdf

引用元:早稲田大学文学学術院 「シュルレアリスム期のツァラにおける「転移」の問題」伊藤琢麻

 ジャック・ラカンは、正常な人間はすべて「神経症」に関わると述べた。

www.iwanami.co.jp ラカンの理論では、神経症という構造は正常と呼ばれる人間すべてに関わる構造とされるのだが、この神経症という事態についても、ラカンの理論は極めて興味深い事柄を取り出している。
 
 目の前に饅頭があるとしよう。旨そうだと思い、これを口に入れる。この時、この対象は「愛着の対象」である。しかし、クチャクチャとんでこれを口から出したとしよう。誰にとっても、これを再度口に入れるにはちょっと抵抗がある。対象が「嫌悪の対象」に反転したのだ。愛着から嫌悪への「欲動の反転」という現象は、誰もが「あるある」と納得する現象でありながら、何故かという説明は実に難しい。文化の中にはこうした現象が無数にある。単なる動物の死体も、水で清め、包丁で切るといった操作を加えることで旨い刺身へと変わる。この「欲動の反転」は神経症という事態と強く結びついている。不潔恐怖の人がどこから不潔とし、どこから平気か、この境界が「欲動の反転」に関わることは想像に難くないだろう。人間の精神活動が必ずしも量だけに依存せず、反転の契機を含むものであるという認識は、人間精神に「美」とか「善」といった審級が生まれる、その仕組みを問うための入り口となる。ラカンが取り出した「対象a」という概念は、まさに、人間の対象がもつこのような特性を切り出すものである。ラカンはこの問題を裂け目という概念を通して論じ続けてきた。ラカンの理論が真理を探究する「科学」の知と決定的に異なるのはここである。

神経症である我々は、ずっと転移を繰り返している。
転移が作用している際、隠喩と換喩が生まれているのは先述した通りだ。

ジャック・ラカンによっても、隠喩や換喩が、人間において無意識に行われていると語られている。

ラカンはこの隠喩と換喩という区別を、無意識のメカニズムを説明するのに役立てている。とはいえ、ラカンの議論においては、この区別にオリジナルの着色がほどこされ、もともとのヤコブソン的概念とは違ったものになってる。すなわち、ラカンはこの隠喩と換喩を、フロイトが『夢判断』のなかで「夢の作業」として提示した「圧縮」と「置き換え」になぞらえ、無意識のメカニズムとしてあらためて提示したのである。

「隠喩と換喩の対比は根本的なものです。というのはフロイト神経症のメカニズムのなかで初めから重点をおいているもの、またそれと同じように夢のメカニズムとか日常生活の辺縁的な現象のメカニズムについて初めから重点をおいているものは、隠喩でも同一化でもないからです。実はその逆なのです。大雑把に言えば、フロイトが圧縮と読んでいるものが修辞学で言えば隠喩と呼ばれるものであり、フロイトが置き換えと呼んでいるものが換喩にあたります。シニフィアンという装置全体の構造化、語の体系としての実在こそが、神経症に現れる現象にとって決定的な役割をもっています。なぜかというと、シニフィアンとは、消えてしまったシニフィエが表現される道具だからです。それだからこそ、シニフィアンに再度注目しながらフロイトの発見の出発点に立ち戻るのが最良の策といえましょう。」(22)

(22)J.Lacan,Le Seminaire,livre Ⅲ,Les Psychoses,p.250f.邦訳:ラカン、『精神病(下)』、前掲書、109―110頁。
隠喩と換喩は、「無意識における文字の審級」では、次のように記されている。
Verdichtung、圧縮とは、隠喩がそこでみずからの領野を持つような、シニフィアンの重ね合わせの構造である。この名称とは、それ自身のなかに詩作Dichtungという語を圧縮している点で、〔圧縮の〕メカニズムと詩との同族性を示唆しており、これは、〔圧縮の〕メカニズムが、詩がまさしく伝統的に持っている機能を包み込むほどである。
Verschiebung、移動――これは、ドイツ語の方が適当な言葉のようである――は、換喩が示している意味作用の移し替えである。フロイトのなかに初めてのこの言葉が現れてから、移動は、検閲の裏をかくために無意識が用いるもっとも適切な手段として提示されている。」(E511)


https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00004726719.pdf

引用元:「ラカンにおけるシニフィアンの理論―「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」における、シニフィアンの連鎖及び主体の位置について―」川崎惣一

ラカンは、欲望を「意味作用の換喩」と述べた。人間は欲望の対象をずっと永続交換し続けていると。

この消え去ろうとする主体が幻影と呼ばれる驚くべきものとある種の遭遇を行うことによって再び自分自身をとりもどそうと願うこと、これが欲望の問題です。主体のこの試みを支えるのはお話の始めに私の申しました喪失された対象、考えるだに恐ろしいものです。私の語彙では、ここに生れそして存在しつづけるものを対象と呼んでいます。小文字でaと書きましょうか。


精神分析家はすべからくこのとても特殊な対象の存在に基づいているのです。しかし遮蔽された主体と対象(a)との関係は、欲望を支える幻影の中にいつも見出される構造なのであって、それは欲望というものがすべての意味作用の換喩と私が呼んでいるものに他ならないからなのです。

(引用元:言語と無意識 ジャック・ラカン/折島正司訳 現代思想1981年7月臨時増刊号 総特集=ラカン

だから冒頭の話にもつながるが、ある好意的なシニフィアン、「背が高い」「年収が高い」「悩みを聞いてくれる」等があり、その意味作用に基づいて結婚したとしても。
別のシニフィアン「言葉に"お"をつける」「食事を口に運ぶ時に手を添える」「関西弁を使わない」という別のシニフィアンによる意味作用によって侵食され、夫の好意的なシニフィアンがネガティブなシニフィアンに上書きされ、妻は神経症を患っていく。

つまりあらゆる恋愛が転移性恋愛だということ、現実社会(象徴界)から受ける膨大なシニフィアンによって欲望が換喩され続け、欲望の対象aに到達できないこと。
あながち本当ではないだろうか。

「どうして結婚してしまったのか?」という考えに至り、離婚するカップルも大勢いるだろう。
パートナーに一切の不満を抱かずに過ごしている夫婦はいるだろうか。
隠喩や換喩等の転移を繰り返し、ツァラが言うように新しいシステム、新しい認識や判断基準を作り続けてしまう。

「隠喩の終着」と聞くと、ヘーゲルアウフヘーベン止揚)を連想する。

diamond.jp止揚」とは、ドイツ語の「アウフヘーベンAufheben」の和訳です。
止まった後に揚がること、内在する性格や機能を捨てることなく進歩すること、といった意味合いです。

内的な葛藤、弁証法を繰り返すことで、自己は隠喩の終着、絶対知に至れるだろうか。

51825191.at.webry.infoヘーゲルの表現によれば、この概念の内的なる対立こそ、意識そのものを構成するものなのである。この対立は、自己の内的なる要求に由来しているのである。自己が対自的に存在し得るのは、こうした分裂の中においてでしかないからである。自己は、自分に対立することによってしか存在しないのである。生命が自己であるのは、それが自分とは他なるものとして現れるからでしかないのである。「ところが、他方において、精神は対象となるのである。なぜなら、精神とは、自分自身の前において他なるものとなり、即ち自己自身の対象となり、そして次にこの他在を止揚する運動に他ならないからである」。周知のように、全ヘーゲル体系は、次のような直観から出発している。即ち、絶対的生命は、自分に対立することによって自分を定立する運動の中においてしか絶対なのではないという直観から出発している。この直観は、一切の弁証法を越えその上に高まったフィヒテの絶対の「然り」(テーゼの優位)なのではない。この直観がそうした然りであるのは、否定性(即ちその否定の否定)を通じてでしかないのである。最も深い分裂の只中に自分自身を見出すこの生命こそ、ヘーゲル弁証法の魂なのである。意識は、この分裂を、自己と存在との概念における内面的な対立において表現しているのである。



宗教的意識の未来がこうしたものであることは、やはり次のようなことのしるしなのである。即ち、この意識が表象的な意識に止まること、この意識に対して、真理は確かに存在してはいるが、この意識自身がこの真理ではないこと、知と真理との分裂がまだ乗り越えられていないこと、などのしるしなのである。知と真理との分裂が乗り越えられるといっても、それは信仰においてにすぎないのであって、まだ知においてではないのである。「教団という普遍的な神的なる人間は、精神を自分自身として、自分自身を精神として知るところにまでは至ってはいないのである。その知は、絶対知ではないのである」。
 絶対知は、実体が対象的に自分を主体として現わすと共に、この主体(即ち自己)が自分自身の実体に合致したところに生ずるものであるが、この絶対知こそ意識の最後の形態なのである。この最後の形態においては、精神の現実存在の境位は、もはや意識の現存在ではなくて、概念であり普遍的なる自己意識なのである。この境位においては、精神は今や自分自身に還帰して、自分自身の思惟すなわちロゴスとなるのである。

ヘーゲルが言う対象は、ラカンにおける対象aに近い印象があるな。ラカンは、止揚のような安定した状態に至れるとは言ってないだろうけど。

ヘーゲルの哲学は後世に多くの影響を与えたが、それを批判した哲学者も多い。

digitalword.seesaa.netジル・ドゥルーズの著書『差異と反復』は、フリードリヒ・ニーチェルイ・アルチュセールの思想とも共通する『アンチ弁証法』の哲学としての内容を持ち、ロシア革命後のマルクス主義を標榜する政治指導者・御用学者たちが陥った『現状維持や利権保持に留まろうとする教条主義・保守反動』を厳しく批判したのである。

ツァラが言う「隠喩の終着」や、ヘーゲルの「絶対知」は理想に過ぎず。

やはり上述のように、転移という隠喩作用・換喩作用を自意識で繰り返し続けている人間は、幸せに至ることが出来ない宿命になっている。
もちろん自分が掲げた目標を達成した等、ある地点において一時的幸福がもたらされる場合はある。
当サイトで紹介しているようなルサンチマンを含むシニフィアンを内面化することで、幸せな状態を維持できる場合もあるだろう。

しかし到達はできない、$◇a [S barré poinçon petit a(エス・パレ・ポワンソン・プテイタ)]の疎外状態。

まさに、独身でも結婚しても、疎外されている状態は変わらない。

まあでも結婚した方が、この資本主義社会という象徴界においては、好意的なシニフィアンを授けてくれるだろうけど。