逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

アイドルはスキャンダルによって内奥性を失い推し活の対象から外れる、失意のファンは失われた内奥性を求めて夜の闇を徘徊する

最近、芸術的なツイートを見た!

素晴らしい。切り裂かれたアイドルの写真だろうか、コラージュアートのようだ。
これは情熱的なパッションが生じた時にこそ生まれる芸術作品だ。

どうやら、AKB48岡田奈々が、猪野広樹と付き合っているという文春砲によって露わになったスキャンダルにショックを受けたと思われるファンによるツイートらしい。

bunshun.jpしかも岡田奈々というのは、風紀委員的存在であったと。

anond.hatelabo.jp総監督の向井地が生徒会長ならば、岡田は風紀委員長

というのがファン間での共通認識、いや、ファンだけでなくメンバーも含めたAKB界隈でのパブリックイメージだった

そして、彼女にはずっと相思相愛的なコンビ的メンバーがいて、それが今回、もう1人文春にやられた村山彩希(ゆいりと読む)である

ファンから見たら、いわゆるシスターフッド的な関係性である

アイドル界隈でしばしみられる百合営業ですね

相当、ショックだっただろうな。
自分の推し、信仰の対象、神格化された存在が。
「普通の女性」である可能性が高いという現実が、明らかなった。

普通の女性、というのは、いわゆるマクドナルドやガスト等で「イケメンだよね~」と会話しているルッキズム全開の女性、オフィス街の居酒屋等のランチタイムに「社長と付き合いたいな~」「金も大事だよね~」といったマネーの獲得能力によって男を査定する女性等、それら俗物的、物理的価値観を迷うことなく受け入れている女性のことよ。

普通の男性、というのもそうだ。自らの生物学的価値基準に支配され、女性の容姿によって好き嫌いの感情をコントロールされ、そのような俗物的、物理的価値観を迷うことなく受け入れている男性。

なかなか抗うのは難しい。
例えアイドルだろうが俳優だろうが、やはりパートナーに容姿のいい存在が欲しくなるのは人間の本能的反応ともいえる。
オダギリジョーだって香椎由宇と結婚したじぇねえか。
前田敦子だって勝地涼と、大島優子だって林遣都と、新垣結衣星野源と結婚した。

確かに勝地涼林遣都星野源は、BTSのメンバーや速水もこみち城田優等と比べると、身長も高いわけではないし、圧倒的イケメンとは言い難い。

だが俳優として、アーティストとして、才能もある。マネー獲得能力も高い。
5段階評価のレーダーチャートでいうと、勝地涼林遣都星野源の容姿は3か4ぐらいではあるが、その他のパラメーターで高い数値を出しているだろう。

www.mag2.com文春オンラインは19日、岡田とお相手の2.5次元俳優・猪野広樹(30)との熱愛を報じた。岡田と猪野は、6月公演のミュージカル「マギ」で共演し、すぐに恋愛関係に発展したという。

猪野広樹、カッコいいじゃねえか。

natalie.mu舞台もやってるから、これからドラマとか映画とか活躍の幅を広げて、伸びるかもしれない。
容姿がカッコよく、マネー獲得能力が高い未来もある。
仮に金を稼げなくても、容姿が優れているという生物的魅力を備えている。

かたやどうだ。オタク達はよ。
醜くたるんだ腹を垂らしながら、金も無く、秋葉原ゴーゴーカレーでカツカレーをむさぼり食べている。

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

そんなオタク達より、猪野広樹の方がいいに決まってる。

2000年代ぐらいのかなり前だが、藤田徳人という人の恋愛本を読んだことがある。
そこに、搾取されるオタクのことが書かれていた。

●小悪魔は残りの七割を悪用する
 では、なぜ上位一パーセントの男を虜にできるのか?それは、残りの七割の男たちを利用するからなのです。
 かつて、捨てるほどあった鯨ベーコンですら、希少価値になれば五〇〇倍の値段がつき、あこがれの食べ物になるのです。つまり、魅力アップとは、数多くの男性に言い寄られて、あなたが希少価値になることです。
 質ではなく、量です。モテない男たちとつきあうのではなく、全員をファンとして面倒をみて、あなたの心の動物園の中で飼育するのです。
 動物園の中にペットがたくさんいればいるほど、あなたは希少価値が出てモテるようになります。
 この時、まちがっても動物園の中に上位三割の男を入れてはいけません。ペットたちが嫉妬して反乱を起こすからです。人気も落ちます。
 モテない男には思いっきり媚びて、モテる男には冷たくする。わかりやすく言うと、こういうことです。
 私はアイドルをプロデュースした経験がありますが、そこでたいへん重要なことを学びました。アイドルである彼女のファンになってくれる男たちは、おそらく「残りの七割」に入る男たちなのです。
 つまり、アイドルとして売れていくには、モテない男たちにもやさしくしなければならないのです。生理的に受け付けない男が握手を求めてきても、にっこり笑って握手して、帰り際には手を振ってあげなければなりません。
 しかし、そうすると男は「○○ちゃんってあんなに美人なのにとってもやさしい」とみんなに宣伝してくれます。
 その言葉につられてどんどんファンが増えていき、最後には上位一パーセントの男が言い寄ってきて、その男が大きなスポンサーとなって出世していくのを身近で観察しました。
 まさに、彼女にとって下位七割の男たちは魅力アップのための道具だったのです。道具は多いほうがいいので、どんどんストックしていきます。第一章で述べた「ストック戦略」がこれです。

(引用元:恋愛科学が教える「恋の敗者復活」講座 [ 藤田徳人 ]p50-51)

モテない男たちは、アイドルの市場価値を上げるための道具であり、養分だということ。
競りの参加者が多ければ多いほどその商品の価格が吊り上がるように。
利用されてんだよ。

だがそんなことはわかってる。
過去に似たようなこともあった、AKB48選抜総選挙須藤凜々花が結婚発表をした事件とかな。

nami55.xyzわかったうえで、応援している、推しの手のひらの上で踊っているんだよ。

いやしかしそれでも、一縷の望みはあるんじゃないのか?
もしかして尽くし続ければ、アイドルと付き合える可能性も・・・。
そんなことも思いながら、推しのプロマイドを眺めながらオ〇ホールで自慰行為に耽り、仕事で稼いだ金を投資し続ける。

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

しかし大抵は、無い。宝くじに当たるぐらいの天文学的に低い確率。
的外れな努力になることが多い。
アイドルは多くの人間を魅惑する。
それゆえに、周りのいい寄って来る男性の価値を見極める力も、相応に備えているだろう。

いや違う。そうじゃない。
別に付き合いたいとかではないんだよ。
純粋に彼女から元気を貰っている。応援したいんだよ。
推しの夢が真っ暗な俺の人生に光をてらす・・・ 

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

このように考えるドルヲタもいるかもしれない。
このようなドルヲタは、岡田奈々のファンを辞めないかもしれない。

しかし前者のようなドルヲタ、あわよくば付き合いたい、もしくは、誰とも付き合わない貞操性を備えた存在であり続けていてほしいと願っているファンにとっても。
後者のような、付き合えないとわかっていて応援しているファン、恋愛していても応援を続けるファンにとっても。

容姿のいい俳優と付き合うということは、「事物の秩序」への堕落であり、少なからず神聖さを失うことを意味する。

「事物の秩序」というのは、ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」という本に出てくる用語だ。
バタイユのこの本では、人間が宗教を信仰するメンタリティを詳細に記述しているが、これは現代の推し活にも当てはまる話だ。



人間は事物に支配されている。
事物とは、容姿で差別される残酷なルッキズム的現実や、この資本主義社会において快楽との代替性を備えているマネー等を指す。

つまり人間はその抱く不安、怖れのせいで労働の諸成果に結びつけられているのであるけれども、まさにちょうどそのように縛りつけられている度合に応じて個人的なのである。しかしながら人間は、そう信じられることもありうるように、彼が恐怖を持つから一個の事物であるのではない。もし人間が個体(事物)でなかったとしたら、不安を持つことはないであろう。

彼の不安に種を与え続けるのは、本質的に言うと一つの個体であるということなのである。彼が不安を身につけるのは、事物の要請に応えるためである。つまり事物たちの世界が彼の持続を、彼の価値の、またその本性の根本的な条件として措定したのであるけれども、ちょうどまさにそのように位置づけられている程度に応じて彼は不安にかられるのである。

(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p67)

税金を国家に払う、いじめられる、フラれる、差別される・・・等々。
バタイユが言うように、人間は事物によって不安にかられている。

その不安を払拭するために、人間はライブパフォーマンスという祝祭空間へと足を運ぶ。

聖なるものはこのように生命の惜し気もない沸騰であるが、事物たちの秩序は持続するためにそれを拘束し、脈絡づけようとする。しかしそうした束縛しようとする行為こそがすぐまたそれを奔騰状態へと、すなわち激烈な暴力性へと変えるのである。間断なくそれは堤防を決壊しようと脅かす。純粋な栄光としてある消尽という運動、急激で、波及しやすい運動を、生産的活動に対立させようと脅かすのである。

まさしく聖なるものは、森を焼き尽くしながら破壊する炎に喩えられる。際限なく燃え拡がる火事がそうであるように、それは一個の事物の正反対であり、伝播していき、熱と光を放射し、燃え上がらせ、眼を眩ませる。そしてそのようにめらめらと燃え上がり、眼を眩ませたものが突如として、今度はまた燃え上がらせ、目眩まかすのである。

供犠はちょうど太陽のように、つまりわれわれの眼にはその炸裂する輝きをじっと見つめることができないほどの光熱を惜し気もなく放射しながら、そのためにゆっくり死んでいく太陽のように燃え立たせる。ただし供犠はけっして孤立してあるのではなく、諸個人の世界の内で、そういう個体としての個体を一般的に否定するように誘うのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p68-69)

事物たちの秩序で暮らす個体としての自分、責任を押し付けられる労働の日々、うんざりとする日常。

聖なる存在、アイドルは、その個体として生かされる人間の現実を否定して焼き尽くしてくれる炎であり、太陽の光のようにキラキラと眩い閃光によって暗い人生を照らしてくれる希望だ。

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

その熱狂は時に、感染し、伝播する。
不安が入り込む隙を与えないほどの、人間性を失い獣に近付くことで、失われた内奥性を取り戻す。

神的世界は感染しやすい。そしてそれが感染し、波及することは危険なのである。原則的に言って、供犠の実行過程に引き込まれているものは、あたかも活動し始めた雷のような状態になる。その燃焼には原則として限界がないのである。

そういう発火状態に適合しているのは人間の生であって、動物性ではない。内在性に対立する抵抗こそが、その内在性に再び噴出するように命ずるのである。たとえば涙とともに胸を突き刺さんばかりに、あるいは不安の打ち明けようもない快感のうちにあれほど強力に再噴出を命ずるのである。

だがもし人間がなんの留保もなく自己を内在性に委ねてしまったとしてら、彼は人間性に背いてしまうことになろう。かりに彼が人間性を完成するとしても、それはただ人間性を喪うときにそうするというに過ぎないだろう。そして生命はついには、獣たちの目覚めを知らぬ内奥性へと回帰することになるだろう。

ここで示されているような問題、すなわち一個の事物であることなしには人間として存在することは不可能であり、また動物的な眠りに回帰することなしには事物の限界を逃れることが不可能であるという事態が常に提起し続ける問題は、祝祭という形によって制限つきの解決を得るのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p69-70)

誰もが、自分が一個の個体、事物であるという内在性に、無意識に抵抗しようとしている。
自己の内在性に委ねてしまうと、自分がちっぽけな存在だという現実に直面し、自尊心を失い、死に近付く。
内在性は人間性を取り戻せと噴出を求めるが、事物であるという現実から逃れることは、人間性を喪失し、獣へと回帰する行為でもある。

そのために祝祭がある。
人間性を保ちつつも、動物的な内奥性に回帰する儀式を求める。
自らの、事物の秩序に支配されているという内在性に抵抗するために宗教があり、推し活があり、ヲタ活がある。

藤本美貴のロマンティック浮かれモードで狂喜乱舞するオタク達がそうだ。

www.youtube.com昔、この動画(画面左下のヲタ芸の動画)のリンクを、会社の同僚の女性に送った気がする。
そしたら「キモい…」と言われたが、確かにこの動画から恐怖も覚えるかもしれない。踊っている本人達は、湧き上がる熱い内在性から、事物の秩序を逃れ人間性を取り戻そうとしているのだろうが、傍から見れば人間性を喪失して、まるで動物のように踊り狂ってるんだから。

Yogee New Wavesは「音楽は魔法だ」と言ったらしい。

www.buzzfeed.comそれは事実とも言える。
音楽が奏でる空間に没入することで、事物の秩序から受け続けているストレスから一時的忘却を行っているという点で、魔法と比喩されるような身体作用を被っているケースはある。
事物の秩序には、直線的時間の圧力があり、そこから逃走するために音楽を聴いている人間のメンタリティについても以前、話をした。

gyakutorajiro.comしかしそれは「一時的である」という点で、魔法ではないとも言える。

森康子「音楽を捨てよ、そして音楽へ」の唄に出てくる「音楽は魔法ではない」というメッセージにあるように、そのハレ(霽れ)の空間は儚く極めて不安定で時間の経過とともに失われ、すぐにケ(褻)の日常が姿を現す。

(引用元:アガペー [ 真鍋昌平 ]

ヲタ活でなくなっていく金、困窮していく生活という、本当の現実から逃れられない。
これが現実の「事物の秩序」だ。

その「事物の秩序」は、隠されていた。自分自身、見ようとしなかった、無視していた。
文春砲によってスキャンダルが露わになる前は。
「事物の秩序」ではない「内奥性」が、岡田奈々にはあると信じていたし、その信仰によって事物の秩序から逃れることが出来ていた。

ライブを観たことがないからわからないが、事物の秩序を破壊する、圧倒的ライブパフォーマンスを岡田奈々は行っていたのかもしれない。
可愛いのに恋愛禁止で男と付き合っていないという、事物の秩序を破壊する、貞淑性があった。
異性愛という支配的価値観が支配する現実に抗い、事物の秩序を破壊する、百合的世界感を敬愛している魅惑的な存在でもあった。

www.oricon.co.jpその岡田奈々が備えていた内奥性に、お金や時間、自分が備えているあらゆる事物を、供犠していた。

供犠とは将来を目ざして行われる生産のアンチ・テーゼであって、瞬間そのものにしか関心を持たぬ消尽である。この意味で供犠は贈与(ドン)であり、放棄(アバンドン)なのであるけれども、そのように贈与されたものは、それを受け取った人にとっては保存の対象であることはありえない。

捧物が贈与されるとすると、その捧物はまさしく迅速に消尽の世界へと通過するのである。「神に犠牲を供える」という行為の意味することはそれであり、その聖なる本質はだから火に喩えられる。犠牲を供えるとは、ちょうど燃え盛っている大竈へ石炭をくべるように与えることである。しかし大竈は通常ある一つの否定しがたい有用性を持っており、石炭はそれに服従させられる。これに対し供犠においては、捧物はどんな有用性をも免れているのである。

(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p63-64)

バタイユが「保存の対象であることはあり得ない」と言うように、贈与されたもの、例えば金銭を捧げることで手に入れる投票券付きのCDの投票券は、供犠として捧げるが、それは保存されることなく「総選挙」等の儀式で消尽される。

信者たちは、事物の秩序に支配されている金銭よりも、内奥性を重視する。
金銭は石炭として、秋元康岡田奈々、所属するAKB48やその姉妹グループという大竈に投げ込まれ続ける。
石炭には有用性がないが、大竈には有用性がある。

実際、AKB48の選抜メンバーともなれば、その辺の企業の社長よりも多くの収入を得ているのではないか。
下記の情報の信憑性は判断が難しいが。
タワマンに住んでいたメンバーもいた。

thetv.jp

visual-matome.comaikru.com大竈から取り出される圧倒的マネーが、聖なるものたちへと行き渡る。
だがそれでも構わない。
石炭をくべつづける存在でもあったとしても。
この宗教的儀式によって、自らの内奥性を獲得することができるんだと。


自分の黒歴史。いじめられた、好きな人にフラれた、グループにはぶられた・・・等々。
もしくは、現実に打ちひしがれた経験。
容姿で差別された、年収や所得で差別された、会社でパワハラを受けた、人格を否定されれた・・・等々。

そのような辛い経験を、神格化された対象への供犠、対象が行う祝祭と、それに関わる数多の消尽によって、事物の秩序を破壊する。

アイドルへの供犠、ライブパフォーマンスという祝祭空間への没入は、夫からモラハラを受けて自尊心を打ち砕かれた主婦が、新興宗教に金品を供犠し、自らの自尊心や自分が生存する世界の価値(内奥性)を取り戻そうとするメンタリティに近い。

gyakutorajiro.com岡田奈々は「事物の秩序」から外れた内奥性、神秘的魅力を備えていると。
それゆえに、自分を苦しめる「事物の秩序」を破壊し、解放に導いてくれる存在だと信じていたし、信じていたからこそ供犠を続けていた。


しかし内奥性は失われた。
岡田奈々も、オタク達や、普通の女性、普通の男性と同じ、事物(個体)だった。
俳優とのスキャンダルにより、事物のように見なさざるを得ない現実が現れた。

死がそこにあったときには、誰もそこにそれがあると知らなかった。
死は無視されており、それが現実的な事物たちの利にかなうことであった。
死は他のものたちと同じように一つの現実的事物だったのである。
しかし突如として死は、現実社会が嘘をついていたことを示す。するとそのとき深く考慮に入れられるのは、事物が喪失されたということではなく、また有用なメンバーが失われたということでもない。
現実社会の失ったものは一人のメンバーではなく、その真理なのである。内奥の生命はもうすでに私にまで十分到達する力を失っており、それを私は基本的には一個の事物のようにみなしていたのであるが、その内奥の生を十分なまで私の感受性へと戻してくれるのは、それが不在となることによるのである。

死は生をその最も充溢した状態において啓示し、現実秩序を沈み込ませる。それ以降は、この現実秩序が、もはや存在しないものの持続の要請であることは、ほとんど重要性を持たなくなる。諸関係に基づいて立てられている一つの存在体(アンテイテ)は、一個の基本要素が自らの要請に背いて消え去るときに、欠如する部分が生じて病み苦しむというのではない。そういう存在対(アンテイテ)は、すなわち現実秩序は、一度に全体として消え失せてしまったのである。もはやその現実秩序が問題となることはなく、そして死が涙のうちに運んでくるものは、内奥次元[l'odre intime]の、何の有用性も持たぬ消尽なのである。


(引用元:宗教の理論/ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄 p61-62)

死は何ら神聖なものでも、内奥性を秘めた契機でもない。現実的事物だった。

スキャンダルによって、岡田奈々というメンバーを失ったのではなく、事物(個体)である自分、供犠の対象であったメンバーによって事物から逃れ内奥性を獲得していた存在体であった自分は、消え失せた。
現実秩序を失ったんだ。

だから破壊する。
岡田奈々という対象は、内奥性に導いてくれる聖なるものではなくなった。
もしかすると、最初から聖なるものではなく、自分と同じく事物(個体)であったかもしれない。
事物の秩序から外の世界に連れ去ってくれる神ではなくなってしまったという現実が横たわる。
それを受け入れるには、その対象を不在とすることで、再度、内奥性を取り戻すしかない。
冒頭に引用したツイートにおける破壊、今まで集めたグッズを切り裂いて破壊して生まれたコラージュアートは、ドルヲタ活動とは別の、内奥性への回帰でもある。


「俺の人生を取り戻した」という呟きとともに行われる破壊は、アイドル達の擬似的な死の儀式によって、自らの内奥性を取り戻そうとする運動だ。
それゆえ、このツイートの画像からも、宗教的な祝祭空間が生まれていることが窺える。だからこそ多くの人から「いいね!」やリツイート等の注目が集まった。
一見すると何の有用性も持たないような破壊行為、消尽が、内奥性を手に入れる儀式となる。
その意味で、アイドルという事物の秩序から逃れ自己の内奥性を取り戻そうと内在性が噴出して悪戦苦闘する様子に、燃え盛る炎のようなエネルギーが伝わってくるという点で、芸術的と言える。

しかし誰しも「事物の秩序」から逃れることは出来ない。
「内奥性」のようなスピリチュアルな存在を信仰し、供犠し、祝祭空間へと身を投じ続けても、逃れられない。

現実から目を背けずに向き合っていくしかないんだよな。
このスキャンダルによってだろうか、けいすけさんという方は4時間、夜の街を徘徊したようだ。

Lucky Kilimanjaro「ひとりの夜を抜け」みたいな、こういう夜は誰もが1度は経験したことはあるだろう。

www.youtube.com夜の街も「事物の秩序」であるが、労働を行っている白日の昼や、過ごしていた祝祭空間には存在しない内奥性が、夜の闇にはある気がする。
それゆえに、徘徊したくなるんだよな。

そして見つけたみたいだね。

お母さんと子ども、イルミネーションが照らす公園の中で動物をあやしている仲睦まじい光景。

「事物の秩序」から逃れられないから、本当の幸せ、持続性のある幸せは「事物の秩序」の側にあるんだよな。
哀しいが、供犠と祝祭空間の中にはないんだよ。

もちろんバタイユが言うように、宗教や推し活が生み出す神的世界、その燃焼には限界はない。
燃焼し続けながら生を全うし、幸福感とともに最期を迎えるケースもあるかもしれない。

だが、人間性を喪うリスクにも晒される。

それは最近、安部元首相銃撃事件を起こした山上容疑者や、カルト宗教への献金によって家庭崩壊したニュース等を見聞きすれば、明らかだろうよ。


(この話の続きは以下)

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