逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

「THE FIRST SLAM DUNK」と「インセプション」におけるトーテムの作用

友人が観たい映画があるっていうんで、一緒について観に行った。
「THE FIRST SLAM DUNK」だ。

※以下、ネタバレ注意。本編の一部に触れます。

アラフォーの自分はドンピシャ世代、当時の「ジャンプ」は確か…読んでなかったな。
ワンピース、ナルト、BLEACHは毎週、読んでた記憶があるが。

幽遊白書スラムダンクは単行本で読んだ記憶がある。
まあでも自分の中では幽遊白書は何回も読み直すぐらい好きだったが、スラダンは1回読んだきりだったので。

うっすらした記憶のままで鑑賞。
いやー、しかし…
めちゃ面白かった!

90点だ。ハラハラドキドキするスポーツゲーム、フィクションだけれども、面白い。
黒子のバスケ」でイグナイト・パスする時の黒子とか、火神VS青峰のゾーン対決のシーンも、あれはあれで興奮したけど。

あんな白熱したバスケの試合をリアリティを保ちながら描き切るなんてねーいやいいもん観せてもらったな。

ただ1つ、ちょっと気になったシーンがあった。

宮城リョータの回想シーンで、宮城が三井寿と屋上で喧嘩するシーン。
そこで殴り合って、なぜか喧嘩の後、宮城がグレたよな?
そんでグレた後、バイクで暴走して、事故を起こした。

は?

と思った、そのシーンは。
何でグレた?バスケを一回、捨てた?
よくわからなかった。

そんで、故郷の沖縄に行って、なんか井上雄彦の短編「ピアス」にも出ていた秘密基地(海辺の崖にある洞窟)のシーン。
兄貴の遺品である、 山王工業が表紙になってるバスケ雑誌とリストバンドを見つける。
そこで号泣して再度、バスケをする自分を取り戻すんだけどね。

なんかこの辺り、挫折から復帰する通過儀礼として展開が早すぎたのかな、よくわからない感はあったな。

でもそれ以外は最高だったよ。
そんで、今日の本題だが。

ここからはスラムダンクの映画本編とあまり関係ない話が中心になる。

この映画を観終わった後、人間心理におけるある法則を発見した。
このブログのメインテーマであるルサンチマン(奴隷道徳)や、無意識とも関係している。

それは…

人は誰しもトーテムを持っている

ということ。

まずトーテムとは何か?

imidas.jpトーテム/トーテミズム  
[totem : totemism] 
一定の社会集団、部族や親族が、その祖先の出自などとして信仰する特定の自然物、おもに動植物をトーテムといい、そのトーテムを祀(まつ)って儀礼を執行し、崇拝することによって、集団を統合する機能を持つ社会制度をトーテミズムと呼ぶ。森羅万象に霊性を見るアニミズムシャーマニズムの延長線上にある、宗教の原初的な形態と見なされる。ある社会集団が他の社会集団との差異関係や自集団の同一性(アイデンティティー)を表象する社会制度であるとともに、自然と文化の対応関係を認識するための思索的な方法でもあるとされる。トーテムはアメリカ先住民オジブワ族の言葉に由来し、彼らを含む先住民諸族が立てる「トーテム・ポール」として発見され、「トーテミズム」という用語が生まれたが、のちに同様の事例は、オーストラリアやメラネシアポリネシア、アフリカなどにも広くあることが判明した。フランスの社会学者エミール・デュルケム(mile Durkheim)は、オーストラリアの先住民社会を例に、特定の集団が特定の動植物のトーテムと親縁関係にあると信じ、これに基づくトーテムを祀る儀礼や、トーテムを殺したり食べたりしない禁忌(タブー)を行うことで、集団の秩序や連帯を確認させ、社会全体を統合する働きをしているとする、トーテミズム理論を形成した。

宗教の原初的な形態とあるように、トーテムは信仰の対象になる。
また、トーテムに関わる信仰や教義はトーテミズムと言われる。

book.asahi.com彼の著書、『トーテムとタブー』で、フロイトは、エディプス・コンプレックスの観念が、トーテミズム、義母を避けること、祖先崇拝、近親相姦の禁制、人間とトーテム動物との同一視、父なる神という観念などを説明するのに、いかに役立つかを示している。実際、エディプス・コンプレックスは、われわれが知っているように、精神分析学者たちによって文化の源泉、文化の発生以前に生じたものと考えられているのであるが、この本のなかでフロイトは、それがいかにして生じたかという仮説を綿密に述べている

「THE FIRST SLAM DUNK」にも、たくさんのトーテムが登場していたと思われるが。
主人公の宮城リョータにとって、強い力を持っていたトーテムは「宮城ソータのリストバンド」だ。

兄貴の遺品であり、回想シーンにおいて、感情をもっとも爆発させたシーン。
秘密基地にあったそのトーテムによって、宮城はバスケへの熱意を再び燃え滾らせることになる。

そしてトーテムは、スラムダンクだけのみならず、様々な作品に登場している。

例えばボクシング漫画の「あしたのジョー」を継承した「メガロボクス」というアニメがある。
このメガロボクスのシーズン2「NOMAD メガロボクス2」が、ノワール的な陰鬱とした雰囲気が漂っていて最高だった。スポ根アニメと対極だがこんな名作があるとはね。

www.animatetimes.com脚本には『深夜食堂』をはじめとする映画、ドラマ作品で活躍する、真辺克彦と小嶋健作が再び名を連ね、新たに続く物語を情感豊かに描いていく。

音楽は国内外多数のアーティストとのコラボレーションやプロデュースの他、自身もドラマー、シンガーとして活動するmabanuaが担当。前作ではブラックミュージックを取り入れた楽曲でジョーたちの生き様を浮かび上がらせたように、今作でも作品に寄り添う確かな音楽を紡いでいる。

このアニメの第4話だ。
THE FIRST SLAM DUNKの宮城と同じく、この回で、闇落ちしたジョーは自分を取り戻すトーテムを見つける。
それは「チーフとクレイジー間宮の真剣勝負」であり、試合中にチーフがジョーに放った「チーフの言葉」でもある。

言葉は言霊として、トーテムとしても機能する。
これによってジョーは、逃げた過去に再度、向き合う決意をすることになる。
出来事や言葉の他、ギアに関するトーテムが、11話にも語られる。

anitubu.comまあ正直、こういうトーテムの作用は、物語の中に必ず出てくる。ワンピースにおけるルフィの麦わら帽子もそうだし。

例えば最近のドラマにもある。
2021年の春ドラマ、「着飾る恋には理由があって」の第7話だ。
仕事がうまくいかず、落ち込み、どん底状態の真柴くるみ(川口春奈)。

cinema.ne.jp真柴(川口春奈)は「やりたいことは、やれ」という駿(横浜流星)のアドバイス通り、以前から気になっていたランプの買い付けをするため、生まれ育った故郷・初島へ向かう。しかしランプ工房の主人に提案を拒否され、真柴は落胆する。

帰省先の母・すみれ(工藤夕貴)との対峙、母からの言葉、
「くるみはこうして投稿してくれるから 私も島のみんなも元気を貰えてる」
「東京で頑張ってほしい。応援したいんだ。」
「そりゃあさあ、若いんだもん、失敗だってあるよ。でも年を取って思い出すのは、何を失敗したかじゃなくてその時にまた立ち上がれたか くじけるもんかまだまだやれるこんちくしょう!ってね」
「だから・・・何度でも立ち上がってほしい」
といった言葉によって、それはトーテムとなり、活力として再び立ち上がる燃料となる。


「六本木クラス」第10話において、長屋茂(香川照之)の愛人の子である次男・長屋龍二鈴鹿央士)によりトランスジェンダーを暴露されたみやべの料理長・りく(さとうほなみ)が、失意に沈んだ時。

realsound.jp麻宮葵(平手友梨奈)が、こんな詩をりくに電話で捧げる。

tvidealife.com私は石ころ ―――
炎で焼いてみよ。
私はびくともしない石ころ。
激しく叩いてみよ。
私は強くて硬い石ころ ―――
深い暗闇に閉じ込めてみよ。
私は独り輝く石ころ
やがて砕け散り、
灰になって消えていく。
そんな自然の摂理さえ跳ね返す石ころ
生き残った私は ―――
私は
私はダイヤだ

この葵からの詩が強いトーテムとして機能し、再び立ち上がる。

まあこのトーテムの使い方は正直、何か唐突で説教臭く、雑すぎてリアリティに欠けている感はある。
本の詩を聞かされたぐらいで解決する問題なのか?っていうね。

「silent」第8話「伝わらない・・・一緒にいたくているだけなのに」は、「着飾る恋には理由があって」第7話と似ている。
青羽紬(川口春奈)は、佐倉想(目黒蓮)との関係で悩みを抱く。
そして実家の群馬に帰り、母・和泉(森口瑤子)と再会。

encount.press

母が語る父との思い出、母からの言葉。


「自分が横にいて病気治るならね。そんな能力あったらお父さん(の病気を)さっさと治してさ、全国の病院回るよね。そんな力ないの分かってるわけよ。ただ横にいたいだけの、自己満足なわけよ」

「さっきも話したけど、お母さんそんな能力ないもん。聞こえるようにしてあげられない。お母さんがダメって言ったら、ダメなの?やめなさいって言ったら、やめるの?お母さん別に、関係ないもん」

その母の優しが紬にとってトーテムとして機能し、想への思いを強固させる、愛し続ける自信を獲得する役割を担う。

あとキリがないから割愛するが、綾野剛が出てるドラマ「アバランチ」だ。
第5話だ、これが神回。アマプラにあるから観てほしいね。

cinema.ne.jp熱くてやんちゃだった公安時代の羽生。警察を辞め、自分の無力を痛感し、生きる気力をなくした状態で勤めていたのは小さな町工場だった。
公安時代も、アバランチが始まってからも、常にギラギラしたものがチラついていたが、町工場で働く羽生にはそれがない。背中を丸め、声も小さく、覇気がない。

刑事を辞めて闇落ちしたような羽生誠一(綾野剛)が、和泉あかり(北香那)との出会い、あかりの強い意志・行動力・生き様がトーテムとなり、再び立ち上がる。

上記で紹介したコンテンツで、トーテムの登場とその作用の描き方が素晴らしい順に並べると、


メガロボクス2>「アバランチ」第5話>「着飾る恋には理由があって」第7話≧「サイレント」第8話>THE FIRST SLAM DUNK>「六本木クラス」第10話

となる。もちろんスラムダンクの映画は、映画の2時間という制約があるので、難しいだろうけど。
兄貴のリストバンドが時を超えて秘密基地で見つかるという、トーテムの登場は胸熱だ。
しかしトーテムの登場とその機能が発揮する前、宮城が闇落ちする展開が雑だった。
何で三井とその取り巻きにボコられて、バイクで暴走する闇落ちモードになるのかが全く共感できない。

何にせよ、このようにトーテムは、宗教における信仰の対象と同じく、自らのメンタルを奮い立たせる活力を与える。

フィクションの世界だけじゃない。

anond.hatelabo.jp早朝、母に増田に書いたありのままの現状を伝えた所、パーシー・ビッシュ・シェリーという人物を教えられた。母の好きなイギリスの詩人だそう。イートンでもオックスフォードでも問題児で放校になり、家族や妻の実家、知人から金を借りては愛人と旅行に出掛け(当時は)評価されない詩を書き続け、最後は旅行中に船が沈没して死んだらしい。「今のあなたが苦しんでいるのは自分を世間の生き方に嵌め込んでいるから。肩の荷を下ろしてしばらく気分転換しなさい。しっかり者の姉がいるから心配しないでいい」と言われた。

この母親のこの言葉は言霊として、生きる活力、トーテムとして機能するはずだ。

だが一方、トーテムが、そのように機能しないケースもある。

それがクリストファー・ノーラン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画「インセプション」だ。

この映画は歴史に残る名作と言っていい、多くの人が考察している。

ラストシーンは現実か夢か?ジェームズとフィリッパ、子どもたちの顔はなぜ見えないか?

front-row.jp

tomatojuicer222.hatenablog.com

revmist.com

物語の本編とは関係ないが、潜在意識についての話まであった。

win-brain.comノーラン監督の作品を、ユング集合的無意識からの影響があると語る人、ヘーゲル哲学やラカン精神分析で紐解こうとする本まで出てる。

eiga.comユング集合的無意識から着想(ヒント)を得たと思われる作品。
集合的無意識というのは、人類全員の潜在意識は集合的無意識で繋がっているという説。

www.kaminotane.com本題に戻るが、インセプションにおいては、トーテムという言葉自体が、先述した例と異なり、映画の中にも登場する。
アーサー(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)は語る。

inception.eigakaisetsu.com「トーテムを持った方がいいな」アーサーは話題を切り替える。

「トーテム?」

「夢と現実を判断するものさ。できるだけ小さくていつも持ち歩けるものがいい」

「コインみたいに?」

「いや、もっと特徴のある物がいい。たとえばイカサマ用のダイスとか」

アーサーはそういって、自身のトーテムらしき赤いサイコロを見せる。

アリアドネがそれを手に取ろうとすると、すっと手を引っ込める。

「トーテムの特徴を知っているのは持ち主だけだ。バランス、感触・・・」

「触っちゃだめだ。トーテムの意味が無くなる。重さ、感触、バランスは他人に知られちゃいけない。トーテムで判断するんだ。他人の夢の中に居るのかどうかをね」

「夢と現実を見分ける」ものとして機能し、人に教えてはならない。

ノーラン監督は文化人類学フロイト精神分析を前提にして、トーテムを登場させている。

トーテムにはタブーが備わっており、映画でもトーテムにタブーが設けられている。

フロイトの「トーテムとタブー」については、この方のブログが詳しい。

shins2m.hatenablog.com

ja.wikipedia.org見るなのタブーは、ヘブライ神話、ギリシア神話、日本神話をはじめ、多くの神話体系にみられる。フロイトは、『トーテムとタブー』において王権がタブー(禁忌)とされることを論じ、このタブーが法や戒律の基礎をなすとしている。

トーテムは、先述したメンタルに好影響をもたらす物質や言霊や出来事ではなくて。
ネガティブな影響をも、もたらす。

それはタブー(禁忌)を犯すということ、トーテムを見失うことだ。
トーテムを見失い、現実か夢かの区別がつかなくなると、インセプションでいうところの「虚無へ落ちる」という事態を招く。
「目が覚めても心だけは戻らない。虚無が自分の現実世界になり 果てしなく続く絶望の中で、老いぼれていく」

ドム・コブ(レオナルド・ディカプリオ)は、トーテムを隠してしまった。

ameblo.jp(潜在意識の世界で)何十年もの日々を過ごし、そこで記憶を再現する内に、モルは『現実に帰りたくない』と言い出した。

そこでコブは、現実へと帰るためのトーテム(現在はコブが使用している独楽だが、それが夢の中では回り続ける。それが現実と夢の世界の違いを分からせてくれる)を金庫にしまい込む。

それは、『ここは現実の世界ではない。まだ夢を見ているのだ。起きて現実に戻るためには死ぬしかない』という考えを植え付ける行為だった。

これがコブが最初に行ったインセプションだり、不覚にして最大の罪。

トーテムがなくなったことも災いし、ソルは夢と現実の区別がつかなくなり、夢から覚めても、現実にいるにも関わらず、まだ夢の中だと思い込んでしまう。

タブーをやぶってしまった。その果てにはあるのは、悲惨な結末だ。

ネットに公開されていた「フロイトの歴史構想 宗教史、文化史、道徳性の問題」という論文にもあったように。

https://core.ac.uk/download/pdf/197122026.pdf(p152)

だが、喪の作業を経るべき対象喪失の体験は、他にもある。自然科学による宗教的教理への疑念は、宗教的表象そのものへの疑念をも巻き起こす。それは神という対象が喪失されつつあることを意味する。 『トーテムとタブー』でも言われていたように、人間は全能性を有する神に懇願して神意をいくらかなりとも左右できると考えられる限りにおいて、かろうじて全能感覚を隠し持っている。そのようにして、<依存かつ全能>という小児の両親に対する関係を温存している。自己の全能感覚を失った人間にとって、神という対象はもはや失われてはならない掛け替えのない対象である。それは罰を加える対象でもあるが、やはり守ってくれる対象なのである。このような神という重要な対象の喪失は、深刻なメランコリーを引き起こすことになるであろう。さらに、メランコリーにおける自責の感情は、道徳的マゾヒズムの処罰欲求と通じるところがある。その道徳的マゾヒストにとって、神とは罰を加えてくれる対象である。この神がいなくなってしまえば、残されるのは隠し持っていた罪への衝動、破壊欲動だけであろう。

「トーテムを見失うこと」で、メランコリーを引き起こし、自我の崩壊、破壊衝動へと人を導く。

そしてこの話は、映画に留まらない。
「推し活」という言葉が腹が立つという記事を、ちょっと前に見かけた。

b.hatena.ne.jp何故この言葉に腹が立つか?
それは「神秘性を失う」からだ。
「内奥性を失う」とも言ってもいい。
内奥性については以前、バタイユの話でも引用した。

gyakutorajiro.com自分と推しとの関係性や、「推し活と言ってはならない」というのは、いわゆるトーテミズムだ。
推しは信仰の対象であり、トーテムであり、そのトーテムと自分の関係性が、生きる糧となり、パワーとなる。

しかしそれを、外野が「推し活」という概念に言語化してしまった。
それゆえに、腹が立つ。
トーテミズムにおけるタブー「言葉にしてはならない」というタブーを犯し、メディアによって「推し活」という言語化が行われてしまった。

kotobank.jp(6)トーテムと集団との強い結び付きは信仰、儀礼によって、また情緒的、神秘的に示される。たとえば、トーテム動物はその名をもつ集団の者に好意をもっていて襲わないとか、人間の外見や性格がトーテム動物に似ているなどといわれる。北アメリカ先住民のチッペワの社会では、魚の氏族の者は長命で毛髪が細いか薄い、クマ氏族の者は髪が長くて黒くて濃く、また気質が怒りっぽく戦闘的、ツルの氏族は声がけたたましく弁舌家であるといわれる。自分のトーテムは、殺したり、採集したり、食べたりしないという禁忌は広くみられる。オーストラリア北部では自分のトーテムだけでなく、父、母、祖父のトーテムを食べることも禁じられている。ときには見ること、触れること、その名を口にすることすら禁止されている。インドのオラオン人で、鉄をトーテムとする人々は、唇や舌で鉄に触れてはならない。しかし、これらの禁忌を伴わない例もまた多い。アメリカの先住民オジブワでは、トーテム動物は自分の名の氏族の狩人に好んで撃たれるといわれる。トーテム集団はトーテムと集団の関係を物語る神話を儀礼によって再現したり、定期的にトーテムへの崇拝儀礼を行う。オーストラリアでは自分のトーテムの聖地へ行ってその種の増殖儀礼を行うことがよくみられる。

したがって、トーテムとしての機能は失墜し、神秘性や内奥性を失い、トーテムを追い求めるトーテミズムは「推し活」という、多くの人間が行っているありふれた行動に集約されてしまう。

「アイドルは恋愛禁止」というのもトーテミズムであり、そのタブーが破られた時、トーテムはトーテムとして機能しなくなり、神としての威厳は喪失する。


岡田奈々猪野広樹と付きあっているというニュースによって、ファンにとって岡田奈々はトーテムとして機能しなくなり、かつて集めていたトーテム(写真、グッズなど)は破壊された。

gyakutorajiro.com先に引用した論文にあった「残されるのは隠し持っていた罪への衝動、破壊欲動だけであろう。」という現実が立ち現れる。

「普通の人でいいのに!」という漫画がある。

toyokeizai.netこの漫画でも、彼氏のある一言によって、自分が行っていたハガキ職人としての活動、および、その対価として手に入れた限定グッズというトーテムの神秘性が破壊され、自暴自棄となる。

このようにトーテムは破壊されるケースがあり、破壊された時に待っているのは上記に挙げた例にもあるように、大抵は悲劇だ。


しかしトーテムが破壊されても、メランコリーから復帰できるケースもある。それは「儀式」や「通過儀礼」だ。

ここで当然二つの疑問が生じる。なぜ第一のタブーは定期的に解禁されるのか。また彼らはトーテム動物を殺しておきながら、なぜ悲しまなければならないのか。その謎を解き明かすためにフロイトは大胆な仮説を立てる。すなわち、トーテムとは実は原始時代の父親(原父)を意味し、その時代には原父がすべての女たちを独占し、息子たちを追放してしまった。そこで息子たちは結託して反旗を翻し、原父を殺して、食べてしまった。しかしその後まもなく彼らは後悔し、自由になった女たちを断念したのだ。そのために近親相姦の禁止というタブーが確立した。そこでトーテム饗宴の儀式は息子たちの罪責感情を和らげるための懺悔の告白としてどうしても必要となったわけである。

引用元:フロイトの宗教論 - 学術機関リポジトリデータベース p7 

kobe-c.repo.nii.ac.jp

「THE FIRST SLAM DUNK」で、闇落ちした宮城リョータが、兄である宮城ソータのリストバンドで再起したように。
「トーテムの獲得」という通過儀礼によって、宮城は救われた。

このようにトーテムは、フィクションだろうが現実だろが、ありとあらゆる個人のメンタル内に存在する。

またトーテムは、インセプションされることもある。
というか、義務教育を受けている人間はほとんど、インセプションされている。
いわゆる学歴信仰、窓際三等兵や麻布競馬場のタワマン文学で見受けられるように、子どもに学歴の獲得を求める。
進学する中学、高校、大学およびそれに付随する学歴はトーテムであり、その獲得競争はトーテミズムだ。

学歴というトーテムを得るようにと、なぜ世の親たちは強制するのだろうか?
それは「学歴がある方が将来的に高い収入を得る確率が高くなる、楽な人生になる」という、下部構造(経済活動)に従属した現実があるからであり、学歴というトーテムは力を持つ。

このトーテムは、集団心理に影響を及ぼすという点で、スラムダンクの宮城や、先述したテレビドラマの例のような、個人のメンタルに作用するトーテムとは少し性質が異なる。

「学歴主義」「推し活」「アイドルは恋愛禁止」等の集団に作用するトーテミズムおよび、それに含まれているトーテムは、より文化人類学フロイトにおけるトーテムの定義に近いトーテムだ。

換言すると集団的トーテムと個人的トーテムがあるとも言えるが、それは二元論ではなくて、他人のトーテムも自分の中にあるし、どちらかのトーテムを保有しているというわけではない。様々なトーテムを保有している。

また、トーテムの力にはグラデーションがある。宗教が強いトーテムとして機能している人もいるが。

一般的には、資本主義社会における社会集団において一定の力を備えた価値観、学歴や年収などのパラメーターは、欲望の充足という下部構造(経済活動)に貢献する機能が強いがゆえに、トーテムとしての影響力も強い。

が、たとえば日本を脱出して別の国等に行った場合や、戦争などの有事の際は、資本主義社会における社会集団で重要視される学歴や年収等のトーテムは、その機能を弱めるか喪失に向かう。
大自然の絶景が、トーテムに変わることがあり得る。

名も知らぬ黄色い花が
咲き乱れる谷間に
拳ほどの大きさの雹(ひょう)が
振り舞い
天空には七色の虹が……!

(画像引用元:迷走王 ボーダー 1 (下)[ たなか亜希夫 ]

宮城リョータが沖縄に行ったのも、バイクで暴走してトンネルを抜けた際に「ふるさとである沖縄の原風景」のまぼろしを見て、それが自らの行動を促すトーテムとして機能したからだ。

民族によって、社会集団によってトーテムが変わるように、個々人におけるトーテムも常に変化する。

ルサンチマン(奴隷道徳)も、トーテムだ。
嫉妬・怒り・恨み・辛みを、宗教や特定の価値観をトーテムとして内面化することで、学歴や年収やルッキズム(ある社会集団で美しいとされている理想の容姿)等の強大な力を持つトーテムから身を守る。


トーテム(ルサンチマン)が破壊された時、別の強大な他人のトーテムによって、自我が呑み込まれそうになる。
それは自尊心や自己愛、自己肯定感、生き甲斐などを失う契機であり、メランコリー・鬱病などの死に至る病を招く危険性がある。

映画インセプションにおいては、独楽が強大なトーテムだ。
現実の資本主義社会では、欲望の充足を担う下部構造(経済活動)と直結している学歴や年収等が、そのトーテムに対応する。

その他人や社会のトーテムを無視して、自分の願望や記憶などを投影した世界の方を、トーテムとした場合。
他人のトーテムではなく、自分の記憶や願望が、トーテムになってしまう。

「記憶を再現しちゃダメだ。常に新しい物を創るんだ」「参考にするくらいじゃいいんじゃない?」「街灯とか電話ボックス、細部は構わないけど街全体はダメだ」「どうして?」「記憶にある街を再現すると混乱するんだよ。何が夢で何が現実か

www.eiga-square.jpアリアドネ「これはただの夢じゃない。記憶ね。記憶は使うなって言ってたのに」

コブ「ああ、そう言った」

アリアドネ「奥さんを生かし続けようとしてるのね。離れられないんだわ」

コブ「君はわかってない。後悔していることがあるんだ。変えなければならない記憶が」

Ariadne: These aren't just dreams. These are memories. And you said never to use memories.
Cobb: I know I did.
Ariadne: You're trying to keep her alive. You can't let her go.
Cobb: You don't understand. These are moments I regret, the memories that I have to change. 

美化された自己完結的な記憶に留まり、その記憶で世界を構築し、他人のトーテムから逃げ続けた時に。
ルサンチマンにすがり続けるラストマン(末人)となる。
モル・コブ(マリオン・コティヤール)が虚無(リンボ)に落ちたように。

そのため、資本主義社会に存在する、偏差値主義や年収差別等の残酷なトーテムから目を背けてはならない。
もちろん、強大なトーテム打ち勝てるトーテムを、自分で用意できるのであれば構わない。
映画のスラムダンク宮城リョータが、宮城ソータのリストバンドというトーテムを獲得し、トーテムを自分の人生を生きる活力として機能させたように。

しかし、トーテムを現実の艱難辛苦から逃走するためのルサンチマン(奴隷道徳)として機能させるのは危険だ。
最近のニュースにあるような破滅的献金、自尊心の瓦解・・・虚無へと向かうだろうな。

ニーチェ的にいえば、独楽のトーテムと対峙するのがツァラトゥストラであり、独楽のトーテムから目を背け、自分にとって都合がいいトーテムに没入するのがラストマン(末人)だな。
インセプションでいう「彼等は目覚めに来ている 彼らにとっては夢が現実だ」という状態だ。強大なトーテムの存在を無視するというのは。

今日、機能していた、信仰の対象であった自分のトーテムも、明日にはその機能が喪失するかもしれない。

独楽のトーテムがあらかじめ存在している現実を見失うなってことだ。
トーテムで判断するんだ。他人の夢の中に居るのかどうかを。
まあいるんだけどね。